Books-Religion: 2007年5月アーカイブ
本来の仏教は霊魂の存在をはっきり否定している。
「肉体はなくなっても、霊魂は残る。祭りを怠ると、その先祖が祟る。ーーーーーーーなどというのは、まったく仏教とは何の関わりもない話である。事実、長いあいだインドの仏教では、死者儀礼とは何の関わりももたなかった。」
「死者の祟りなどというのは、原始民族の宗教(?)心理である。わけても、日本人は死者の怨霊を恐怖した民族である。そうした鎮魂(御霊鎮め)には神主さんより坊さんの法力のほうが秀れている、ということで仏教が取り入れられた。これを「御霊信仰」という。」
霊魂がないのだから祟るわけがない。あの世もない。本来の仏教では死んだら終りなのである。生まれ変わりということもない。そもそも輪廻というのは解脱すべきものであって、転生は永劫の生き死にを繰り返す苦しいイメージなのだ。
これは仏教=無神論・無霊魂論」の主張を軸に、仏教学者の著者が「正しい仏教」を説く本である。
私たち日本人は誤解された仏教をなんとなく信じている。人間は死んだら霊になってあの世ので暮らし、ときには輪廻転生で新しく生まれ変わったりもする、というのが平均的日本人の死後の世界のイメージではないだろうか。それが全部嘘だというと落ち着かない感じがする。
遠くインドからの伝播の過程で土着の思想と習合して、日本の仏教は本来の姿から大きく形を変えて大衆に普及した。その過程を著者は丁寧にひも解いて、誤解を解こうと試みる。輪廻のとらえ方、仏教と「梵我一如」的ヒンドゥイズムの峻別、念仏の方便と真実、日本的霊性と大乗教の提唱など、かなり仏教の専門的研究の記述が多いが、私たちが持っている通俗的な仏教感を根底から覆す内容である。
仏教は無神論であり哲学のひとつであり、他宗教との対話を通して世界的な思想となりえるという壮大なコンセプトを著者はこの本で語っている。
構造主義的アプローチで日本神話群を分析する研究書。日本神話はそれぞれ縄文、弥生、古墳時代に流入したとみられる3層にわけられるという。
第一層はオホゲツヒメ、ウケモチ、ワクムスヒなどが主人公として語られる食物の起源を語る神話だ。殺された神の遺体から穀物などが豊穣に生まれてくるようになったという内容で、ハイヌウェレ型神話と呼ばれる。インドネシア、メラネシア、南北アメリカにかけて近似した神話が分布する。
第二層は水田耕作に伴う神話群で、イザナギ・イザナミ、ヲロチ退治、海幸山幸の神話などが含まれる。イザナギ、イザナミは兄妹が結婚して国産みをする。最初の子は海に流してしまう。木のまわりをまわって結婚の誓いを立てるなど細部まで似た神話が、中国にもあるそうだ。
第三層はイザナギの黄泉の国訪問やオホクニヌシの成長物語などだが、ギリシア神話との類似性が顕著なものがいくつもある。朝鮮半島を通って、西の文化の流れをくむスキタイ神話(ヘロドトスが後世に伝えた)経由でもたらされた影響らしい。
世界に類似した神話が存在するのは、インド・ヨーロッパ語族の移動の歴史と関係が深いらしい。著者はこの語族の神話を研究した著名な学者デュメジルの、三機能体系という理論を日本神話の起源に適用して説明する。
三機能とは
第一機能 宗教
第二機能 戦闘
第三機能 食糧生産
の3つである。
「他所ですでにくり返して詳論してきたように、日本神話は明らかに、アマテラスとスサノヲとオホクニヌシを三大主神格とし、これら三神のあいだに三つ巴とも言える葛藤を軸にして、主な部分が組み立てられている。そしてその中のアマテラスが祭政の第一機能を、スサノヲが暴力と武力の第二機能を、オホクニヌシが豊穣、愛欲、医療などの第三機能をそれぞれ明らかに代表することによって、神話の全体が、フランスの比較神話学者デュメジルのインド・ヨーロッパ語族の神話に共通するものであったことが明らかにされている、「三機能体系」にまさに則って構成されている。」
日本神話で最も奇妙に感じる「国譲り」を著者はこの三機能体系で説明がつくと述べている。国作りをしたオオオクニヌシ一派が、後から降臨した天皇家の祖先に支配権を譲り渡す話である。
「つまり、この神話には、第一機能と第二機能をそれぞれ担当する祭司と戦士が、神聖な王家とともに支配層を構成して、国土に土着して生産のための労働に従事するはずの庶民たちの第三機能を統監するという、デュメジルの言う三区分イデオロギーに特徴的な理念が、きわめてはっきり表明されていると思われるのだ。」
三機能を統合することにより、支配者層が安定した権力基盤を獲得するというパターンは、若干の変化はあるものの、スキタイ、高句麗にも同様の構造がある。さらに遠くギリシア世界との類似性もあるという指摘が「ロムルス・ヘラクレス・インドラとヤマトタケル」という章で語られている。
