daiya: 2010年3月アーカイブ
この本、1もよかったが2もおもしろすぎ。日本語教室を舞台にした漫画。
「日本語教師」という仕事は大変です。大変だけどおもしろい仕事です。こちらが日本語や日本の文化を教えているはずなのに、相手から学ぶことも多いような気がします。学生からの質問で「日本語の謎」(私が知らないだけ?)に気づかされることもあります。そんな日本語教師の日常をちょっとのぞいてみてください。」
たとえば外国人は
「スッパ抜く」のスッパって何ですか?
などという質問をしてくる。これが調べてみれば、ちゃんと由来と意味があるのである。
日本人は青信号をなぜ緑というのか?
なぜ日本の子供は太陽を赤く描くのか(海外は黄色や白が多い)?
という色の表現もなかなか深い。
たとえば日本ではピンク映画だが、英語圏ではブルーフィルム、黄色電影、スペインでは緑がエッチな色だという。ことばの問題は文化の問題だ。世界各国から生徒が集まる日本語教室は、文化の多様性を学ぶ教室になっている。
濁音や半濁音はどうしてできたかなんて、日本人の9割は知らないだろう。
ネイティブスピーカーの盲点を笑いながら学べる漫画。
「ダーリンは外国人」が好きな人はこれも必ず楽しめる。
・ん―日本語最後の謎に挑む
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/post-1164.html
・怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001944.html
・犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い
http://www.ringolab.com//note/daiya/archives/000935.html
・日本語の源流を求めて
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/11/post-660.html
・日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-959.html
・猿はマンキお金はマニ―日本人のための英語発音ルール
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/post-933.html
・日本語は天才である
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-575.html
・日本語と日本人の心
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/11/post-477.html
第140回直木賞受賞作。
『おくりびと』×『千の風になって』×2くらいの感動。
命の問題をまっすぐに考える傑作。
「わたしは彼に親友のことを話しました。思い出すかぎりのことを伝えました。わたしが話し終えたところで、「いまのお話を胸に、悼ませていただきます」と、彼は先ほどと同じ姿勢で左膝をつき、右手を宙に挙げ、左手を地面すれすれに下ろして、それぞれの場所を流れている風を自分の胸に運ぶようにしてから、目を閉じました。」
新聞の訃報記事や雑誌の事件特集や旅先での会話で聞いた死者の最期の場所を訪ね、その人が生前に誰を愛し、誰に愛され、そして誰から感謝されていたかを調べて歩く男が主人公。彼の目的はこの世にかけがえのない存在として故人がいたことを自分の胸にしっかりと刻むこと。携帯した何冊ものノートには、悼んだ人、これから悼む人のデータがびっしりと書き込まれている。
やがてネットの掲示板ではこの奇妙な「悼む人」の情報が話題になる。「<悼む人>は誰ですか?」。何を狙っているのか、新興宗教みたいなものなのか、それとも、ただの狂人なのか。悼む人の無私無欲な行為は、多くの人々の目には動機が不明で不気味なものに見える。しかし、ときにそれは遺族たちの心の癒しにもなる。
悼む人 坂築静人の生き様と、複雑な思いで彼を遠くから見守る母、記事のネタとして追いかける週刊誌記者、そして悼む人に同行する苦悩の女性。4人の過酷な人生模様を通して、現代における生と死の意味を深く考えさせられる内容。静人の行為はやはり不可解だし、根源的な答えが出るわけではないが、自分なりの考えを読んでいるうちに、嫌でもまとめることになる本である。
学校で道徳の時間に生徒たちにこの作品を読ませて議論させたらいいと思う。教師が一方的に人間の命の重さは地球より重いなんてきれいごと教えても命の尊さなんて伝わらないと思うが、「悼む人」の行動や心理を考えさせれば、十人十色の命の意義を見つけるはずだ。押しつけがましい答えを出さない小説だからこそ、読者にこころの中から湧きあがって残るものが多い、そういう名作だと思う。
JALの経営破綻と敗戦処理は大きな問題だが、これからのグローバル市場での格安航空会社(LCC)の市場競争でも、日本は敗戦濃厚のようだ。
「日本の航空自由化が遅れたために、日経キャリアのコストは世界のレベルからかけ離れてしまった。キャセイやシンガポール航空など、アジアの大手に比べて2倍、エアアジアに比べて5倍も高い。2割、3割ならばコストの削減で対応できるが、コストを2分の1や5分の1に引き下げるには、コスト構造や仕事の仕組みを変えなければならない。」
国内の格安航空のパイロットの平均年収が800万円に対して、JAL、ANAのパイロットの平均年収は2000万円前後。就労時間も少ないし、通勤は送迎タクシーがつく。一方で、人件費をはじめとする低コスト体質を活かしたマレーシアの格安最大手エアアジアは、格安どころか「400万席無料」という無料キャンペーンで話題をさらっている。それでも利益が出る。
「エアアジアの売上高はスカイマークより23%多いだけだが、営業利益は3.5倍もある。販売単価は58%低いにもかかわらず、1座席当たりのコストが63%も少なく、特に採算分岐点は、スカイマークが搭乗率72%であるのに対して、エアアジアは60%だ。」
このエアアジアXが10年度に日本に就航する。日本から世界へのハブ空港クアラルンプールまで1万円、そこからは世界のLCCに接続されている。世界の主要都市への格安旅行が可能になる。
・激安航空、エア・アジア日本へ マレーシア便1万円も
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010012301000357.html
日本の格安航空会社はグローバルの"激安"を見るとまだまだ割高であるという視点が勉強になった。日本の国際化を進めるのに、これまで高かった渡航費を限りなく安くするというのは効果的な政策になると思う。渡航先の国に富と情報をもたらす人は、航空券を無料にする、くらいでいいのじゃないか。
格安航空のデメリットとしては、
・座席のスペースが狭い
・キャンセル料が高い
・座席指定を行わない
・機材繰りによる遅延が多い
・機内サービスがない
・手荷物の無料枠が少ない
・トイレが少ない
・欠航時のフォローがない
などが挙げられているが、バスや地下鉄みたいな気軽な交通機関にするには、まずは安ければいいような気がする。
・いんちきおもちゃ大図鑑―中国・香港・台湾・韓国のアヤシイ玩具
中国、香港、台湾、韓国のアヤシさ満開。アジアを中心に「どこかで見たような」「でもナニかが違う」玩具を集めた写真カタログ本。無版権キャラクターのオンパレード。(一部オリジナル商品も含まれます)。よく出版できたなあと感心、これもひとつの文化だし、記録を残す意義はあるはず。
表紙写真は有名ネコ型ロボットのいんちきで「ColorBear」。
・毒がありそうな紫色のピカチュー
・きかんしゃトーマスに変形するトランスフォーマーもどき
・補助輪付き自転車に乗るウルトラマン
・「Gondom」や「モビルスーシ」「機動戦士マルシア」いんちき日本語
・オレンジ色のジオングに足がついてギャンのシールドを持たせたフィギュア
