Books-Religion: 2004年8月アーカイブ
科学者の立場から、霊の存在について議論する本。著者は、立命館大学教授。
・安齋研究室TOP
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~iat02143/
上記オフィシャルサイトで経歴を確認すると、
東京大学医学部放射線健康管理学教室助手、中央大学商学部兼任講師、東京医科大学病院管理学教室客員助教授などを経て、1986年、立命館大学経済学部教授、1988年より立命館大学国際関係学部教授、現在に至る。担当科目は、平和学、自然科学概論、3・4回生ゼミ、地球環境問題特講(大学院)、大学院ゼミ(平和学)など。役職は、立命館評議員、大学協議会委員、国際平和センター長、国際平和ミュージアム館長。
現在、Japan Skeptics会長、日本平和学会理事、日本学術会議平和問題研究連絡委員会委員。世界大会平和博物館ネットワーク国際調整委員。原爆忌全国俳句大会実行委員長。原水爆禁止世界大会起草委員長。
といたって真面目な研究者なのだが、個人で、疑似科学批判団体JAPAN SKEPTICSを主宰し、科学合理主義の啓蒙をしていることでも有名な人物。
仏教各宗派に「霊はあるか」のアンケートを行った結果は興味深い。結果は割れた。大半の宗派は霊の存在を完全否定し、祟りや霊障もないとしている。霊がないから本当は墓参り、お盆など必要ないのである。だが、布教の方便として霊を認める団体がかなりある。難解な仏教哲学は一般人に説いてもわかりにくいから、霊を方便として教義を説明することはかまわないというスタンスである。
「○○はある」と存在を証明するには一例を証明すればよいが、「○○はない」を証明するには、多数の例を否定しなければならない、として、霊の肯定派、否定派の立場によって、立論のコストの違いを指摘しているのは面白い。
第3章と第5章で著者の霊はあるかへの答えが書かれている。ネタバレになるので引用しないが、基本的には、科学合理主義者の答えである。この本では、多数の超常現象や霊体験を、科学的に解明し、嘘や作為を見破っていく。
面白かったのは科学的な輪廻転生の話。人間の身体は主に炭素が構成していて、その数はアヴォガドロ数(原子量と同じグラム数の原子に含まれる原子の個数)に従う。アヴォガドロ数は6の1千億の1兆倍なので、それ掛ける体重のグラム数程度の炭素で人間は構成されている。人が死んで火葬されると、炭素は大気にいきわたる。地球の大気に満遍なく広がった場合には、どの場所で採取しても、1リットルの大気の中に1万数千個のその人の炭素が含まれることになるという。つまり、人間を構成している物質レベルで生まれ変わり、輪廻転生ということは起きているというのである。
そうか、人は死ぬとユビキタスマンになるということか。著者いわく、そういうレベルでは輪廻転生的な考え方も必ずしも間違っていないとする。
私は霊は、あるともないとも言えるのではないかと思っている。あるの意味=存在の解釈が立場によって異なる気がする。
たまたま科学合理主義が多数を占める社会に生まれたから、私たちは霊が見えないのではないか。構成員が霊の存在を信じている社会では、霊は姿を現し、暮らしに影響を与えるものなのだと思っている。自然科学は常に事象を外側から眺める。客観視する。だが、人間は常に事象の内側で生きている。自然科学的には存在しなくても、社会的には存在するモノはありえる。存在は自然科学の専売特許ではないと思うのだ。
ところで私、超常現象大好きである。この5年間くらい毎月雑誌の「ムー」は欠かさず購読している。
・学研 雑誌ムー
http://www.gakken.co.jp/mu/books.html
25周年。
・Mangaムー
http://www.gakken.co.jp/mu/books/mangamu/manmu.html
もちろん、ムーの話を真に受けるわけはなくて、突拍子もない話にどう真実味を持たせるかの文章技法を学ぶため、であり、空想力(妄想力)の限界を楽しむため、に読んでいる。
「あなたの宗教は?」という質問に対して、日本人の7割は無宗教と答えるそうである。だが、そのうちの75%は宗教心が大切だと考えてもいるという。
