Books-Religion: 2004年10月アーカイブ

禅的生活
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禅僧が書いた悟りの解説本。

禅的な言葉が各章のサブタイトルになっている。無可無不可、一切唯心造、六不収、廓然無聖、応無所住而生其心、柳緑花紅真面目、一物不将来、日々是好日、随所作主立処皆真、平常是道、知足、安心立命、不風流処也風流。他にも何百語もこうした言葉が出てくる。

これらの言葉は仏教の長年の智恵が濃縮されている深遠な言葉だ。哲学的洞察としてだけでなく、自然科学や社会科学との接点もみつかる知恵も孕んでいる。長い歴史の中で、最も精神的に、知的に鍛えられた人たちが生み出した言葉は、短くても、とてつもない深さを持っている。

例えば「六不収」の六というのは人間の感覚のことで五感+第六感「色、声、香、味、触、法」である。それぞれを捉える感覚器官は「眼、耳、鼻、舌、身、意」。仏教ではこの順序で社会性が強いとされているそうだ。眼で見えるなら一目瞭然で皆が理解するけれども、匂いや味くらいになると共有が難しくなってくる。こうして捉えた情報は、識となる。すなわち「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識」の六識。

これらの六つの感覚に収まりきらないというのが六不収の意味であり、六不収と出会うことが悟りへ一歩であるらしい。六識の奥には自我に執着したマナ識があり、さらに先にはアーラヤ識があると言う。著者によるとマナ識はフロイトの「潜在意識」、アーラヤ識はユングの集合無意識に相当すると言う。世界の西と東で別のアプローチをとりながら、同じようなコンセプトに集約しているのは興味深い。

逆に考えれば西洋が近代になって発見したものが、東洋では、その何百年以上も前から思想家にとって常識だったのだとも言える。近代自然科学は世界を外側から客観視することを教えているが、人間は結局はどう頑張っても内側から世界や自己をみつめることしかできない。禅の思想とは、内側から徹底的、究極的に考えた末に行き着く境地のことのようだ。

理屈っぽい禅の思想だが、理屈を否定するのが本質でもある。座禅による瞑想。これは世界をうすらぼんやり見ることの練習であると著者は言う。眼を閉じて意識を身体の各部位に分散させると、私たちは怒ったり泣いたり、激しい感情を抱くことができなくなる。

見るともなしに見る。うすらぼんやりと世界を見ることは、現象学派のいう「判断停止」、ギリシア哲学の「エポケー」と似ている。これが廓然無聖という状態である。感情も価値判断も停止して世界と静かに向き合うことから、六不収の法身に至る道が開けるという第一関門なわけだ。廓然無聖は言葉で表せないから「言語道断」とも言う。言語道断は「論外だ」ではなくて、本来はそういう意味だったのだ。

禅と言えば問答が連想される。有名な公案には「趙州の無字」というのが紹介されていた。「犬にも仏性はあるか?」という質問であり、趙州和尚はこれに「無」とだけ答えた。だが「有」か「無」か、どちらが正しいという話ではないようだ。数年間もこの公案を考えさせる禅寺もあるそうだが、「有」と答えて通過が許されることもあるという。禅は理屈っぽいように見えて、本当は論理が問題なのではなく、答えるものの境地の成熟度が問題ということだろうか。

悟りとは何か。著者はまだ悟りに至っていないと断った上で、読者と共に悟った人間には世界がどう見えるか、を説明してくれる。要約は大変難しいのだが、一言で言えばありのままの世界が生き生きと感じられて歓喜に包まれる気持ちになり、それが持続する状況であるようだ。

東西の宗教の法悦体験は同じかというと違うとも書かれている。キリスト教の法悦は神との究極的な合一感のことだが、禅は、それではまだ知覚できる「一」があるじゃないかと異議を唱える。禅が理想とするのはその一者さえも消し去った、絶対的一者という悟りの段階である。私は悟って無一物になったと自覚しているようでは悟っていないのだという。そこにはまだ無一物という知覚が残ってしまっているからだ。

正直、悟りについて完全には理解できない。いや、言語道断なのだから、文章では表せないものなのだろう。だから、禅問答のように平常の論理を突き破る対話や、身体をもフル動員した座禅と瞑想があり、それらを使って言葉ではたどりつけない究極的な脳の状態
=悟りを開こうとしているように理解した。

誰でも、我を忘れるくらい夢中になるか、究極的に追い込まれるような体験をした後で、突然、視野が広がることってあると思う。私も5年に一回くらいそうした体験をする。そうした小さな悟りの幾重も向こう側にあるものが、大きな悟りなのではないかと想像していたのだが、少し違ったのかもしれない。それはまだ小さな悟りに過ぎず、大きな悟りは別次元にあるようだ。

仏教は哲学であり、禅は身体と脳の一体となる思考行為なのだと思った。だとすれば「禅の悟り」を、特定宗教の妄想だとか、変性意識の一種と片付けてしまうのは勿体ない気もしてくる。実際、禅やヨーガ、東洋の精神世界に関心を持ち、体験する高名な学者や研究者もいる。彼らの天才的なひらめきは、こうした悟りのような精神状態と関係がある可能性もあるような気がする。

西洋科学で東洋の神秘を暴くのではなくて、東洋の神秘で西洋科学をあっと言わせる逆転の言語道断を期待したい。

ところで、この本に当たり前のように出てきた色即是空、空即是色。ちょっと辞書を引いてみた。

色即是空:
この世にあるすべてのもの(色)は、因と縁によって存在しているだけで、固有
の本質をもっていない(空)

空即是色:
宇宙の万物の真の姿は空であって、実体ではない。しかし、空とは、一方的にすべ
てを否定する虚無ではなく、知覚しているこの世の現象の姿こそが空である

たった8文字の漢字に含まれる実在論。禅、仏教は深い。

関連?:

・電子写経
http://www.honganji.net/syakyou/

これってキーボードで問題ないのでしょうか?いいのでしょうか?新しい写経。

パソコン写仏
http://www.ne.jp/asahi/bellbell/tobioda/

無敵会議の受賞に写仏がありましたが...。デジタルで本当にやっている方がいてすごい。

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