・木工作ガンダム
など数百種類のコレクションがカラー写真で披露されている。
「俺は「いんちき」と「ニセモノ」は違うと思っている。例えば、日本の人気商品とソックリのコピー商品を造って、メーカーのロゴや証紙までもそのまま再現したようなものは「いんちき」ではなくて「ニセモノ」だよね。」
著者は、盗作ではなくパロディ、嘘じゃなくジョークっぽいものこそ、正当ないんちきだと熱く語る。いんちきには多少なりとも独創性や創造性が必要なのだ。確かにこの本に収録されたいんちき商品は、どれもこれも何かが、ヘンであり、コレジャナイロボ的なのだ。
業者は訴訟回避の目的でオリジナルそっくりを避けるということはあるのだろうが、つくるときに遊び心がもたげて、ついつい、へんな創作要素を入れてしまうという人間の性が根底にあるのじゃないかと思う。
つい30年くらい前までは日本でもこうしたいんちき商品は駄菓子屋や祭りの露天なんかでよく見かけた。子供なりにいんちきはいんちきと認識して、そのヘンさを楽しんでいた気がする。この本のようなアジアの奔放なアヤシさを見ると、実はオリジナルの本物しかない世界ってなんだか堅苦しい気がしてきた。
・サンスター文具 ペーパーステッチロックタワー フレーバー・アイス
針が要らないステープラー(いわゆるホッチキス)。
外出前に訪問先の資料2枚+地図1枚くらいを、さっと綴じるのにこのステープラーが手軽でいい。針を使わないのでエコである。紙に穴をあけるので"正式書類"には使わない。自分用のメモや、内輪会議の叩き台レベルの資料に使っている。
紙を差し込み、上部を押し込んでから手前に引く。コピー用紙で最大4枚まで。
裏はこうなっている。
この装置によって、紙が突起上にくりぬかれてると同時に穴に差し込まれる。編み込み形状によって、結構強力に綴じられている。会社で大量の伝票と関連する書類、学校では出席票と提出書類などを一緒に大量にひもづけたまま整理するときにも使えそう。
針がないのでシュレッダーにかけてOK。
アイルランドを舞台にした短編集。
収録8編のすべてが傑作で一気に読ませる。上質だが退屈させない。外国文学で面白い短編を次々に読みたい人におすすめ。
どの話にもアイルランドの田舎で暮らす平凡な人たちの静かな日常があるのだが、各編の主人公はみな心の闇を抱えている。少女時代に受けた性暴力とか、秘めた危険な関係とか、妻が夫に対して長年溜め込んできた負の感情とか、そういうヤバそうなものが、平穏な生活に破綻を引き起こす。
『青い野を歩く』はかつて密かに特別な関係をもった女性の結婚式を祝福することになった神父の話。招待客に悟られぬように振る舞わなければならないのだけれど、秘密を知っているかのように神父をからかう者がいて動揺する。踊っている彼女の真珠のネックレスの糸が切れて真珠が床にばらまかれる。拾い集めようとするが、それは元には戻れない二人の関係を象徴しているようで...。
緊迫した修羅場、切ない感情、どうしようもない孤独感といった要素が8編にだいたい共通している。帯にある「哀愁とユーモアに満ちた、「アイリッシュ・バラッド」の味わい」という評は実に言いえて妙である。いろいろな悲惨や不幸が語られるが、暗さはあまりなくて、むしろ人間の強さや優しさが印象に残った。
それぞれの話の登場人物(特に主人公)が厚みをもって描かれていて短いのに物足りなさがない。濃いものを読んだなあというしっかりした読後感があって、次の作品へいける。だから通しで読むとかなりお腹いっぱいになることができるお得な一冊だ。
まだ他の邦訳はないみたいだが、とりあえずクレア キーガンという名前を覚えておこうと思った。
私のおすすめは、
1位 『森番の娘』
2位 『青い野を歩く』
3位 『別れの贈りもの』
やっぱり面白い小説は最初の数ページでひきこませるものなんだなあ。
まず著者紹介に目がとまった。
「1933年東京都に生まれる。40年以上にわたり、年間300編の官能小説を読みこなし、新聞、雑誌などに紹介しているこの分野の第一人者。」
この人、40年間×300編で累計12000編以上の官能小説を読み続けてきたのか。それだけで十分に、ちょっとお話を聞いてみたくなる数字だ。
「人間の性欲は、それほど動物的にはできていない。「女性器に男性器を挿入した」という文章を読んでも、現代人はもはや刺激を受けないのだ。官能小説家たちは、われわれの贅沢で多様な欲望に応えるため、ストーリー設定や主要キャラクターの造形、あるいは性交・性器病者の技法、さらにはタイトル付けなど、あらゆる側面でその表現を深化させてきた。」
美少女、人妻、女教師、くノ一、尼層、少年もの、性豪もの、凌辱系や癒し系など多種多様なジャンルにおける文学史を、年代順で代表的な作家の作品を部分的に引用しながら、解説する。
20世紀半ばの日本では「チャタレイ夫人の恋人」が猥褻だとして摘発されていた。文字でも猥褻な作品は警察に挙げられてしまう時代が長く続いた。実はこの制約が暗喩やオノマトペの多用といった表現法の多様化、豊饒化へとつながったという。"欲棒"とか"淫裂"のような直接的表現や「悦楽の源泉」「赤いルビー玉」のような文学的な表現など、性器や性行為をズバリ書けなかったが故に表現の幅が広がったのだ。
「官能小説の分野では、若手といっても、ごく少数の例外を除いては、一般の小説の新人のように若年齢ということはない。それだけ官能を書くには特別の筆力を培う修練が必要だからともいえる。」
実は官能小説っていうのは大変に高度な専門技術を必要とするものなのかもしれない。男や女をその気にさせる文章というのは、習う学校がないし教科書もない。原稿料が安い業界のため、多作でないと専業作家としては生きていけないそうである。性への飽くなき追究のバイタリティも求められる。並の作家では続かない。
40年読み続けた著者によると官能小説は同時代の男女関係を色濃く映すものだという。女性の社会進出が進んだ頃は、官能小説の中の女も自立して強くなったが、反動として女性征服ものも盛んになった。草食系男子が増えた現代では、男性の攻撃性が薄れて全体にソフト化が進んでいるそうである。
官能小説って市場としてはどのくらいのものなのだろうか。電子書籍市場で伸びそうではあるが、電子メディア、インタラクティブメディアならではの官能表現も現れるかもしれない。ゲーム「ラブプラス」の女の子をいじるインタフェースなどは、そのさきがけかもしれない。軽く注目分野である。
1996年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩集。ノーベル文学賞記念講演「この驚くべき世界で」が収録されている。日本では知名度が低いが、東欧やロシアでは詩という文学ジャンルが社会的にも力を持っているそうである。
外国の詩をどこまで翻訳で理解できるのか?と思う部分もあるのだが、シンボルスカの詩はどれも普遍的なテーマを、日常の言葉を使って表現するスタイルなので、比較的理解しやすいように思えた。
たとえば詩についてこんな風に明解なことばで詩っている。
『詩の好きな人もいる』
「 そういう人もいる
つまり、みんなではない
みんなの中の大多数ではなく、むしろ少数派
むりやりそれを押しつける学校や
それを書くご当人は勘定に入れなければ
そういう人はたぶん、千人に二人くらい
<中略> 」
記念講演のなかでシンボルスカは「インスピレーションの訪れを感じられるある種の人たち」について語っている。それは「意識的に自分の仕事を選びとり、愛と想像力をもってその仕事を遂行する人」のこと。彼らにとって、不断の驚きや発見、インスピレーションは「私は知らない」から生まれてくるのだと話す。
上述の詩は次のように終わる。
「 詩が好きといっても───
詩とはいったい何だろう
その問いに対して出されてきた
答えはもう一つは二つではない
でもわたしは分からないし、分からないということにつかまっている
分からないということが命綱であるかのように」
