Books-Fiction: 2011年2月アーカイブ
「僕が3歳のとき
父が亡くなり
その後は母が女手ひとつで
僕を育ててくれた
仕事から帰ってきた母は
疲れた顔も見せずに晩ごはんをつくり
晩ごはんを食べた後は
内職をした
毎晩 遅くまでやっていた」
ストレートなお涙頂戴ものは苦手なんだよなあと思いながら、冒頭部分を読み始めたのだが、中盤から予想外のひねりが効いていて、人を信じることの大切さというメッセージに、うっかり感動してしまった。
Youtubeで130万人以上が視聴したという写真とテキストの物語の書籍化。ミリオンセラーの『鏡の法則』の著者によるビジュアルブック。15分で読むことができて、15分くらい余韻に浸れる。
信頼の大切さを切々と伝える内容なので、勇気づけたい人への個人的なプレゼントにもよいし、会社や団体などで休憩場所に置いておくといいかもしれない。
第144回芥川賞受賞作。
母親が管理人をつとめていた葉山の別荘で、東京からやってきた七つ下の貴子の家族と過ごした二十五年前の少女時代を思い出す永遠子。
「にやにやと貴子が笑う。永遠子も、これはどっちの足だと、貴子の足をくすぐりかえす。貴子が永遠子の頬をかむ。永遠子が貴子の腕をかむ。たがいの歯型で頬も腕も赤らむ。素肌をあわせ、貴子の肌のうえに永遠子の肌がかさなり永遠子の肌のうえに貴子がかさなる。しだいに二本ずつのたがいの腕や足、髪の毛や影までがしまいにたがいちがいにからまって、どちらがおたがいのものかわからなくなってゆく。永遠子が貴子の足と思って自分の足をくすぐり、貴子も永遠子の足と思って間違える。」
分別がつくという言葉があるが、大人になるとは、自己と他者を分ける、幼い自分と別れるというプロセスといえる。"きことわ"はそれができていない未分化の、幸福な子供時代の状態だ。
「貴子は、自分が母親に会えないのは、母親にみられている夢の人だからではないかと思った。母親が起きている間貴子は眠り、貴子が起きている間母親は貴子の夢をみている。自分は夢にみられた人なのだから、夢をいつまでもみないのではないかと、それこそ夢のようなことを、とぎれとぎれの意識のなかで思っていた。」
時がすぎて永遠子は今、四十歳で小学生の娘もいる。解体が決まった別荘の片付けのため、葉山にやってきた永遠子は、今でも思い出のなかでは今もひとつに溶け合っている貴子と再会する。現在と過去、現実と夢が曖昧になる永遠子の揺らぐ意識は、ふわふわとしていて、時制さえとらえどころがない。
曖昧な意識、夢遊病みたいな感覚を味わえる。
第144回芥川賞受賞作品。
中卒フリーターが港湾労働者として日雇い仕事に従事する鬱々とした日々を淡々と描いた。金も女も友もなく日給5500円稼いでは怠惰に暮らす主人公は、かなりの部分が著者の分身らしい。しかし蟹工船、女工哀史的なプロレタリアート文学とは趣が違う。この人は格差社会の犠牲者というよりは向上心に欠ける典型的なダメ人間である。そのダメ人間の、時代錯誤文体による自虐コメディというのが、この作品の本質だろうか。
西村賢太は藤澤清造という大正時代の作家に心酔していて、プロフィールにも「藤澤清造全集」の刊行を準備中とある。『苦役列車』でも野間文芸賞受賞の『暗渠の宿』でも、主人公が藤澤清造研究に執着するシーンが書かれている。この藤澤という作家は小卒(西村は中卒)で、貧困にあえぎながら貧困小説を書いていた。文壇ではずっと不遇で昭和の初めに性病で倒れて冬の芝公園で野たれ死んだ、という知る人ぞ知る存在である。風俗が好きで貧乏暮しの西村自身と共通点が多いようだ(でも、西村氏は芥川賞作家になってしまったが...。)。
この作品は古臭い言い回しの混じる独特の文体が読んでいてなんとも可笑しい。同時収録作品も『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』だし...それこそ大正時代の藤澤清造らの文学の影響を受けているものなのかもしれない。鬱な描写が多いのに、重たくならずに読めるのは、この時代錯誤感覚というユーモアセンスが大きいと思う。
