Books-Sociology: 2009年11月アーカイブ

・「空気」と「世間」
41qPap9zgDL__SL500_AA240_.jpg

「空気を読め」の空気とは何か。「世間体」が悪いの世間とは何か。演出家 鴻上尚史が阿部謹也の「世間」論と山本七平の「空気」論を融合した。自分に関係のある世界のことを「世間」と呼び、自分に関係のない世界のことを「社会」と呼ぶ。「世間」が流動化してカジュアル化して現れたのが「空気」である、という定義をする。

欧米人は社会に属する人とつきあうことに比較的慣れている。日本人は見ず知らずの人に話しかけることが苦手だ。身内の空気の中に生きていると、冷たい水の社会(山本七平は水=通常性と呼んだ)の論理がわからなくなる。会社や日本を一歩出たら、そこは水の社会が広がっているのに。そこで空気の支配に対応するため「水を差す」役割の重要性が指摘されている。「王様は裸だ!」と指させる子供という、立ち位置が大切なのだ。

現代は地域共同体と会社という二つの世間の安定が壊れた。「世間と神は弱い個人を支える役割を果たしていた」という。だから、よりどころを失った日本人は、なお安心できる何かを求めている。テレビの仕事をしている鴻上尚史は、いまのお笑いブームに「共同体の匂い」への指向を読み取っている。

「お笑い番組が隆盛なのは、「笑って嫌なことを忘れたい」という理由が一番でしょうが、同時に、「他人と同じものを笑うことができる」という「共同体の匂い」に惹かれているからだと思います。 私は孤独じゃない。私たちはバラバラじゃない。なぜなら、同じものを見て、一緒に笑える人たちがいる。同じものを見て、腹から笑える人たちの中に自分がいる。それは「共同体の匂い」です。そして「共同体の匂い」を呼吸することは、人を安心させるのです。」

著者が言うように、インターネットの一番の肯定面は、自分で「共同体」を選べること、複数の共同体にゆるやかに所属すること。そこに著者は可能性を見る。「空気嫁」というジャーゴンがあるように、ネットのコミュニティにも濃密な空気があるが、複数のコミュニティに出入りができるなら縛られないという考え方もできる。

ただ、昔のコミュニティというのはひとつしか属せなかったはずだ。そうした閉鎖的な空気と、ネットのゆるい空気はまた別物かもしれないとも思う。空気というフレーム自体が進化するフェイズを迎えている気もする。いや人間はそう簡単には変わらない?。情報アーキテクチャーと同時に考えるべき重要なテーマだと思う。

空気と世間という伝統的な視点を、同時代の文脈で見事に読み替えていて、大変に面白く読む価値のある本だった。

・「空気」の研究
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1115.html

・表現力のレッスン
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/10/post-855.html
・真実の言葉はいつも短い
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/07/post-787.html

・地域の力―食・農・まちづくり
3170bq2tzsL__SL500_AA240_.jpg

全国で市民と自治体が協力して魅力ある発信を行っている地域を、10か所以上も取材して豊かさの新しいモデルを追究したルポ。料理を彩る「つまもの」として、地元に落ちているもみじや南天の葉っぱを売るビジネスが成功した徳島県上勝町。58年ぶりに路面電車を開業させた富山県富山市。都市農業を広める東京都練馬区と神奈川県横浜市。多様な生き方を可能にする、多様な地域のくらしのモデルが示されている。

地元の声をたくさん紹介している。地域の雰囲気と住民が動くモチベーションの本質がみえてくる。いくつかピックアップしてみると、

「お金じゃないんよ。空いた時間に外へ出たいのもあるし、世の中の役に立ちたいのもあるし、みんなで集まりたいのもあるし。」

「人間にとって出番があることが一番大事。人を元気にするには出番と評価ですよ」

「みんな売上高より順位を気にしてますよ。田舎は隣に負けたくないという気持ちが強いけん。」

「とくに、若い女の子にはパワーとエネルギーがあるから、おっさんはすぐ動くんだよ(笑)」

問題意識や大義名分だけではなかなか人は動かないが、身近なところで楽しいということが重要。地域振興の秘訣としてよく語られる「よそ者、若者、バカ者」の活躍がやはり目立つ。