不断の「分からない」「私は知らない」こそ、インスピレーションの源であり、同時に世界を良くする方法論なのだという。インスピレーションを迎えるには、固定観念を捨てて、一度頭をからっぽにすること、素直な受け入れ態勢をもつことが重要ということだ。
「そして、どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生みださなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。最近の、そして現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって致命的に危険なものになり得るのです。」
「すべて分かっている」帝国主義や社会主義に引き裂かれた苦難の歴史もつポーランドという国の詩人らしく、「正義」や「社会」や「戦争」が大義名分を背負って、個人や社会が思考停止になることを批判する。そして詩の持つ力、インスピレーションの力を、よりとい選択の可能性として対置させている。
「この果てしない劇場について、わたしたちは何を言えるでしょうか。この劇場への入場券をわたしたちは確かに持っているのですが、その有効期間は滑稽なほど短く、二つの厳然たる日付に挟まれています。しかし、この世界についてさらにどんなことを考えようとも、一つ言えるのはこの世界が驚くべきものだということです。」
平凡な世界を驚くべきものとして見直して、その驚きを日常生活の言葉で表現するのが、シンボルスカという詩人のスタイルらしい。
子供や初心者に美術史の知識は無用、まず作品を自由に鑑賞させて、自分なりの感じ方を引き出すことが、美術への深い理解につながるという鑑賞教育の提唱者アメリア・アレナスの本。見ることの本質や芸術の持つ力について語った第一部と、子供の鑑賞教育の方法論を中心に語った第二部からなる。
「大人になると、なぜかひとは美術作品をみて自分がどう感じるかはどうでもよいことで、美術に目を向けるのは、「見方を学んでから」にしたほうがよいと考えるようになるらしい。」
確かに、私も美術館に行くと作品それ自体よりも展示コーナーのタイトルや作品説明にまず目が行ってしまうことが多い。そこには大抵、鑑賞のポイントも書かれていて、実際に作品を見るのは、純粋に鑑賞するためではなくて、データを確認する行為になってしまう。鑑賞後の感想も、説明にあったポイントをなぞったものになりがちだ。
「自由に(しかし深く)、作品をゆっくり時間をかけて味わってからでないと、そうした知識は役に立たない」と著者は説く。伝統的な美術館は、専門家が高いところから知識を与える姿勢で展示を構成しているから、子どもたちは、素直に自分の感じ方を味わうことができない。本来あるべき美術教育は、みる かんがえる はなす。感じたことを思考と言葉で表現する力を育てることにあるというのが著者の持論だ。
「何人かの子どもたちにある作品をみせてから、たとえば「この絵のなかでは何が起こっているの?」というようなかんたんな質問をすれば、かれらはそのとき心に浮かんだことをそのまま口にするだろう。しかしそうした思いつきや、独りよがりな考えも、「絵のなかの何をみて、そう思ったの?」というような問いかけをすると、子どもたちは最初の答を裏づける手がかりを探そうとして、作品をもう一度見直し、その過程で目の前に展開する「新しい」映像のなかの、さまざまな要素の重要性を秤にかける作業を迫られる。」
感覚を言語化するというのは極めて難しい作業だ。作品を前にして行えば、何度も見直しながら、それができる。作品説明の文字情報は、みる、かんがえる、はなすの場では不要である。優れた美術評論家というのも、独特な見方と言葉で美術作品の位置づけを話せる人なわけだから、鑑賞教育は評論家育成の方法論でもあるように思った。
「ひとつだけ確かなのは、美術がもたらすよろこび、そしてときには荒々しいほどの衝撃は、その大半が私たち自身のつくりだしたもの、私たちが映像に託した実在感のなせる業だということである。」
作品の感動は自らの内側からやってくる。外側からではない。当たり前なのだけれども忘れがちなことだ。私はついつい展示鑑賞後に文字の書かれたパンフレットをすぐ買ってしまうのだが、本当は自分の感じ方をすべて言語化し終わってから読むべきなのだなあ。
・マルマン A4 ノート ニーモシネ IMAGINATION 5ミリ方眼罫 N180 ブラック
高級感のあるデザインと上質の紙を使ったマルマンのニーモシネシリーズ。
文具好きが使ってみたくなる定番的な文具だ。
ところが私は当初、A5縦型のNOTE PADを何冊か使ったのだが、使い勝手がいまひとつだった。書いたページは切り取ることを前提として設計されているようで、どこまで使ったかわかりにくい、使用済みページがかぶさってきて、新しいページを見開きに固定しにくいなどの不満があった。デザインと質感はとても好きなのに惜しいなあと感じていたところ、はじめてA4横のIMAGINATIONを使って軽く感動した。まさにイマジネーションが広がる製品だ。
その名の通り発想がわきやすい。
IMAGINATIONを使っていて「余白が創造性を高める」という仮説を思いついた。ファーストアイデアをちょこっと書き出すと、それだけではA4横の大きさは全然埋まらないのだ。B5ノートとは違う。未使用の広い余白は、自然と発展させた発想で埋めたくなってくる。筆が動く。上質な紙だからちゃんと使ってあげないともったいないと思う心理も、発想意欲を促進してくれる。
A4横型というかたちは一覧性が高いので、長時間の議論内容をメモしながら、自分の考えをまとめていくのに便利だ。複数の話者の意見を書き留めておけるので、パネルディスカッションに出演者として登壇するときにも役立っている。「そういえば○○さんはこうおっしゃいましたが」というやりとりがすぐ出てくるのだ。
スケッチブック型で表ページしか使わない贅沢な造り。新しいページを開いて固定するのが容易。裏は使わないのだから、汚れを考えずクレヨンや太めの鉛筆でスケッチをしてもいい。
・20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
著者のティナ・シーリグはシリコンバレーの中心に位置するスタンフォード大学で、学生に起業家精神を教えるアントレプレナー・センターのエグゼクティブ・ディレクター。「機が熟すことなどない」「早く何度も失敗せよ」「及第点でなく最高を目指せ」「ルールは破られるためにある」。集中講義を書籍化した本書は、たとえ20歳でなくても、挑戦心を焚きつけられるメッセージがいっぱい見つかる。
スタンフォード大のようなエリート養成校で、こうした「異質なこと」をする能力を魅力的に教えるコースがあるということが、アメリカのイノベーション創出能力(アップルやグーグル)の源泉にあることは間違いない。
情熱とスキルと市場が重なり合うあなたにとってのスウィートスポットを探せ、という。それは趣味と仕事の境がない世界。「ライフワークバランス」なんていう軟弱発想とは無縁の世界。
「生きることの達人は、仕事と遊び、労働と余暇、教育と娯楽、愛と宗教の区別をつけない。何をやるにしろ、その道で卓越していることを目指す。仕事か遊びかは周りが決めてくれる。当人にとっては、つねに仕事あり遊びでもあるのだ。」という老子の言葉が引用されている。
自慢話としての成功者の話というのは、すべての経験が今につながるように辻褄が合っているように聞こえるが、現実は当然ながら偶有性の連続だと話す。ガイドブックにない場所、偶然の出会い、やってみたから見えた驚きの事実。旅行と一緒で予定になかったことが一番面白い。
「自分のキャリア・パスは、振り返ってみると、ちゃんと筋道が通っているのです。でも、将来の道はぼやけていて、不確実なことの連続です。視界が開けないとイライラしてきます。それでも、大きなチャンスが巡ってくる確率を上げるように行動することはできるのです。」