そして、この人の最大のウリは、劣等感から生まれる創造性であり、負け犬根性から生まれる諧謔精神だ。たとえば『暗渠の宿』では、もてなかった主人公がやっとのことで彼女を得るのだが、その彼女の元彼のことが気になって仕方がない。
「それを思うと、ふいと私は、不当にその男の後塵を拝しているような、えも云われぬたまらない口惜しさを覚えてくる。それに何よりその男は、うまうまと私の女の処女を破ったのである。そして私の女の、一番輝いている時期の心を独占し、一番みずみずしい時期の肉体を隅々まで占有し、交際期間から併せて都合七、八年もそれらを堪能して、さんざおいしい思いをし続けたのちに、これを弊履のごとく捨てたのである。そしてその男にしてみれば充分貪り尽くしたと云えるこの女を、私は、私に与えられた最後の砦として、随喜の涙を流して抱きしめているのである。その図を考えたとき、ただでさえインフェリオリティーコンプレックスの狂人レベルな私にしてみれば、およそ男としての根幹的な部分からわき上がってくる云いようのない屈辱感に、血が頭に熱く逆流してくる」
自らの惨めな境遇を徹底的に言語化する競技なんていうものがあったら、この作家はオリンピック級である。その過激な自虐ぶりが常人の同情とかを寄せ付けないレベルにまで高められていて、読者はもはや笑うしかないのである。
性愛をテーマにした大人の恋愛小説。タイトルは直訳すると大人の教育。授業内容は、各章のタイトルと英語の副題から読みとれる。
1 あと少しの忍耐 Patience 2 それでも前へ進め Advance
3 あなたのための秘密 Secret 4 最後の一線 Moral
5 これでおあいこ Forgiveness 6 言葉はいらない Conversation
7 不死鳥の羽ばたき Independence 8 聖夜の指先 Gift
9 哀しい生きもの Life 10 ひとりの時間 Lonliness
11 罪の効用 Modesty 12 誰も知らない私 Reborn
登場する男性はだいたい薄っぺらくて自分勝手で頼りない。自律した女性が求める一時の癒しの道具みたいに扱われる。男性というのはもはや制御可能なものになっているが、自らの欲望は制御ができないものとして残される。それをどう飼いならすかの、スリリングな物語集。
アブノーマルな領域にも踏み込んでいて、表現的に官能小説と純文学の境界線上にある大人の短編集。
江戸を舞台に「伏(ふせ)」を狩る猟師の妹 浜路と兄の浪人 道節、そして贋作 里見八犬伝の作者 滝沢冥土の活躍を描く。桜庭一樹の最新作。東京大阪新幹線の往復で470ページを一気読みした。
伏とは、犬の血を引く魔物。見かけは人間そっくりで、普段は人間社会に紛れて暮らしている。身体の何処かに秘密の痣があるのが特徴。半分獣の伏たちは、野生の本能が目覚めると、凶暴に人を襲い、疾風のように去っていく。次々に起きる襲撃事件に、幕府は懸賞金をかけて伏退治に乗り出した。
里見八犬伝の著者の滝沢馬琴の息子、冥土が書く、もうひとつの八犬伝が物語に絡む。里見家の伏姫と不思議な白犬八房から生まれた因縁の一族が伏で、里見一族に伝わる正義の秘剣村雨が戦いの鍵を握る冒険活劇。本線はドタバタだが、サイドストーリーとして語られる伏たちの呪われた出自と暗い情念が魅力的。
桜庭一樹の赤朽葉家、私の男などの代表作と比べると、軽い語り口でスピーディに話が展開する。この作品はかなりの長編なのだが、ここから始まる壮大な物語のプロローグに過ぎないらしい。何十巻も続く漫画の原作っぽいなあと思ったら、現実にアニメ映画になることも決まっているらしい。アニメが成功すると、一般にはこれが桜庭一樹の代表作ということになってしまう、のかなあ。ファンとしてはちょっと複雑な気分である。解決していない伏線が多くあって、気になるので、続編が出たら読むに違いないのだが。
・赤朽葉家の伝説
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/07/post-611.html
鎌倉に近い海辺の町。孤独な少年 慎一と春也は放課後、秘密の潮だまりでヤドカリを生きたまま焼く儀式にはまっている。ヤドカミさまに願えばなんでも願い事がかなう。いつしか少年たちは、自ら創造した神に頼るようになっていた。
