Books-Culture: 2012年10月アーカイブ
米国ロサンゼルスタイムズの文芸批評担当記者が書いた読書論。コンピュータや携帯の普及によって本当に「文学は死んだ」のか?。慌ただしい情報社会において深い思索の時間、深い読書の時間はむしろ価値が高まっているのはずだという希望と、読書のニーズが変わったのに旧態依然として変化に対応できない出版業界への批判がある。
「わたしたちは、自分たちが今まさにそのただ中にある問題についてさえ解説を求めたがるのだ。今まさに自分たちが主役である世界についてさえ、ことこまかに知りたがる。四年間の任期の半ばも過ぎていないのというのに、どうして大統領としてのオバマを評価できるだろう?不確定要素もあれば、理解できないこともたくさんあるのだと認める余裕などあるのだろうか?」
確かにネットが登場してからというもの、とりあえず答えを出す、までの時間が短すぎる。昔は図書館に通ったり、人に会って聞いたりで、大事な問題に対してとりあえずの答えを出すにも数日はかかるものだった。現代ではそれがほんの数分のネット検索やケータイの通話で終わらせてしまう。理解できないまま心のもやもやとして、何かひっかかった状態を維持することが難しい。そういう状態こそ自分なりのアイデアや信念を生み出す時間だったかもしれないのに。
「さて、今こそ読書の───真の読書の───出番である。なぜなら読書には、余裕が必要だからだ。読書は瞬間を身上とする生き方からわたしたちを引きもどし、わたしたちに本来的な時間を返してくれる。今という時の中だけで本を読むことはできない。本はいくつもの時間の中に存在するのだ。」
紙の本は数年や数十年という時間感覚で書かれている。著者は内容をある程度長く使えるように普遍化して語るし、読者は執筆された時期を考えて読む。執筆にもブログよりも長い時間を必要とする。一冊の本を読みとおす数時間は、内側から湧き上がるものをとらえる時間でもあった。
「本が内側から外側を照らし出すものであるのに対し、映像はその逆なのだ。言葉とは内的なものだ。わたしたちは、他社の記した言葉から、自分なりのイメージや映像やリアリティを創り出さなくてはならない。それこそが、言葉の力の源だ。」
だが著者は深い思索を指向した読書の礼賛には終わらない。電子書籍時代に受け入れざるを得ない変化も痛感しており、これに対応しない業界人を批判する。ケータイ小説やアプリもまた新しい出版であり読書体験なのだと認めているのだ。
「出版業はほかの事業とは違い、紳士の(あるいは淑女の)事業であって、そこで重要なのは利益ではなく思想なのだ」という考え方に良くも悪くも支配されてきたが、読書と並行して操作するアプリケーション」が増えていく新しいデジタルアプリケーション時代において、この考え方を再考せざるをえないのではないかと著者は指摘している。
古い器と新しい器の長所短所を正確にとらえたうえで、いま起きている電子出版の革命に対して、業界人は心を開くべきだとするバランスのとれたメッセージだと思う。