Books-Religion: 2006年4月アーカイブ

・聖と俗―宗教的なるものの本質について
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宗教学者ミルチャ・エリアーデの古典的名著。宗教的とはどういうことかを、さまざまな宗教の比較研究を通して一般化したエッセンスで語る。

宗教は今日においても支配的だ。世界の宗教人口は以下のような構成になっていて、何らかの宗教を信じている人口のほうが、そうでない人口を上回る。現代は科学の時代であると同時に宗教の時代でもある。9.11テロ事件は科学の粋であるジャンボジェット機を、原理主義者が破壊に利用したのでもあった。国際理解と同時に宗教者と非宗教者の理解もグローバルなテーマだと思う。

・世界の宗教人口ランキング
http://www.hyou.net/sa/jinkou.htm
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宗教的人間の生きる空間と時間、存在の意味についての記述が興味深い。まず空間について「宗教的人間というものは出来るだけ世界の中心に近く住むことを願ったと結論せねばなるまい」とエリアーデは書いている。神を信じて生きる人たちは、神という世界の中心に近い場所にいる。中心が聖なる場所である。

そして、時間には聖なる時間、祭りの時と、宗教的意味を持たない俗なる時がある。日本ならばハレとケが近い概念区分だろう。祭りや宗教儀式は神話時代の神々や祖先の行為の再現する時間である。


これら二種類の時間のあいだにはただちに目を惹く本質的相違がある。聖なる時間は本質的に逆転可能である。それは本来、再現された神話の原時間である。宗教的な祭、祭典の時はすべて神話の過去、<太初の>時の聖なる出来事の再現を意味する。祭に宗教的に参加することは、<通常の>時間持続から脱出して、この祭に再現する神話の時間へ帰入することである。聖なる時間はそれゆえ、幾度でも限りなく繰り返すことが可能である。それは或る意味で<過ぎ去る>ことがない、また決して不可避の<持続>を示さない、存在論的に<パルメニデス的な>時間である。

聖なる時空は、万物から意味が立ち上がってくる世界である。宗教は、あらゆるものの始まりや、存在意義を人間に教えている。「古代社会の宗教的人間にとって、世界はそれが神々によって創られたが故に現存する。すなわち、世界の現存がすでに<何かを語ろうとしている>のである。世界は物言わぬものではなく、暗い不透明なものではない。宗教的人間にとって、宇宙は<生き>て<話す>何物かである。世界が生きているということは、すでにその神聖性の一つの証拠である。なぜならそれは神々によって創られ、神々は人間に対して宇宙的生命のなかにその身を示すからである」。

そして、エリアーデは、非宗教者を、宗教的な力である非聖化の産物だと語っている。信じていないことは信じることの裏返しであって、宗教の力から逃れることはできたわけではない、ということになる。


しかしこの非宗教的な人間は宗教的人間(homo religious)から発生しているのであり、彼の祖先が生きていた状況から発展したのである。それゆえ彼は本来非聖化過程の所産である。<自然>が神的コスモスの俗化が進行した結果を現わすように、俗なる人間は人間存在非聖化の産物である。これはしかし、非宗教的人間があらゆる宗教性、あらゆる超人間的意味を<脱却する>よう努めることにより、その先人への対立から形成されたことを意味する。彼は彼の祖先の<迷信>から<解放>され、<浄め>られただけ彼自身になる。換言すれば、俗なる人間は欲すると否とにかかわらず、常になお宗教的人間の態度の痕跡を留めている。ただこれらの痕跡はその宗教的意味を奪われているだけである。彼が何をなそうと継承者である。

俗とは非聖化によるものであり、宗教から解放されても聖化とその裏返しの非聖化というはたらきからは、逃れられないということになる。聖と俗を連続的なパースペクティブにおさめて、そこにある本質を丁寧に語る本であった。

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