Books-Psychology: 2011年4月アーカイブ

・「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代
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ソーシャルネットワークとコミュニケーション重視の時代の問題提起。

「家族や仲間の承認のみを求め、それ以外の人々の承認を求めないのは、多くの人間の賞賛を求める野心とは無縁な、ある意味で堅実な生き方のように思えるかもしれない。理解してくれる人が少しでもいればそれでいい、という思いも十分に理解できる。しかし、見知らぬ大勢の人々の承認など不要だとしても、自らの行為に価値があるのかないのか、正しいのか間違っているのかについて、身近な人間から承認されるか否かのみで判断し、それ以外の人々の判断を考慮しないとしたら、それはとても危険な考え方である。」

価値ある行為を行う、それに対して、他者から承認を受ける。この基本ルールでの人間の成長が難しくなってきている。価値観の多様化によって社会共通の価値観が崩れ、「価値ある行為」が限定的なものになってしまったことに原因がある、と著者はいう。だから現代人は、見知らぬ他者の承認を意識から排除して、身近な人々の言動ばかりを気にする。「価値ある行為」よりもコミュニケーション能力が重要で、内輪の空気を読むコミュニケーションに終始する「空虚な承認ゲーム」の時代になったと現代を定義している。

だから現代では「個人の自由」と「社会の承認」の葛藤ではなく、「個人の自由」と「身近な人間の承認」の葛藤がある。著者は、心の発達には3つの他者と承認があるという。
親和的他者 愛と信頼の関係にある他者
集団的他者 集団的役割関係にある他者
一般的他者 社会的関係にある他者一般の表象

子供はまず親による親和的他者の承認から価値を学び、やがて仲間や学校における集団的価値を学び、社会一般の価値を学んでいく。そして人間関係が広がるにつれて「一般的他者の視点」を身につけて成熟した社会人となる。三つの承認の相補的関係で人間は育ってきたのである。

「価値観の相対化という時代の波のなかで、多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い、事故価値への直接的な他者の承認を渇望しはじめている。そして身近な人々の承認に拘泥したコミュニケーションを繰り返した結果、極度のストレスを抱えたり、その承認を獲得することができず、虚無感や抑うつ感に襲われている。」

この傾向には、ソーシャルネットワークの内側に閉じこもることが容易になっていることもあるだろう。インターネットは世界と向き合うこともできるが、逆に仲間内に閉じこもることもできる。親和的他者と集団的他者のレベルにひきこもり、空虚な承認ゲームで過ごすことが容易になっている。


多様化の時代でも「努力」「やさしさ」「勇気」「忍耐力」「ユーモア」、道徳的価値の普遍性はまだ共通了解として残されているから、そこらへんを足がかりに一般的他者の視点へと至る道が重要、と提言している。

そうだなあと思う反面で、しかし、この問題、あまり心配するようなことではないのかもしれないとも思う。優しい関係を大切にするようになったことは悪いことではないし、これに対する反動が昨今の若手の社会起業家活動の背景にあるようにも思える。

若者の価値観の多様化と普遍的価値観の喪失を嘆くのは、自分たちの声が届かなくなることに対する古い権威たちの嘆きだともいえるだろう。

・ケアの本質―生きることの意味
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看護師の患者に対するケア、教師の生徒に対するケア、親の子供に対するケア。その人の成長や自己実現を助ける行為=「ケア」の本質とは何かを、少し立ち止まって考えたい人のための、一般読者向け哲学書。この本のケア論は対象を人間に限らない。作家の芸術に対するケア、自分が信じる哲学的観念に対するケアなど、哲学・医療・宗教・芸術の領域にまで広がっている。

ケアとは一方的なものではありえない。ケアを通して自分もまた生きるということ。

「≪専心のひとつの帰結として導き出される諸義務は、ケアを構成する本質的な因子である。私はそれが、自分に押しつけられたものとか、必要悪とは感じないのである。私が行うことになるであろうこと感じている行為と、私がしたい行為との間には、一つの収斂点がある。≫病気の子供のために、深夜医師を迎えにいく父親は、これを重荷とは感じとっていない。彼はただ、その子供をケアしているだけなのである。同様に、ある哲学的概念について考えているときの、種々の観点から何度も何度も考慮・思考する必要は、私に押しつけられた重荷ではない。私はただ、その観念をケアしているだけなのである。」

著者曰く真のケアは相手の成長をたすけること、そのことに専心することによって自分自身を実現する。「ケアは、私がこの世界で"場の中にいる"ことを可能にする」ということが重要だ。"場の中にいる(In-Place)という造語は本書の中心的な概念である。自己の生の意味を生きることは、私と補充関係にある対象をケアすることによって"場の中にいる"ということなのである。

