Books-Fiction: 2007年10月アーカイブ
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http://www.town.higashiizumo.shimane.jp/1497.html
重松清、学校を舞台にした8本の短編連作集。傑作。
私は小学校も中学校も高校も、学校生活というものが嫌いで、毎朝、行きたくないなあ、と思っていた。登校時間は本当に憂鬱だった。教室に友達がまったくいないわけでもなかったけれど、同質な「みんな」の輪に入るのは苦手で、一人でいることが多かった。小中と長期の欠席が日常茶飯事で「義務」でなくなった高校は1年行かずに中退した。私の人生はどうなっちゃうんだろうと自分でも思ったが「みんな」には同化したくなかった。落ちこぼれでいいから、私はみんなと違う存在でいたかった。家や図書館でひとり、本ばかり読んでいた。ああ、なんと寂しく惨めな少年時代...。
学校が大好きだったという人も世の中には多い。ウチの妻などはそうなのだ。だから小学校や中学校のお互いの思い出を話したりすると、基調においてかみ合わない。私は学校というのは嫌なところだった、教師は敵、やれやれ大人になって良かったよ、という”恨みマイナー調”で話す。妻は大切な青春時代の一コマ、あの先生どうしているかな、できれば戻ってみたいなんて考えているのであろう、”幸福メジャー調”で話す。メジャーとマイナーが衝突し、この話題では常に平行線をたどる。最近はそれが我が家の子供の教育方針問題において、火種となりかねない不穏な様相をみせている、のであった。(まあ気にしませんがw)。
で、この本は私と同じように、学校が嫌いだった人に、おすすめである。
選択国語の臨時講師、村内先生の短期赴任先は、いじめや自殺、学級崩壊や児童虐待などの問題を抱えた問題クラスばかりである。吃音でうまくしゃべることができない先生は、最初の授業から好奇の眼で見られ、からかわれて、迷惑だとまで言われる。だが、村内先生は、多くをしゃべれない代わりに、生徒に寄り添い、たいせつなことだけを話す。孤独な先生だからこそ、孤独な生徒に語りかけることができる。
問題学級を渡り歩く、吃音でうまくしゃべれない臨時の国語講師。かなり寓話的な初期設定だが、8本の連作の中で、少しずつ、そのキャラの存在感が濃くなっていく。村内先生ならきっとこういうときには、こういうにちがいない、なんていう想像ができてしまう。重松清はまったく新しい教師の理想像を確立したと思う。これテレビドラマや映画にしたら、金八先生や夜回り先生を超える名キャラクターになりそうだが、学校好きのマジョリティには、あんまり受けないのかなあ?。
・送り火
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005057.html
・ビタミンF
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005084.html
禅の悟りに至る道を、十枚の牛の絵を使って表したものが十牛図である。
この牛とは自分の心を象徴しており「心牛」である。人は失われた牛を探し求め、見つけ、手なずけ、連れ帰り、牛を忘れ、自分も忘れて、悟りの境地に至るのだ、という内容。詳しくは目次にあるとおり。
自由訳 十牛図(じゅうぎゅうず)のもくじ
第一図 尋牛(じんぎゅう) 牛を捜しにゆく
第二図 見跡(けんせき) 牛の足跡をみつける
第三図 見牛(けんぎゅう) 牛を見つける
第四図 得牛(とくぎゅう) 牛をつかまえる
第五図 牧牛(ぼくぎゅう) 牛を飼い馴らす
第六図 騎牛帰家(きぎゅうきか) 牛に乗って家に帰る
第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん) 牛は消え私だけがいる
第八図 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう) 人も牛もいなくなる
第九図 返本還源(へんぼんかんげん) 生まれ変わる
第十図 入てん垂手(にってんすいしゅ) 俗に入り教化する
それぞれの絵には教えの漢文漢詩がつけられている。十牛図の自由訳、現代語訳は他にも複数出ているが、これは「千の風になって」の新井満による自由訳。原典のコンセプトを守りながら、できるかぎりわかりやすい日本語で訳すというコンセプトで貫かれている。イメージ写真や、章ごとの重要部分のまとめもあって、とっつきやすく、読みやすいのが特徴である。
