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明治大学情報コミュニケーション学部の学部長が書いた超心理学の本。
実験で被験者が興奮する画像(男性に対してヌード写真)と普通の写真を画面にランダムに提示する。次に表示されるのがヌードだと思ったら、ボタンを押してもらう。次の写真を予測させる超心理学実験だ。この実験をたくさんやると数パーセントだがランダムよりも高い精度で予測が当たっているという実験ケースが示される。
世界中に乱数発生器を設置して観察している研究グループによると、9.11のテロや大災害の発生時に、乱数の発生状況に有意な偏りが見られたという。人間の心理が機械に対して影響を与える可能性を示唆するものとして紹介されている。
テレビによく出る超能力者マクモニーグルやユリ・ゲラーの実態も紹介されている。
科学の常識からすれば、どれもこれもありえない。実験の誤差や作為だとして一笑に付して終わりにされそうな話ばかり。しかし、著者は科学者としての懐疑的精神を保ちながら、現象が存在する可能性を擁護している。
超心理学は人間の心理が物理的世界に影響をするものなので、信じていない人に囲まれても能力は発揮されない。また超能力があるとしても、それは派手なものではなく、統計的に数パーセントのような数字で表れるレベルのものだろうと著者は推測している。
ありえない可能性、考えてもみなかった可能性が、科学のブレークスルーなわけであり、科学の非常識を疑ってみるという、この本のような姿勢はとても重要だと思う。まあ、そういう意義はともかく、大枠として科学の内側にとどまりつつ、超心理学の現状を楽しめる本だ。
「本人も与り知らない無意識の認知メカニズムの存在が、ヒトの本性を規定するとともに現代社会に特有の諸現象にも深くかげを落としている」ということを名著『サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ』の認知心理学者が語った続編的な内容。
無意識と情動。心と身体のあいだにあるはたらきが、顕在意識や行動に大きく影響を及ぼしているとする研究成果が多く提示される。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいというジェームズ・ランゲ説。生存に必要なものに注意が向かう無意識の定位反応によって対象を注視していると、自覚的にも好きになってしまう現象。意識にのぼらない知覚というものがあって、思考や判断の下部構造となっている。予感や予兆は、本人がうすうす知っているがまだ意味を自覚できない時期の知覚だなんていう話もある。
現代社会のコマーシャルには、こうした人間の潜在認知過程をコントロールする技術が採用されている。多くは
1 狭める
2 誘発する
3 気づきにくくする
という自覚以前の操作を企むものだ。巧妙な広告宣伝は、消費者が自らの「自由意思」で企業側の望む選択をしてくれることを目的として設計されている。○○のことを覚えてくださいというのではなく、○○のことを忘れてくださいという指示をすると被験者は、より○○を強く記憶してしまう、みたいに。
リアリティの脳内人工増殖という著者の考え方が面白かった。日々進化していく私たちの情報環境とともに私たちの感じるリアルさや感覚もまた進化しているという。
「脳内を活性化するものこそもっともリアル」
「物理的な現実味とは関わりなく」
「実際の社会的きずなとも関係なく、社会脳を刺激さえすれば」
高精細の映像に本物と同じかそれ以上の臨場感を感じることはあるし、"ソーシャル"の情報に一喜一憂したりもする。逆にリアリティを感じられない現実というのもある。"本物の感動"というときの本物が増えるというのだ。
「情動系、社会系をはじめ感覚系、記憶系、運動系など、様々な脳内システムを一気に活性化するのが感動の新定義だ、と、こう言ってみたら。そういう人工的なのは本当の感動ではない。太古以来の自然に接したり、人の素朴な情に接したりしたときの感動こそ本物だ。たちまちそういう反論が聞こえてきそうです。 だが、残念なことに、この反論はまさに議論の眼目を見落としています。なに、そういう太古のヒトの脳だって環境の刺激に対して最適に鋭敏化していたはずです。現代社会の環境への適応も、その同じ脳の生物学的機能の延長に過ぎません。」
潜在認知レベルから脳を刺激して操作することができるようになれば、本物を超えた超本物を知覚する超感動なんていう体験もでてくるのかもしれないなと妄想。
・サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/01/post-52.html
幽霊、占い師、幽体離脱、念力と超能力、予知夢と予言者。ニュースになった"超常現象"を最先端科学で解き明かす。著者は超常現象は全部嘘というスタンス。科学でトリックを説明できるという本。そして、各章でトリックを解き明かすと同時に、「あなたにもできるスプーン投げ」のように、誰にでも実際にできるやり方を示している。
驚くようなトリックというのはほとんどなくて、たとえばスプーン投げは折れる寸前まで曲げた「応力のかかったスプーン」を用意して隠し持っておく。いかに観客にこれを意識させないかがすべてのポイントになる。
ほとんどの超常現象に共通するのは錯覚だ。脳は環境の中で最も重要と思われる事柄を選び集中する。その他の事柄にはほとんど注意が払われない。詐欺師たちはこの脳の性質を利用して、見るものを欺く。
人間の脳のはたらきを知っていると思考さえ操ることができる。こんな実験があった。
「ウェグナーは、白クマが大好きな人だった。もっと正確に言えば、クマのことを考えないでくれと人に頼むのが好きな人だった。彼は有名な一連の実験で、参加者に白クマのことを考えないように頼み、現れてほしくないクマが頭の中に侵入してきたら、その都度ベルを鳴らしてもらった。すると、被験者たちは頭の中からクマの姿を消し去るのに驚くほど苦労し、数秒おきにベルが鳴ることも多かった。」
考えるなと言われると人はそのことばかり考えるようになる。
白いシーツを被った典型的な幽霊の格好をして夜の公園に出没するとどうなるかを試した実験もあった。こちらでは逆にほとんどの幽霊が発見してもらえなかった。人はなかなか幽霊には気がつかないのだ。だがここには幽霊がでるという暗示をかけると人は簡単に幽霊を見てしまう。任意の何かを考えさせたり、あるいは気がつかなくさせることは、脳の仕組みを知っていると、割合、容易にできてしまうことのようだ。
超常現象というよりも認知科学に興味のある人向けの科学読み物。手品の数々が披露されているのでこれを人に試してみるのも面白そうだ。
人間の奥深い欲望は適応の結果ではない?
