Books-Science: 2010年12月アーカイブ
20世紀前半を代表する経済学者ケインズは財政政策と金融政策で不況を打破できると考えた。同じころ孤高の経済学者シュンペーターは新結合による新しい価値の創出行為=「イノベーション」こそ決め手になると主張した。
これはJST研究開発戦略センターが「科学的知識を用いて新技術・新着想を創造し、経済的価値を増大させ、社会的要請を満足させるプロセス」を科学技術イノベーションと定義し、科学技術イノベーションの3つのポイントを
1 (科学技術の)パラダイムシフトを起こすもの
2 社会システムに大きな変化をもたらすもの
3 経済的・社会的な価値(国富)を大きく増大させるもの
と整理したうえで、日本におけるその可能性を研究した本である。
シリコンバレーのようなイノベーション・エコシステムも検討課題のひとつである。米国を調べると、実は米国にはシリコンコースト、シリコンデザート、シリコンプレーン、シリコンヒルズなど、いくつも第2、第3のシリコンバレーを指向したエコシステムが存在しているという。しかしこれらの地域は本家に迫る勢いを持っていないのが現実のようだ。米国内でさえそうなのだから、日本が真似をしてもうまくはいかないわけである。
「しかし、生態系はその地域、風土、自然に深く根ざしており、その系全体を他の場所に移植すればそれはたちまち死滅し、枯れてしまうというように、米国のイノベーション・エコシステムをそのまま日本に移植しても役に立たないことは明白である。」
著者らはシリコンバレーの模倣ではなくて日本独自のイノベーション・エコシステムを模索するべきだという。ノキアとLINUXを産んだイノベーション国家フィンランドの分析もある。
そして国内の状況を俯瞰したうえで、期待できる地域として、
1 浜松
本田技研工業、ヤマハ、河合楽器、豊田自動織機製作所、オートバイのスズキなどの発祥の地
2 福岡
シリコンシーベルト(先端システムLSI開発拠点構想)として高評価
を挙げている。
そして科学技術イノベーションが期待できる分野としては、
1 IRT技術 情報技術+ロボット技術
2 太陽光利用技術
3 合成生物学
の3つを挙げている。それぞれの分野での日本の優位性や展望がまとめらている。
前半のイノベーション概念の整理部分はとてもよくまとめられているし、続く日本の現状の把握は情報としては有益だ。しかし、後半の各論は日本の科学技術イノベーションの取り組みの中から、現状において、いくらかうまくいっている部分を抽出してみましたという感じがある。成功例が小粒な気がする。
事前に正解がわからない世紀の問題であるから、本に確固とした結論を求めても無理である。具体的にこの道を行くということは、こうした分析資料を読んだ上で、傍観者ではない読者が自ら考えて、リスクを負って行動した結果、実現されるということなのだろう。
科学技術政策は誰が決定すべきなのか。
科学=真理を知る
技術=モノをつくる
という異なる要素を合わせたのが科学技術という言葉だ。「科学」の価値中立性は担保されるにしても、「技術」は経済的な利益構造と抱き合わせになる。また科学技術が解決すべき問題には「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題」が増えてきたという。社会技術としての科学技術という面が強くなってきたのだ。
そして社会の複雑化、多様化、グローバル化によって、科学技術の政策は、科学者だけで決定すべきものではなくなってきた。この本は、市民、科学者、問題の当事者らがコミュニケーションとって合意をつくる「公共ガバナンス」の必要性を説く。
科学者が一般人に教えるという「知識のある者から、ない者へ」式の、読者の無知を前提にした「欠如モデル」の科学コミュニケーションはもはや時代遅れになるという。科学者、政府、産業界、一般市民の、双方向的な対話や、政策決定への参加を重視する「公共的関与」というスタイルが求められている。
従来の狭い視野の専門家の限界を超える可能性も示されている。映画『ロレンツォのオイル』では副腎皮質ジストロフィーという難病の息子のために自力で治療法を発見した父親が登場するが、現実に「専門家顔負けの素人の専門性」も無視できないものだという例が挙げられている。切実な当事者ならではの深い経験や知識、洞察、ローカルナレッジを活かす方法も有効なのだ。
コミュニティ・ベイスド・リサーチという方法論。そこで必要なコミュニケーションのスタイル。
1 社会的地位を度外視するような社交様式
2 それまで問題なく通用していた領域を問題化すること
3 万人がその討論に参加しうること
現代の科学技術は「不確実性」と「社会の利害関係・価値観との絡み合い」という宿命を持つ。スーパーコンピューターの研究費の仕分けで「2番じゃだめなんですか?」といった議員に対して、ノーベル科学者が反論した事件があったが、異論を唱え反論を重ねること自体はとても意味のあることなのだ。