Books-Sociology: 2009年2月アーカイブ
「外交はよく、チェスのようなゲームにたとえられる。外交に関する本の表紙やウェブサイトをチェスのコマが飾っていることも多い。ゲームとして描かれる外交。そこでの目的は勝つことだ。駒の動き、チームの目的と能力は有限で、ややこしいけれど理解可能だ。チェスは白と黒が戦うゲームだ。外交ゲームでも同じ。外交が論法として機能し、合理的だと思われ、現在の形でこれからもずっとつづくには、ゲームの参加者が二つのチームにはっきり分かれる必要がある。「われわれ」と「彼ら」だ。」
イギリスのエリート外交官だった著者は15年間に、パレスチナ問題、湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク侵攻など現代史の最前線で活躍してきた。先進国の代表者として著者の属した「われわれ」は常勝チームだった。しかし、国連常任理事国のような一部の有力国が圧倒的な情報力や交渉力を持ち、多くの貧困国は発言権さえ与えられない国際外交のありかたに大きな疑問を持った。そこでイギリス外務省を退職し、外交コンサルティング組織「インディペンデント・ディプロマット」を設立、国際社会で弱い立場の国や人々のために自身の能力と経験を使うことを決意した。
著者は国際外交の問題点を次々に指摘していく。民主的でないこと、外交官と国家の同一視、エリートと市民の無責任な協定関係、国際関係を競争ととらえる思考法、時代遅れの国益の駆け引き思考、事実認識の構造的欠陥、「世界は理解可能だ」という思い上がり、根深いところの不均衡、不公平など。
問題は山積みだが、国際関係というメタレベルのコミュニケーションには愛やこころ、哲学がないことが最大の問題であり、著者が外務省を辞めて独立した最大の理由でもあるように思える。極めて有能で合理的判断のできる外交官達が、有能で合理的であるが故に人間らしさを失っていく様子がこの本に描かれている。
「情報量が増えるにつれて、何が起きているかを「説明する」ために、単純化した「ストーリー」が求められるようになっているのだ。 どのような情報も、どれほど包括的であろうとしても、現実の取捨選択と単純化を避けることはできない。だれも、神の眼で見ることはない。手に入る膨大な情報のなかで、政策決定にどれを使うべきか、どうしても、何らかの選択がなされることになる。外交界には、自分たちの世界観を裏付けてくれる情報を見つけ出して伝えるという、あまりに人間的な傾向がある。そして現実から遠ざかれば遠ざかるほど、この傾向はひどくなる。調停していたイラクの現実から、僕たちは一万キロ近くも離れていた。ときには、月の表面について話しているも同然だった。」
大国の外交官達は駒のひとつひとつに生命がかかっていることを忘れて「われわれ」と「彼ら」のチェスゲームに熱中してしまう。現実と議論の乖離、道徳や感情の欠如が世界に悲惨な結果をもたらす。そんな外交を変革するために何をすべきかを著者は徹底的に考察している。
そして「外交につきものの限定、単純化、虚構、恣意性を解体することは、外交という概念自体の解体を必要とするのかもしれない。」という。この問題は結局、政治外交に限らず、グローバルコミュニケーションの普遍的な論点でもあるだろう。異文化間で情報の大枠は記号的に伝達できても、前提の情緒的な部分が共有されなければ、紛争とか差別というのはなくならない。
だから著者はもっと深いコミュニケーションのために「国益」概念を捨て大使館を出た。2004年からはコソボ、ソマリランド、西サハラなどの紛争地に飛んで国の独立に向けた外交を支援している。世界初の独立外交官は国際政治のあり方を変えるだろうか。現在進行形のドキュメンタリである。