Books-Fiction: 2009年4月アーカイブ
小さな商店街を舞台に織りなされる人間模様を描いた川上弘美の短編集。11本の作品はどれも主人公が違っていて、同じ世界の出来事を異なる視点から眺める。前の話では端役だった人物が主役になって動くことで、遠い町の様子が少しずつ立体化され、濃密なイメージなっていく。
物語の中心にあるのが魚屋「魚春」。店主の平蔵は、死んだ妻の愛人だった男を二階に住まわせ仲良く二人で暮らしている。その奇妙な同居の謎が解けるまで町の住人の人生を一周するような物語構造である。登場人物達は何かしらの傷を抱えて生きている。完璧な人生を生きている人はいない。
「おれは、生きてきたというそのことだけで、つねに事を決めていたのだ。決定をする、というわかりやすいところだけでなく、ただ誰かと知りあうだけで、ただ誰かとすれちがうだけで、ただそこにいるだけで、ただ息をするだけで、何かを決めつづけてきたのだ。 おれが決め、誰かが決め、女たちが決め、男たちが決め、この地球をとりまく幾千万もの因果が決め、そうやっておれはここにいるのだった。」と登場人物のセリフ。
人生は選択肢を意図的に選ぶこともあるけれど、むしろ、多くの決定に選択の余地がないものだ、という事実を、私も年を取って分かってきた気がする。それを運命だと諦める人生もあるし、これでいいのだと満足する人生もある。
「いろいろなことなど、見たくない。つくづく思った。でも、見なければ生きてゆけない。そのことを、残念ながら私はいつしか知るようになっていた。ここまで生きてくるあいだに。」
因果と伏線が張り巡らされた緻密な構造設計がこの短編集の魅力だ。私は川上弘美の作品の中では「神様」「真鶴」「龍宮」などのスピリチュアル系の語りが好みだったのだが、この本で群像系の完成度の高さにすっかり魅了された。ちゃんと最後の作品を読むと、残されたミッシングリンクが埋まって物語が完成するようになっているから満足感が高い。
面白い短編集を探しているならいまこれがおすすめ。
・真鶴
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/01/post-512.html
・龍宮
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004759.html
・ざらざら
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004886.html
・はじめての文学 川上弘美
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/06/post-589.html
「となり町戦争」の三崎 亜記の書ける物語の幅広さがよくわかる短編集。7本収録。
「今、「バスジャック」がブームである。一昨年の秋から、じわじわとブーム再燃の兆しはあった。」。巷ではバスジャックが大ブームで、ジャックする方もされる方も、流儀に従ってよいバスジャックを追究しようとする妙な世界を描いた表題作「バスジャック」。
「ああ、ご主人さん?もう町内でお宅だけなんですけどねえ。そろそろつけてもらえないですかねえ。」。なんのためなのかわからないが、つけなければならなくなった二回扉の謎を描いた「二回扉をつけてください」。
コミュニケーションの超絶的な不全状態をコミカルに描いた「二人の記憶」。人間はわかりあえないけど、わかったことにするのがコミュニケーションってことか。私はこの作品が好きだな。
奇想が魅力の作家だが、忘れられない人との最期の日々を描いた「送りの夏」や、4ページで終わる独白超短編「しあわせな光」は実にしんみりと読ませる。こういうこともできるのかと感心させられる。いっぺんに通しで7編を読むとバリエーションの妙が楽しめる。一気に読もう。
三崎 亜記。筒井康隆と星新一と誰かを足して3で割ったような感じなのだが、誰かって誰だろう。それがわかりそうでわからないのがこの人の魅力なのだな。
作家 津島 佑子(太宰治の次女)の短編集。
雪女、山姥、アマノジャク、葛の葉狐のような伝説や、人買い、人身御供、継子いじめのような伝承をモチーフにした10作品が収録されている。どれも10から20ページ程度と短いが、日本人の集合的無意識としての心象風景を、読者の心に強烈に焼きつける。象徴を生みだす元型の力を作家が効果的に引き出している。
語り口が巧妙だ。例え話をしているようで実際の話を語っていたり、遠い昔の話かなと思えば進行中の話だったり。読者はいつのまにかバーチャルとリアルの越境をしていることに気がつかされる。夢うつつの状態で目の前の細部が消えていき、遠い昔の記憶、原初の体験の世界と二重写しになる。
