Books-Religion: 2005年9月アーカイブ
明確な教義がない曖昧な宗教と言われてきた神道。著者は仏教やキリスト教のような宗教らしい宗教の枠組みではとらえられない奥深さが神道にはあるのだと逆襲する一冊。
■神さまはお客さま
「
子どもの頃、外で遊び回って帰ってきて勢いよく玄関から飛び込み、大声で「ただいま」と叫んだ瞬間、何か様子がおかしくて一瞬戸惑った。そういう記憶をお持ちの方は多いだろう。そういう時、たいていは母親がそっと障子の向こうから顔を出し、「今、お客さんが来ているの」とささやく。その一言で子ども心は、奥深い何かを即座に了解したのではないだろうか。子どもが感知した、家の中に漂う言うにいわれぬこの雰囲気にこそ、神さまの経験の根っこがある。
」
お客様の滞在中の家に帰る体験のように、神道における神との出会いは現実の景色が反転するような体験であるという。瞬きをせぬ人間はいないが、その目をつぶっている瞬間に異世界が存在しているようなものらしい。
人々の平和で豊かな生活は、世界の裏側から来訪するお客様としての神様をもてなすことで実現されるというのが、神道の根本思想であるとする。外から来る客を選ぶことはできないので、それは福をもたらす神とは限らない。禍々しい災厄をもたらす神かもしれない。私たちにできるのは、よくもてなすことだけであり、それが祭祀であるとされる。
■馬鹿正直が愛される
柳田国男は有名な5大昔話(桃太郎、猿蟹合戦、花咲じじい、舌切り雀、かちかち山)に神と民の関係をとらえて「正直」が神に愛されると分析している。これらの話は近代になって子供向けに、善人や正義の美徳が勝つ話に単純化されているが、元の話は少し様相が違っている。
「
普通の人ならば格別重きをおかぬこと、どうだってもよかりそうに思われることを、ほとんど馬鹿正直に守っていた翁だけが恵まれ、それに銘銘の私心をさしはさんだ者はみな疎外させられたことになっていた
」
これは誠実とも異なる。子供の目は正直であるという意味に近いという。神のなすことは完璧なので「見えない神の不可解な要求をそのままに受け取ること、神を神としてあるがままに受け止めることが、五部書の説く正直の根本なのである」。この正直は無分別に近い神との純粋なやりとりである。反転していない世界側の人間からすれば、こうした正直は日常風景の中で異質な印象を受けるが、この正直さが祭祀の忠実な執行につながる。
この本は、古代の民間信仰から、伊勢神道、吉田神道、垂加神道、朱子学、復古神道、本居宣長、平田篤胤、柳田、折口の民俗学、近代の神道まで、神道の歴史の流れを丁寧に解説している。そこには日本人の精神性の源流を強く感じる。
とらえにくかった神道の教義や思想を俯瞰できる良い本だった。
・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html
・仏教が好き!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001708.html
・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html
・脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000134.html
・禅的生活
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002275.html
・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html
・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html
・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html
10年以上、長く何度も読んでいる本として古事記と日本書紀がある。数年前に出版された口語訳古事記は、特に読みやすく、解釈も大胆でわかりやすいので、いまだにだらだらと何度目かを読んでいる。その解説書が「古事記講義」である。
記紀の面白さはエロチックでプリミティブでミステリアスな物語であることだ。ミもフタもないようなエロ話や、残酷な殺人物語、感情的で短絡的な神々が、この国の土台をどう作ったかを説明する長い物語である。国の成り立ちを語るはずなのに、これではちっとも権威づけになっていないし、矛盾も多い。古事記は特にそうだ。
