Books-Psychology: 2011年11月アーカイブ

・「上から目線」の構造
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現代日本人の「上から目線」という心理構造を解剖する。

まず著者は、劣等コンプレックスによる「上から目線」と、親心による「上から目線」の2種類を区別している。世の中がフラットになってきて、上司が部下に、先輩が後輩に対してあっていいはずの目線まで、「上から目線はやめてください」と若者からは嫌がられる時代になった。

上から目線の背景には上下、勝ち負けの図式や、モラトリアム心理における根拠のない自信があるという。「自分はこんなところでくすぶっている人間じゃない」という心理があって、「上から」になれば現実逃避ができるというところに、若者の上から目線が登場する。高くて不安定な自尊心のあらわれ、横柄に隠された自己防衛の構造。帯のイラストには「うちの部長も成長したよね」と話す部下たちのの会話があって、ありがちで、笑える。

「ここからわかるのは、良くも悪くも自分自身が「上から目線」の立場で相手に接するのには慣れているが、相手の「上から目線」とうまくつきあっていくのに慣れていないということだ。だから、後輩に対して世話を焼いたり、リーダーシップを発揮して引っ張っていくのは、スムーズにできる。しかし、先輩に対して頼ったり、言うことを素直に聞いたりといったかかわりがうまくいかず、ぎこちなくなってしまうのだ。」

上司は得意だが先輩は苦手。先輩に頼ったり甘えたりがうまくいかないという人が増えてきたようだ。同じ方向をみながら並んで話すカウンター席のコミュニケーション、松下幸之助流の「あんたの意見はどうか。僕はこう思うんだが」という相談調が効果的だとしてアドバイスがある。

この「上から目線」という構造は、ライター、ブロガーの職業病でもあると思う。文章と言うのは対象をある程度突き放して見ないと書けないから、どうしても上から目線になりがちだ。多くのユーモア表現にも、背景に上から目線があるだろう。文章の上手な人は上から目線の構造を読者に対して目立たなくする。会話だって同じだろう。他者から見て傲慢な上から目線はだめだけれど、謙虚な上から目線を目指すべきかなあと。

・「痴呆老人」は何を見ているか
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ボケたらどうなるの?をとっかかりに、現代日本人の精神構造の変容を分析する本。

認知症では偽会話という独特のコミュニケーション形態が見られる。認知症の患者と介護者、あるいは患者同士で交わされるトンチンカンな会話のやりとりのことだ。意味不明のやりとりなのに、会話が和やかにできたことで患者は満足する。会話の内容を論理的に理解できなくても、情動レベルでは立派にコミュニケーションが成立している。認知症の老人にとっては、論理より雰囲気、情報より情動が生存にとって重要なものだからだと著者はいう。

認知症患者は「最小苦痛の原則」に従って、自分にとって痛みが最小になるように、虚構の現実を構成する。無関係の人を自分の夫や妻と思いこむことで、人間関係から自身を確認する。外界とのつながりを断念した人は、過去の記憶の世界につながりを求めようとする。人違いにもルールはあるのだ。

情動コミュニケーションが充足していると、知力低下があっても、幻覚、妄想、夜間せん妄などの症状がみられないという指摘がある。痴呆を病気と考えず正常な機能低下として扱う社会では、痴呆の老人は問題を起こすことなく生きていける。社会的実績のある人に敬意を払うのと同じように、認知能力が低下した老人に対しても敬意を払うというマナーがあるとよいそうだ。

痴呆を異常と扱う社会と正常と扱う社会。そもそも痴呆が問題になったのは、現代になってからのこと。現代日本人は、個が独立した思考・判断・行為主体であるという、欧米的な「アトム的自己」の視点にとらわれている点に、著者はその原因をみている。江戸時代までの日本では「つながりの自己」で生きていたとして、後半では痴呆が問題とされる背景としての日本人の精神構造の変容が論じれている。読み応えがあっておもしろい。