Books-Fiction: 2005年11月アーカイブ
例によってグレッグ・イーガン作品。
「
12歳の誕生日をすぎてまもなく、ぼくはいつもしあわせな気分でいるようになった…脳内の化学物質によって感情を左右されてしまうことの意味を探る表題作をはじめ、仮想ボールを使って量子サッカーに興ずる人々と未来社会を描く、ローカス賞受賞作「ボーダー・ガード」、事故に遭遇して脳だけが助かった夫を復活させようと妻が必死で努力する「適切な愛」など、本邦初訳三篇を含む九篇を収録する日本版オリジナル短篇集。
」
TRONの開発などで有名な坂村健東京大学教授があとがきでグレッグイーガンのすすめを熱烈に書いているのも付加価値。
この短編集の基底にあるテーマを探すとすれば「アイデンティティ」だろう。しあわせの理由の主人公は、異常な化学物質の分泌によって、しあわせな人生を生きているが、あるとき、その分泌が止まる。自分が本当は何が好きなのか、その理由は何なのか、を考える内容だ。実のところ、私たち自身、自分が何かを好きな本当の理由は不明だろう。何かが好きで何かが嫌いだという組み合わせこそ、アイデンティティの基本なのだと気がつかされる。
そしてグレッグイーガンは、あるときは脳の物質への還元によって、あるときは量子論的不可能性によって、あるときは個々の意識の還元不能性によって、幾重にもアイデンティティを崩壊させていく。「私」という問題の不可思議さを味わえるおすすめの一冊。
グレッグ・イーガンのサイトがとても充実していることに最近、気がついた。
・Greg Egan's Home Page
http://gregegan.customer.netspace.net.au/
作品に登場する科学理論の解説や、一部作品の全文公開。
・Quantum Soccer
http://gregegan.customer.netspace.net.au/BORDER/Soccer/Soccer.html
短編「ボーダー・ガード」に登場する「量子サッカー」をプレイすることができる。
収録作品の個人的ベスト3は以下。
1位 しあわせの理由
2位 適切な愛
3位 闇の中へ
グレッグ・イーガンをまた一冊書評。
「
2034年、地球の夜空から星々が消えた。正体不明の暗黒の球体が太陽系を包みこんだのだ。世界を恐慌が襲った。この球体について様々な仮説が乱れ飛ぶが、決着のつかないまま、33年が過ぎた…。ある日、元警察官ニックは、病院から消えた若い女性の捜索依頼を受ける。だがそれが、人類を震撼させる量子論的真実につながろうとは!ナノテクと量子論が織りなす、戦慄のハードSF。
」
「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験がある。
要約すると
猫を実験箱に入れる。この箱には一粒の原子とその分裂崩壊を検出できるセンサーが入っている。センサーが原子の分裂を検出すると箱の内部は毒ガスで満たされて猫は死んでしまう。原子がいつ分裂するかはわからない。さて、実験は開始された。今、箱の中の猫は生きているのだろうか、死んでいるのだろうか?。箱を開けないで猫の生死を予測せよ。
常識では、原子の分裂はいつ起きるかわからないのだから、猫は生きているか、死んでいるか、どちらかの状態にあると考えられる。しかし、原子のような小さな世界を扱う量子力学では、観察者が観察したとき(フタを明けた瞬間)に、結果が決まるとされる。観測されていなかった時間は、猫は生きた状態と死んだ状態が重ね合わさった奇妙な状態にあったと量子力学者は考える。
私たちの世界は、多数の可能性の波動が重ね合わさった”拡散”状態から、観察行為によって、ひとつの可能性に”収縮”した状態が選ばれるのだと考えられる。
というような実験である。
そしてこの実験が、この本のメインテーマでもある。
サブテーマとしてマインドコントロール技術がある。もしも人間が意識や思考を制御する技術開発に成功し、自由に使えるようになったら、どうなるのか。主人公は冒頭からこの技術を使っている。本来の自分だったらそうは考えないはずと知りつつ、異なる合理的選択をする人生の物語。
「万物理論」より少し前に書かれたグレッグ・イーガンの名作。
昨年度マイベストSF 大作は「万物理論」、中短編は「あなたの人生の物語」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002774.html
・祈りの海
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003779.html
「
さようなら、私の本よ!