イェール大学心理学部教授ポール・ブルーム著。
食、愛、芸術、スポーツ、想像、苦痛、科学、宗教。さまざまな喜びの根源には、超越的な存在を求める「本質主義」があるという。本質主義とは「事物には、直にとらえることのできない根源的な実体ないしは本来の性質があり、本当に重要なのはその隠れた性質だとする考え方」のこと。
著者らが行った実験では、有名人の着ていたセーターと殺人犯の着ていたセーターを被験者にみせる。もちろん有名人の着ていたセーターの方に高い価値を見出される。しかし、これを殺菌消毒してしまうと価値が下がってしまう。セーターから、なにか大事なものが失われてしまったと被験者は感じたのだ。
それはもちろん汚れや匂いという具体的な何かだけではあるまい。モノの背後に宿った何か、すなわち著者が言う「本質」が人々を惹きつけているのだ。それは中国と日本の「気」、フランスの「エラン・ヴィタール」、マオリの「マナ」、英語の「ライフ・フォース」とも呼ばれる。
科学者の実験では、有名な画家の作品だとわかっている絵画、有名な奏者によるものとわかっている演奏に人々は、純粋に作品自体が持つ影響を超えて、強く惹きつけられた。高価なワインの味に喜びを感じるのは、その味わいと香りのせいではなく、そのワインへの思い入れにもよる部分が大きい。音楽ならCDの完璧な演奏よりも、生の演奏に人は深く感動する。カニバリズムに吐き気をもよおすの理由。人間の心の持つ本質主義こそ、人間の欲望を果てしないものにしているというのだ。
超越的なもの、奥深い実在とのつながりを持つために人間は想像力を使う。想像力は宗教と科学を生みだした。数千人の子供を動員した実験では、子供たちの集団に自然にスーパーパワーを引き出す「儀式」が考案される様子が観察されたという。人間は生来的に超越存在を信じる性質がある。フィクションもまた本質を説明するための道具だ。そして隠れた存在を明らかにするためのもうひとつのアプローチとして思考と実験がある。人間のやることなすことのベースが本質主義なのだ。著者は適応主義で説明できない進化の秘密を明らかにするキーワードだと結論する。
認知心理学や脳科学の最先端をのぞきながら「本質」にたどりつく旅が楽しめる本。
・スーパーセンスーーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/02/post-1396.html
脳神経科学者が書いた快感回路=脳の報酬系の科学。
セックス、薬物、アルコール、高カロリー食、ギャンブル、ゲーム、学習、エクササイズ、ランナーズハイ、慈善行為、瞑想といった快感回路を作動させる行為が人間にもたらす影響を論じる。
実験用ラットの脳の快楽中枢に電極をつなぎ、ラット自身がレバーを押すと電気刺激が流れるようにした。レバーを押すと快感が走ることを学習したラットは1時間に7000回もレバーを押し続けた。1時間は3600秒であるから約0.5秒に一回、狂ったように押していたわけだ。レバーにたどりつくまでに足に電気ショックを受ける場所を設けても、ラットはそれを踏み越えてレバーの前へ行った。メスのラットは産んだばかりの赤ん坊を放置してレバーへ走った。中には1時間2000回のペースで24時間もレバーを押し続けたラットもいたという。
食べ物やセックスによって快感が引き出されるように進化した我々の身体。脳への直接の電気刺激や薬物作用を使えば快感回路は容易に乗っ取られてしまう。これが悪徳の抗いがたさの原因だ。報酬系の暴走は依存症や異常行動の問題を引き起こす。
だが、もちろん快感回路にはよい側面もあるという。
「現在では脳スキャンにより、生きている脳の中で快感回路が活性化している様子を観察することができるようになった。当然のことながら、この回路は<悪徳>的な刺激で活性化する。オーガズム、甘くて脂肪たっぷりの食べ物、金銭的報酬、ある種の向精神薬などだ。しかし驚くべきことに、<美徳>とされる行動の中にも、同じ効果をもたらすものが多い。趣味のエクササイズ、ある種の瞑想や祈り、社会的な評価を受けること、慈善的な寄付行為さえも、快感回路を活性化しうるのだ。」
進化の最先端にいる人類は、抽象的な心的構成概念によって快感回路を働かせる「スーパーパワー」を手にしたと著者は結論している。つまり、想像力によって生存とは無関係のあらゆることを快感にしてしまうことができるようになったのだ。
人間が、社会的な善に強い快感を感じるように導けば、70億人が総マザーテレサ化することも、ありえるのかもしれない。快感を自在に得るテクノロジーの研究や、快感と依存症を切り離す方法も着々と研究されている。個人が欲望を高等な社会的行動へと昇華する日未来にはくるのかもしれない。著者は最後で快感の未来について依然「政治と商売に左右される悲惨な状況」が続くだろうと悲観的にみている。歴史的に見ても、快楽に関係する儲かるネタは、過剰に税金がかけられたり、恣意的に規制されたり、常に権力に翻弄されてしまうのだ。
これまで宗教や道徳が快感回路の安定化に一役買ってきたわけだが、肥大化した経済原理によって、回路のたがははずれてきている。快感テクノロジーの発展によって人間がラットみたいにならない方法が必要とされている。多様な快感の在り方を知って、それは毒を毒で制するが如く、快感を別のレベルの快感で制御するようなやり方なのではないか、と思った。
・つきはぎだらけの脳と心―脳の進化は、いかに愛、記憶、夢、神をもたらしたのか?
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1072.html
同じ著者の本。
・幸福の計算式 結婚初年度の「幸福」の値段は2500万円!?
お金で幸福は買えるのか?
幸福の度合いを金額に換算できるのか?
例:結婚は2500万円の価値がある?
人々に定期的に幸福度を自己申告してもらう。結婚や離婚、昇進や昇給、転職や失業、こどもの誕生や大事な人との死別、宝くじにあたるなどの大きな出来事があった人たちの、前後の幸福度の変化を調べれば、各外的要因の影響力の大きさがわかってくる。たとえば1万円の昇給は1ポイントの幸福度の上昇につながるといったように、金額に出すことも不可能ではない。妻と死別するとか子供が誕生するというのがいくらなのかも同様に計算できてしまう。