人生50年計画を作って自己満足するなど無意味、しっかり目を見開いて今起きていることを見ろ、今あるものでどうにかせよ、自分で自分に許可を与えよ、「機が熟すことなどない」。大人の私もすっかりアジテートされてしまった。
起業家精神というのは世の中の数パーセントくらいの人間が持つ資質だろう。最高の能力を持つ人材となるとさらにわずかだ。潜在的な資質を持ったエリート層を、有名大学において適切に開花させていくシリコンバレーの孵化プロセスの一端が、この集中講義録から見えてくる。
日本でありがちなベタな起業家養成講座(フランチャイズ話とか混ざっている)と違って、ベストアンドブライテストのノブレス・オブリージュと起業家精神を融合させて語るところが凄いのだ。選ばれた人たちの、責任感とプライドのあるシリコンバレー流の起業が日本ではまだまだ少ないと思う。
個人的には、判断に迷ったときは将来そのときのことをどう話したいかを考えて、胸を張って話せるように、いま物語を紡ぎなさい、という話がぐっときたなあ。
ドイツメーカーのステンレス・スチール製の重量級しおり。
時計や気圧計・湿度計、そしてランプなどの斬新なデザインで知られるデザイナー Hans Gabriel Schroll氏のデザイン。笑顔をテーマにしたFRIENDS FOREVERシリーズの作品の一つ。
本にはさむと、銀色のしおりがアカンベーをしている。平和な気分にさせられる。
実用しおりとしては重すぎてちょっと使いにくい。厚手の紙でははずした跡が残りやすい。薄い紙の本では取り外しの際に、うっかりひっかけると破れてしまうことさえあるかもしれない。
でも、それを補うデザインと質感で勝負。
本に挟んで見えるところに置いておく。卓上カレンダーの上にのせる。とかすると、インテリア小物としても使える。シャツの胸ポケットにはさんでおけば、普通は「なんですかそれは?」と聞かれる。聞いてこない相手はまだ自分と距離があるということだ。対人関係の測定チェッカーにもなる?かなあ。
ともかく実用と離れての余裕の文具って素敵だと思う。
・銅製の高級ブックマーク ブックダーツ ( bookdarts )
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/05/-bookdarts.html
これもまた余裕の人の文具だ。
大人も子供も楽しめるアートな絵本。
アンデルセンの隠れた名作『火打ち箱』を絵本にした。絵本といっても本当は絵ではない。ペーパークラフトで物語を再現してデジカメで撮影した写真集である。紙にペン画を描いた後、切り抜いたり折ったりして一部を立体化する。
2次元と3次元の中間の不思議な次元感覚が、荒唐無稽なストーリーとあいまって、独特の世界観を醸し出している。「目玉が茶碗くらいある犬、水車くらいある犬、塔ぐらいある犬」なんて普通の表現では難しいはずだが、超次元的な表現技法によって、いかにもそれっぽくビジュアライズされている。
もともと原作がかなり変な話だ。家に帰る途中の兵隊が、魔法使いのおばあさんと出会って、願いがかなう魔法の火打石を手に入れ、無軌道にやりたい放題やって、当然まずくなるだろと思ったら、案外なんとかなってしまう、という話。
童話にもかかわらず「正直に生きなきゃね」とか「人には優しく」とか「命は大切に」とか教訓が存在しない。カオスでアナーキーな展開に子供は笑い、大人はちょっと呆然とする。有名な童話作家のアンデルセンって実はかなり曲者だったことに気づかされる。
強烈な印象を残す作品だ。一度読んだら忘れがたい一冊になるだろう。この半立体紙芝居は動く映像化されたら楽しいかも。
現代のタブーに真っ向勝負。
『フェルマーの最終定理』『暗号解読』『ビッグバン宇宙論』を著した現代最高の科学ライター サイモン・シンが、次はどんな定理に挑むかと思ったら、意表をついて「代替医療」を斬る本を出してきた。ドイツの代替医療研究の大学教授と組んでの共著。翻訳はサイモン・シンの名訳を生み続けてきた青木薫氏。
まだ「代替医療」という言葉が一般にわかりにくい気がするのだけれど、要は、鍼、ホメオパシー、カイロプラティック、ハーブ治療などを指す。代替医療のほとんどは科学的にはインチキで治療効果はまったくないという事実を科学的に明らかにした本だ。それらを職業や商売にしている人たち(国内でも何十万人もいるだろう)に死刑宣告をしたようなもので、かなりヤバイ本かもしれない。今後、論争が起きそうだ。
やり玉に挙げられるのは、ホメオパシー、鍼、カイロプラティック、ハーブ療法、アロマセラピー、イヤーキャンドル、オステオパシー、結腸洗浄、指圧、スピリチュアル・ヒーリング、デトックス、伝統中国医学、ヒル療法、マグネットセラピー、マッサージ療法、瞑想、リフレクソロジーなど30種類以上。それぞれに科学的な根拠の有無が明らかにされる。わずかに効果を認められたものもあるが、著者らの結論では、ほとんどが科学的には"アウト"だ。
「人びとが代替医療に心惹かれるきっかけは、多くの代替医療の基礎となっている三つの中心原理であることが多い。代替医療は、「自然」で、「伝統的」で、「全体論的」な医療へのアプローチだといわれる。代替医療を擁護する人たちは、代替医療を選択する大きな理由としてこれら三つの中心原理を繰り返し挙げるが、実は良くできたマーケティング戦略にすぎないことが容易に示される。」
自然、伝統的、全体論的であること自体には何の意味もないのに、そう書いてあると人は騙される。
確かに鍼やカイロや指圧で病気が治る人はいる。治療行為や薬に効果はなくても、心理的な効果=プラセボ効果が伴うからだ。しかしプラセボ効果は科学的な医療にも伴うわけで、代替医療の専売特許ではない。代替医療には科学的な医療と比較して多くの危険性があるし、代替医療に切り替えた結果、通常の医療を受けない患者が出てくる。プラセボ効果のみの代替医療では、多くの患者の病気は悪化していくのみである。だから代替医療の酷い実態を世の中に広く知らしめなければならないという使命感で著者らはこの本を書いている。
なぜ人は信じてしまうのか、なぜ効果があるように見えるのか、なぜ代替医療に注意すべきなのか?。サイモン・シンは本書でも、数学の証明の本のときのように、極めて論理的で明解な説明をしている。現代人の多くが多少は代替医療の情報に騙されている。代替医療にかかるのは個人の自由だが、前提として多くの国民が科学的な根拠の有無を知っておくべきだろう。
というわけで、かなり説得力のある本なのだが、代替医療側から論理的な反論の書が出てきたら面白くなるなあ。
・ビッグバン宇宙論
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/07/post-412.html
・フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/01/post-340.html
・暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004028.html
全国の学校で実際に出された「変な給食」を再現してカラー写真で紹介する問題提起本。
例:
味噌汁とてんぷらと黒糖パンと牛乳
雑煮と食パンと揚げしゅうまいと牛乳
冷やし中華、原宿ドッグ、牛乳
みそラーメンとドーナッツと牛乳
など、73点の再現写真はどれも「うへえ」な感じで食欲が湧かないものばかり。和洋中ごちゃまぜで砂糖と油まみれ、これじゃあ味覚だって育たない。結局、パンを主食にするのが原因なのだが、米飯給食は東京都平均は週に2.6回だそうで、週の半分は変な給食が出る可能性があるわけだ。
しかし、思い出してみるとこうした「変な給食」は私の小学生時代にはちっとも変じゃない、普通の給食だった。米飯は年に1度あったかどうか。パンに豚汁に牛乳にスライスチーズが一枚なんていうのがよく出た。当時は当たり前と思っていたが、大人が好んでこんな組み合わせで食べることはありえない。確かにこれはおかしい。変えるべきだ。
なぜパン食主体の変な給食が続くのか?