著者はまず宗教には、自然宗教と創唱宗教の2種類があるとする。創唱宗教とは特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教。キリスト教やイスラム教、仏教などを指す。これに対して自然宗教とは、いつ、だれによって始めれたかも分からない自然発生的な宗教のこと。
だが、無宗教のはずが、葬式仏教は一般的だし、正月には何千万人が初詣で神社を参詣する。神社に入る前にはきちんと手水で口と手をゆすぐ。天皇の交代では国会議員が儀式に参列する。人が亡くなれば四十九日や一周忌、三周忌などの法要も忘れない。これだけ生活や死生観に、宗教の影響を持ちながら、無宗教というのは不思議といえる。
欧米人の「無宗教」は「無神論者」に近いのに対して、日本人の場合には無宗教ではなく、日常化した自然宗教の信者と言えるのではないかと著者は結論している。
歴史的には、古くからの土着のカミへの信仰があった。そうした信仰の多くでは、死者は放っておけばカミになるのであった。そこへ仏教や儒教、神道の影響が加わって次第に変質していった。死者を弔う儀式や専門家が登場した。だが、中世のムラ社会は徹底して平等が重視され、善でも悪でも極端なものは排除する平凡至上主義が支配的だった。そうした中では、突き詰めて物事を考える創唱宗教の思想はなじまなかった。日常と相容れない宗教は力を弱めていった。
明治の天皇崇拝システムの構築は、宗教をさらに弱体化させた。天皇崇拝として作り直された新しい神道は、表向きは絶対だった。だが、既存の仏教、儒教、キリスト教などの勢力も完全に無視はできなかったので、内面的には何を信じて祈願しても良いが、表面的には神道の祭祀を守れということになった。本来の宗教では、祭祀と祈願は一体であったはずが、分離されて宗教はさらに痩せていった。
そして古い信仰と外来の信仰とが無難に結婚して、とても曖昧で日常的な「無宗教」という名の自然宗教が広まっていった。そうした歴史的経緯はかなり複雑なものだが、丁寧にこの本は解説してくれる。
私はかなり平均的な「無宗教」だと思う。
特定の宗教や神は明らかに信じていない。では完全な無神論者で科学合理主義者かというと、理屈ではそう思っている反面、神社仏閣にお参りの際にはしっかり心の中で期待して願い事をつぶやいていたりする。先祖のお墓でも、死者に何か話しかけてみたり、見守りを期待していたりする。十字架に手を合わせると良いことがありそうな気がする。
社会から排除されるのが怖くてそうした儀礼につきあっているだけなら、内面で願い事をする必要などないはずである。誰も見ていないのであれば位牌も仏壇もお墓も蹴飛ばしたって構わないはずなのだけれど、そうする気は起きない。罪悪感を感じるし、何か良くないことが起きる気がしてしまう。大抵の人がそんな感じではないだろうか?。
自分のこうした意識を客観視すると、私は頭では信じていないはずなのに、何か宗教的、霊的なものを感じてしまっている。これが自然宗教の信者であるということなのだろう。そして、それが代々、ある程度受け継がれていく。儀式は継承されていく。もはや、それが宗教でなくてなんなのかということに気がつく。
これは、こういう曖昧な日本人の宗教観はいかにして生み出されたかの解説本である。もやもやとしている自分の宗教観をクリアにみつめてみたい人におすすめ。
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「
MITで神に会う!――「コンピュータの神」と呼ばれる最高のコンピュータ科学者・ クヌースがMITで語る信仰と超難問のソリューション想像もできない驚きの連続講義とパネルディスカッションが、コンピュータ科学の聖 地の一つMITで展開される!?――講師はクヌース。パネリストはクヌースの他、サ ン・マイクロシステムズ社のガイ・スティール・ジュニア、Lotus 1-2-3のデザイナ ーでロータス社創設者のミッチ・カポール、ロボット/AIを研究しているCMUのマヌ エラ・ベローソ、司会進行はハーバード大学学部長のハリー・ルイス、聴衆/質問者 はMITの一流の知性たち 」
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