Books-Education: 2008年10月アーカイブ
絵本作家の教育論。五味太郎の大人問題も良かったが、これもユニークな視点で教育のあり方を根本から変えようとしていて面白い。名作「はれときどきぶた」の児童文学作家 矢玉四郎が書いた教育論。
著者は子供のことを「子ども」と書く表記法を改めよと強く訴えている人である。教科書では小学校5年生までは「子ども」と書かれている。子という字は1年生で習うが、供は6年生まで習わないからである。だが一時的にせよ「子ども」「れん習」のような日本語の慣行にない醜悪な交ぜ書きを使うのは間違っている、日本語への冒涜だという。そういう欺瞞が大嫌いな人なのだ。(子ども表記問題には論点が複数ある。)。ストレートに本質に迫る物言いが爽快。
代表作のはれぶたと続編は私も大人になってから出会って以来、大ファンである。
1980年に出版以来、子供に圧倒的に支持されて130万部のベストセラー。はれぶたシリーズ一作目。日記に書いたことが翌日、現実になる。主人公の日記はどんどんありえない内容にエスカレートしていく。明日の天気は「はれときどきぶた」と書いたら本当に天から豚が降ってきた。
はれときときぶたの後書きには「多くの人がまちがっていて、ひとりだけ正しかったということもよくあることだ。だから自分の感じたこと、考えたことはちゃんといえるようにならなくちゃいけない。」とある。
「仮に、創造性を養う授業がはじまったとする。子供は頭が柔らかいから、とんでもない発想をするだろう。肝心なのは、その評価だ。とんでもない発想を、教師が認めてほめるなどとは、とても思えない。結局、生徒は恥をかかされて、黙るのがオチだ。結果、創造性の授業が子供から創造性をうばうことになるのは目に見えている。 創造性というのは、現在あるものを否定する毒物だということがわかっていない。」
創造性を危険な毒物だと看破する部分に感動した。イノベーションは古い枠組みの破壊を伴う。飼い慣らされていない発想が必要なのである。敷かれたレールの上を走っていてはたどりつけない。だから登校拒否である!。
「日本の学校は、小賢しい人間を製造する工場となりはてた。世界が求める大愚大賢は育ちようがない。大愚とはたいへんなばかで大賢はとてもえらいということだ。「大賢は大愚に似たり」と、昔の人はいった。 登校拒否は大賢大愚のはじまりであり、子供が自分をつくりあげるための第一歩だ。この世にきて六年目に、教育工場のベルトコンベアーにのせられた子供は、成人するまで、むち打たれながら、品質向上の道筋をたどらされる。 登校拒否は自分の意志でベルトコンベアーをおりることである。行きたくないから行かない。こんなわかりやすく人間らしい行動があるか。」
個人的な教育改革者といえる全国何十万人の登校拒否経験者たちが、日本の未来を変えるだろうという。著者は終始、学校教育への痛烈な批判とそれから外れたものたちの可能性を熱く論じる。
「いちばん過酷な状況を生きた者こそが、子供になにを教育するかを述べるべきなのだ。」
この発想だけでは駄目だがこの発想がなくては駄目。そんな気にさせられる斬新な教育界へのメッセージ集。
・大人問題
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/08/post-798.html
これも絵本作家が語るオルタナティブな教育論として面白かった。
おもしろいです。これは。
私たちは学校教育で教師から知識を学ぶ。一方で習わないこともたくさんある。日常を生きる上で必要な基本能力を私たちは「教え手なし」で獲得できる。学校に行かなくても生きていく基本能力は自然に備わる。発達心理学と認知科学を専門とする著者は、人間はこれまで一般に考えられてきたよりもずっと有能な学び手なのだという。
現実的必要から学ぶとき人は教師から学ぶのとは異なる強力な学習をする。この本はそうした日常的認知の能力を解明しようとしている。
たとえば英語学習である。日本で英会話学校に通ってもなかなか身につかないものだ。しかしアメリカ社会に単身で放り出されて会話能力が生存に必須の状態になれば、多くの人は自然に短期間で英語を習得してしまうだろう。メキシコの路上で商売をするストリートチルドレンたちは学校に通ったことがないのにおつりや利益率の計算ができる。それは彼等にとって生存に必要な重要事項だからである。
研究から判明した日常的認知による学習の2つの条件が整理されている。
1 その「必要」は、あくまで学び手自身が、自己の現実の問題を処理する上で不可欠だと実感したものであること。
2 「必要」によって作り出された目標と、それを達成する手段として学ぶこととの間に切り離せない関係があること。
勉強の成績が良かったら両親からお小遣いがもらえる、という状況はこの条件にあてはまらない。お小遣いをもらえる条件は他にもあるから「切り離せない」関係といえないし、「不可欠」でもない。生きていく上で切実に必須となったとき、教室とは異なる学習原理が発動するのだ。
二つの学習では獲得する能力の性質も異なっている。
「教室での学習場面のように、問題が解けないときに、まわりの人々の助けをあてにすることができず、しかも、もしも直接に助けを求めれば、「カンニング」という汚名をきせられてしまうのとは異なり、日常生活では、いつでもほかの人たちに頼ることができる。」
学校で学んで何かができるというのはアカペラで歌を歌えるようになることに似ている。日常的認知による能力は、文化的支援というBGMの上で歌うという意味でカラオケに似ている。人間は常識を働かせたり、人に聞いたり、空気を読んだりする。日常の強力な文脈を援助やヒントに使って、目的を達成する力があるのだ。必ずしも学校に行かなくても立派に何事かを達成できるようになる理由である。
「仲間同士のやりとりが知的好奇心を高め、より深く理解するのを助けるのだ、といっておよい。前節の三宅の実験と同様、人々が有能な学び手であるためには、他者の存在が必要なこと、その他者とは、関心を共有するが視点の異なる人がよく、必ずしも知識のより豊富な人であるには及ばないことが注目される」。
日常の学習では専門科学のように原理原則からの深い対象理解は不可能という見方もある。英会話やお金の計算ができるようになっても浅い理解にとどまって、言語学者や数学者にはなれないのではないかという考え方だ。しかし、個人にとってそれが重要な分野で、既有知識を持つ場合には、知的好奇心が働いて深い理解が容易になることもわかってきたらしい。内発的動機の学び手の学習効果は極めて高くなるからだ。
どうしたら日常的認知を学校教育や企業研修などの教育現場に取り入れることができるだろうか。著者は、指導者は教育的創造力を持つことが何より重要だ、と結論している。それは「特定の学習者を対象にして、学び手としての能動性と有能さが発揮され、しかも教育的に意味のある知的所産を生じるような活動を企画したり提案したりする創意工夫」である。
「教え手なし」の学習が成功するように導く教え手になれということか。教育や教師のあるべき役割について、新しい見方を与えてくれる名著だと思う。データやまとめが参考になった。