Books-Sociology: 2011年5月アーカイブ
東日本大震災における風評被害についても複数の章を割いている新刊。原子力事故と風評被害、メディア報道と風評被害、流通と風評被害、観光産業と風評被害、企業・金融・保険と風評被害。専門家による風評被害を巡る論考集。
風評被害の定義は「ある事件や事故、災害が大々的に報道されることによって、本来「安全」とされる食品や商品、土地を人々が危険視し消費をやめること」。「風評被害」という言葉自体は90年代後半のナホトカ号重油流出事故、所沢ダイオキシン報道、東海村JCO臨界事故の3つの出来事で一般的になったものらしい。
もちろん実質的な風評被害現象はもっと古くからあるもので、当初から原子力と深い関係にあり、1954年の第5福竜丸被爆事件とその後の「放射能パニック」が最初の事例とされている。目に見えない上に、科学的理解が難しい放射線は、風評を引き起こしやすいものなのだ。
多くの場合、マスメディアが風評被害の大きな原因をつくる。事件事故について過度に報道が集中すると、受け手は単純化されたステレオタイプな状況認識を強める。テレビは「多様性」「多層性」を伝達するのが下手なメディアである。危険というイメージが増幅されがちだ。商品の流通関係者も、メディア報道が集中すると、多くの人が目にしたから売れないだろうと考えて出荷や仕入れを止めてしまう。そして消費者も企業も状況に配慮した結果として「自粛」をすることで経済活動を停滞させる。
消費者が科学リテラシーを持てば風評被害は避けられるという簡単な問題ではないと著者は書いている。個人の心理だけでなく、組織や社会の問題と絡み合った複雑な問題なのだ。
風評被害を防ぐには、もちろん消費者ひとりひとりの心がけも重要だと著者は書いているが、現在進行中の福島をめぐる問題については、複雑な思いもあるようだ。最終章にこんなことを書いている。
「ただし、風評被害という限りは、「安全」ということが前提である。科学者同士でも議論が分かれるような汚染が存在する以上は、もう、それは風評被害の範囲を超えている。「安全でない」とするのならば風評被害ではない。 放射性物質による汚染が存在し「リスク」がある以上は、次に重要になってくるのは、「許容量」ということになる。人が健康でふつうの生活を送る上で、あるいは社会が正常に機能する上で、どの程度まで放射線量を受け入れるかということである。」
これはその通りだと思う。有害か無害かを考えるよりも、もはや許容量を考える方が建設的だ。東日本に生活していてゼロ汚染はありえないわけだから。
現在は、食品の放射性物質含有量が基準値以下であれば出荷し、上回れば出荷制限するということを国はやっている。だがその基準値の根拠が論争中のために、巷では産地が東北や北関東だと敬遠する消費者も多い。流通の信用を損なう事件があったせいもあるが、要するに、放射線の影響について、よくわからないので不気味だからだ。
いっそ(基準値以下でも)放射線量の数値を産地同様にタグにつけて市場に流通させたらいいのではないか。「ホウレンソウ ○○産 ○○ベクレル」のように。そうすれば消費者が、カロリー管理と同じように線量管理を行うことができるようになる。被曝で重要なのは積算量なわけだから、既に多量に被ばくしている人と、そうでない人では、身体に取り込んでよい量が違うはずである。
農薬がちょっとかかってます、カロリーがちょっと高めです、と同じように、放射線をちょっと浴びています、でも危険度は僅かで、このくらいです、と分かれば正体不明の不気味さもなくなるのではあるまいか。
ネット世代のつながりを元NTTサイバーソリューション研究所長が分析した本。
現代の若者の人間関係を読み解くには「つかず離れずの人間関係」と匿名性と親密性が両立する「親密な他者」がキーワードだとしている。
「他者に気を遣わず、自分は安心できる」
「孤独でないことを確かめ、偶然のつながりに喜びを味わう」
たとえばスターバックスは、他のお客がいっぱいいる中で、個人的に話しかけられることはない空間になっている。そこでは店員からマニュアル対応されることがむしろ快適である。「他者に気を遣わず、自分は安心できる」と「孤独でないことを確かめる」ということが同時に実現できる。MixiやTwitterといった人気のサービスも、つかず離れずの距離感がポイントになっていると著者は言う。
「「つかず離れず」のつながりは90年代からの若者の特徴である。数あるサービスで広く普及したのは、このつながりに相性のいいサービスだけだった。ネットとリアルの相互作用でますます「つかず離れず」になり、表面から感じられない孤独な若者が増えているのかもしれない。ネットはそのリトマス試験しといえる」
映像通信のテレビ電話、CGコミュニティのセカンドライフ、固定通信のキャプテンなどは時代のつながり感にうまく応えることができなかったから散って行ったのだ、と歴史の振り返りもある。
ネット世代はツイッターの仲間内に「○○(地名)あたりで夜ごはんを一緒に食べる奴いる?」と呼びかけて、来たい奴が来ればいい。これなら個別に誘ったり、断られたりすることなく、気の合う仲間とつるむことができる。ネットの技術とサービスが新しい距離感を可能にしている。
調査によると現代の日本人の友人の数は増えており、人間関係が希薄になったのではなく選択的になったのだという記述があった。つながりは、都市生活者にとってより快適で繊細な需要を満たす方向へと進化を遂げている。その恩恵をフルに受けて育ったのがネット世代、そして取り残された旧世代は、その様子を見て、近ごろの若者はけしからんと嘆く。旧世代からするとネット技術が実現した「親密な他者」は想像しがたいものでもあるだろう。
人口的には今後も高齢化によって旧世代も数が多い。世代交代はゆっくりしたペースになるから、この断絶はしばらく続くものと思われる。コミュニケーションの基本が思いやりであるとするならば、ネット世代の気持ちも、旧世代の気持ちもわかる、新旧融合型のコミュニケーションスタイルというのが必要になてくるのかもしれない。