神話素のような物語の構成要素のDNA解析を試みる手法で、複雑な日本神話のなりたちが、世界の神話に対置され、きれいに整理されていく面白い一冊。
日本古代文学入門
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004835.html
・ユングでわかる日本神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004178.html
・日本の聖地―日本宗教とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004661.html
・劇画古事記-神々の物語
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004800.html
・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html
・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html
・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html
・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html
・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html
・神道の逆襲
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003844.html
・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html
・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html
少し値が張る本だが、長大な民族学の古典「金枝篇」を見事に要約し、原典にはなかった写真やイラストで本文の理解を深める工夫が素晴らしい。装丁もよく、本として完成度が極めて高い内容。フレーザーを読むならこれがおすすめ。
「
ローマの近くにネミという村があった。その村には、古代ローマの時代より、森と動物の女神、豊穣の神ディアナと、ディアナの夫ウィルビウスを祭った神殿があった。この神殿では、男は誰でもその祭司になり、「森の王」の称号を得られるというしきたりがあった。ただし、祭司になるには、男はまず神殿の森の聖なる樹から1本の枝 -「金枝」-を手折り、それで時の祭司を殺さなければならなかった。こうしてこの神殿の祭司職が継承されてきたのである。祭司になるのに、なぜ時の祭司を殺さなければならないのか? なぜまず聖なる樹の枝を手折らなければならないのか?この二つの質問にたいする答えを求めるのが本書『金枝篇』の目的である。
」
呪術には、「似たものは似たものを生み出す、結果はその原因に似る」という類似の法則と、「かつて互いに接触していたものは、その後、物理的な接触がなくなっても距離をおきながらひきつづき互いに作用しあう」という感染の法則の二つの原理がある。類似の法則からは類感呪術が、感染の法則からは感染呪術が発生する。
類感呪術とはたとえば敵に似せた像を傷つけることで、その敵本人を呪い殺すような術である。感染呪術とは相手の身に着けていたものや髪などを使って本人に影響を与えようとする術のことである。
冒頭に引用したネミの祭司殺しや金枝とはいったいなんなのか。世界中の神話を比較分析することで、共通項をみつけ、荒唐無稽に思える神話に隠された人類にとって普遍的な意味を見出そうとする。
フレーザーは世界中の民族の呪術やまじないの膨大な数の事例を収集した。フィールドワーカーではなく書斎にいながら文献で情報を集めるタイプであったそうだ。フレーザーの仕事は”未開人”を見下しているような態度の記述もあったり、根拠のないデータが混ざっていたりして、後世の評価は肯定的なものばかりではないようだが、出版当時、大きな話題になり、民族学の基礎を築いたのがフレーザーであり、金枝篇であったことは間違いない。
「
結局のところ、科学という総合概念、つまり、ふつうの言葉でいえば、自然の法則だが、それは、人間のものの考え方が生み出したくるくる変わる幻影を説明するためにひねり出された仮説にすぎないことを忘れてはならない。われわれはその幻影を世界とか宇宙といった大仰な呼び方で権威づけているだけなのだ。とどのつまり、呪術も宗教も科学も人間のものの考え方がつくり出した理論にほかならないのである。科学が呪術や宗教に取って代わったように、科学もまた、いつの日か、もっと完璧な仮説によって取って代わられるかもしれない。
」
もはや古典だが、いま改めて読んでも面白い一冊である。