なぜ口語訳が面白いのだろうか。それは著者が言うように、古事記が長く口頭で語り継がれた話だったからである気がする。民衆の前でリーダーが面白く飽きずに聞かせるために、性や死の要素、笑いの要素が散りばめられているのだろうと思う。
「
文字を絶対化し、書くことから歴史は始まるのだというような論理は、ヤマト中心史観であり、国家史観でしかないと思うのです。六世紀あるいは七世紀の日本列島を文字が覆い尽くしていたとはとても考えられないことです。
」
また、いつの時代もヒーローとして語りづがれるのは悲劇の英雄たちだ。本流の中の本流では応援のしがいがない。古事記の代表的英雄であるスサノオ、オオナムヂ、ヤマトタケルは皆、荒ぶる強烈なエネルギーと大きな才能を持っていながら、それゆえに上から疎まれる。
日本書紀との対比も読み比べると興味深い。正史である日本書紀は、総じて格調高く書かれているし、天皇家に連なる直系を美化して描いている傾向がありありと見える。
「
大雑把な計算になりますが、古事記上巻の神話部分の四分の一に相当するおよそ二十五パーセントを占める出雲神話が、日本書紀正伝にはまったく存在しないのです。
」
「
古事記は、歴史書編纂の試行錯誤の途中に生まれ、主流からは外れてしまった歴史書の一つだったのではないかとわたしは考えています。
」
日本書紀にも残ってしまったのは、あまりに人気がありすぎて、カットすると民衆の支持が得られなかったような事情もあったのではないか。
そして、ミステリアス。記紀の物語は、世界の神話と同じ原型を共有していると言う分析は大変面白い。
・バナナタイプ
高天原を降りた天孫ニニギが、山の神の娘、コノハナサクヤヒメ(桜の花、富士山の女神)を嫁にもらうが、一緒にきたブスのイハナガヒメ(岩、永遠の命)を拒絶したため、神が怒って人間の寿命を有限にした。インドネシアからニューギニアにかけて、バナナと石、バナナと蟹を選ぶ物語として、同型の神話が伝わっている。
・ハイヌヴェレ神話素
スサノオが食べ物の神オホゲツヒメが口や尻から出した食べ物を汚いと怒って殺してしまう。もしくはツクヨミがウケモチの神を殺してしまう。その結果、死体から五穀が生まれる。その代わり、人間は働いて穀物を育てないと食べることができなくなったという物語。これも、同型がインドネシアなどに広く見られる。
・ペルセウス=アンドロメダ型
ヤマタノオロチに人身御供にされそうなクシナダヒメを救うスサノオ。多頭の竜や蛇から王の娘を救って娶る物語は、東アジアからヨーロッパまでユーラシア大陸に広く分布している。
アフリカを出発した古い人類が、沿岸部を通ってインドを経由し、東アジアに至る長い旅の間に、何か原型となる出来事が本当にあったのかもしれない。あるいは、こうした物語は人類共通の原初イメージに深く焼き付けられた共同幻想なのかもしれない。こうしたことに思いをめぐらすと、興味が尽きない。火焔土器や遮光器土偶の縄文時代の造形にまで遡って想像は膨らむ。
「神話とは、いまここに生きてあることの根拠を語るものだ。」
科学が人類の起源を解明する日はいつかやってくるだろう。人類が共通の祖先を持つというミトコンドリア・イブ理論は科学の解明した一端である。だが、それとは別系統の神話による起源譚は、人間の想像力が生み、それが本当だと何千年、もしかすると何万年も信じられ続けてきたものである。
フランス語では歴史と物語は同じイストワールという言葉で表現される。歴史=物語という観点では、科学の一元的な説明よりも、重層的な物語である神話の方がずっと完成度が高いことになる。淡々と事実を追った正史であったならば、ここまで語り継がれてはこなかっただろう。
こんなDVDも見た。記紀マニア必見の超大作。どちらかというと格好をつけていて日本書紀寄りの解釈なのは残念だが、見ごたえあり。
・日本誕生
「
『十戒』や『ピラミッド』など聖書や古代史を題材にしたハリウッドのスペクタクル史劇大作に負けまいと、東宝が製作1000本を企画した。監督には、『無法松の一生』や『宮本武蔵』など骨太な作品の巨匠・稲垣浩を起用。出演は、三船敏郎、鶴田浩二、原節子、司葉子、香川京子、草笛光子など、まさにオールスターキャストというのにふさわしい超大作だ。
日本神話の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)にまつわる逸話を中心に、イザナギとイザナの国造り、天照大神の岩戸隠れ、須佐之男命の八俣の大蛇退治などのエピソードを織りまぜながら描いている。ストーリーはおなじみの話の羅列だが、円谷英二による大迫力の特撮のすばらしさは圧倒的だ。なかでも、キングギドラの原形ともいうべき八俣の大蛇の造型の迫力は、最高の見どころであろう。(堤 昌司)
」