「その理由は、「予算がない」「人件費の問題」「パン業者への配慮」などさまざまですが、その中でも、最も多いのは、「栄養素のバランスを考えて献立を作成しています」というものです。「ラーメンに牛乳という献立はおかしいのではないか」という批判に対して、「カルシウムを満たすためには仕方ないのです」という答えが返ってくるのです。」
唐突にスライスチーズ一枚がついたりするのは栄養士の工夫らしいのだが、学校給食法には食文化の正しい理解も明記されているわけで、やっぱりまずいのではないか。牛乳を毎回つけるのも味覚を育てるという観点ではどうかと個人的には思う。
4月からうちの息子は小学校1年生になる。給食がある。私と同じ小学校だ。この30年で給食はどう変わったのか楽しみであると同時に、あいかわらず変なままだったらどうしよう、と不安になる。主張をもって戦う著者は学校給食に異を唱えて自分の子供に教室でひとりだけ弁当を持たせたらしいが普通の親としてはそうもできない。
最近都内には昭和の給食を食べさせる店がいくつもある。揚げパンとかソフト麺とか揚げしゅうまいとか、かつて無理やり馴らされた変な味覚を懐かしく感じる人がたくさんいるということだ。つまり普段食べていない。大人が食べないものを子供に毎日食べさせるのは普通に考えて、おかしい。著者の学校給食改革の主張を支持したい。
「魚の目を覗いてはいけないよ。人間とは心の造りがちがうのだから。」
目は不思議だ。
瞳を見つめていると相手の心の中を覗いている気がする。本当のことを言っているのかどうか、口は欺いても目は嘘をつかないはずと思っている。だからペットの動物の目を見たときにもそこに心を見出そうとする。でも動物は人間と違う。裏切られて悲しくなると同時に、見た目は同じなのに異なるものが背後にあることに、怖さ、不気味さを感じることがある。
捨て子だった白亜とスケキヨは本土から隔離された遊郭の島で育てられた。やがて美貌の姉は遊郭で身を売り、薬学を身に付けた弟は暗闇で不思議な薬を売るようになる。二人は幼い頃から強く惹かれあっていたが、姉は弟の暗い目の奥に自分とは相いれない不気味なものを感じていた。
この小説、読者は独特で幻想的な世界観にまず強く惹かれるだろう。島民の夢を喰らう獏の伝説、巨大な雷魚、遊郭を管理する裏社会の掟、女の体に月一度訪れる「月水」やスケキヨが発するデンキ。時代小説の遊郭モノに異界設定というひねりを加えている。そのひねり具合が絶妙で登場人物は人間とそうでないものの境界線に、濃い闇の目をして存在している。
デビュー作にして小説すばる新人賞と泉鏡花文学賞をダブル受賞した話題作。千早 茜はまだ一冊しか出していないようだが、大物の予感。新刊.netに作家名をキーワード登録しておこう。
・J-CASTニュース ビジネス&メディアウォッチ
http://www.j-cast.com/
J-CASTニュース創業社長の蜷川真夫氏が語るネットニュースの破壊力と新しいビジネスモデル。蜷川氏は元朝日新聞社会部記者でAERA編集長だった人物。マスメディアを常に意識しながら、確信犯的にお騒がせメディアをつくろうとしているようだ。
「火事には野次馬が群がる。その先頭で見て、後ろの野次馬に説明するのが記者だと教わった。見たことを分かりやすく伝えろ。ネットの炎上も似たところがあって、火事場を見つけると野次馬が寄ってくる。寄ってくるのが群れをなすので「ネットイナゴ」と呼んだりする。芸能人の記者会見も同じようで、群がる記者の先頭で、お馴染みのテレビリポーターが突っ込んでいる。後ろでメモしている記者たち。カメラを通して、視聴者がその光景を見ている。「炎上」はネット街ダネの典型例だった。」
実際にはJ-CASTニュースは単なる野次馬というより、ボヤ騒ぎの現場で火に油を注ぐような積極的役割を果たしているように思える。意図はどうあれ、メディアが事件の観察に止まらずに参与してしまうのがネットのニュースの宿命なのだろう。J-CASTはネット炎上の汚名も名誉も背負いながら、ページビューを増やしてきた。
J-CASTではどんな話題が人気だったか。創刊1年目のアクセスランキングが紹介されているが、上位3位は下記の通り。気にはなるけどどうでもいい話題のランキングとも言えそう...。
1位 リア・ディゾン「局部?写真」疑惑で大騒動 (1/2) : J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2007/07/10009188.html
2位 元「モー娘。」飯田のファン 「できちゃった婚」にショック画像 (1/2) : J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2007/07/09009133.html
3位 激論「太田総理」で騒動 民主議員が「お詫び」 (1/2) : J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2007/07/03008937.html
オーマイニュースをはじめとする市民記者型のニュースが次々に倒れていった一方で、J-CASTが伸びてきたのは、アテンション・エコノミーの中で注目を集めすいものを、社会性よりも優先して取り上げてきたから、なのだろう。
そうして集まった野次馬同士のコミュニケーションからも新たな次元の情報が生まれている。著者は読者のコメントに可能性を見ている。
「もし、収支の問題が解決したとして、ネットならではの独自性のあるコンテンツとはいかなるものか。そのヒントの一つが、読者コメントによる記事の補完だと思っている。これまで紹介した記事に対するコメントの広がりは大きく、取材して記事をかく限度を超えている。読者からのコメントに、お金をかけても得られないような情報が含まれていることが少なくない。」
同じ記事を読んだ他の読者の意見はニュースを理解する上で重要な情報だが、核家族化やメディアの個人化によって、ニュースに関する意見交換をするリアルな場が減っていることも、こうしたニーズと関係があるのかもしれない。たとえば昔は朝に新聞を読みながら家族にどう思うかを聞くことができた。今は新聞をとらず、会社や自宅のPCの前でひとりでニュースを読む人が多い。
ニュース炎上のお祭りに群がる人々が、すこし落ち着いた目で他のコメントを読み、ニュースを客観的に評価する。そうした新しい情報空間としてJ-CASTみたいなメディアが今、機能しているように思う。
日本のネット炎上のウォッチャーであり仕掛け人の話、事例もたっぷりあって、おもしろかった。
ドイツ、クレオ・スクリベント社製『MESSOGRAF メッソグラフ』。日本橋の丸善で真鍮ボディの質感とノギスのクリエイティブなイメージに一目ぼれして購入。
全長152mm・重さ35g・ノギス機能最大幅90mm。Made In Germanyを実感する金属感と重量感。
モノの大きさを計測するノギスがついている。ミリメートルとインチ表示で、ミリでは9センチまで測ることができる。ペン芯は市販のパーカー社製なので、替えはすぐに入手できるのが特徴。
で、ノギスがエンジニアでもない人にとってなんの役に立つのか?
このメッソグラフ、私はもう半年間使っているが、実用で便利だったことは一度もない。仕事によるのだろうが私の日常業務ではあまりモノの大きさを測る必要がないのだ。だが私は大変に満足して毎日携帯している。
私にとってメッソグラフのよいところは3つある。
まず、これを見た人に「それは何ですか?」と10回は聞かれた。だからドイツのクラフトマンシップと日本のクリエイティビティの相違について10回は熱弁する機会が得られた。雑談の突破口を開き、得意分野への話題の誘導ができる。
それから会議で誰かがしゃべっている間に、ノギスを動かしてノートの厚みや配布資料の図形のサイズなどを測っていると、いかにも「私は今、まるでやる気がありません」を効果的にアピールすることができる。
3つめは持つたびにヒヤリとした冷たさが脳を刺激してくれる。冬場などはちょっと冷たすぎて敬遠してしまったほどだ。ノギスで指を挟むと本格的に痛いので眠気覚ましにもなる。
なお使用上の注意としては、ノギス部分をペン側へ無理に引き出して取り外さないように注意。私は2回もやってしまったが精巧にできているので分解すると直すのはかなり面倒である。
ビジュアルな資料を多数使って、キリスト教の聖地ルルドの歴史を紹介する本。
ルルドの奇跡の調査にあたったタルブのローランス司教は1862年に次のように報告している。
「われわれは、神の母である無原罪のマリアが、ルルドの町に近いマッサビエルの洞窟で2月11日から18回、実際にベルナデッダ・スビルーの前に出現したこと。この出現があらゆる真実味を帯びていること、信者たちがこれをたしかな事実として信じていることを正当と判断する。」
ローマ教皇もルルドの奇跡を本物と認めて、ベルナデッダを聖人のひとりに列した。
教会の承認、聖堂の建設、鉄道網の整備、小説『ルルド』(エミール・ゾラ、1894)出版、聖母被昇天修道会の活躍、奇跡的な治癒の医学検証などの出来事を経て、ルルドは巡礼の聖地として確立されていく。ルルドの泉の水は多くの病人を奇跡的に治癒していると評判が広がった。現在では毎年130カ国から600万人以上がルルドの聖域を訪れている。
ルルドの聖地化で興味深いのは、核となる聖母マリアの出現を実際に見たのは内気な少女ベルナデッタただひとりだということ。他の人々は何かを見ているベルナデッタの姿を見たに過ぎない。キリスト教の神はひとりの人間またはごく少数の限られた人々の前に姿を現してメッセージを託す伝統があるが、ルルドもまたその一例である。
それから、ルルドへ行けば病気が治るとして病人の巡礼者が多いが、医学検証による奇跡的な治癒の公式認定者はこれまでにたった67人しかいない。教会はルルドの聖性は承認したが、そこで起きる奇跡を簡単には認めたがらない。それにも関らず、巡礼者は増えていく。
結局、みんな信じたいのだ。19世紀の目撃以降、信じたかった人たちの働きが、いくつかの幸運にも助けられて、この聖地と大規模な巡礼運動をつくりだしていった。信じたい人たちが信じる人たちを増殖させていったのが、ルルドの奇跡の実態だったのではないか。
聖地の誕生と巡礼の実態という切り口でビジュアルにキリスト教文化の一端を知ることのできる一冊。
グーグルの中の人が情報に対してどんなことを考えているのか知ることができる。
著者のダグラス・C・メリルは子供の頃からの失読症を克服してプリンストン大で認知科学の博士号を取得した後、グーグルのCIO(情報最高責任者)に就任した人物。情報処理に人一倍の認知コストを必要とする病だったからこそ、脳に負担をかけない効率化を徹底するようになったという。本書の情報整理術は人間に余分な整理の努力を求めない。