死すべき眼のように、想像した眼もいつか閉じられねばならない。
」
この本を大江健三郎は、長い作家生活の最後の小説と宣言してから発表した。過去にも断筆宣言や最後と言ったのに次を書いたことがあるセンセイであるから、本当にこれで最後になるのかは定かではないが、それなりの覚悟で書かれた作品であることは、読みながら感じ取れた。
ノーベル賞作家としての著者の分身である主人公、長江古義人と、奇縁で結ばれた幼馴染の著名な建築家椿繁の”おかしな二人組”が、老年になって過去のわだかまりを越えて再会するところから物語が始まる。繁は若い教え子とともに、大きな暴力に対する、小さな抵抗のためのテロの企みを持っている。繁が所有する”小さな老人の家”という名の別荘で、病後の静養に誘われた古義人。彼らとの共同生活の中で、その一部始終を見て書き残す役割に、作家としての意味を見出し始める。だが、企みは外部の世界の思惑も絡んで、思わぬ展開を見せ始めて......そんな内容である。
私は学生時代から読み始めて、大江健三郎の本は、エッセイ集も含めて9割は読んでいると思う。最後の読者サービスなのか、読み続けている熱心な読者にとっては、読みどころが特に多い。四国の谷間の森、障害者の息子アカリと音楽、エリオット、ダンテ、渡辺一夫(この本では故人の六隅さんとして登場)、樹木への執着などの、歴代作品に登場してきた一連のメタファーが、次々に説明なく登場する。ファンは各々の文脈を知っているのですぐに独特の世界観にひきこまれるが、逆に過去の作品を知らない読者には読みにくいかもしれない。
読みにくいといえば、そもそも大江作品は翻訳調の読みにくい文体が特徴である。序盤で主題がわかりにくい作品も多いように思う。とっつきの悪さを我慢して半分くらいまで読み進めると、ドラマが大きく激しく動き始めて、物語の大きなテーマが浮かび上がって、ずっしり読むものの心にのしかかってくる。それが私の大江作品の全体印象だった。
「
新進作家のぼくが、年末に出版社のやるパーティに出て、手持ちぶさたにしているところへ、あの記者がやって来たんです。そして、あなたの出発点の文章はスッキリして、書いていることがよくわかった。今はゴテゴテしている。それは批評家が褒めてるような、あなたに豊かな資質があるというようなことじゃなくて、いま何を書いたらいいかわからないから、形容詞の煙幕を張ってということじゃないのか?そういって、向こうへ行った......
その夜、ぼくは下宿へ帰って、インタヴューの時、もらった名刺を取り出して考えたのね。明日ここに電話をして、も一度話を聞かせてもらったら、自分の入り込んでいる迷路から出られるかもしれない......しかし、その勇気はなくて、そのままになりました。
」
読みにくさ、自覚していたらしい。このように自身を主人公にして客観視する作風が多い作家だったが、この本では長い作家生活全体をパースペクティブに、大きく振り返っている風である。題名も「さようなら、私の本よ!」であるから、しめくくりのはずなのである。
しかし、これ、本当に最後の小説なのだろうか。自らを老人で大きな仕事を終えてしまった大作家と認めているが、9.11に始まる世界の現実に積極的に言及しているし、なにがしかの仕事を成し遂げる意欲を持った老人二人が出てくる。そのシンパの若者も物語の中で壮絶な役割を果たす。ぜんぜん枯れきってはいない。
著者は単に高齢で、いつ”大きな音を聞く日”が来てもいいように、次を最後の遺作にすると宣言しているだけなのではないか。話の中で主人公が執筆に使ってきた万年筆をなくす段があるのだが、その後もワードプロセッサで現実から読み取る”徴候”を熱心に書き続ける姿がある。このくだりを読むと、まだ次の作品、あるような気がする。
「最後の小説」を力点に書評してしまったが、物語として面白かった。