こうした"幸福計算"は200年前にイギリスの経済学者ジェレミー・ベンサムが提案して以来、研究が続けられ、ずっと注目と批判にさらされてきた。まずデータの取り方が難しい。単なるアンケートで本当の幸福度が取れているかわからない。そして、その人の性格特性や置かれている環境が幸福度に大きな影響を与えることがわかっている。外的要因と内的要因の両方の影響度を分離することが極めて難しかったのだ。
外向性、協調性、誠実さ、経験への開放性という性質をもつ人は、人生に対する満足度や幸福度がとても高い傾向があり、神経症的な性格の人はなかなか幸福を感じない。年齢によっても幸福を感じやすい時期とそうでない時期がある。
お金で買えないものの金額を算定することにも意味はある。死亡や障害の賠償金を計算する際にこうした計算式は必要であるし、社会福祉などの政策を考えていく際にも統計的なデータは参考になる。
そして個人の幸福を考える際には適切ではないにしても、幸福度の統計データは実に面白い。こんなことがあると(あなたの場合はどうかわからないが)一般的には何ポイントくらい幸福度が上がります、または下がりますという目安がわかるからだ。同時に幸福と不幸の持続時間もはわかる。
たとえば子供が生まれる体験は大きなようでいて実は35万円くらいの幸福でしかない。宝くじが当たった人は直後はあまり幸福ではなく2年後くらいに幸福を感じる。離婚や親族との死別からも大抵は数年で立ち直れる。希望の会社に転職できても通勤時間が長くなるとあまりハッピーにならない。意外な数字がいろいろと紹介されている。
幸福を感じやすい人は収入が多いという研究もあった(これは変数の取り方に因るので結論ではないが)。お金があるから幸福というより、幸福な人は結果的に高収入になるという見方もできるようである。収入を増やすことよりも性格特性を変えることのほうが手っ取り早い幸福への近道なのかもしれない。
まあ性格を変えるというのも大変ですがね。
・性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか
タイトルがストレートすぎるが、内容はいたって真面目な科学読み物である。進化生物学と脳の認知系の研究者が書いている。この分野では研究者たちは、性器にセンサーをつけての実験、きわどい単語が並ぶアンケートなど、データをとるのがとても困難な研究テーマに挑んでいるわけだが、近年、実に貴重な研究用データの鉱脈を掘り当てたそうだ。それはインターネットである。
この本の前半の圧巻はネットの利用調査の紹介だ。検索エンジンに入力された4億のキーワード、65万人の検索履歴、4万のアダルトサイト、数千の官能小説サイトなどをデータマイニングすることで、ネット上の性的欲望の実態を明らかにした。これが興味本位的にも、科学的にも極めて面白いのだ。
4億のキーワードのうち、13%にあたる5500万の語句がエロチックコンテンツを探すためのキーワードだった。5500万のキーワードの80%は20の興味対象に分類できてしまうという。ほとんどの人は大勢の人と性的欲望を共有していることになる。そしてあなたが自分は相当特殊だと思っていたとしても、同じ嗜好を共有する人はかなり多いということでもある。
ネット上では男性は映像とあからさまな性描写を好み、女性はストーリーと人間関係やロマンスを好む。有料アダルトサイトの訪問者の75%が男性だが、25%は女性なのだ。女性向けロマンス小説は電子書籍でも人気商品である。だが女性はなかなか有料コンテンツを買わない。なぜか?。
脳科学では限られた数の「セクシュアル・キュー」が性的欲望のソフトウェアを起動させるということがわかってきた。たとえば女性のウエスト対ヒップの比率が7:10のとき、それを目にした多くの男性の大脳の前帯状回という報酬処理に関係する部位が活性化する。(ちなみにどの文化でも乳房がおおきいほうが好まれ、足は小さい方が魅力的に感じられる。そしてすべての男性は生まれながらにしてお尻を好むが、どんな乳房や足、お尻が好きかは文化に依存するという)。
男は、女性の大きな胸などひとつのキューだけでも性的興奮を覚えるが、女はいくつかのキューが集まらないと性的興奮が高まらない。特に女性に特徴的なのは「男を惹きつけている」「愛されている」というキューだそうだ。女性は男性との関係において安全性や環境面も重視する。だから男性の容姿も匂いも、経済力や社会的地位、優しさや誠実さなど、多くの要素が女性にとってのキューになる。本当に女心は複雑なのだ。
そして女性は肉食系男子というか支配的な男性=アルファ・メールに弱いという傾向がある。英雄色を好む、強い男がもてるというのは普遍的な原理であり科学的にも立証されているわけだ。
「人間の場合は、支配的な地位と性的能力との関係はハダカデバネズミほど顕著ではないが、支配的な立場にいる人間と、すべてのほ乳類の群れの支配的なメンバーとの共通点がひとつある。それは性欲が強いことだ。男は支配力が増すほど、テストステロンの分泌量が増加し、性欲が高まる。テストステロン値が高い男は、もっとも早く童貞を失い、もっともセクシーなパートナーを手に入れ、もっとも早く女性を口説き落とす。アルファ・メールたちは、群れのなかでもっとも性欲が旺盛なのだ。」
日本では昨今、男性の草食化がいわれているが、テストステロン値が減っているのだろうか。それともポルノが氾濫したせいでキューだらけになって不感症気味になっているのだろうか。
そのほか女性の性的欲望、ゲイの欲望についても詳しい解説がある。
セックスメディア30年史欲望の革命児たち
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/06/30-3.html
脳科学は「愛と性の正体」をここまで解いた---人を愛するとき、脳内では何が起きているのか?
