Books-Religion: 2012年11月アーカイブ
アダムとイヴの神話をめぐる文化、思想、文学、美術の解説、解釈を通して、中世から現代にいたるまで、私たちがどのような影響を受けてきたかを学べる本。人間の創造(最初の男と女の創造)、エデンの園(楽園の様子)、現在と追放(原罪を犯して追い立てられる二人)、エデンの東(追放後の運命)の4つの章からなる。美術作品の写真紹介もたっぷり。キリスト教と美術史がセットで学べる名著だと思う。
神はひとりぼっちのアダムを気の毒に思い、彼を眠らせて肋骨を一本抜いて、その助け手としての女性イヴを作った。「創世記」の記述はいかにも女性蔑視的に読み取れる。だが、プラトン主義者、ユダヤ教のラビ、グノーシス主義者などの間では両性具有としてのアダムというアクロバチックな解釈をしていたという。これなら平等に近くなるわけだが、アウグスチヌスはこれを異端だと否定する。
基本的に男の方が高級な存在であるという考え方は主流派として根強く続いていくが、歴史の中で女性の象徴イヴの扱いがたびたび揺れているのが面白い。現代のフェミニズム運動のはるか昔から、男女の平等や女性の有能さを評価する時期が幾度もあるのだ。
ルネサンス期の女流作家モデラータ・フォンテは『女性の価値』の中で「さらに、いっそう罪深いのはイヴではなくてアダムであることも強調されている。というのも「イヴが善悪の知識を得ようとして、禁断の果実を味わうにいたった」のにたいして、アダムは「そのような動機からではなくて、おいしいとイヴが言うのを耳にして、貪欲さと食い意地のせいで果実を口にした」からである。つまり理性的な判断と下したのはイヴのほうで、アダムは欲に目がくらんだだけだ、というのである。」と書いている。
そもそも禁断の果実を食べたことで、人類は永遠の命を失い、一生働かざるを得なくなるが、代わりに理性、知性を得ている。アダムとイヴの行為が罪なのかどうかは、実は微妙なところなのだ。
旧約聖書においてアダムとイヴの罪や罰は『創世記』以外ではほとんど取りざたされていないという指摘も面白い。原罪を強く言い出したのはキリスト死後にペトロが始めた教会なのだ。アダムの罪を背負ったキリストがその罪を贖うと説いた。「僧侶は罪を捏造することによって支配する」とニーチェが批判したように、宗教上の理由で巧妙に作られたものだったのかもしれない。
そして原罪を背負う裸のアダムとイブの姿はルネサンス期の芸術ではエロティシズムのモチーフとなる。芸術家が男と女の完璧な裸体を公に作品化する口実にもなっている。当時の感覚であまりにエロ過ぎて聖堂においてもらえなくなった作品も紹介されている。インスピレーションの源として最初のカップルは大人気である。
キリスト教の歴史と美術史の知識の整理ができる教養本だが、アダムとイヴに臍はあったか、イヴ以前にいた女性リリスは何者か、エデンの場所はどこか、など読者の興味をひく切り口もたくさん用意されていて、読み物としても楽しい。