Books-Psychology: 2006年1月アーカイブ

・偽薬のミステリー
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プラセボ(プラシーボ)効果の徹底研究。

かつて医薬は魔術、心理学、身体の治療の3本柱から成り立っていた。実証主義科学の勝利と物質還元主義の時代の到来によって、西洋医学では魔術要素はすべて消し去られた。心理学要素も一度は消えたが、精神医学、行動心理学によって部分的に現代医療に蘇っている、と著者は医薬の歴史を総括した。

一般的に、医薬は服用することで、薬学的に活性な分子が身体に作用し、患者の病気を治すものと考えられている。しかし、薬学的には何の効果も持たない薬(偽薬)を使っても、本物の薬と同じか、それ以上の効果を発揮するケースが多々あることを、この本は紹介している。医者、患者、薬の3者の相互作用する空間に強力な治癒効果が生まれる。

不安、うつ病、月経前症候群、癌性腫瘍、術後疼痛、頭痛、咳、リューマチ、結核、腫瘍の成長などの分野で、偽薬効果は研究され、平均して30%の(かなり高い)効果が認められた。分野によって強弱は異なるが、あらゆる病気の治療過程で偽薬効果があるようだ。古代の呪術や中世の錬金術も、当時、それを信じた人々には効果をあげていた。

「この薬を飲めば直りますよ」は、看護婦がいうより医者が告げたほうが、さらには”名医”と呼ばれる権威が告げたほうが、投薬効果が高まるという。患者が医者の言葉を信頼していればいるほど、効果がてきめんになる。興味深いのは、患者だけでなく、医者自身もそれを信じている方が効果が高まるという事実だ。医者がその言葉を自信を持って告げられるからだと考えられる。

錠剤の色や薬の名前も医薬の効果に影響する。精神安定剤には緑色の錠剤がよく使われる。効きそうな薬の命名法というのも存在する。効きそうな薬は本当に効いてしまう。医師である著者は豊富な臨床経験から、プラセボ効果は、意識的にせよ、無意識的にせよ、現代医療の背後に不可欠な存在になっていることを指摘する。

そもそも、薬学辞典に含まれる多くの薬が、臨床試験で効果があったというだけで認定されており、実際の薬学的な活性は怪しいものが多いのだという。その事実を医師は知りつつも、処方すれば効果があるので利用されている。特に治療方法がわからない病気、手のつけようのない病気、放っておいても治る病気の際の投薬は偽薬的な内容であることが多いらしい。

偽薬は医学の表舞台では長く無視されてきた。医師の権威を損なうものであるからだ。しかし、軽い病気では、副作用など危険のある古典医療よりも、偽薬を使った方が、安全に病気を治せるのではないか、と、著者はその意義を積極的に評価している。

市販の風邪薬を選ぶ際に、私はついつい効能の記述が多い、高い製品を買ってしまう。実際に効果が高い気がする。この本に紹介される事例でも、同じ医薬が、高いコストを支払っているという意識がある場合に、そうでない場合に比べて高い治癒効果をあげている。何でも安ければいいというものではないらしい。信憑性が重要なのだ。

日本には「病は気から」という言葉がある。薬ではなく、コミュニケーションや信心で病が本当に治せるなら、偽薬効果の科学はもっと研究されていっていいと思った。

・自爆テロリストの正体
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9.11同時多発テロの実行犯の実像を追ったドキュメンタリ。実行犯家族への取材や原理主義指導者への直接インタビューなど、実地の取材で肉付けしていて興味深く読めた。自爆テロは自らの命を犠牲にする行為であり、無宗教の日本人にとっては理解しがたい境地である。その心理状態がどのように形成されていったのかを著者は分析していく。

「神の道のために殺された者を、けっして死者と考えてはならない。いな、主のみもとで扶助を賜って生きているのである」(コーラン)

「神とこの使徒たちの言いつけを守る者は、神が恩恵を垂れたもうた預言者たち、誠実な人たち、殉教者たち、善行者たちの仲間にはいる」(コーラン)

9.11テロは、過激なイスラムの聖戦というイメージが、メディアを通して印象づけられている。しかしイスラム教自体は平和を愛する温和な宗教である。イスラムの経典コーランには上のような殉教の意義についての記述はあるものの、飽くまで歴史的文脈の中での記述に過ぎない。決して現代において殺人を肯定しているわけではない。

テロを正当化しているのは一部の過激な原理主義者たちに過ぎない。しかも、原理主義の真のリーダーたちは自爆テロを指示しただけであった。自らの命を捧げたのは生粋のイスラム原理主義エリートではなく、改宗者が多かったという。

テロの実行犯には欧米での生活や留学経験のあるものが多い。フランスなどヨーロッパ国籍のものもいる。彼らは生まれついてのイスラム教徒ではなく、欧米文化とイスラム文化の狭間で育ち、差別やアイデンティティの問題に悩まされた若者であった。

「貧困の中で世の中の不平等に絶望し、テロに走った」という見方は誤りで、「彼らがテロを起こした決定的な理由は貧困ではなく、自己の内面に起きた変化だ」と著者は分析する。

実際、実行犯の多くは貧困な家庭に育ったわけではなく、比較的恵まれた環境に育ったものが多かったようだ。大卒も多い。だが何らかの自身の弱さに起因する挫折や、欧米社会からの差別的待遇への絶望を募らせたものが多かった。俗世間的な意味での成功者がいない。「そこそこの教育は受けたものの、その後社会で進むべき道を失った人々」であった。著者のことばでは「大卒の出来損ないこそがテロリストになる」。

若者に共通の「自分探し」の悩み、アイデンティティの悩みを抱いた彼らに、システマチックな布教と洗脳を施したのがアルカイダであったとされる。感受性の強い若者を選び、巧妙に心の弱さにつけこんで、殉教の意義を信じさせる。

実行犯は、にわかづくりのテロリストなので、ゴルゴ13のようにはいかないと著者は批評している。事実、9.11前に捕まってしまったものもいれば、他のテロでは自爆前に逃亡したものもいた。

9.11テロは単なる犯罪なのであって、イスラム教世界とキリスト教世界の宗教戦争などと、大騒ぎすると、原理主義者の思うつぼであると著者は警告している。オウム真理教のテロを「仏教徒のテロ」と呼ぶのと同じくらい的外れな視点だという。

9.11テロを宗教と切り離して考えるべきなのかは、私にはまだよくわからない。宗教が根源的にもつ危うさは別に考えるべき問題である気がする。だが、実行犯の出自や生育環境を取材した情報を見る限り、一部の原理主義指導者に、若気の至りがうまく利用されたのが、あのテロの現場レベルの実状であることがうかがえる。オサマ・ビン・ラディンやブッシュがいう聖戦や悪の帰結によるものではないことがわかる。

実行犯の妻たち、親や兄弟への積極的取材なども生々しい。