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/10/post-1532.html
こんなに違う!世界の性教育
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/06/post-1456.html
癒しとイヤラシ エロスの文化人類学
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/01/post-1366.html
・裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/08/post-1281.html
・裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1064.html
・セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/post-1151.html
・セックスと科学のイケない関係
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/05/post-987.html
・性欲の文化史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1020.html
・日本の女が好きである。
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/06/post-1010.html
・ナンパを科学する ヒトのふたつの性戦略
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/04/post-972.html
・ウーマンウォッチング
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-958.html
・愛の空間
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/oso.html
・性の用語集
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004793.html
・みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005182.html
・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html
・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html
・性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004747.html
・武士道とエロス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004599.html
・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html
高校生(から)に「しがらみ」の真理を教える社会心理学入門書。人間の信頼関係の研究で知られる北大大学院特任教授 山岸俊男氏が書いた。
まず本書の主題である「しがらみ」とは、社会心理学的には「インセンティブ構造」のことであると指摘する。自分がある行動をすると、他人がそれに対してどう行動するかが決まっているということ。そして「しがらみ」が、人々の行動によって生み出されているのが「社会」なのだ、すなわち社会とはインセンティブ構造であると。
「世間では人々の行動が契約で縛られているわけではなくて、人々がまわりの人たちの反応を読み合った結果として一定の行動をとり合っている。だから、みんなが本当に望んでいることと、ほかの人たちはこう思っているだろうと思われていることが食い違ってしまう可能性があるんだよ。そのために、いろんなおかしな結果が生まれてしまう。」
本当は誰もそうしたいと思ってはいないのに、全体としてヘンなことになってしまうインセンティブ構造のパターンをいくつか取り上げる。クジャクの羽根の話、いじめの螺旋の話、赤ちゃんをぐるぐる巻きにする社会の話。説明に使う例が、どれもユニークであると同時に適切で、印象に深く残る。
この本は、生きづらい世の中としてのしがらみ社会を生きていくための知恵を若者に与える意図を持って書かれている。空気を読み合う「心でっかち」な世間から、少し距離をおいて物を考える資質を論じる。世間がダメなら、社会でいきよう、というのが著者の提案だ。世間の上にある社会では決まり事や法律を守っていさえすれば自由な生きていい。だから本当は社会に出ることを怖がる必要なんてないんだよ、と。