「お前、あんまし腹ん中で、妙なもん育てんなよ」と祖父は言うが、祖父自身が過去の不幸な事件の因縁にとらわれて生きていることに、慎一は気がついている。この作品の登場人物達は何かしら重いものを心に抱えている。
匿名で出される慎一への嫌がらせの手紙、友人が受けている家庭内暴力、独身の母に見え隠れする男の影、同級生の女子 鳴海との複雑な関係。浄化されない潮だまりのように、暗い情念が澱んで濃度を増し、不穏な何かを生み出そうとしていた。
少年少女の繊細な心理描写と、平穏な日常の中に育つ不穏を描くのが実にうまい作品。陰気な少年たちの遊びの儀式が、状況の進行とともに緊張感を増していって、焼き殺されるヤドカリのように破裂する終盤まで、飽きさせずに読ませる。緊迫するが猟奇的なオチではなくて、少年の心の成長を描く救いのある方向で終わるのが、私は高評価。
第144回直木賞受賞作。
・光媒の花
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/07/post-1255.html
「危険!ページをめくるなら、その代償を支払う覚悟をせよ!」
1960年代のアメリカ。9歳の少女ペットは三姉妹の末娘。姉のジェーンと一緒に空想の世界に遊んだり、宝物集めをするのが好き。長女のディーンは非行に走って警察の厄介になっている。両親はディーンの起こしたトラブルから逃げるように、二人の娘を連れて長期のドライブ旅行に出発する。ペットは途中、立ち寄ったディズニーランドでひとりぼっちになったとき、あるはずのないアトラクション「サミーのスノーランド」に迷い込む。
サミーのスノーランドでは、「これはたいていの人が見るもの。」と「でも、こんなふうにも見える。これも存在している」という世界を体験する。サミーはペットの一家に待ちうける恐ろしい前途とそれを防ぐための取引をもちかける。これが異界との行き来の最初の経験だった。
第一章ではペットの9歳の頃、第二章で16歳の頃、第3章では大人になってからが描かれる。ペットは幼いころから、現実と妄想の境界線が曖昧で、不吉なイメージにとらわれる。何が本当に起きたことなのか、悪夢はいつ覚めるのか、繰り返し現れる謎の男サミーの正体は?。中盤からはブードゥー魔術の世界とも接近して物語はさらに不可解度を高めていく。
子供時代に自分が空想でつくりあげたものにとらわれてしまうようなことって、誰しも経験があると思うが、それがずっと続いているのがペットの物語。60年代アメリカの普通の生活を突き破るように、魔術と暴力の幻が立ち現れる。不気味な悪夢を味わえる小説である。
フィリップ・K・ディック賞受賞作。
大正時代のはじめの静岡県伊豆湯ヶ島、主人公の洪作(5歳)は父母と離れて、おぬい婆さんと一緒に土蔵で暮らしている。曾祖父の妾だったおぬい婆さんは、本家の一族から距離を置かれている。人質にとられたような立場でありながら、自分に盲目的な愛情を注いでくれるおぬいに、洪作はすっかりなついて穏やかな日々を暮らす。複雑な人間関係に翻弄されながらも、いくつもの事件を乗り越えて、幼児から少年へと成長していく洪作の姿を描く文庫で580ページの長編。
舞台となる村は日本の原風景そのもの。
「十四日は"どんどん焼き"の日であった。どんどん焼きは昔から子供たちの受け持つ正月の仕事になっていたので、この朝は洪作と幸夫が下級生たちを指揮した。子供たちは手分けして旧道に沿っている家々を廻り、そこのお飾りを集めた。本当は七日にお飾りを集める昔からのしきたりであったが、この頃はそれを焼くどんどん焼きの当日に集めていた。橙を抜き取ってお飾りだけを寄越す家もあれば、橙は勿論、串柿までつけて渡してくれる家もあった。」
私の小学校時代に『しろばんば』(井上靖)は教科書に登場した。どんどん焼き、あき子の習字、「少年老い易く学成り難し」、小鳥の罠とひよどりの屍体。なぜか私はこの文章が好きで暗唱できるまで何度も読んだ。日本語のリズムのお手本のような文体が好きだった。学校時代、教科書で暗唱できたのは後にも先にもこの作品だけだった。教材になったのは、この長い物語の後半のほんの一節に過ぎない。いつかこの作品の全体を読んでみたいと思い続けて30年、ついに読んだ。