「本書は悟るための手引書です。どうか本書を活用して一日も早く悟ってください」と著者は帯に書いている。やさしい日本語になっているが、当然、読めば誰でも悟れるわけはない。やはり第七図以降の理解が難しいと思う。全身全霊で分かった!という「大悟」段階の先は、頭でわかるという次元を超えてしまうからである。だからこそ昔の人は言葉ではなく絵にすることで、悟りのツールとしたのだろう。
悟れるかどうかはともかく、何らかの求道者であれば、共通の極意として受け取れる古典だなあと思った。30分で本文を読んで、そのあと2時間くらいその意味を考えてみる。そういう読み方で読む本だと思う。
・現代語訳 般若心経
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004792.html
・タオ―老子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004803.html
・現代語訳 風姿花伝
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005081.html
初版は1925年だから80年以上前だ。医師で神秘思想家のケネスウォーカーのロングセラー作品。イギリスでは児童文学の古典として読まれているが、日本ではほとんど知られていないという。旧約聖書のノアの箱舟をベースにした別バージョンを、子供向けにわかりやすく語る。
ノアが箱舟をつくり、あらゆる動物を乗せて漂流するという骨子は、旧約聖書の原作通りなのだが、動物たちが意思を持ち、しゃべっている点がまず違う。救われるべき動物たちは、無垢な存在で箱舟ではオートミールの食事を食べている。漂流中の不便に多少の不平はあっても、みんなで仲良く暮らしていけるはず、だった。
一頭の「スカブ」という、禁断の肉食動物が紛れ込んでいたことから、物語は妙な方向へ展開していく。はじめは根暗で陰気な存在に過ぎなかったスカブだが、しだいに箱舟の動物社会に不穏な空気を広め始める。動物社会の分裂。そして、聖書の中では語られなかったノアの方舟の大航海の真相がここに明かされる。
本来は児童文学なのだが、大人のための寓話として、随分と考えさせられる小説である。最初は良き意図を持って秩序正しく暮らしていた社会が、小さなきっかけから、次第に悪徳に魅せられるものが増えて、堕落していくという、人間社会の普遍的な様子を描いている。
もともとスカブは、根っからの悪魔的存在ではなく、ある偶然で、肉食という本能に目ざめることになった弱者である。生来の悪人ではなかったのだが、結果的には悪の扇動者になってしまう。悪の起源とは何か、なぜ人は悪徳に魅かれることがあるのか、なぜ社会は分裂していくのか、など、子供向けの文学であるが、背景で扱われているテーマはどれも大きくて深い。
東京ー名古屋の新幹線で読んだ。往路でも復路でも物語の中に心は引き込まれて、気づいたら目的地だった。沢木耕太郎の傑作。
登山家の山野井泰史・妙子夫妻が2002年に体験した、壮絶なヒマラヤ登山のドキュメンタリ小説である。このふたりはテレビや新聞で紹介されているのを見たことがあった。夫妻は手や足の指を、何度も凍傷で失っている。妙子夫人は両手両足で合計18本を切断しているそうだ。常人であればそれだけで大変な障害で、日常生活にも支障をきたすと思うのだが、彼らは困った風にさえ見えない。その後も難しい登山に積極的にチャレンジしているのだ。どうなってるの?と不思議に思った記憶がある。
この小説を読んで、その心理が少しわかった気がする。死と隣り合わせで心身の限界に挑戦しているときに、一番の生の充実を感じる人たちなのだ。夫妻がふたりとも、アドレナリン駆動の人生を選んでいるから勢いは倍増して、冒険は加速していく。
数年前にみた映画「運命を分けたザイル」を思い出した。ストーリーはかなり似ている。限界を超えて、超えて、超えて。人間の生きる力。「凍」に通じる感動がある。
「アンデス山脈にある前人未到のシウラ・グランデ峰登頂に挑んだジョーとサイモン。しかし天候の悪化によって、ジョーが片足を骨折する。サイモンは、2人とも命を落とすか、あるいは動ける自分だけが助かるべきかで悩み、ジョーとの命綱であるザイルを切る選択に迫られる。実話を基にしたノンフィクション文学のベストセラーを、ドキュメンタリーかと見紛うような映像で再現した一作。」