私は小中高と学校の友達づきあいが苦手な子供だったので、クラスがない大学に入ってほっとしたし、社会にでてフリーランスで仕事を始めて、活き活きとした気分になったのを覚えている。いまは自分の会社で仲間たちと仕事をするのが好きであるが、最初からそうだったわけじゃあないのだ。
会社の歩き方、世間の渡り方ではなくて、もっとフリーな生き方モデルや社会で稼ぐ武器を高校生に教えてもいいのではないかと強く思った。世間のしがらみにとらわれて悩んでいるよりも、とりあえず何らかの武器を持って社会に飛びだした方が、きっと人生は甘い気がするのだ。世間よりも社会の方が甘いよ、自由だよ、楽しいよ、と教える著者の姿勢に大変共感した。高校生や大学生に読ませたい。
現代日本人の「上から目線」という心理構造を解剖する。
まず著者は、劣等コンプレックスによる「上から目線」と、親心による「上から目線」の2種類を区別している。世の中がフラットになってきて、上司が部下に、先輩が後輩に対してあっていいはずの目線まで、「上から目線はやめてください」と若者からは嫌がられる時代になった。
上から目線の背景には上下、勝ち負けの図式や、モラトリアム心理における根拠のない自信があるという。「自分はこんなところでくすぶっている人間じゃない」という心理があって、「上から」になれば現実逃避ができるというところに、若者の上から目線が登場する。高くて不安定な自尊心のあらわれ、横柄に隠された自己防衛の構造。帯のイラストには「うちの部長も成長したよね」と話す部下たちのの会話があって、ありがちで、笑える。
「ここからわかるのは、良くも悪くも自分自身が「上から目線」の立場で相手に接するのには慣れているが、相手の「上から目線」とうまくつきあっていくのに慣れていないということだ。だから、後輩に対して世話を焼いたり、リーダーシップを発揮して引っ張っていくのは、スムーズにできる。しかし、先輩に対して頼ったり、言うことを素直に聞いたりといったかかわりがうまくいかず、ぎこちなくなってしまうのだ。」
上司は得意だが先輩は苦手。先輩に頼ったり甘えたりがうまくいかないという人が増えてきたようだ。同じ方向をみながら並んで話すカウンター席のコミュニケーション、松下幸之助流の「あんたの意見はどうか。僕はこう思うんだが」という相談調が効果的だとしてアドバイスがある。
この「上から目線」という構造は、ライター、ブロガーの職業病でもあると思う。文章と言うのは対象をある程度突き放して見ないと書けないから、どうしても上から目線になりがちだ。多くのユーモア表現にも、背景に上から目線があるだろう。文章の上手な人は上から目線の構造を読者に対して目立たなくする。会話だって同じだろう。他者から見て傲慢な上から目線はだめだけれど、謙虚な上から目線を目指すべきかなあと。
ボケたらどうなるの?をとっかかりに、現代日本人の精神構造の変容を分析する本。
認知症では偽会話という独特のコミュニケーション形態が見られる。認知症の患者と介護者、あるいは患者同士で交わされるトンチンカンな会話のやりとりのことだ。意味不明のやりとりなのに、会話が和やかにできたことで患者は満足する。会話の内容を論理的に理解できなくても、情動レベルでは立派にコミュニケーションが成立している。認知症の老人にとっては、論理より雰囲気、情報より情動が生存にとって重要なものだからだと著者はいう。
認知症患者は「最小苦痛の原則」に従って、自分にとって痛みが最小になるように、虚構の現実を構成する。無関係の人を自分の夫や妻と思いこむことで、人間関係から自身を確認する。外界とのつながりを断念した人は、過去の記憶の世界につながりを求めようとする。人違いにもルールはあるのだ。
情動コミュニケーションが充足していると、知力低下があっても、幻覚、妄想、夜間せん妄などの症状がみられないという指摘がある。痴呆を病気と考えず正常な機能低下として扱う社会では、痴呆の老人は問題を起こすことなく生きていける。社会的実績のある人に敬意を払うのと同じように、認知能力が低下した老人に対しても敬意を払うというマナーがあるとよいそうだ。
痴呆を異常と扱う社会と正常と扱う社会。そもそも痴呆が問題になったのは、現代になってからのこと。現代日本人は、個が独立した思考・判断・行為主体であるという、欧米的な「アトム的自己」の視点にとらわれている点に、著者はその原因をみている。江戸時代までの日本では「つながりの自己」で生きていたとして、後半では痴呆が問題とされる背景としての日本人の精神構造の変容が論じれている。読み応えがあっておもしろい。
・脳科学は「愛と性の正体」をここまで解いた---人を愛するとき、脳内では何が起きているのか?