期待を上回る、味わい深い傑作で感動した。複雑な大人の事情を飲み込めずにいた少年が、少しずつ分別を得て、自分や世の中を理解していく過程を丁寧に描いている。中年になってから読んだのは正解だった。少年時代のへの憧憬、郷愁が大事な主題となっている。中学生や高校生で読んでもよくわからなかったはず。
洪作を取り巻くムラ社会では、濃い人間関係が育まれているから、現代のように軽々しくコミュニケーションを省略することができない。互いの視線によって守られていると同時に、がんじがらめに縛られてもいる。そこから抜け出していくところで本作は終わるのだが、その後の成長を描いた作品として「夏草冬濤」「北の海」がある、と知った。読み進めてみよう。
中山可穂のレズビアン恋愛小説。すごく切ない傑作。
破滅指向の純文学作家 山野辺塁と、普通のOLのわたしが本屋で偶然に出会って恋に落ちる。社会のしがらみを忘れて、性愛の深みに沈んでいく二人だったが、どんなに身体を結びあっても、わたしは塁が心に闇の部分を隠しもっていることにきがつく。情緒不安定な塁と激しい喧嘩別れと復縁を繰り返しながら、やがてわたしは塁の哀しい過去を知ることになる。
女性同士の激しい嫉妬や乱暴。男女の恋愛とは違ったパターンで、行方が読めずにはらはらさせられる。常に不安定で欠けているから、より一層互いを求めあう。部屋に閉じこもって互いの白い肌を貪りあう彼女たちの姿を読んでいて、尾崎豊の「I Love You」を連想しました。「きしむベッドの上で優しさを持ちよりきつく身体抱きしめ合えば~」、あの曲みたいなイメージの小説です。
ベテランの円熟に与えられる山本周五郎賞受賞作。巻末に収録されている受賞記念エッセイが、作品と同様に素晴らしいので一読の価値ありだ。ウィットにとんだ文体で、受賞の喜び、創作の背景や著者自身の私生活が赤裸々に書かれている。作品の魅力を倍増させるオマケである。文庫版の価値おおいにあり。
花伽藍
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/07/post-1254.html
スタニスワフ レムの代表作のひとつ。
ありがちな人間同士の殺し合いや駆け引きというのがなくて、社会批判的メッセージも込められていなくて、純粋にサイエンスフィクションの醍醐味を楽しめるのがいい。1960年代に書かれたのに、このサイエンス部分はまだまだ通用するのではと思える内容。
6年前に消息を絶った宇宙船コンドル号の調査のために、同型の宇宙船 無敵号に乗った主人公たちは地球から遠く離れた砂漠の惑星に降り立つ。そこで彼らはコンドル号と乗組員たちの無残な姿を発見し、その原因究明に乗り出すが、やがて未知の生命体の侵略を受ける。いわゆるファーストコンタクトモノ。
人間と人間じゃないものが出会うとどうなるか。
「相互理解の成立は類似というものの存在を前提とする。しかし、その類似が存在しなかったらどうなるか?ふつう、地球の文明と、地球以外の惑星の文明の差は、量的なものにすぎない(つまり、"かれら"が科学・技術その他においてわれわれよりも進んでいるか、でなければ、その反対にわれわれが、"かれら"よりも進んでいるかのどちらかである)と考えられている。しかし、"かれら"の文明がわれわれの文明とは全然違った道を進んでいるとしたらどうか。」とスタニスワフ レムはコメントしている。
砂漠の惑星に登場する生命体の正体や侵略方法が実にユニーク。地球で人類が滅びた後に、こんなことになったりするかもな、と思ったりした。ハードSFであるが、謎かけに終わらず、だいたいこんなことかなという、ヒントまでは与えられるので、欲求不満に陥らずに読み終われる。
SFファンは古典としておさえておくべき一冊。
・虚数
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/02/post-353.html