表題作「電気馬」とは人間が抑圧に耐えかねてキレるときに心の中で爆発する衝動的な力だ。それは遠い昔に遊園地の電気仕掛けのメリーゴーラウンドから飛び出した一頭だという。人間達が楽しむきらびやかな場所にいながら、馬はずっと固定され自分の好きに動くことが許されなかったのだ。馬は危うい人の心に飛び込んで狂気の衝動を駆動させる。
「この電気馬が消えても、新しい電気馬がつぎつぎに生まれる。にんげんがだれかと出会い、なにかを期待し、裏切られ続けるかぎり。」
この話だけ日本の古い伝承に無関係かなと思ったが、遊園地にメリーゴーラウンドという設定自体がもはや伝承ということか。今はテーマパークにアトラクションやパビリオンの時代だから。
10作すべてはずれがなく安心して読めるのだが、なかでも私のお薦めは、
1位 チャオプラヤー川
2位 サヨヒメ
3位 アマンジャク
だな。イメージが焼きついてしまった。
この小説は絶品。読みふけった。
「僕はブロデック、
この件にはまったく関わりがない。
僕は何もしなかったし、
何が起こったのかを知ったときでも、
できればいっさい語らず、
自分の記憶に縄をかけ、
金網の罠にはまった貂のようにおとなしくさせるために
きっちり縛り上げておきたかったのだ。」
主人公ブロデックは村人達が集団で放浪者アンデラーを殺す現場に偶然居合わせてしまう。村人達は村一番のインテリである彼に、この事件の顛末を中央に伝えるための正しい報告書を書けと脅す。もともと余所者で立場の弱い"僕"は依頼を断ることが出来ずに、不穏な監視下、自室に閉じこもって黙々とタイプライターを打つ。
村人達は主人公に踏み絵としての事件記録を書かせた。彼の村への忠誠を試しているのだ。しかし、彼が書き綴っていたのは事件の報告書だけではなかった。それは彼自身が記憶の奥に封印していた戦時中の陰惨な体験の記録であった。その過去の記録がやがてブロデックの今の立場を映し出す鏡になる。
人間の集団があるところには必ず疎外がある。集団の論理は個人の自由を制約し、ルールに従えない者を排除する。よそ者や罪人を排除することによって村の平和と連帯が成り立つ。ブロデックに求められているのは事件を説明しながらも、自身の信念をまげて、村人に不利な事実を書かないことであった。
ブロデックの立場は国の正史を書く歴史家の立場と同じでもある。正史の書き手は現状の権力関係の正統性を肯定するように、過去を物語化することが求められる。ブロデックは屈辱的な服従の経験を振り返りながら、村の歴史をどう書くべきかを苦悩する。虚偽を書いて村の一員になるか、真実を書いて制裁を受けるか。
ミステリー仕立ての作風だが、テーマは重たい。圧倒的な疎外の物語である。
・「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/02/post-529.html
アゴタ・クリストフの3部作が好きな人に特におすすめである。
しみじみといい小説を読んだなあという感慨に浸れる川端康成の短編集。
「母の死語、母の初恋の人、佐山に引きとられた雪子は佐山を密かに慕いながら若杉のもとへ嫁いでいく───。雪子の実らない恋を潔く描く『母の初恋』。さいころを振る浅草の踊り子の姿を下町の叙情に托して写した『夜のさいころ』。他に『女の夢』『燕の童女』『ほくろの手紙』『夫唱婦和』」など円熟期の著者が人生に対し限りない愛情をもって筆をとった名編9編を収録する」
昭和15年に雑誌『婦人公論』に連載した9つの作品。太平洋戦争が始まる翌16年に単行本が発売された。緊迫していく社会情勢だったはずだが、川端康成は敢えて平和な日常の中の男女の愛情を静かに描いている。この力の抜き具合が素晴らしい。解説で高見順はその良さは婦人雑誌ならではと言い、次のように語っている。
「婦人雑誌を私は何も小説の発表舞台として低いもののようにおとしめるのではなく、アラ探しに血眼に成っている世の評家のその眼の外に一応置かれている安全地帯だという意味であり、そういう場所の霊としての婦人雑誌を挙げたのであるが、そういう場所に書かれたものに、良い小説があるというのは、或は、作者が気持ちを楽にして書いたからではないかという風に考えるのである。」
経済的に自立した女性はまだ登場しない。女は男に人生の舵取りを委ねなければならない時代が舞台である。女性はそれ故に恋愛や夫婦生活において、まっすぐに男に思いを向ける。愛情生活が破綻しても別れることは難しいから、おりあいをつけていかねばならない。そういう閉塞感の中の愛憎を静かに描いている。どこか小津安二郎の映画に共通するものがある気がする。
・眠れる美女
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/10/post-847.html