Books-Philosophy: 2009年1月アーカイブ
「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。」
ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)が残した内省の記録。彼は多忙な君主としての公務の合間に、心に浮かんだ感慨、思想、自戒の言葉をノートに書き綴る習慣があった。ストア哲学に傾倒したマルクスの言葉は、どれも真摯な真理の探究であり胸に響くものが多い。
「すべてかりそめにすぎない。おぼえる者もおぼえられる者も。」
悔いの残らぬよう今を精一杯に生きろ、宇宙や自然の法則には逆らわず、喜んで受け容れ、徳の高い生き方をせよ、自分に対しても他者に対しても誠実であれ、など生真面目な自戒の文句が続く。
「突然ひとに「今君はなにを考えているのか」と尋ねられても、即座に正直にこれこれと答えることができるような、そんなことのみ考えるよう自分を習慣づけなくてはならない。」
心の中までキレイにすべきなのである。
「明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか?(以下略)」
寝坊している場合じゃないのである。
そして一番感銘したのはこれかな。
「君の頭の鋭さは人が感心しうるほどのものではない。よろしい。しかし「私は生まれつきそんな才能を持ち合わせていない」と君がいうわけにはいかないものがほかに沢山ある。それを発揮せよ、なぜならそれはみな君次第なのだから、たとえば誠実、謹厳、忍苦、享楽的でないこと、運命に対して呟かぬこと、寡欲、親切、自由、単純、真面目、高邁な精神、今すでに君がどれだけ沢山の徳を発揮しうるかを自覚しないのか。こういう徳に関しては生まれつきそういう能力を持っていないとか、適していないとかいい逃れをするわけにはいかないのだ。それなのに君はなお自ら甘んじて低いところに留まっているのか。」
驚くべきことにこれらの言葉は、時の最高権力者が、他者に教えを垂れているのではなくて、自分自身に厳しく問いかけるための言葉だったのだ。現代にはこんなに内面から徳の高いリーダーがいるだろうか。
大正から昭和の初めまでの5年間、日本に滞在したドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは、高名な師範に弟子入りして弓術を教わった。その学びは西洋の合理性と論理性、日本の非合理性と直観性とがぶつかりあい、やがて融合していくプロセスになった。ヘリゲルは弓術五段を得てから帰国し、祖国で弓術の習得体験を通して東西文化の本質を突く講演を行った。これはその記録である。
ヘリゲルは最初は当然のように意志の力で身体を制御しようと試みた。注意深く師の動きを観察して、正しい弓の引き方を会得しようとする。だがうまくいかない。深く悩む弟子に師範はこう教えを垂れる。
「あなたがそんな立派な意志をもっていることが、かえってあなたの第一の誤りになっている。あなたは頃合よしと感じるあるいは考える時に、矢を射放とうと思う。あなたは意志をもって右手を開く。つまりその際あなたは意識的である。あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを、学ばなければならない。」
的に矢を当てようとしてはいけない。腕の力でなく心で弓を引けという師の言葉に、合理性の国からやってきたヘリゲルは戸惑うが、やがて熱心な研鑽の日々を経て、日本の一見非合理な精神性の文化に、西欧の合理性文化をも超越した真理を見いだすに至る。技術の修練を通して無心の境地に至ったものだけが体得する暗黙知の世界を発見したのだ。
それは言葉に出来ない極意を伝授するための、禅にも通じるような神秘的修練方法なのだとヘリゲルは語る。言葉や論理で伝達できるものの限界と、それを超える無心の境地が日本文化の根底にあることを自国の人々に伝えようとする。
「言葉に言い表すことのできない、一切の哲学的思弁の以前にある神秘的存在の内容を理解することほど、ヨーロッパ人にとって縁遠いものはない。すべての真の神秘説に関しては経験こそ主要事であり、経験したことを意識的に所有することは二の次であり、解釈し組織することは末の末であるということをヨーロッパ人はわきまえていない。」
ヘリゲルは日本人の精神的態度、生活様式の根底に潜む非合理性と直観性を幼稚で未熟なものではなく、合理性の限界を超えた次元にあるものとして高く評価した。この本が書かれてから戦後半世紀以上の西洋的な教育を経て、現代の日本人はむしろ当時の聴衆の感覚に近いかも知れない。ヘリゲルの講演によって日本文化の本質を再認識させられる。