Books-Religion: 2005年10月アーカイブ
■日本のカミの由来
国語学の重鎮が書いた日本の神様論。
まず日本の神という言葉の由来を考える。
・カミはカガミ(鏡)の意である
・カミはカシコミ(畏)の略である
・カミのミはヒの転化で太陽のことである
・カミはカミ(上)の意である
などの諸説を語源学的には成り立たないとして退ける。
日本語の「mi」の発音は奈良時代には2種類あって、カミのミと上記のミは別物のmiであったという。
そこで語源ではなく日本の神の特徴を見る。
・カミは唯一の存在ではなく多数存在した。
・カミは具体的な姿・形を持たなかった。
・カミは漂動し、彷徨し、時に来臨し、カミガカリした。
・カミはそれぞれの場所や物・事柄を領有し、支配する主体であった。
・カミは超人的な威力を持つ恐ろしい存在である
・カミは人格化されることがある
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの唯一神とはまったく異なる性格を持つ。
■神の祭祀と政治
「政」とかいてマツリゴトと読むように古代の祭祀は政治と密接に結びついていた。
1 年ごとの五穀豊穣・息災の祈願
2 新穀に対する感謝の祭祀
3 個々の災害が生じないようにとの祈願
4 天皇即位の際の祓除と祈願
5 国民の罪悪の祓除と祈願
「
1から4にいたる神への祈願や5の罪の祓除について見ると、これは、今日の日本人の実際の政治の運用の仕方に対する基本的な考え方・対処の仕方の原型である。すなわちこれは金品を権力者に贈与することによって、下賜される便益を享受しようとする行動の原型であり、ハラヘの考え方は、今日広く行われているオハライの根源であって、罪過・公害・公金私用などは隠蔽し、先送りしていけば、いずれ消失するにちがいないとする考え方の原型をここに見ることができる。
ここにはまた、神と人間との間で約束をとりかわし、その約束を守るという契約の観念はない。個々の人間が自分の約束・責任を果たすことによって仕合わせを得るという自己規律の観念もない。その裏には、人間は自然の成り行きとして生まれて来て、日本の自然の中でよしとされる明るい・清水のような心を持てば、食糧が得られ、繁殖行為を営んで死んでいく。それをくりかえすところに世界があるとする考え方がある。
」
日本の神は成り行きまかせなのである。
神々の起源神話をみても、
1 はじめ天地は混沌としていた
2 その中に大地が現れた
3 その泥の中に
4 葦の芽(生命)が生えてきた
こんな調子で人類の祖先であるイザナギ・イザナミの神々までが自然に生まれ出ている。「光あれ」のように、神々は、偉大な何かが命令して作った(アラセル)わけではなく、「成る神」なのであり、所成神と分類されている。
モンスーン地域は気候が、穏やかで自然に対して、受動的に生きることができ、厳しい環境である砂漠から生まれた宗教とは性質が異なるのだと著者は述べている。
■インドのタミル語との共通点
だが、仏教の伝来によって日本の宗教は大きく変化する。そもそも古来の神は岩や山それ自体がご神体であったらしい。建築としての神社は意外にも歴史が浅く、仏教の寺院をみならって建てられた可能性が高いという。
本地垂迹、廃仏毀釈など日本の神々は時代の移り変わりに翻弄されてきた。あるときは仏教の神々と同じだとして習合されたり、あるときは別物だとして分離されたりの複雑な経緯がある。そうした事情を丁寧にこの本は紐解いて、日本のカミの原型を追究していく。
そして言語学の分野で突き当たるのがインドのタミル語と日本語の多数の共通点。神、祭る、祓う、祈む、米、粟、餅、苗、畑、田んぼ、畦、モノ、コト、アハレ、などの古語の500語以上がタミル語にも同様の概念を持つ同音語がみつかったという。これを根拠に著者は、日本の神々はインドのタミル語族の神に源流を持つはずだと主張する。
日本語=タミル語語言説が真実かどうかはよくわからないが、カミの語源や概念の源流をたどる研究は、大変興味深い。薄めの本だが丁寧な論説と明確な主張があって勉強になる一冊。