Books-Education: 2006年9月アーカイブ

考えあう技術

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・考えあう技術
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教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと」であると著者らは定義する。そしてそのふさわしさとは、働いて食べていけるために必要な「技能や知識」、そして「他者との関係能力」を持つことである、という。

だが、現代社会における、ふさわしさを理念化して共有しようとすると難しい。これは二人の教育者が、教育の理想を議論する本である。まず「自由」や「平等」、「市民社会」という現代の「自由な社会」を形作る基本理念がある。個々人の自由と、社会の一員になること、は対立する印象さえある。

かつての「優秀な労働力をつくる」調教としての教育は時代遅れになった。豊かな消費社会の中で「他者を傷つけない限り、自分の快楽と欲望を追求してよい」という考え方が支持されてきた。個人は社会にどう関わっていくべきかという視点が希薄になった。そして「自分を見つめる」心理主義、「個々人の心がけをどうよくするか」徳目主義が、教育理念として偏重されている。

個性的であると同時に社会的であるというのは、こういうことなのではないか?学校教育はこうあるべきだ、という方向へ、二人の議論はまっすぐ向かっていく。前半の、著者の二人の対談の中で「結社の自由」というキーワードがでてくる。これが自由な市民社会と学校教育を結びつける。


刈谷 今まで、コミュニケーション能力とか調整能力というときは、すでに集団が存在していて、そのなかでの協調性が言われた。でも今、西さんが言った結社の自由とか新しい集団とかグループを立ち上げたり、つくりあげていく能力というのは自由の基盤になる。それは今まで言われている共同性とか協調性とかとは別の能力ですね。

互いに合意をつくりあげルール化し、それを改変していく能力は、現在の日本の教育に欠けている視点だと指摘している。


西 そう、それはきわめて本質的な問題ですね。結社の自由があっていろんなゲームが多種多様に存在しうるのも、民主政体によってはじめて確保されるわけだから。経済主体のゲームだけではなく、趣味のサークルのような文化のゲームや、ボランティア活動やNPOに至るまでのさまざまなゲームが花開くのが近代の理想だとすれば、それを根っこで支えているのは、まさに民主主義という「降りてはいけないゲーム」。だとすれば、この降りてはいけないゲームを上手に営むことのできるプレイヤーをどうやってつくるかは、教育の根幹といってもいい。

「降りてはいけないゲーム」を次世代にどう教えるか。自分中心で生きていいというだけでは、このメタシステムは継承できない。ゲームのルールの維持や変更の権利を持ちつつ、主体的にプレイヤーとしてゲームに参加していく人間をつくるには?。その方法論として「選び直しの追体験」のすすめがある。


次の世代にもう一度選んでほしいと思う、そういう私たち人類が蓄積してきたさまざまな成果を、選びなおしというきっかけを介在させて伝える。すでにあるものをそのまま伝えるのではなく、もう一度、追体験する、選び直す、ということを学校の場でやってみるのだ。

日本社会にとっての民主主義というゲームシステムの選び直しということでもある。

この本を読んでいて、「ゲーム」という言葉からの連想で、「オンラインゲーム」って似た部分があるよなと考えた。うまく運営されているゲームには、参加するプレイヤーたちの主体的な決定によって、民主的なルールができあがっている。皆がゲームを気持ちよく楽しむために、何が荒らし行為や詐欺行為にあたるか、何が好ましいか、といったルールが、ゲームシステムとは別にコミュニティ運営のシステムとして、決まっていく。

プレイヤー間には、ゲーム内の職業の違いや、成長レベルの差、ゲームを遊べる時間の差、反射神経や会話能力などの差、保有資産の差など、リアル社会と同じような個性や能力の差が存在している。うまく運営されているパーティは、そうした違いがあっても、皆が楽しめるようなローカルルールが運用されている。本当はリアルな教育の場にこそ、そうした個性と社会性のバランスを学ぶゲームが必要なのではないかと思った。

個性とは何か?、わかるとできるの違いは?、学校は何をすべきか?などの各論も深い内容が多く勉強になった。知識や技能を与えるだけでなく、この本の形式のように、個人や社会はどうあるべきかを、考えあう教育が必要なのである。