"場の中にいる"人生には安定性がある。病気の子供のために、前述の深夜医師を迎えにいく父親であるとか、災害現場で自分の身を危険に晒しながらも患者に向き合う医師であるとか、信念のために働く社会起業家のもつ安定感。知識、忍耐、正直、信頼、謙遜、希望、勇気といったケアの必要事項を自然に満たしている。

「人は自分の場を発見することによって自分自身を発見する。その人のケアを必要とし、また、その人がケアする必要があるような補充関係にある対象を発見することによって、その人は自分の場というものを発見する。ケアすること、ケアされることを通じて、人は自分が存在全体(自然)の一部であると感じるのである。」

相手に対してどうするのがベストかを考えているだけでは、真のケアには不十分で、自分の成長や環境との調和までも含めて、考えていくべきものなのだというきづきを与えてくれる名著だった。

・人は皆「自分だけは死なない」と思っている -防災オンチの日本人
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防災コンサルタントとして40年以上活動し、数々の災害現場を歩いた著者が、災害時生き残る正しい判断・行動とは何かを語る。いま必要な知識を得られるよい本である。「自分だけは死なない」と思っていると死んでしまうのだから。

冒頭で明かされる生き残りの方法はシンプルである。とっとと逃げろということだ。現実の災害や事故では、異変に気づいても、警報を聞いても、多くの人間が様子を見るだけで逃げなかったが故に死んでいる。恐ろしいのは人間心理の集団同調性バイアスであり「皆がいるから大丈夫」という客観的合理性に欠ける判断だ。自分の五感が危険を感じたら、周りが騒いでいなくても、ひとりで(できれば呼びかけて)とっとと逃げるのが正解なのだ。

「火事だ」とか「津波がくる」とか「原発が爆発した」と知らせたら、パニックが起きるのではないかという懸念がリーダーによる情報公開を遅らせて、結果として多くの犠牲者を出してしまった事例が多い。だが、現実のパニックは稀であり、パニックが起きるとしたら、情報が与えられたからではなくて、情報不足により人々が冷静な判断力を失った時である、という。

「一般に災害が発生すると人間はパニックに陥ると信じられているが、それは間違いである。今は昔と違って情報過多の時代なので、ひとつの誤報やデマでその場の全員がパニックに陥るケースは少ない。最も危険なのはパニック神話を恐れるあまり、持っている危機情報を公開しないことである。正しい情報が入ってこないと分かったときに、本当のパニックは起こる。」

災害については情報の経路によって評価が異なるという話も興味深い。私は最近、地震や停電が多いので、地域の防災無線をよく聴くようになったが自分の状況に直結した緊急性が高い情報のように感じて、聴き耳を立てて聴く。これは普遍的な心理であるらしい。

「ナローキャストである地域の防災無線で津波警報を受け取った人は心の非常スイッチをすぐオンにでき、テレビ・ラジオなどのブロードキャストで受け取った人は、心の非常スイッチがオンにならなかった」

ではうまく非常スイッチがオンになったらどうすればいいか。たとえば火災ならば、

1 知らせる
2 消す
3 助ける
4 逃げる(逃がす)

の順でで行いなさいとアドバイスしている。消すのが最初ではなくて、周りに火事だと伝え、消防へ通報することが重要なのだ。この何かトラブルが発生したらまず「知らせる」が、火災に限らず防災危機管理の優先順位だという。

地震が起きたら机の下に隠れてはいけない、というのも目からうろこであった。多くの自治体や企業の震災対応マニュアルが間違っていることになる。家がつぶれないような地震はほとんど被害もないのだから机の下にもぐる必要はなく、逆に机の下にもぐると危険予知や危機回避の対応が遅れてしまうし、家がつぶれれば机もつぶれるという実験結果もあるから、である。

そして現代の災害では携帯や電話のしくみには詳しい方がいいという。「情報孤立が発生した場合、通信システムや緊急連絡方法の知識の有無が不安感や焦燥感の強弱に比例する」からだ。必要な相手と連絡が取れず、情報もとれなくなることが、冷静な判断力を失う原因となる。だから、地震の直後は輻輳防止のための通信規制がかかること、電話回線は一般加入電話より公衆電話回線が優先されること、電話がつながらなくてもインターネットはつながることがあることなどを知っておくことが重要なのだ。

実に多くの危機対応の方法が語られていて、とても今の状況にマッチした本である。