Books-Sociology: 2010年3月アーカイブ
現在の若者心理の研究。いじめ、ケータイコミュニケーション、ネット自殺などを軸に、いま10代、20代くらいの若者たちのコミュニケーション動態と深層心理を探る。
近年の調査では思春期に反抗期がなかった若者が増えているそうだ。
かつて尾崎豊の「十五の夜」の歌詞にあったような社会に対する反抗心と、現代のアンジェラ・アキが歌う「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」の未来の自分に対するメッセージを比べると歴然としているが、現在の若者世代は他者との対立の回避を最優先にする「優しい関係」の世代だ。
だが、この優しい関係は決して個々の心にとって優しくはない。「教室は たとえて言えば 地雷原」という川柳があるそうだが、見かけ上の「優しい関係」を営む場に絶対権が与えられ、息苦しさを感じている若者が多いという。
「「優しい関係」とは、対立の回避を最優先にする関係だから、互いの葛藤から生まれる違和感や、思惑のずれから生まれた怒りの感情を、関係の中でストレートに表出することはままならない。むしろそれらを抑圧することこそが、「優しい関係」に課せられた最大の鉄則である。したがって、その違和感や怒りの感情エネルギーは、小刻みに放出されることによる解消の機会を失い、各自の内部に溜め込まれていくことになる。」
著者は現代型のいじめもそこから生まれると分析する。被害者に仲間とのまなざしを集中させることで、互いの対立点を見ないで済むことができる。
「相手の事情を詮索して踏み込んだりしない、あるいは自分の断定を一方的に相手に押しつけたりしない。そういった距離感を保つ「相手に優しい関係」とは、ひるがえってみれば、自分の立場を傷つけかねない危険性を少しでも回避し、自分の責任をできるだけ問われないようにする「自分に優しい関係」でもある。だから、意図せずしてこの「優しい関係」の規範に抵触してしまった者には激しい反発が加えられる。いじめの大賞もそのなかから選ばれるのである。」
本書では「二十歳の原点」(1969年)の高野悦子と、「卒業式まで死にません」(1999年)の南条あやという二つの世代の自殺した若者の日記作品が比較分析される。この30年で若者の思想は大きく変わった。
高野の世代では未来の希望は自分が今後いかに変わっていくかにかかっている。一方で南条の世代では、自分がいかに変わらないでいられるかにかかっている。自分の存在の根拠を主体制の獲得に見出すか、生来的な身体性に見出すか、実に対照的な二つの価値観がある。
コミュニケーション面では、ケータイまわりがじっくり考察されている。メールの即レスを意識する若者たちはメッセージ内容の「意味伝達指向」ではなくつながること自体を目指す「接続指向」で生きている。ケータイではいつも会っている友達と頻繁に短いメールをする。インターネットは世界に開かれているが、使い道はやはり仲間内の優しい関係づくりなのである。
つながっていることを確認すること、複数の他者のメッセージを三角測量しで仲間内での自分の位置を割り出すこと、それがケータイの利用目的となる。自己の脆弱な存在基盤をふれあいGPSがおぎない続ける。
この本を読んでわかったのは、それぞれの世代に生きづらさがあって、それと向かい合う困難があって、その戦いには強い人と弱い人がいて、という構図が時代を超えて普遍であるということだ。世代間に優劣はつけられないし、「優しい関係」や「空気を読む」こと自体が良いこととも悪いこともいえない。ただそういうものだということを認めて、両世代がつきあうことが何よりも大切なのだろう。