男性は美人にみつめられると脳内の報酬系システムが活性化することが実験で証明されている。はりきって、気前良くなる。逆に交渉に弱くなったり、行動に変化が出ることもあるそうだ。美人というのは社会的資源のひとつと考えて、戦略的に活用すべきものなのかもしれない。社会的合意がとりにくそうな話であるが...。
この本は、人間の愛と性が「オキシトシン」などの脳内物質を分泌させて、その思考や行動にどのような影響を与えているかを、一般向けにわかりやすく説明した本である。社会的動物として進化してきた人間は、もともと生物学的に個体同士が絆を深める機構が折り込まれている。ロマンティックに愛が深まる背景には脳内物質の作用があるのだ。
人間は特に視覚によって愛や性のシステムが活発に動き出すというのが面白い。視覚優位のメディアの現代に、私たちは毎日、無数のセックスアピールを目にしている。そこにはたくさんの美人の顔がある。
美人は平均顔だといわれてきたが、実は最近の研究では、
平均顔 中間的美人顔 超美人顔
の3種類を作って実験すると、絶世の美人よりも親しみやすいちょっとだけ美人の中間的美人顔が好まれるそうだ。おにゃん子クラブやAKB48などのお茶の間のアイドルが流行る理由がここらへんにありそうだ。
男性の顔の場合、いかにも男性的な濃い顔と女性的な顔を女性被験者に見せると「やや女性的な顔」が好まれたという。女性は、男性に対して強いだけでなく、浮気せずに家庭を大事にしそうな男性を選ぶ進化戦略をとるかららしい。ただし、一部女性の中には男性っぽい顔を選んだグループがいた。それは自分の魅力に自信のあるグループ。
「自分の魅力に自信のある女性は、男性の見方がふつうの女性と異なることがわかる。自分の魅力に自信のある女性は、男性の男っぽさのプレッシャーをはねのける自信があるのだろう。」
ということは、濃い顔でハンサムな男性は強気な美女を連れている可能性が高い?薄めのハンサムくんは親しみやすいちょっと美人な女性を連れている可能性が高い?。まあ、そういわれればそう、かなあ...。
「噂とは、話し手と聞き手にとって重要か関心が高いとみなされ、真実と証明されずに世間に流布している情報である。噂は曖昧な状況か、あるいは脅威に直面しているか将来の脅威が予想される状況で生じる。噂は曖昧な状況を理解するか、脅威に対処するために用いられる。」
噂を検証するさまざまな社会心理学実験の結果が示唆に富んでいる。株式取引をする人たちを想定した実験では「新聞の第一面や噂を与えられたグループ」よりも「与えられなかったグループ」のほうがよい取引成績をあげた。良いニュースが出ると株価が上がる。悪いニュースでは下がる。しかしニュースが株価と連動しているのは、経済ジャーナリストがその日の値動きとつじつまのあうニュースで説明するからに過ぎない。多くの人がニュースに惑わされて、安く買って高く売るという株式取引の鉄則を守れなくなっていたのだという。「ニュースがないのは良い知らせ」だったのだ。
望み、恐れ、憎しみという人間の強い感情によって「願望の噂」「恐怖の噂」「くさびを打ち込む噂」の3種類の噂が世の中を飛びまわっている。噂の流布量=話題の重要さ×曖昧さ というオルポートの噂の法則にしたがって、私たちにとって切実な事柄に関して噂はでまわりやすい宿命を持つわけだ。
組織内を流れる噂は正確であるというのは面白い発見だ。第二次世界大戦時の米国陸軍では「主要な作戦行動や転属、上層部の変化について、正式発表の前にすでに正確な情報が流れていた」ことが検証されている。現代の英仏の企業の従業員の67%が「重要な情報はまず噂で聞く」そうだ。組織内の噂は外の噂よりも正確である確率が高い傾向がみられる。
一方で業界の噂はどうか。ウォールストリートジャーナルに掲載された企業買収の噂の実現度は43%。ゲーム情報誌のゴシップコラムに掲載されたコンピュータゲームの噂が真実になったのは約50%。噂は「まったくかほとんど正確」あるいは「まったくかほとんど不正確」。そして正確な噂は時間が経つにつれて一層正確度を増し、不正確な噂は逆に一層不正確に変化していくこと(「噂のマタイ効果」)がわかったという。
話し合いが歪みを緩和する。記憶の限界で細部が失われる。ステレオタイプに一致しない噂は削除される。両方の視点を持つ者は削除される。噂の変化にはさまざまなバイアスがはたらいている。そのバイアスが噂のマタイ効果を強化する。
