Books-Philosophy: 2010年3月アーカイブ
孤高の天才科学哲学者ファイヤアーベントの代表作。知のアナーキズム。ゲーデルの不完全性定理やドーキンスの生命機械論並みに、人生観を変えるくらいのインパクトがある本。
「科学は本質的にアナーキスト的な営為である。すなわち理論的アナーキズムは、これに代わる法と秩序による諸方策よりも人間主義的であり、また一層確実に進歩を助長する。」よって、進歩を妨げない唯一の原理は、anything goes(なんでもかまわない)であるというのがこの本の理論である。
ファイヤアーベントは、科学は一般にどこまでも合理的と考えられているが、実は神話に近いものであり、人類の数多くの思考形式のひとつに過ぎず、特別なもの、最良なものというわけではないと論ずる。なぜなら科学の進歩は、古い合理性の外側からやってきた非合理な発見によって牽引されてきたからである。
「繰り返して言うが、この束縛解放の実践は、単に科学史上の事実であるというだけではない。それは理にかなっていると同時に、知識の発展のために絶対的に必要とされるものである。もっと詳しく言うと、次のことを示すことができる。すなわち、科学にとってどんなに「基本的」であれ、ないしは「必要な」ものであれ、ある規則があったとすると、単にその規則を無視することのみならず、その反対のものを採用することが賢明であるような、そうした状況が必ずあるのである。」
あらゆる方法論が普遍の地位を与えられてはならず、狂気や遊戯、トンデモ科学やきまぐれのようなハチャメチャさにこそ、方法論が真に進化する可能性が秘められているという。秩序ではなく無秩序こそ重要ということになる。
「これらの「逸脱」、これらの「誤謬」は進歩の必要条件なのである。それらはわれわれが住んでいる複雑で困難な世界の中で知識が生きのびることを可能にし、われわれが自由で幸せな行為主体であることを可能にする。「混沌」がなければ、知識はない。理性の度重なる解任がなければ、進歩はない。今日科学の他ならぬその基礎を形成している観念は、ひとえに、先入見、うぬぼれ、情熱のようなものが存在したために、現存しているのである。」
発見の文脈と正当化の文脈の区別、観察語と理論語との区別、共約不可能性といった観点から、完全に合理的で普遍的な方法論よりも、アナーキーになんでもありの方法論の方が、知識の発展において価値があるということを証明していく。結構な大著だが、全体が理性という権威に対する反抗の意思に満ちており、とても血の騒ぐ熱い本である。
遊びや例外はいつだってなきゃいけないのである、それこそ本質なのである、四角定規でなんでも測れると思ったら大間違いなのである。「あらゆる方法論は限界をもち、生き残る唯一の「規則」は「なんでもかまわない(だから好きなようにしろ)なのである。」だそうだ。秩序のない現代にドロップキック万歳。
・理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 -
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/10/post-1099.html
・パラダイムとは何か クーンの科学史革命
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/post-1150.html
・知識の社会史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1069.html
ショーペンハウエルによれば知性とは普遍的な事柄の認識能力である。知識欲が普遍へ向かうと学究心と呼ばれ、個別へ向かえば好奇心になる。個別への関心は動物でもあるが、普遍をとらえるのは人間だけである。だからその普遍度が哲学や芸術のように高ければ高いほど知的レベルが高い、とする。逆に知性が欲望を満たすことや実践的な物事の処理に奉仕するのは、低レベルな知性だという。
そして世の中を大多数の凡人と、一握りの天才にわける。
「大多数の人間は、その本性上、飲食と性交以外の何事にも真剣になれないという性質をもっている。この連中は、希有の崇高な資質の持ち主が、宗教や学問や芸術の形で世の中にもたらしてきたすべてのものを、たいていは自分の仮面として用いて、ただちに彼らの低級な目的のための道具として利用することになる。」
つまりショウペンハウエルに言わせれば"プロ"や"MBA"は知性のうちに入らない。ただの"学者"も失格扱い。そういう世俗で役立つことに役立っちゃうようではまだまだレベルが低いのだ。本書の天才は1億人に1人という記述もあったくらいで、著者の志はとてつもなく高い。
じゃあ、どうやったら天才に近づけるのか?。それは世俗との断絶だと答えている。
「独創的で非凡な、場合によっては不朽であるような思想を抱くためには、しばらくの間世間と事物とに対して全然没交渉になり、その結果、ごくありふれた物事や出来事さえも、まったく新しい未知の姿で現れてくるというようにすれば、それで足りるのである。というのは、まさにこのことによって、それらの物事の真の本質が開示されるからである。しかしながら、ここで求められる条件は、困難であるどころか、決してわれわれの自由にならないものなのであり、ほかでもなく、天才のはたらきなのである。」
誰からも教わることなく、自らうみだした知識を人類に教えるのが、そうした天才の役割だと説く。凡人の知性は日常にしばられているから、解放しないとだめなのだ。どんだけ高みを目指しているんだあんたはという感じである。
私はショーペンハウエルの拗ねた哲学がときどき無性に読みたくなる。不遇のショーペンハウエルは自身をその天才の一人と認識して書いているのは間違いないように思う。圧倒的な知性を持った拗ね者の独白として、その背景の心理に着目して読むと、ショーペンハウエルの厭世哲学はなんだか非常に人間的で、実は弱者的で、共感するところもいっぱいの、おもしろさを感じてしまう。
・読書について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/01/post-913.html