ここにでてくる地域に共通するのは、

1 地域資源に新たな光を当てて、暮らしに根ざす中小規模の仕事と雇用を発生させた
2 共創型のリーダーの存在
3 IターンとUターンが多い
4 メインの仕事で現金収入を得る傍ら地域の仕事をする人が多い

ということだと著者がまとめている。産業振興より住民のくらしの質を高めようという視点で考えると、結果としては経済的にも上向くみたいだ。

そして地域に根差す多様な地域づくりには、その数だけアイデアが必要である。アイデアマンやデザイナーを今本当に必要としているのは、地域なのだなと思った。

・「ふるさと」の発想―地方の力を活かす
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1075.html

・地域情報化 認識と設計
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/05/post-384.html

・「空気」の研究
515P5VDD5VL__BO2.jpg

日本人に独特の伝統的発想「空気を読む」、「水を差す」とはどういうことか。近代日本社会の情況論理、状況倫理の徹底研究。山本七平、昭和52年初版の名著。負け戦を知りつつ戦艦大和を出撃させた軍部の「空気」は、現代社会、ネット社会でもいまだ根強く残っている。

「われわれの社会は、常に、絶対的命題をもつ社会である。「忠君愛国」から「正直ものがバカを見ない世界であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨在感的に把握し、その"空気"で支配されてきた。そしてそれらの命題たとえば「正義は最後には勝つ」そうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じつづけてきた。そのため、これらの命題まで対立的命題として把握して相対化している世界というものが理解できない。そしてそういう世界は存在しないと信じ切っていた。だがそういう世界が現実に存在するのである。否、それが日本以外の大部分の世界なのである。」

論理的判断の基準と空気的判断の基準のダブルスタンダードが日本の特徴である。自由な議論の場をつくるためには、必要に応じて話に「水を差す」ということが、実は重要なことなのだ。論理的な議論を重視する西欧社会においては、水こそ通常性なのである。水と空気の比率の違いは、民主主義や多数決原理のあり方にも表れてくる。

「多数決原理の基本は、人間それ自体を対立概念で把握し、各人のうちなる対立という「質」を、「数」という量にして表現するという決定方法にすぎない。日本には「多数が正しいとはいえない」などという言葉があるが、この言葉自体が、多数決原理への無知から来たものであろう。正否の明言できること。たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからである。」

今の日本で多数決というのは、責任を曖昧にするときにもよく使われる。失敗したときに誰かが責任を負わずにすむ意思決定方法として登場する。いわば全員で決めることで全員が責任を放棄する方法でもあるわけだ。そういう安易な多数決が日本を滅ぼしていくのだと思う。空気と多数決について、著者はこう続ける。

「これは、日本における「会議」なるものの実態を探れば、小むずかしい説明の必要はないであろう。たとえば、ある会議であることが決定される。そして散会する。各人は三々五々、飲み屋などに行く。そこでいまの決定についての「議場の空気」がなくなって、「飲み屋の空気」になった状態での文字通りのフリートーキングがはじまる。そして「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネー......」といったことが「飲み会の空気」で言われることになり、そこで出る結論は全く別のものになる。」

そして、日本で多数決をやるなら、会議で多数決をとったあと、同じメンバーで飲み屋で多数決をとって、2回の平均を答えとせよ、と結論している。飲みニケーションを大切にする日本組織的なボスの信頼感というのは、まさにそんな二重多数決を自然にやっていることにあったのだろう。

日本人の血が、程度の差はあれど、多くの読者に共感を生むだろう。面白い。阿部謹也の「世間」論と山本七平の「空気」論は、日本人の場を考える上で双璧をなす2大フレームワークだなあ、とつくづく思うのであった。