「本書でご紹介するのは"万人共通"の整理術ではない。受信トレイを常にからにせよとか、コンピューターのファイルをフォルダー階層別に分類せよとか、明細書をデジタルで受け取るようにせよとか、そんな方法を押し付けるつもりはない。そんな方法に従って生活しなくちゃならないとしたら、私自身が「整理できない人間」のレッテルを貼られてしまうに違いない。」
なんでもデジタル化して検索できるようにすれば、デジタル情報の保存、整理、検索を行うためのデジタルツールで問題は軽々と解決する、というのが著者の持論だ。だから大切なのは検索することを前提に足場(デジタル情報整理の環境)を組むことが一番で、やはり決め手はグーグルやGメールだということになる。
「整理術の原則」20カ条がまとめられているが、たとえば私が共感した項目を抜粋すると、
1 脳の負担がなるべく少なくなるように、生活を組み立てよう
2 なるべく早く、頭の中から情報を追い出そう
3 "ながら作業"は一般的に効率を低下させる
6 知識は力ならず、知識の共有こそ力なり
20仕事とプライベートのバランスを取るのではなく、融合させよう
といった感じ。とにかく無理をせず、ルールさえ意識していれば自然にうまくいく、ノーストレスの情報整理術のヒューリスティック集だ。グーグルに限らず、便利なデジタルツールも大量に紹介されている。情報整理について今一度、考えてみたい人は必読。
効率性を説いているわけではあるが、かなり著者の人生観や私生活に触れるウェットな記述も多くて、人柄がでている人間を感じさせる本である。こうやって顔が見えるとグーグルという会社が一層面白く思えてきた。
孤高の天才科学哲学者ファイヤアーベントの代表作。知のアナーキズム。ゲーデルの不完全性定理やドーキンスの生命機械論並みに、人生観を変えるくらいのインパクトがある本。
「科学は本質的にアナーキスト的な営為である。すなわち理論的アナーキズムは、これに代わる法と秩序による諸方策よりも人間主義的であり、また一層確実に進歩を助長する。」よって、進歩を妨げない唯一の原理は、anything goes(なんでもかまわない)であるというのがこの本の理論である。
ファイヤアーベントは、科学は一般にどこまでも合理的と考えられているが、実は神話に近いものであり、人類の数多くの思考形式のひとつに過ぎず、特別なもの、最良なものというわけではないと論ずる。なぜなら科学の進歩は、古い合理性の外側からやってきた非合理な発見によって牽引されてきたからである。
「繰り返して言うが、この束縛解放の実践は、単に科学史上の事実であるというだけではない。それは理にかなっていると同時に、知識の発展のために絶対的に必要とされるものである。もっと詳しく言うと、次のことを示すことができる。すなわち、科学にとってどんなに「基本的」であれ、ないしは「必要な」ものであれ、ある規則があったとすると、単にその規則を無視することのみならず、その反対のものを採用することが賢明であるような、そうした状況が必ずあるのである。」
あらゆる方法論が普遍の地位を与えられてはならず、狂気や遊戯、トンデモ科学やきまぐれのようなハチャメチャさにこそ、方法論が真に進化する可能性が秘められているという。秩序ではなく無秩序こそ重要ということになる。
「これらの「逸脱」、これらの「誤謬」は進歩の必要条件なのである。それらはわれわれが住んでいる複雑で困難な世界の中で知識が生きのびることを可能にし、われわれが自由で幸せな行為主体であることを可能にする。「混沌」がなければ、知識はない。理性の度重なる解任がなければ、進歩はない。今日科学の他ならぬその基礎を形成している観念は、ひとえに、先入見、うぬぼれ、情熱のようなものが存在したために、現存しているのである。」
発見の文脈と正当化の文脈の区別、観察語と理論語との区別、共約不可能性といった観点から、完全に合理的で普遍的な方法論よりも、アナーキーになんでもありの方法論の方が、知識の発展において価値があるということを証明していく。結構な大著だが、全体が理性という権威に対する反抗の意思に満ちており、とても血の騒ぐ熱い本である。
遊びや例外はいつだってなきゃいけないのである、それこそ本質なのである、四角定規でなんでも測れると思ったら大間違いなのである。「あらゆる方法論は限界をもち、生き残る唯一の「規則」は「なんでもかまわない(だから好きなようにしろ)なのである。」だそうだ。秩序のない現代にドロップキック万歳。
・理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 -
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/10/post-1099.html
・パラダイムとは何か クーンの科学史革命
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/post-1150.html
・知識の社会史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1069.html
・ELECOM クリスタル ワイヤレスフルキーボード パンタグラフ式 103キー TK-FDP012
自宅PCのワイアレスキーボードを床に置いていたら、子供が踏んで破壊してしまったため、新しいのを買うことにした。いろいろ研究した末に、選んだのがこれ。このツヤツヤテカテカ感(クリスタルのような、と表現すべきらしい)のこの新製品。
1 クリスタルのような透明感と手触り
何より見た目の美しさ。なかなか実物を見ないと伝わらない気もするが、キートップの美しさ、手触りは特筆すべきものがある。テカテカのツルツル。高級感がある黒も良かったが汚れが目立つかもしれない。結局、白にした。
2 タイプ感は残しながらタイプ音はしない
薄型パンタグラフ方式という技術で、薄型なのに適度なタイプ感を残しながらも、タイプ音がしない。自宅で夜間に利用することが多いので、音がしないことは重要。
3 デザイン
カナ表記をなくした英語表記だけのシンプルなキートップ。慣れてしまえばカナ表記がないことは気にならない。見た目の美しさ優先。キートップ上の文字は、内部パーツに刻印されているそうで、長く使っても消えたりしない。
ワイアレスで気になる電池だが、単42本使用で想定電池使用期間は約7ヶ月。
・TK-FDP012シリーズ オフィシャルサイト
http://www2.elecom.co.jp/peripheral/full-keyboard/tk-fdp012/
・毎朝登校する生徒は33人中5人
・1から100まで数えられない生徒がいる
・九九が完全にできるのは160人中20人
・入学者の半数が中退する
・高校を中退する生徒の半数は1年生
・やめさせようとする教師たちの存在
などいわゆる底辺校の実態と増加する高校中退者のドキュメンタリ。
現代の高校中退は個人の問題ではなく社会の深刻な病理のようだ。
高校中退の背景には家庭の貧困があり、不安定な生活や余裕がない家庭環境が、生徒の低学力、不登校を引き起こし、中退へとつながっている。学習意欲と貧困の間にも密接な関連が見出されている。エリート校と底辺校の格差は増大傾向にある。
高卒以上が圧倒的マジョリティを占める日本社会において高校を出ていないことは極めて不利にはたらく。実際、不況の中で高校中退者の就職は困難を極めている。調べてみると生徒の父母もまた中退者であったりして、格差の拡大という負の再生産が発生してしまっている例もある。
「1980年代からの世界を巻き込んだ新自由主義の実験は、世界中に無惨な結果を残した。新自由主義が主として攻撃の対象とした福祉国家とは、資本主義の成立の要である労働力の再生産にとって欠かせないもののはずだった。ところが新自由主義は、労働力の再生産に必要な住宅・教育・医療・福祉を市場化し、福祉国家を解体することによって、もっとも福祉を必要とする貧困層に打撃を与え、さらに中間層をも分解するという結果をもたらしたのである。」
「社会の底辺」という言葉が存在しない社会をつくるには、夢や希望を失った一番若い人たちを救済することが特に重要だろうなあと思う。著者が解決策として結論する高校教育の無償化が効果的なのかは確信が持てないが、高校中退=社会からのドロップアウトという図式をなくすことが何より大切だろう。競争社会とセーフティネットは共存しないと人間的ではないと思う。
・フィールド情報学入門 ―自然観察,社会参加,イノベーションのための情報学
「本書では、フィールドを「分析的、工学的アプローチが困難で、統制できず、多様なものが共存並立し、予測できない偶発的な出来事が生起し、常に関与することが求められる場(片井 修)と定義する。フィールド情報学はこうしたフィールドで用いられる起源の異なるさまざまな方法を、記述、予測、伝達という情報の視点から集約することを目指している。本書はフィールド情報学を志す初めての教科書である。」
社会科科学のアプローチを使って情報学的に、社会や自然というフィールドを科学する。
・リモートセンシングや地理情報システムで、広域から人々の行動情報を集める
・バイオロギングによって生物の活動を長期的に記録する
・社会をシステムダイナミックスとして記述する
・マルチエージェントシミュレーション
・参加型の観察による分析 エスノグラフィー
など、社会や自然をどう情報としてとらえていくかの研究が多数紹介されています。
ところで私の会社は先週、こんな研究成果のビジネス化の発表をしました。
・Twitter上の「つぶやき」や「プロフィール」からオピニオンリーダーを検知する 『Twitterオピニオンレーダー』を開始
http://www.datasection.co.jp/news/twitter_20100304.pdf
・Twitter上のオピニオンリーダー分析サービス、データセクションが発売(日経ネットマーケティング)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/nmg/20100304/213157/?ST=nmg_page
今年の私の会社としては、従来の統計と自然言語処理による定量的な分析から、定性的で創造的な「デジタルエスノグラフィー」に取り組むのがテーマです。具体的にはブログやツイッターを分析して、商品開発やプロモーション企画に活かすためのコンサルティングソリューションを展開しています。
こういったテーマに関しての論者として3月9日(火)
情報処理学会創立50周年記念(第72回)全国大会 フィールド情報学セミナー
http://www.ipsj.or.jp/10jigyo/taikai/72kai/event/17.html
フィールド情報学とは?
