Books-Philosophy: 2010年7月アーカイブ

・クオリア・テクニカの世界
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茂木健一郎のエッセイ集。表紙は河口洋一郎のCG。

『Nature Interface』誌連載をまとめたもの。タイトルのクオリア・テクニカとは、

「街頭テレビ、コンピュータゲーム、ケイタイ電話。新しいテクノロジーが登場する度に、人々を熱狂させたものは、便利さや速さやパワーではなく、それまでにないクオリアとの出会いだったのではないか。 環境や身体といった、伝統的な自然の中から生まれてくる質感が「クオリア・ナチュラレ」(自然のクオリア)だとすれば、テクノロジーの生み出す新しい質感は、「クオリア・テクニカ」(技術のクオリア)である。」

というもの、つまり、つくりものの質感のことである。都会に住んでいると、人は360度、人工物に囲まれている。さらにパソコンで仕事をする人、ゲームが好きな人、ケータイ中毒の人は長時間を、画面の中、仮想世界の中で過ごしている。人生の大半はクオリア・テクニカの世界なのだ。つくりものには違いないが、人間にとってもはやこれは本質的なものであることは間違いない。

著者は、「人間の肌のしっとりとした様子、ガラスのコップの透明な照り輝き、風に吹かれて揺れる若葉の緑、といった鮮烈なクオリアは、主観的には、どう考えてもある有限の数値で置き換えられるようには思えない。しかし、有限のビットのデジタル信号に基づく情報処理により、生々しいクオリアを感じさせることが技術的には可能である以上、そのようなクオリアも、客観的な立場からは、ある数字にマッピングが可能である、ということになる。」という。

ブルーレイやDVDの映像に私たちは感動する。リアリティを感じさせるのに有限のビットで十分なのだ。ラブプラスの二次元彼女にだって人は本気で萌える(これは一部限定ですが)。デジタルの表現力、バーチャルの可能性は無限に等しいということだろう。有限のビット数がきっかけになって脳にその情報以上のものが生み出されていくからだ。

脳におけるクオリアのはたらきの考察、創造性、イノベーション、インターネット、文明論など著者らしいテーマが続く。4ページで1つの短いエッセイが27本。どれも気づきのエッセンスだけなので、さらっと読めるが、それぞれじっくり考えさせられる内容。創造的な未来へ向かう提言も多い。

私は「イノベーションとセレンディピティ」がよかった。

「セレンディピティという概念が、現代的な文脈で注目される理由は、今日においても、イノベーションは必ずしも対象に関しての完全な知識に基づいて切り拓かれるわけではないからである。「やってみないとわからない」とよくいわれるが、まさに、十分な知識がない状態でも、知識がないからこそ、実験すること、試作してみることには意味がある。知識に基づいて新たな技術がトップダウンによって創りだされるということはむしろ稀であり、知識がないままにとりあえず「やってみる」ことで多くのイノベーションが達成されているのが実感であると考えられるのである。」

情報化の時代は、いろいろなことが、やってみるまえにわかってしまう。だからこそ、やってみることの価値、やってみないとわからないことの可能性があるのだと思う。クオリアの非加算性ということと似ている。