Books-Education: 2010年3月アーカイブ
この本、1もよかったが2もおもしろすぎ。日本語教室を舞台にした漫画。
「日本語教師」という仕事は大変です。大変だけどおもしろい仕事です。こちらが日本語や日本の文化を教えているはずなのに、相手から学ぶことも多いような気がします。学生からの質問で「日本語の謎」(私が知らないだけ?)に気づかされることもあります。そんな日本語教師の日常をちょっとのぞいてみてください。」
たとえば外国人は
「スッパ抜く」のスッパって何ですか?
などという質問をしてくる。これが調べてみれば、ちゃんと由来と意味があるのである。
日本人は青信号をなぜ緑というのか?
なぜ日本の子供は太陽を赤く描くのか(海外は黄色や白が多い)?
という色の表現もなかなか深い。
たとえば日本ではピンク映画だが、英語圏ではブルーフィルム、黄色電影、スペインでは緑がエッチな色だという。ことばの問題は文化の問題だ。世界各国から生徒が集まる日本語教室は、文化の多様性を学ぶ教室になっている。
濁音や半濁音はどうしてできたかなんて、日本人の9割は知らないだろう。
ネイティブスピーカーの盲点を笑いながら学べる漫画。
「ダーリンは外国人」が好きな人はこれも必ず楽しめる。
・ん―日本語最後の謎に挑む
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/post-1164.html
・怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001944.html
・犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い
http://www.ringolab.com//note/daiya/archives/000935.html
・日本語の源流を求めて
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/11/post-660.html
・日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-959.html
・猿はマンキお金はマニ―日本人のための英語発音ルール
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/post-933.html
・日本語は天才である
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-575.html
・日本語と日本人の心
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/11/post-477.html
子供や初心者に美術史の知識は無用、まず作品を自由に鑑賞させて、自分なりの感じ方を引き出すことが、美術への深い理解につながるという鑑賞教育の提唱者アメリア・アレナスの本。見ることの本質や芸術の持つ力について語った第一部と、子供の鑑賞教育の方法論を中心に語った第二部からなる。
「大人になると、なぜかひとは美術作品をみて自分がどう感じるかはどうでもよいことで、美術に目を向けるのは、「見方を学んでから」にしたほうがよいと考えるようになるらしい。」
確かに、私も美術館に行くと作品それ自体よりも展示コーナーのタイトルや作品説明にまず目が行ってしまうことが多い。そこには大抵、鑑賞のポイントも書かれていて、実際に作品を見るのは、純粋に鑑賞するためではなくて、データを確認する行為になってしまう。鑑賞後の感想も、説明にあったポイントをなぞったものになりがちだ。
「自由に(しかし深く)、作品をゆっくり時間をかけて味わってからでないと、そうした知識は役に立たない」と著者は説く。伝統的な美術館は、専門家が高いところから知識を与える姿勢で展示を構成しているから、子どもたちは、素直に自分の感じ方を味わうことができない。本来あるべき美術教育は、みる かんがえる はなす。感じたことを思考と言葉で表現する力を育てることにあるというのが著者の持論だ。
「何人かの子どもたちにある作品をみせてから、たとえば「この絵のなかでは何が起こっているの?」というようなかんたんな質問をすれば、かれらはそのとき心に浮かんだことをそのまま口にするだろう。しかしそうした思いつきや、独りよがりな考えも、「絵のなかの何をみて、そう思ったの?」というような問いかけをすると、子どもたちは最初の答を裏づける手がかりを探そうとして、作品をもう一度見直し、その過程で目の前に展開する「新しい」映像のなかの、さまざまな要素の重要性を秤にかける作業を迫られる。」
感覚を言語化するというのは極めて難しい作業だ。作品を前にして行えば、何度も見直しながら、それができる。作品説明の文字情報は、みる、かんがえる、はなすの場では不要である。優れた美術評論家というのも、独特な見方と言葉で美術作品の位置づけを話せる人なわけだから、鑑賞教育は評論家育成の方法論でもあるように思った。
「ひとつだけ確かなのは、美術がもたらすよろこび、そしてときには荒々しいほどの衝撃は、その大半が私たち自身のつくりだしたもの、私たちが映像に託した実在感のなせる業だということである。」
作品の感動は自らの内側からやってくる。外側からではない。当たり前なのだけれども忘れがちなことだ。私はついつい展示鑑賞後に文字の書かれたパンフレットをすぐ買ってしまうのだが、本当は自分の感じ方をすべて言語化し終わってから読むべきなのだなあ。
全国の学校で実際に出された「変な給食」を再現してカラー写真で紹介する問題提起本。
例:
味噌汁とてんぷらと黒糖パンと牛乳
雑煮と食パンと揚げしゅうまいと牛乳
冷やし中華、原宿ドッグ、牛乳
みそラーメンとドーナッツと牛乳
など、73点の再現写真はどれも「うへえ」な感じで食欲が湧かないものばかり。和洋中ごちゃまぜで砂糖と油まみれ、これじゃあ味覚だって育たない。結局、パンを主食にするのが原因なのだが、米飯給食は東京都平均は週に2.6回だそうで、週の半分は変な給食が出る可能性があるわけだ。
しかし、思い出してみるとこうした「変な給食」は私の小学生時代にはちっとも変じゃない、普通の給食だった。米飯は年に1度あったかどうか。パンに豚汁に牛乳にスライスチーズが一枚なんていうのがよく出た。当時は当たり前と思っていたが、大人が好んでこんな組み合わせで食べることはありえない。確かにこれはおかしい。変えるべきだ。
なぜパン食主体の変な給食が続くのか?