そしてウェブはこのマタイ効果を増幅する装置にもなっているそうだ。たとえば政治系ブログではリベラルなブログはリベラルなブログにリンクしている。保守的なブログは保守的なブログにリンクする。イデオロギーを超えるリンクは全体の10%程度でしかなく、リンクをたどって議論を読んでいけば、政治的傾向は強化されるばかり。インターネットが意見の多様性を促すとは限らないという実証だ。
著者は「噂は世界を共同で理解する手段」とポジティブに評価しているが、大災害やテロが身近にある現代では、噂の取り扱いは生死にかかわる能力になってきている。うわさとデマ 口コミの科学は学校でも教えるべきだ。
集団サイズと新皮質の大きさは比例する。研究の結果、人類の脳が扱う最適な集団の人数は150人。ロバート・ダンバーは、部族社会の村や氏族、軍隊の中隊、成功している工場など、人類の基本的集団の構成員が150人前後であることを明らかにした。これが気のおけない人間関係を維持する認知限界なのだ。(ダンバーはその前後規模の集団も認め、5,15,50,150,500,1500、5000とネットワークは3の倍数になるともいう。Facebookの5000人上限はこれに由来したりして?)
人間が他者を思いやる能力の基礎には「心の理論」がある。他者の心のうちを客観的に想像する能力のこと。この能力があるから、小説も科学も宗教も成り立つわけだが、意識水準の高次化が人間の高度な文化を生み出しているという。
自分の意図を認識することが一次志向意識水準。自分の意図を認識したうえで、相手の意図を見透かすのが二次志向水準。サルや三歳児は相手を欺くことができるが、せいぜい二次である。人間はゴッコ遊びができるようになって少しずつ水準が上がっていく。物語は高次意識水準の産物だ。登場人物が増えたり、観客を意識したりすれば、さらに高次の志向水準が必要になってくる。シェイクスピアの戯曲ではおよそ第6次水準あたりまで脳を駆使することになるそうだ。
「もっともほとんどの人は、五次志向水準までが能力の限界だろう。偉大なストーリーテラーは、その限界ぎりぎりのところまで観客を押しやって心を揺さぶり、感情をかきたてる。そのためには作者自身が六次志向意識水準まで持つ必要があるが、それができる人間は全体の四分の一もいるかどうか。やっぱりシェイクスピアは天才なのだ。」
生物の脳が進化する理由の一つが性淘汰で有利になるためだが、人間の脳が発達したのは一雌一雄関係を保つためではないかと著者は考えている。ひとりのパートナーと長く安定した関係を続けることが脳を進化させた。事実「浮気好きな種の脳は小さい」からだ。高次の意識志向水準がもてる人は、話が面白いだろうし、思いやりが深くて優しい人ということにもなるか。
脳の大きさ、認知の限界、人間関係の複雑さ、集団の数というロジックでダンバー数150は導き出される。有名な150人説だけでなく、進化人類学の観点から、人間集団に現れるパターンや性質を多様な視点から一般向けにわかりやすく論じている。
「大事なのは「あがり」のコントロールです。心臓のドキドキは大き過ぎると課題の達成に差し障りますが、最適な状態に保つことができれば、反対にあなたの力になります。」
あがりの正体を知り対処法を身につける。あがり研究が専門の心理学者の本。面接、プレゼン、スピーチ、スポーツ競技などさまざまなシーンでのあがり対策をとりあげる。
自意識と対人不安がまねくあがり。集団の調和を大切にする日本人の対人不安の値はアメリカ人より高いそうだ。日本の教育では人前でのスピーチの訓練や実践の機会が少ないという理由もあるだろう。泣きながら震えながらプレゼンする大学生のあがりをときどき見る。
あがりは生理的覚醒(心臓のドキドキや体の震え)と認知的不安(嫌な考え)によって起こるもので、いかにこの二つの要素をコントロールするかが大切だと著者は結論している。
あがっている状態で行ったパフォーマンスのうち約50%は成功していたという調査結果もあって、ある程度の興奮と覚醒はプラスに働くことがわかっている。これは誰しも経験的に納得できる話だろう。いいパフォーマンスにはノリが必要だし、本番の緊張感が能力を引き出すことも多い。
研究的には、
・生理的覚醒が低いときは認知的不安がパフォーマンスを引き上げる
・生理的覚醒が高いときは認知的不安がパフォーマンスを引き下げる
という関係があって、
認知的不安が最低値、生理的覚醒が50%のときに最高のパフォーマンスが出せる
という状態が好ましいそうだ。
一度あがりで低下したパフォーマンスが元に戻らず調子が「崩れた」モードに入ってしまう「ヒステリシス現象」もあるというから恐ろしい。こういうプレゼンの大失敗事例、年に1回くらい見る。