http://www.ai.soc.i.kyoto-u.ac.jp/field/
にパネルとして出演することになりました。
橋本 大也(データセクション株式会社 取締役会長)
【パネルにおけるポジション】
データセクションではBlogosphere(ブログ生態系)というフィールドから、データを大規模に収集し、書き手の行動パターンやプロファイルを分析するビジネスインテリジェンスシステムを開発した。日々の書き込みを深く読むことで、消費者のマイクロトレンドを発見したり、オピニオンリーダーの行動を予測することができる。大手広告代理店と連携した"流行創出"事業、保険会社と共同で上場企業の風評リスクを早期に察知する"風評リスク事業"など、フィールド情報分析の事業化に取り組んでいる。
略 歴 1970年生まれ。起業家。データセクション株式会社取締役会長。大学時代にインターネットの可能性に目覚め技術ベンチャーを創業。主な著書に『情報力』『情報考学--WEB時代の羅針盤213冊』『新・データベースメディア戦略。』『アクセスを増やすホームページ革命術』等。(株)早稲田情報技術研究所取締役、(株)日本技芸
取締役、株式会社メタキャスト 取締役、デジタルハリウッド大学准教授、多摩大学大学院経営情報学研究科客員教授等を兼任。
フィールド情報学セミナーではビジネスにおける事例や展望をご紹介する予定です。
株式会社いいじゃんネットの創立十周年記念パーティで頂いたオモシロアイテム。
カップラーメンでお湯を入れて3分間じっと待つ間、フタを閉じておくためのストッパー。熱に反応してだんだんと色が変わっていきます。
・いいじゃんネット
http://www.e-jan.co.jp/
私の会社データセクション社も今年の7月で創業10周年を迎えるのですが、最初の数年間、いいじゃんネット社と弊社は表参道のオフィスを共有して苦楽を共にしていました。日本の市場では10年続く企業は全体の数パーセントに過ぎません。2社ともに健在で今日を迎えたのは統計上は0.1%台のレアケース。経営努力と社員のがんばりあってこそ、両社ともに、よくがんばったで賞(これって死語?)。
いいじゃんネットは、社外から社内のメールやデータベースに携帯でアクセスするセキュリティソリューションCACHATTOサーバを提供している会社です。ノーツやエクスチェンジなど多くの企業システムに「かちゃっと」プラグインできるのが特徴で、大企業を中心に導入が進み、同分野でトップシェアと言われるまでに成長しました。
・CACHHATO
http://www.cachatto.com/
坂本社長はパーティスピーチの中で、今でこそ業績好調で大躍進中のいいじゃんネットですがかつては苦難の連続でした、というお話をされ、志を忘れぬよう「崖っぷちにへばりつく姿」のこのアイテムを招待者に配ることにした、とのこと。一同大爆笑。
カップラーメンをつくっていないときは、机の上においておくと、心がなごむアイテムでもあります。
坂本さん、いいじゃんネットのみなさん、ありがとうございました。両社ともにいい20周年目指してがんばりましょう。次の記念品は"登りつめたポーズ"の何かを探しておかないといけませんね。
・坂本社長のブログ 坂本史郎の【朝メール】より
http://blogs.itmedia.co.jp/shiro/
文学的で、静かに感動を呼ぶ、上質な漫画。よいです。
静かな日常の下に隠れた暗くて激しい底流というものがテーマ。
銭湯を経営する関口かなえは、何の兆しもなく失踪した夫のことを、できるだけ考えないようにしながら、日々の仕事に追われていた。人手不足の銭湯に組合の紹介でやってきた寡黙な男 掘さんが、店に住み込みで働き始める。おかげで一息つけるようになったかなえは、抑えていた自分の感情と正面から向き合うようになる。
なぜ夫は出て行ったのか?。他に好きな人がいたのか、何かやりたいことがあったのか、自分を嫌いになったのか、銭湯の仕事が嫌いだったのか。考えてもよくわからない。彼のことをまったくわかっていなかったのではないかと思うのがつらい。そんな葛藤のかなえのもとに探偵を使って調べてみないかという誘いがやってくる。そして失踪の真相が少しずつ明らかになっていくのだが。
淡々とした日常が物語の3分の2を占めるので、一話一話を取り上げると地味な印象を受けるが、通しで全部を読むとしっかりと残るものがあって、よくできた映画や小説のような厚みがある。個性的な脇役も活きている。コマ割は映画のようだ。これは映画化される、に一票。
不況でモノが売れない時代はプロデュース力で売る。
ポニーキャニオンで制作ディレクターや宣伝プロデューサーとして「チェッカーズ」や「おニャン子クラブ」、「中島みゆき」「だんご三兄弟」等の大ヒットを手がけた、現デジタルハリウッド大学大学院教授 吉田 就彦氏が語るビジネスプロデュース、コンテンツプロデュースの理論と秘訣。元デジタルガレージ副社長。最近はテレビでも活躍されている。
「R25」「おくりびと」「相棒」「ALWAYS三丁目の夕日」「モンスターハンター」など有名なプロデューサーたちの名前と成功事例がいっぱい挙げられる。いまどきの売れっ子プロデューサーたちが日々何を考え、行動しているか、具体的にわかるのが魅力の本。
吉田先生の独自のプロデュース理論は、まずHS(ヒットシグナル)をみつけて花開かせるというもの。その過程に「0から1を生む「創造」、1を100に育てる「実現」、 そして、二つのプロセスの「融合」。 ビジネス・プロデューサーとは、「0-1創造」したものを「融合」させ大きくして、「1-100実現」ができる人材、すなわち、アイデアをカタチにできる人材であるという。
ビジネス・プロデューサーの7つの能力として、下記の要素を挙げている。
発見力 | チャンスやヒットの芽や新しい人財などを発見する力 |
---|---|
理解力 | 世の中の動きや物事の本質を理解する力 |
目標力 | ビジョンを描きゴールをイメージできる力 |
組織力 | さまざまなビジネス資源を組織して有効活用する力 |
働きかけ力 | 「人」や組織を励まし、力を吹き込み、目標に向かって育てる力 |
柔軟力 | トラブルや環境変化に対応するなど、柔軟に物事を調整する力 |
完結力 | さまざまな事を乗り越え実行し、達成して、次への蓄積とする力 |
幅広い能力が求められる。では、どうすれば能力をそれぞれの開発できるのか?本書ではデジハリ大学院での授業で行われているワークセッションが紹介されている。これがかなり面白そう。
たとえば
・目の前の人に座っている人たちを「立ってください」という言葉だけで立ち上がらせる。
・一人に好きな人、嫌いな人を思い浮かべさせて、残りのメンバーはその顔の表情からどちらを想像しているかを当てさせる。
などなど。
結局、プロデューサーというのは人の心を読み、働きかけて、動かすことが基本なのだと再認識させられた。
・ブログ ヒットコンテンツブログ
http://hitcontentlab.jp/blog/
吉田 就彦氏のブログ。
現在の若者心理の研究。いじめ、ケータイコミュニケーション、ネット自殺などを軸に、いま10代、20代くらいの若者たちのコミュニケーション動態と深層心理を探る。
近年の調査では思春期に反抗期がなかった若者が増えているそうだ。
かつて尾崎豊の「十五の夜」の歌詞にあったような社会に対する反抗心と、現代のアンジェラ・アキが歌う「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」の未来の自分に対するメッセージを比べると歴然としているが、現在の若者世代は他者との対立の回避を最優先にする「優しい関係」の世代だ。
だが、この優しい関係は決して個々の心にとって優しくはない。「教室は たとえて言えば 地雷原」という川柳があるそうだが、見かけ上の「優しい関係」を営む場に絶対権が与えられ、息苦しさを感じている若者が多いという。
