Books-Fiction: 2007年9月アーカイブ
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�EFinal NEAR Shoemaker Descent Images of Eros from 2001 Feb 12
http://near.jhuapl.edu/iod/20010214/index.html
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一寸法師、かぐや姫、桃太郎の3つの昔話テキストを、まず英語に自動翻訳してから、さらに何本かの翻訳ソフトを経由して、日本語に再翻訳する、という手順で、不思議な「新・昔話」ができあがった。
一寸法師の出だしはこんな風である。
【原文】
昔々のことです。ある村に、子宝に恵まれない仲のいい夫婦が暮らしていました。「神様、指先ほどの子供でもかまいません。どうぞ授けてください」」
【翻訳→再翻訳】
「古代です。チャイルド宝に恵まれなかった親しいカップルは、特定の村に生きていました。「神よ、指先のような子供さえ嫌だと思いません。すみませんが寄贈してください。」」
まっとうな原文と挿絵のバージョンと、翻訳文とそれに対応した摩訶不思議な挿絵のバージョンが交互に出てくる。英語対訳も掲載されているので、どの単語や言い回しが原因で、そんな妙な訳が出てくるのか、確認することができる。
桃太郎は言う。「怪物アイランドに怪物ハントであります。」。機械の自動生成なのに思わずニヤっとさせられてしまう表現が多くて楽しい作品になっている。まだ人間の編集、調整が随所に加えられているらしいが、これは、これから始まるかもしれないコンピュータ文学時代の、黎明期の作品と言えるだろう。
翻訳精度の低さが原因にせよ、ソフトウェアがネタを生みだしたことに変わりはない。究極的には、読者ひとりひとりのツボを検知して、ネタを創造し、物語をパーソナライズする自動最適化小説も現れるのではないだろうか。(実際、ゲームではそれに近いことができているわけで夢物語じゃないだろう)。
50年後のWikipediaに「コンピュータ文学の歴史の第一歩はソフトウェアの誤変換、誤訳、誤認識を笑い飛ばす作品から始まった」なんて書かれているかもしれない。
第137回直木賞受賞作。
吉原で全盛を誇った花魁が突然、謎の失踪を遂げる。当時の状況を解明するため、主人公は引手茶屋、遣手、床廻し、幇間、女衒、女芸者など17人の関係者を一人ずつインタビューして回る。それぞれの身の上話にも話は及んで、吉原の人間模様の中に、失踪事件の真相が浮かび上がってくる。
時代劇ミステリなのだが、前半はタイトル通り「吉原手引書」として、当時の風俗文化や廓の組織構造が語られている部分が、大変面白い。花魁と遊びたければ、まずどうすればいいのか、粋な遊び方と無粋な遊び方、気になる料金体系など。遣手婆という言葉があるが、「遣手」とは職業だったのか、とか、本物の太鼓持ち(幇間)とはどんな役割だったのかなど、芸者以外の職業についても詳しい。そうした廓の手引きをされているうちに、数か月前まで、その社会の頂点にいた花魁の失踪事件の全貌が明らかになっていく。
花魁失踪の悲劇が物語の中心にあるが、話し手たちの語り口は、明るくてユーモラスなものばかり。おしゃべりの積み重ねで物語が進行していく。演劇的で軽快なテンポが気持ちがよい。それでいながら真相解明のミステリとしても、結構、緻密に設計されている。実に粋な娯楽小説だったなあという読後感。
悪童日記の三部作で知られる作家アゴタ・クリストフによる100ページの短い自伝。作品内では抽象化、匿名化されていた出来事や登場人物の多くは、少女時代の具体的な体験に起因するものだったことが次々に明かされる。
アゴタ・クリストフは、母国ハンガリーから21歳の時に、難民としてスイスへ亡命して定住し、そこで出会ったフランス語で作品を発表してきた。叙情的な記述を徹底排除して、事実を淡々と客観的に書く彼女の文体は、母語ではない言語で書く作家だからだと言われているが、自身は以下のように語っている。
「わたしはフランス語を三十年以上前から話している。二十年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない。そんな理由から、わたしはフランス語もまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由のほうが深刻だ。すなわち、この言語が、わたしのなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。」
「もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。確かだと思うこと。それは、どこにいようと、どんな言語であろうと、わたしはものを書いただろうということだ。」
この本のタイトル「文盲」というのは、母語のようには決して使えない外国語で書くことを運命づけられた自身の姿を指している。微妙なニュアンスをうまく伝えることができなくても、感動の物語を書くことができるというのが驚きである。
あとがきで訳者がアゴタ・クリストフの近況を書いている。彼女は書くべき大きなテーマをすべて三部作に書いてしまったので、既に高齢であるし、もはや新しい大作は期待できないのではないかという。
・「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004896.html
・「昨日」「どちらでもいい」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004928.html
超弩級の絶対的な傑作。大西巨人の小説「神聖喜劇」の完全漫画化。こんな物凄い作品があるとこれまで知らなかったのが不覚であった。全6巻を夏休みに読破。読者を選ぶ作品だが、以下の概要で興味のある人にはおすすめである。
「一九四二年一月、対馬要塞の重砲兵聯隊に補充兵役入隊兵百余名が到着した。陸軍二等兵・東堂太郎もその中の一人。「世界は真剣に生きるに値しない」と思い定める虚無主義者である。厳寒の屯営内で、内務班長・大前田軍曹らによる過酷な“新兵教育”が始まる。そして、超人的な記憶力を駆使した東堂二等兵の壮大な闘いも開始された」(原作の紹介より)
東堂太郎は一度読んだら忘れない驚異的な記憶力の持ち主であった。軍隊の規則書を丸暗記している彼は、不条理な軍隊生活や上官たちの言動に疑問を持つ。そしてその矛盾を言葉で訴え始めることから生じる個人と組織の闘争が物語の主軸である。
序盤のテーマは「責任阻却の論理」。新兵たちは、上官から、軍隊では「知らない」とは言うな、「忘れた」と言えと教育される。東堂は軍隊の規則のどこにも書かれていない命令が、何に由来するものなのかを徹底的に考え抜く。見事な結論に至る。この部分を読んで感動した人は、この本の読者に向いている。第6巻まで読もう。さらに感動すること請け合いである。
漫画だが極めて文字が多いので、読むのはかなりの時間がかかる。むしろ小説だと思って読むと軽く読めると思う。全編を通して描きたかったことは、戦争批判、差別批判という見かけを超えて、組織のばかばかしさであると思う。軍隊、会社、組合、官僚機構など、組織というものがいかに人間を疎外しているか、そのすべての要素が丁寧に語られている抵抗の文学である。