Books-Philosophy: 2008年6月アーカイブ
数学と構造主義の歴史を再評価する本。
ニコラ・ブルバキ。1886年、モルダヴィア出身。1935年から最近までに「数学原論」をはじめ総計で1万ページ以上の数学の教科書を執筆した天才数学者の名前である。ブルバキのカバー範囲は幅広い。集合論、代数、位相、実一変数関数、位相線型空間、積分、リー群とリー環、可換代数、多様体、スペクトル論など、抽象性の高い数学原理を追究した。人間業とは思えない知的業績には秘密がある。ブルバキの正体は一人の人間ではなくて、アンドレ・ヴェイユらが結成したフランスの若手数学者の集団なのだった。
ブルバキは"今後2000年間にわたって通用する"新たなユークリッドの原論を作り出すことを目指した。彼らは厳密に原論の公理を定義していった。たとえば点と集合については「ある決まった"性質"」を持ち、それ自身や他の集合の要素との間にある決まった"関係"を持つことのできる"要素"から構成されるものを。"集合"と呼ぶ」といった具合に。
ブルバキの研究内容は極めて抽象的であった。彼らは実際の数字をあてはめて計算するいうプロセスをほとんど無視して、高度に一般化された数学世界を構築していた。彼らは事象の背後にある関係性=構造にこそ真理を見いだしていたのである。ブルバキはそうした構造の規則を「構成」「近接」「順序」「等価」と定義している。
時代は当初は彼らに味方した。ブルバキの最盛期は、まさに実存主義に代わって、関係性を重視する構造主義思想が、あらゆる学術分野に影響を及ぼし始めた時期だった。ブルバキの数学は、自然や社会現象の背後にある構造を数学的に証明するための強力なツールとなることができた。
「ピアジェの考えでは、数理科学は"人間の科学"を含めたあらゆる科学の基礎であり、その数学は人間の精神に隠された構造に基づいているという。ピアジェは、人間の精神の内部的仕組みを理解するために、ブルバキの説く構造を重要な要素として利用した。これら構造は脳の仕組みを決定するだけでなく、レヴィ=ストロースが示したように、社会的行動に対する脳の影響を通じて社会全体の振る舞いをも左右するのである。」
ところが、ブルバキの栄光はわずかの期間しか続かなかった。彼らは抽象的であるが故に成功したが、同時にそれは失敗の原因ともなった。20世紀後半の数学においてブルバキの業績はじわじわと色褪せていき、やがて振り返る者はいなくなってしまった。
「進歩というものは、個別から一般へと進んでいくものだ。数学者はたいてい、まずは特定の問題や定理から取り掛かり、それが解決できた後で、一般化が可能かどうか見極める。一般性は、より大きな力、より大きな意義、そしてはるかに大きな重要性を意味する。だが、一般的な命題から出発する者など、めったにいないのである。 もう一つ問題となるのが、抽象性と厳密さだ。数学においては、結果が正しく、証明の中に抜けているステップや間違っているステップがないことを保証するには、抽象性と厳密さが必要不可欠である。もちろん、これは数学の持つ極めて重要な側面で、それを広めたという点ではブルバキを高く評価すべきだ。しかし、抽象性と厳密さはあくまで道具であって、それを目的にしてはならない。ブルバキの著作では、抽象性が目的へ変わり、厳密さが全体を支配して、直感や一般的な理解の隙の入る余地さえも残されていないことがしばしばである。」
ここを読んで思ったのだが、プログラミングの世界でもブルバキ的な落とし穴は多いのではないかということだ。抽象性と厳密性を高めることを強く意識しすぎて、実装のことが忘れられていると、それはよいコードとは言えないのではないか。孤高すぎて誰にも使われないコードはブルバキの数学のように死滅してしまう気がする。
タイトルにブルバキと並んだアレクサンドル・グロタンディークは、ユダヤ系フランス人の数学者。アインシュタインと比較されるほどの明晰な頭脳を持つが、天才にありがちな変わり者。ブルバキに参加して大きな影響を与えたが、やがて衝突して脱退し、政治活動にのめり込み数学界からも離れ、1991年にはピレネー山脈に独り隠遁してしまって以来、生死も定かではない。
歴史的には、ブルバキとグロタンディークという二人(一人はバーチャルだが)の数学者が台頭し消えていった半世紀は、構造主義がつぼみから花開いてしおれていった時代であった。言語学や人類学など文系の思想と思われがちな構造主義だが、ブルバキの数学が与えた影響も大きかったことがよくわかった。構造主義の数学的根拠を具体的に知ることが出来る、文系のための理系史である。
・ソシュールと言語学
http://www.ringolab.com/note/daiya/2005/01/post-189.html
・レヴィ=ストロース―構造 現代思想の冒険者たちSelect
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000240.html