「「優しい関係」とは、対立の回避を最優先にする関係だから、互いの葛藤から生まれる違和感や、思惑のずれから生まれた怒りの感情を、関係の中でストレートに表出することはままならない。むしろそれらを抑圧することこそが、「優しい関係」に課せられた最大の鉄則である。したがって、その違和感や怒りの感情エネルギーは、小刻みに放出されることによる解消の機会を失い、各自の内部に溜め込まれていくことになる。」
著者は現代型のいじめもそこから生まれると分析する。被害者に仲間とのまなざしを集中させることで、互いの対立点を見ないで済むことができる。
「相手の事情を詮索して踏み込んだりしない、あるいは自分の断定を一方的に相手に押しつけたりしない。そういった距離感を保つ「相手に優しい関係」とは、ひるがえってみれば、自分の立場を傷つけかねない危険性を少しでも回避し、自分の責任をできるだけ問われないようにする「自分に優しい関係」でもある。だから、意図せずしてこの「優しい関係」の規範に抵触してしまった者には激しい反発が加えられる。いじめの大賞もそのなかから選ばれるのである。」
本書では「二十歳の原点」(1969年)の高野悦子と、「卒業式まで死にません」(1999年)の南条あやという二つの世代の自殺した若者の日記作品が比較分析される。この30年で若者の思想は大きく変わった。
高野の世代では未来の希望は自分が今後いかに変わっていくかにかかっている。一方で南条の世代では、自分がいかに変わらないでいられるかにかかっている。自分の存在の根拠を主体制の獲得に見出すか、生来的な身体性に見出すか、実に対照的な二つの価値観がある。
コミュニケーション面では、ケータイまわりがじっくり考察されている。メールの即レスを意識する若者たちはメッセージ内容の「意味伝達指向」ではなくつながること自体を目指す「接続指向」で生きている。ケータイではいつも会っている友達と頻繁に短いメールをする。インターネットは世界に開かれているが、使い道はやはり仲間内の優しい関係づくりなのである。
つながっていることを確認すること、複数の他者のメッセージを三角測量しで仲間内での自分の位置を割り出すこと、それがケータイの利用目的となる。自己の脆弱な存在基盤をふれあいGPSがおぎない続ける。
この本を読んでわかったのは、それぞれの世代に生きづらさがあって、それと向かい合う困難があって、その戦いには強い人と弱い人がいて、という構図が時代を超えて普遍であるということだ。世代間に優劣はつけられないし、「優しい関係」や「空気を読む」こと自体が良いこととも悪いこともいえない。ただそういうものだということを認めて、両世代がつきあうことが何よりも大切なのだろう。
ショーペンハウエルによれば知性とは普遍的な事柄の認識能力である。知識欲が普遍へ向かうと学究心と呼ばれ、個別へ向かえば好奇心になる。個別への関心は動物でもあるが、普遍をとらえるのは人間だけである。だからその普遍度が哲学や芸術のように高ければ高いほど知的レベルが高い、とする。逆に知性が欲望を満たすことや実践的な物事の処理に奉仕するのは、低レベルな知性だという。
そして世の中を大多数の凡人と、一握りの天才にわける。
「大多数の人間は、その本性上、飲食と性交以外の何事にも真剣になれないという性質をもっている。この連中は、希有の崇高な資質の持ち主が、宗教や学問や芸術の形で世の中にもたらしてきたすべてのものを、たいていは自分の仮面として用いて、ただちに彼らの低級な目的のための道具として利用することになる。」
つまりショウペンハウエルに言わせれば"プロ"や"MBA"は知性のうちに入らない。ただの"学者"も失格扱い。そういう世俗で役立つことに役立っちゃうようではまだまだレベルが低いのだ。本書の天才は1億人に1人という記述もあったくらいで、著者の志はとてつもなく高い。
じゃあ、どうやったら天才に近づけるのか?。それは世俗との断絶だと答えている。
「独創的で非凡な、場合によっては不朽であるような思想を抱くためには、しばらくの間世間と事物とに対して全然没交渉になり、その結果、ごくありふれた物事や出来事さえも、まったく新しい未知の姿で現れてくるというようにすれば、それで足りるのである。というのは、まさにこのことによって、それらの物事の真の本質が開示されるからである。しかしながら、ここで求められる条件は、困難であるどころか、決してわれわれの自由にならないものなのであり、ほかでもなく、天才のはたらきなのである。」
誰からも教わることなく、自らうみだした知識を人類に教えるのが、そうした天才の役割だと説く。凡人の知性は日常にしばられているから、解放しないとだめなのだ。どんだけ高みを目指しているんだあんたはという感じである。
私はショーペンハウエルの拗ねた哲学がときどき無性に読みたくなる。不遇のショーペンハウエルは自身をその天才の一人と認識して書いているのは間違いないように思う。圧倒的な知性を持った拗ね者の独白として、その背景の心理に着目して読むと、ショーペンハウエルの厭世哲学はなんだか非常に人間的で、実は弱者的で、共感するところもいっぱいの、おもしろさを感じてしまう。
・読書について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/01/post-913.html
2005年3月、ドイツのハンブルク応用科学大学デザイン=メディア=情報学部の卒業審査で、学生アイナール トゥルコウスキィが提出した作品の出来栄えの見事さに教授たちは目をみはった。たった一本のシャープペンシルで400本の芯を使って3年かかって描き上げたという細密画と、独特のシュールさ漂うストーリー。世に出た作品はたちまちドイツの有名な絵本賞を連続受賞した。
絵本とはいっても対象は大人向け。ある日、町のそとの砂丘の廃屋に、奇妙な男が住みつく。男はわけのわからぬ仕掛けで漁のようなことをしている。没交渉のまま裏で監視を続ける町の住人たちは、わけのわからぬものへの恐れや嫉妬から、よそものの男を排斥するムードに傾き始める...。
ムラ社会の創造性のなさを悲しい目で見ているのは、おそらく作者アイナール トゥルコウスキィ自身の実体験からくる感慨なのだろう。卒業制作といっても当時すでに33歳。誰にも理解されないまま、黙々と細密画を描き続けてきた画家は、雲をつかむような仕事をひとりで続ける主人公の姿そのものだったのじゃないだろうか。
この話からは無理解のムラに対する怒りや批判はあまり感じられない。あるのは外に対しては諦めと悲しさ、内には孤高の創造行為に没頭する充実感。表現に激しさはないが、姿勢はある種のアウトサイダーアートといってもよいのかもしれない。ここ数年で作者は社会的評価を受けて、広く人気も出て、ポピュラーになりつつあるようだが、次はどんな作品を描くのかを見てみたい。
・「百頭女」「慈善週間または七大元素」
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/06/post-771.html
・アウトサイダー・アート
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/post-739.html
以下は大人の絵本系
・『終わらない夜』と『真昼の夢』
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/08/post-1049.html
・なおみ
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/12/post-895.html
・大人な絵本 「天才の家系図」「裁判所にて」
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/09/post-812.html
・「平家物語 あらすじで楽しむ源平の戦い」と「繪本 平家物語」
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/09/post-823.html
・ちいさなちいさな王様
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/01/eel.html