Books-Religion: 2010年4月アーカイブ
ネタというレベルを超えて、結構本当に使えちゃう本かもしれない実践的内容...。
「みなさんは、人に尊敬されたい、人の上に立ちたい、人を率いたい、人を操りたい、そんなことを思ったことがありませんか?でも、自分には才能がない、学がない、資産がない、そんなのは一部のエリートだけの特権だ、等と理由を付けて夢を諦めていませんか?確かに、これらの夢を叶えることは非常に難しいことです。ですが、悲観することはありません。何も持たざるあなたにも、たった一つだけ夢を叶える方法が残されています。そう、それが教祖です!新興宗教の教祖になれば、あなたの夢は全て叶うのです!」
新興宗教の教祖になりたい人のためのマニュアルだ。
「インテリは組織運営の核として絶対に必要なものです。ですが、実際問題としては、組織の主たる層は一般人ですし、そして、一般人は哲学など毛ほどの興味もありません。」
既存宗教を焼きなおして教義を作り、幹部になるインテリをリクルートし、教えを簡略化して大衆に迎合し、教団組織を成長させていく。教えは反社会性を入れながら、同時に社会的弱者を救うものにせよ。現生利益をうたおう。葬式をやろう。信者には不安を与えて救済してやる。食物規制や断食も効果的。科学的体裁もとるといい。迫害されたらその事実を利用しよう。異端は追放しよう。教祖になるための教えとチェックリストが続く。
教祖の基本要件は「なにか言う人」と「それを信じる人」がいること。
「たとえば、いま、あなたの目の前に、奥さんの膝でガタガタ震えている男がいるとしましょう。彼は姉さん女房に泣きつき、自分を襲った怪奇現象を必死に訴えています。「本当なんだ。超自然的存在がオレの首を絞めたんだ」。彼女は夫を慰めて言います。「あなたの言うことを信じるわ」。そうです。この瞬間、夫は「教祖」になったのです。ちなみに、この男の名をムハンマドといいます。ご存じ、イスラム教の教祖ですね。」
いろいろな既存の宗教の発展形態を調べたうえで、現代において新たに宗教を興すにはこうするのが現実的であり、近道だよということがまとめられている。実際に興す人は稀だろうが、会社にせよ学校にせよ、地域コミュニティにせよ、成功している集団には少なからず宗教っぽさが感じられるものだ。特殊なリーダーシップ論として読むと、いろいろと勉強になる真面目な内容である。
「日本における殉教のあり方は、世界のどこにもない特殊なものである。ローマ時代、キリスト教徒が迫害された時代は別として、わずか二十数年という短期間に確実に四千人を超える大量の殉教者が出たことは稀である(松田穀一「日本切支丹と殉教」)。特に日本における殉教は、後述するようにいかなる勧誘にも拷問にも屈せず行われた点で、特筆すべきものだと思われる。」
江戸時代のキリスト教弾圧は有名だが、実際には内面の信仰を厳しく問うわけではなく、表向き信仰を捨てたふりをすれば容易に許される程度のものだったそうだ。しかしキリシタンたちは、迫害されて死ねば天国に行けると信じて、敢えて役人が管理するキリシタン名簿に載りたがり、捕まると進んで信仰を告白し、厳しい拷問にも屈せずに死んでいった。
著者はキリシタン弾圧の実態を史料を読み解くことで、当時の政治的社会的な背景や実際にとられた政策を明らかにしていく。また日本で殉教のイメージを広めたキリスト教徒作家の遠藤周作「沈黙」の、フィクション的な歴史認識の偏りを正していく。なぜ死を賭してまで当時の日本人信者は信仰に固執したのか。
ひとつにはキリシタンになった武士たちにとって、潔く死ぬ殉教の精神は、武士一般のメンタリティの延長線上にあったのではないかという。迫害の張本人である家康は、取り調べで信仰を捨てた家臣を褒めるのではなく「臆病で卑怯な者」と非難したこともあったそうだ。武士道と信仰は、何かのために死ぬことに価値を見出す点で似ている。だから信仰を捨てることは武士を捨てることと考えられていた節がある。
それから著者は、刑場で信者たちが殉教者の遺体を集めて持ち帰り、聖遺物として崇めたという事実に注目した。ヨーロッパの民衆も同じように聖遺物を信仰していたが、それまでの日本人の感性では遺体は穢れであって、信仰の対象になどならなかった。この事実は内面の奥深くまでキリスト教化が進んでいたことを現すと同時に、絶対者キリストではなく、その使徒や殉教者を崇める多神教化としてとらえることもできる。土俗信仰が氏神をまつっていたように、キリシタンたちは聖人や殉教者を自然に信仰対象にしたのだと考えられる。信仰が当初の大名・武士から、民衆へと広まるにつれて、西洋世界と同じように卑俗化が進んだことがわかる。
イエズス会から派遣された外国人宣教師たちがおかれた複雑な立場にはドラマも多かった。危険を冒して日本に入り、日本人信者と一緒に捕まって死んでいく。キリシタンの信仰生活において宣教師の影響は非常に大きい。
受け入れ素地としての武士的エートスの存在と、キリスト教教義の魅力、生命を賭けて伝道する打算のない宣教師たちの姿が、当時の日本人を深い信仰に導き、自発的な殉教を選ばせるまでに深化させたというのが本書の結論である。
過酷な拷問や凄惨な殺戮の様子が多く紹介されている。信仰を棄てるといえばすぐに許されるのに、敢えて死にに行く。人が「○○のために死ぬ」というとき、○○にはリアルなものより、「神」「正義」「愛」のようにバーチャルなものが入るものなのだなあ、としみじみ思った。バーチャルなものは人間にとって何より大切であると同時に、とても危険なものなのだ。
・切腹
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/10/o.html
同じ著者による。こちらも抜群に面白い。