Books-Psychology: 2009年3月アーカイブ
高いワインほどおいしいと感じられてしまうハロー効果、占いがよく当たると思いこむバーナム効果、経験の強烈な部分と最後の部分が判断に影響を及ぼすピーク・エンドの法則など、私たちが陥りがちな認知バイアス=「脳の罠」とその回避法についてのエッセイ集。
各章のテーマを抜き出すと次のようにすごい数になる。それぞれについて、いかにもありがちなシーン説明から始まって、バイアスを生み出す脳科学や心理学的メカニズムの仮説とデータの裏づけが示される。
予言の自己成獣、ピーク・エンドの法則、コンコルドの誤謬、フレーミング効果、基準値の誤り、大数の法則、代表制のマジック、偶然に秩序をみる、原因と結果の相関関係、確実性効果、統計より感情、アンカリング効果、注意力の欠如、注意の焦点化効果、貴族のエラー、自己奉仕バイアス、集団の知恵、バーナム効果、フォールス・コンセンサス効果、群れ思考、集団思考、集団規範、他の集団への偏見、ハロー効果、自信過剰、願望的思考、後知恵、偽りの記憶、無意識のいたずら、順序効果、プランニングの誤り、欲深と尻すぼみ、明るい記憶、現状維持、先入観のトラップ、損失回避性、後悔の理論。
人間である以上は感情のバイアスは避けることができない。合理的な人とは、感情のない人ではなくて、感情のコントロールがうまくできる人であると著者は書いている。こうした効果や法則のことを、まずは知識として十分に知っていると強い武器になる。逆に、意図的に活用して、"だます"方に回ることだってできるだろう。
たとえば注意の焦点化について。
「アメリカのある男子学生たちに、次のような二つの質問をした。「毎日の暮らしのなかで、あなたはどれほど幸せですか?」と「先月は女の子と何回でかけましたか?」。質問がこの順序で示されたときには、二つの質問のあいだの相関関係はほとんどなかった。しかし女の子とのデートについて質問が先に示されたときには、相関関係が0.66にまで上昇した。」
アンケートの順序だけでも結果はある程度は操作できるのだ。私の経験でも、製品やイベントについてのアンケートの場合には、「どこがよかったですか?」の後に、全体評価を書いてもらうと、いい数字がでやすいという経験がある。ビジネスの都合上、クライアント報告向けに、アンケートで好評だったという結論がどうしても欲しい場合には、こういう質問順序をつくってしまうのが担当者の知恵といえるかもしれない。
ただの偶然に意味を見出そうとしてしまう脳のはたらきも要注意だ。
「私たちは周囲の出来事に、「秩序」や「規則」や「構造」などを見つけたがるが、そういったものはじつは、私たちの頭なかだけにあるものなのだ。 私たちが偶然とうまくつきあうのはたやすいことではない。単なる一致にすぎないことでも、冷静に受けとめることができないからだ。めったにないことが起こると、驚きのあまり、さまざまな解釈をするための論理も確率の法則も、忘れてしまうからである。」
これをうまく活用するのが現代のクロスメディアマーケティングといえるだろう。同時期に異なる媒体や経路で広告メッセージに接すると「これは今世の中で凄く流行っているのかな」とか「私が偶然に発見したのだ」なんて思い込みが形成される。
行動経済学の知識は消費者としては防衛手段であり、マーケティング担当者としては攻撃手段になる。どちらにせよ、読んでおくと為になる、かな。実に面白い読み物。
二人の学者が神話と昔話の分析によって日本人ならではの罪悪感について考察する。
著者は日本神話と昔話に特徴的な「見るなの禁止」とそれに伴う罪と恥の意識に注目した。
たとえば「鶴の恩返し」では女が鶴の姿になって機織りをしている姿を、見るなと言われていた男がのぞいてしまう。古事記では死んでしまった妻イザナミを迎えに夫のイザナキが根の国を訪れるが、のぞくなと言われていたのに妻の腐敗した醜悪な姿を見てしまう。男が見るなの禁止を破ると女をはずかしめ傷つけることになり女が去っていく。
「「愛しい」の語源は「痛しい」だと言うが、愛する者が、私たちのために死んだ、あるいは傷ついたとすれば、それはじつに痛いことである。私は、国々や神々を産んで死んだイザナミとは、男性的自我にそういう痛い罪意識をひきだす存在であり、人間のために殺されたキリストに匹敵するものだと思う。ゆえに、この罪は「原罪」と呼ぶに相応しいし、イザナキのみそぎはそれを取り消そうとしていることになる。」
豊かで美しい対象を求め侵入していく欲望が対象を傷つけ破壊してしまったことに対する罪悪感が日本人の原罪意識なのだという主張だ。対象喪失の悲劇と痛みを共有する課題として持つが、そうした感情をどう処理するかには文化的、宗教的な違いが大きく現れる。人間が罰せられるキリスト教の原罪パターンとは異なり、どの話でもタブーを破った側が罪に問われたり、罰せられることことはない構造になっている。
見るな、語るなで当面の秩序を維持していることへの後ろめたさ。
きれいごと、見て見ぬふり、臭い物に蓋、言わぬが花。見るなの禁止は深刻な問題を掘り下げず表面的な安定を継続する知恵であると同時に、差別感情の共謀にまでつながっていく。そうした状況では、見るなの禁を破ることは人間社会の秩序を守る方法として機能すると著者が指摘している。こうした構造で生み出される原罪意識を「心の台本」として持ち繰り返してきたのが日本人であるらしい。
原罪というのはキリスト教独特の考え方だと思っていたが、文化によって異なる原罪意識がありえるのかもしれないと納得させられた。