Books-Sociology: 2011年4月アーカイブ
現在の日本が直面しているエネルギー問題は、欲望と消費の問題でもある。無限の欲望に駆動される情報化/消費化社会は、市場の無限性と資源の有限性というジレンマに陥って身動きが取れなくなっている。著者はこの情報化・消費化の流れを破綻させるのではなく、発展的に転回させる可能性を、現代社会学の理論を引用しながら考察していく。。
フォードは車の基本性能を変えずとも、定期的にモデルチェンジし、デザインを変えることで、消費を創出し続けることを発見した。デザインと広告を発達させた現代社会は、情報が欲望を無限に生み出す(欲望のデカルト空間)仕組みによって自己完結する純粋な資本主義を実現してしまった。無限の欲望は自然との臨界面において、環境、公害、資源、エネルギーの問題を発生させ、南北問題や第三世界という他社会収奪の問題を生み出した。
しかし、そもそも問題となる人間の消費には次の2種類があるという。
1 充溢し燃焼しきる消尽
2 商品の購買による消費
市場関係に依存せずとも充足させうるもうひとつの消費の形態。この本では、これをバタイユの思想を通して紹介している。
「思想として/理論として肝要のことは、バタイユがこれらの「歴史的資料」をとおして、また三部作の至るところの、宗教と性愛と芸術の豊富な形態の考察をとおして、一貫して追求している、「根本的な要素───有用性の彼方の<消費>」というコンセプトを、精錬してつかみ出して来るということである。<生産に対する消費の本源性>というここでの核心の命題の、正当性の根拠となしうるコンセプトとしての<消費>の概念を、純化して析出しておくならば、それは、どんな効用にも先立つような、<生の充溢と歓喜の直接的な享受>の位相として把握することができる。」
楽しさ、華やかさ、魅力性を求める現代人の消費。効用を前提としない消費は、必ずしも市場や資源に依存するものではない。資源収奪的でも他社会収奪的でもなく、消費社会が資源消費を減少させながら持続する幸福の無限空間を著者は模索する。
「バタイユがその三部作の中で、<消費>のいっそう積極的な表現としてのちに採用することになる、<至高なもの>の諸形式、───<聖なもの>やエロティシズムや芸術の諸形態をみると、それは生産主義的な諸産物よりもいっそう力強く直接的な歓びを人に与えるものだけれども、どんな強烈な、あるいは深遠な感動のためにもそれが、必然に大量の資源の採取や自然の解体や他社会の収奪を必要とすることはない。たとえば絵画や詩の美しさは、それが使用するキャンバスの巨大さやパルプ材の量とは基本的に無関係である。あるいはいっそう人々の日常の生の内にあるもの、歌や笑いや性や遊びのさまざまな形、他者や自然との直接の交歓や享受の諸々のエクスタシーは、<消費>の原義それ自体であるが、つまり、<他の何ものの集団でもなく、それ自体として生の歓びでもあるもの>だけれども、それはどのような大量の自然収奪も、他社会からの収奪も必要としない。」
市場経済を盛り返すことはもちろん必要だろうけれども、いくら頑張っても無限の欲望を満たせず、幸福度が高まらないのであれば、私たちは同時にバタイユがいう「歌や笑いや性や遊びのさまざまな形」を、カネもモノも消費しない形で存分に楽しむ社会をつくる方向も追求すべきなのか。
未来のためにがむしゃらに仕事を頑張るよりも、今日の生活をどう楽しむかを考えるべき社会の成熟期に日本はあるのかもしれないな、と考えさせられる一冊だった。停電を楽しめるくらいが、本当に豊かな生活なのかもしれない。