Books-Sociology: 2008年3月アーカイブ
「世界最悪の仕事は何か」をテーマにヨーロッパ(主に英国中心)の歴史を振り返って、ワースト1を決めるという趣旨の本。そこでローマ時代、中世、チューダー王朝時代、スチュアート王朝時代、ジョージ王朝時代、ヴィクトリア王朝時代という区分で、最悪職業のノミネートが行われる。最終章で発表される史上最悪の仕事とは?
登場する職業は、金鉱夫、写本装飾師、沼地の鉄収集人、コイン奴隷、ウミガラスの卵採り、治療床屋、亜麻の浸水職人、財務府大記録の転記者、焼き串少年、御便器番、爆破火具師助手、シラミとり、疫病埋葬人、浴場ガイド、絵画モデル、船医助手、ネズミ捕り師、骨拾い、など約70種類。名前からは仕事の中身がわかりにくいが、どれも身の毛もよだつような作業や労働環境が含まれる。
たとえばローマ時代の最悪候補が「反吐収集人」である。ローマ人たちは享楽におぼれ、たくさん食べるために、食べては吐きを繰り返したらしい。セネカの著作にはこんな記述があるそうだ。「われわれが宴会で寝椅子に寄り掛かっているときでさえも、或る奴隷は客の反吐を拭き取ったり、或る奴隷は長椅子の下に身を屈めて、泥酔した客の残したものを集めます。」。
チューダー王朝時代の最悪候補はヘンリー8世のお尻を拭く「御便器番」。スチュアート王朝時代の最悪候補はガマの油売りの英国版「ヒキガエル喰い」。薬の万能さをデモンストレーションするために観衆の前でヒキガエルを丸呑みしたという。
この本に出てくる仕事は多くが現在の「3K(きつい、汚い、危険)」どころではない大変そうな仕事ばかりだ。全体の総括として共通する要素として以下の5つがあげられていた。3Kに低収入と退屈が加わっているわけだ。
1 体力が必要なこと
2 汚れ仕事であること
3 低収入であること
4 危険であること
5 退屈であること
もともとこの本は英国のテレビ番組をベースにしている。番組では実際にその職業を体験してみて、昔の人たちの厳しい労働の実態や、社会のゆがみなどを考えさせるという教育的趣旨で構成されている。
・The worst jobs in history
http://www.channel4.com/history/microsites/W/worstjobs/
番組の公式サイト
この本を読むと、そんな時代に生まれなくてよかったと思うだけでなく、社会における職業について考えさせられる。誰かがやらねばならない辛い仕事というのはどの時代にも存在している。社会には上水道と同時に下水道が必要である。
仕事の中身の最悪度だって主観的なものでもある。たとえば、人間を手術や解剖する医者の仕事は見方によっては身の毛もよだつ仕事だ。弁護士は犯罪者や事件事故ばかりを相手にするやばい仕事である。人々から尊敬され、高収入だから、それらは3K仕事には決してならない。
結局のところ、やりがいがあるかどうか、ということが最高と最悪を決める本当の要素ということになるのじゃないか、というのが私の結論であった。
斬新な切り口でまっとうな歴史哲学を語る本。
著者の調べによると日本全国で1965年ごろを境に、キツネにばかされたという話が発生しなくなったのだという。本当にキツネが人を化かしていたのか、その話をみんなが信じていたのか、という問題はともかく、そのような話が出なくなったことは歴史的な事実である。
高度経済成長に伴う変化の中で、日本人は知性でとらえられるものを重視するようになった。同時に知性によってとらえられないものはつかめなくなったということでもある。
この本でとても気になった一節がある。かつての村社会における情報流通についての説明である。
「人間を介して情報が伝えられている間は、情報の伝達には時間が必要だった。大事な情報は急いで伝えられただろうが、さほど急がなくてもよい日常世界の情報は、何かの折に伝えられる。ところがその情報は重要ではないのかといえば、村ではそうでもない。なぜならそれらをとおして村人どうしの意思疎通がはかられ、ときにそれが村人の合意形成に役割をはたしていくからである。
もうひとつ、人から人に伝えられていく情報には次のような面もあった。人から人に伝達される以上、そこには脚色が伴われる、ということである。その過程で話が大きくなっていくことも、一部分が強調されることもある。だから聞き手は、話を聞きながらも、その話のなかにある事実らしい部分を自分で探りあてながら聞いていく。すなわち、聞き手が読み取るという行為が伴われてこそ情報だったのである。主観と客観の間で情報が伝えられる以上、それは当然のことであった。」
インターネット時代のコミュニケーションで失われているのがまさにこの
・何かの折に伝えられる情報が重要な共同体
・伝達過程で脚色が加えられ話が大きくなっていくコミュニケーション
ではないだろうかと考えた。
情報流通の効率化、最適化によって、情報を瞬時に正確に伝達できるようになったかわりに、キツネに化かされるような物語だとか、そういう話にリアリティを感じる心を失ってしまったということでもある。死者や動物や自然と対話する能力=キツネにだまされる能力の喪失である。
そのような社会変化の背景には、高度経済成長という「国民の歴史」があった。国民の歴史は宿命的に発展の歴史として描かれると著者は指摘する。「それは簡単な方法で達成される。現在の価値基準で過去を描けばよいのである。たとえば現在の社会には経済力、経済の発展という価値基準がある。この基準にしたがって過去を描けば、過去は経済力が低位な社会であり、停滞した社会としてとらえられる。」
それを経済力を科学技術、人権や市民社会という基準でおきかえてもおなじこと。私たちは遅れた社会から進んだ社会へと進歩発展してきたという物語を信じている。キツネや死者と対話する世界は取り残されて崩壊していった。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という問題に対する答えを探す旅は、いつのまにか進歩史観的な歴史認識に大きな疑問符をつきつけて終わる。この本のタイトルと構成に、ちょっと化かされた気がしないでもないのだが、現代人に見えていないものを可視化する内容でたいへん勉強になった。