「その理由は、「予算がない」「人件費の問題」「パン業者への配慮」などさまざまですが、その中でも、最も多いのは、「栄養素のバランスを考えて献立を作成しています」というものです。「ラーメンに牛乳という献立はおかしいのではないか」という批判に対して、「カルシウムを満たすためには仕方ないのです」という答えが返ってくるのです。」
唐突にスライスチーズ一枚がついたりするのは栄養士の工夫らしいのだが、学校給食法には食文化の正しい理解も明記されているわけで、やっぱりまずいのではないか。牛乳を毎回つけるのも味覚を育てるという観点ではどうかと個人的には思う。
4月からうちの息子は小学校1年生になる。給食がある。私と同じ小学校だ。この30年で給食はどう変わったのか楽しみであると同時に、あいかわらず変なままだったらどうしよう、と不安になる。主張をもって戦う著者は学校給食に異を唱えて自分の子供に教室でひとりだけ弁当を持たせたらしいが普通の親としてはそうもできない。
最近都内には昭和の給食を食べさせる店がいくつもある。揚げパンとかソフト麺とか揚げしゅうまいとか、かつて無理やり馴らされた変な味覚を懐かしく感じる人がたくさんいるということだ。つまり普段食べていない。大人が食べないものを子供に毎日食べさせるのは普通に考えて、おかしい。著者の学校給食改革の主張を支持したい。
・毎朝登校する生徒は33人中5人
・1から100まで数えられない生徒がいる
・九九が完全にできるのは160人中20人
・入学者の半数が中退する
・高校を中退する生徒の半数は1年生
・やめさせようとする教師たちの存在
などいわゆる底辺校の実態と増加する高校中退者のドキュメンタリ。
現代の高校中退は個人の問題ではなく社会の深刻な病理のようだ。
高校中退の背景には家庭の貧困があり、不安定な生活や余裕がない家庭環境が、生徒の低学力、不登校を引き起こし、中退へとつながっている。学習意欲と貧困の間にも密接な関連が見出されている。エリート校と底辺校の格差は増大傾向にある。
高卒以上が圧倒的マジョリティを占める日本社会において高校を出ていないことは極めて不利にはたらく。実際、不況の中で高校中退者の就職は困難を極めている。調べてみると生徒の父母もまた中退者であったりして、格差の拡大という負の再生産が発生してしまっている例もある。
「1980年代からの世界を巻き込んだ新自由主義の実験は、世界中に無惨な結果を残した。新自由主義が主として攻撃の対象とした福祉国家とは、資本主義の成立の要である労働力の再生産にとって欠かせないもののはずだった。ところが新自由主義は、労働力の再生産に必要な住宅・教育・医療・福祉を市場化し、福祉国家を解体することによって、もっとも福祉を必要とする貧困層に打撃を与え、さらに中間層をも分解するという結果をもたらしたのである。」
「社会の底辺」という言葉が存在しない社会をつくるには、夢や希望を失った一番若い人たちを救済することが特に重要だろうなあと思う。著者が解決策として結論する高校教育の無償化が効果的なのかは確信が持てないが、高校中退=社会からのドロップアウトという図式をなくすことが何より大切だろう。競争社会とセーフティネットは共存しないと人間的ではないと思う。