ゲームの難易度が高いとき、聴衆の応援はプレッシャーとなってパフォーマンスを低下させる。ゲームの難易度が低い場合は大きな差がない。実はホームよりアウェイの方がプレイヤーは実力を発揮しやすい。というデータもあった。
自己暗示、運動、イメージトレーニング、積極的な思考、無関係な行動、回避、開き直りという「あがり」への代表的対処法7つを検証した結果、イメージトレーニングのみが良い効果を示す。想像上で行うリハーサルがあがりの制御につながるという。
私もときどきあがる。具体的には社外の重要な会議で手が震えることがある。アイデアが頭の中にあって早くそれを話したいが、話に割り込むチャンスがなかなかないときに起きる。出番待ちの恐怖感。手の震えを周囲に知られたくないので、無意味にペンやノートをいじったりして順番を待つ。ここで自然を装う自分が不自然に見えているのではないかという不安が頭に浮かぶと、崩れモードに入ってしまう。
「相手に欠点が伝わってしまう感覚を「自我漏洩感」といいます。たとえば笑顔を作ろうとしたものの、かえって引きつってしまい、無理をしているのが話し相手にばれてしまったと感じたことがないでしょうか。」
ああ、まさに自分の場合の話だなあと思える図星の指摘、確かにあるあるという納得のデータがいっぱいの良書だった。すぐあがってしまうという人、これからプレゼンが増えるという人、おすすめ。
ソーシャルネットワークとコミュニケーション重視の時代の問題提起。
「家族や仲間の承認のみを求め、それ以外の人々の承認を求めないのは、多くの人間の賞賛を求める野心とは無縁な、ある意味で堅実な生き方のように思えるかもしれない。理解してくれる人が少しでもいればそれでいい、という思いも十分に理解できる。しかし、見知らぬ大勢の人々の承認など不要だとしても、自らの行為に価値があるのかないのか、正しいのか間違っているのかについて、身近な人間から承認されるか否かのみで判断し、それ以外の人々の判断を考慮しないとしたら、それはとても危険な考え方である。」
価値ある行為を行う、それに対して、他者から承認を受ける。この基本ルールでの人間の成長が難しくなってきている。価値観の多様化によって社会共通の価値観が崩れ、「価値ある行為」が限定的なものになってしまったことに原因がある、と著者はいう。だから現代人は、見知らぬ他者の承認を意識から排除して、身近な人々の言動ばかりを気にする。「価値ある行為」よりもコミュニケーション能力が重要で、内輪の空気を読むコミュニケーションに終始する「空虚な承認ゲーム」の時代になったと現代を定義している。
だから現代では「個人の自由」と「社会の承認」の葛藤ではなく、「個人の自由」と「身近な人間の承認」の葛藤がある。著者は、心の発達には3つの他者と承認があるという。
親和的他者 愛と信頼の関係にある他者
集団的他者 集団的役割関係にある他者
一般的他者 社会的関係にある他者一般の表象
子供はまず親による親和的他者の承認から価値を学び、やがて仲間や学校における集団的価値を学び、社会一般の価値を学んでいく。そして人間関係が広がるにつれて「一般的他者の視点」を身につけて成熟した社会人となる。三つの承認の相補的関係で人間は育ってきたのである。
「価値観の相対化という時代の波のなかで、多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い、事故価値への直接的な他者の承認を渇望しはじめている。そして身近な人々の承認に拘泥したコミュニケーションを繰り返した結果、極度のストレスを抱えたり、その承認を獲得することができず、虚無感や抑うつ感に襲われている。」
この傾向には、ソーシャルネットワークの内側に閉じこもることが容易になっていることもあるだろう。インターネットは世界と向き合うこともできるが、逆に仲間内に閉じこもることもできる。親和的他者と集団的他者のレベルにひきこもり、空虚な承認ゲームで過ごすことが容易になっている。
多様化の時代でも「努力」「やさしさ」「勇気」「忍耐力」「ユーモア」、道徳的価値の普遍性はまだ共通了解として残されているから、そこらへんを足がかりに一般的他者の視点へと至る道が重要、と提言している。
そうだなあと思う反面で、しかし、この問題、あまり心配するようなことではないのかもしれないとも思う。優しい関係を大切にするようになったことは悪いことではないし、これに対する反動が昨今の若手の社会起業家活動の背景にあるようにも思える。
若者の価値観の多様化と普遍的価値観の喪失を嘆くのは、自分たちの声が届かなくなることに対する古い権威たちの嘆きだともいえるだろう。