・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html
・タテ社会の人間関係 ― 単一社会の理論
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005254.html

・人を助けるとはどういうことか 本当の「協力関係」をつくる7つの原則
513H4Y5e8VL__SL500_AA240_.jpg

面白い本だ。おすすめ。

「相手の役に立つこと」を社会心理学的に探究した「支援学」の大家の本。

著者によれば、助け合いの秘訣とは「社会経済」と「面目保持(フェイスワーク)」を理解することだ。社会において助ける人間は感情的に一段高い場所にいて、助けられる人間は一段低い場所にいる。この不均衡が互いの求めていることを見えなくするのだという。感情の帳尻合わせが良好な支援関係には必要なのだ。

「どんな種類にせよ、関係を築くためには、社会経済や面目保持という文化的なルールに敏感であることが求められる。人はそれぞれの関係から何かを得ており、それが適正だと確信できるように。人生という日々のドラマの中で、人は自分の面目や他人の面目がつぶれないように役を演じている。成長するにつれて、われわれは無数の状況への対処法を学ぶ。どの状況も役者や観客の役割を適切に果たすことを求めている。」

普通、人は困っていても、見知らぬ人に助けてもらうのは不安だ。防衛的になったり、事によっては恥辱を感じて憤慨する。依頼者は本当は助けてもらいたいのではなく、話を聞いてもらって安心したり、注目や評価をしてもらいたいだけかもしれない。あるいは差し伸べられる支援に対して、非現実的あるいはステレオタイプな期待を持っていて、それと違う支援を受けると不満を感じるかもしれない。

「要するに、そもそもどんな支援関係も対等な状態にはない。クライアントは一段低い位置にいるため、力が弱く、支援社は一段高い位置にいるため、強力である。支援のプロセスで物事がうまくいかなくなる原因の大半は、当初から存在するこの不均衡を認めず、対処しないせいだ。支援関係を当然なものと見なさずに、実際に築かなければならない理由は、不均衡なのが明らかなのに、それを正す社会経済が明らかでないからである。」

手を差し伸べることで、支援者の権力が強まり、相手の立場をさらに低いものにしてしまうような支援は有益ではない。不均衡な立場では本当のニーズが打ち明けられず、支援内容が不適切なものになりがちだ。有難迷惑なお節介の発生原因である。

支援者の役割は3つあると著者は話す。

1 情報やサービスを提供する専門家
2 さらに突っ込んだ診断と処方まで行う医師
3 クライアントとの関係を最適化するプロセスコンサルタント

である。そして、3を上手にこなすには、双方の本当のニーズを明らかにするための問いかけが大切だという。純粋な問いかけ、診断的な問いかけ、対決的な問いかけ、プロセス指向型の問いかけの4つがある。これらのツールを使って関係性を壊さずに社会経済をバランスさせることが支援学の秘訣なのだ。

チームでメンバーが互いの顔をつぶさずに、本質を批評しあうには、日本人の飲みニケーションも一考だと、米国MITの先生である著者が、高く評価しているのが興味深い。無礼講的空間が、互いの意見を受け入れやすくする。

「こうしたコミュニケーションを安全に生まれさせるには、「オフライン」として定義される、時間や空間が必要である。それによってグループは、対面という基準を棚上げにし、通常は強迫的と取られかねないことを言える雰囲気を作り出せるようになる。前に例としてあげたが、日本の管理職が上司と酒を飲みながら言いたいことを言うのは、この方法の一つである。」

相互作用のネットワークの中で生きる現代人にとって、支援学は必須のテーマだと思う。学校でもこういう話をどんどん教えたらいいのに。上司と部下、クライアントとコンサルタント、教師と生徒、親と子供、夫と妻など、多様な関係性で支援のケースが提示されていて、幅広い読者の役に立つ名著である。