Books-Culture: 2010年6月アーカイブ

・ネオ・デジタルネイティブの誕生―日本独自の進化を遂げるネット世代
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国内大規模定量調査によって、若年層の情報摂取行動を調べたという、日本版デジタルネイティブ研究報告。日本のデジタルネイティブを3つの世代に区分している。76世代、86世代、そして96世代=ネオ・デジタルネイティブだ。各世代のわかりやすい対比が面白い。たとえば、

76世代:PCで書く、ケータイで読む
86世代:ケータイで書く、PCで読む

という違いがあるそうだ。全般的に上の世代がパソコンでやっていることを下の世代はケータイでやっている傾向がある。もっともこれは、パソコンの所有率とも関係があるのかもしれないが。

情報行動だけでなく、コミュニケーションのスタイルも異なっている。

「まず76世代は、「他人にあまり影響されずに自分らしい生き方をすることがカッコいい」「世の中が言うことよりも自分の情報のほうが正しい」「社会がなんと言おうと自分だけの価値観が大切」といった考えを持つ傾向があります。一言でいえば「自分流」となります。 一方、86世代は、「自分だけの考え、信念を貫き通すのはカッコ悪い」「一人で生きているわけではないので我を通すのはおかしい」「社会があるからこそ自分も生きていける」「周りの人ともっと絡もうよ」といった感じで、"社会との調和""他人との調和"を重んじます。「自分流」と対照的な「調和型」です。」

86世代からは我を通す生き方をしなくなったという。そういえば、70年代には強かったツッパリ不良文化みたいなものも目立たなくなった気がする。そして76世代はネットで「世界とつながる」のに対して86世代は「身近とつながる」。クローズドで心地よい人間関係をつくることに魅力を感じているようだ。

若い世代ほど一般的信頼性が高くなっているという調査結果が出ていた。つまり赤の他人を最初から信頼しやすいということだが、ネット上の顔の見えないコミュニケーションにおいて、この性格は重要なのだろう。同世代に自分勝手に我を通す人が少なくなったという話とも関係が深そうだ。

電通総研と東大の先生による共著。日本のデジタルネイティブの独自の進化がよくわかる。76世代と86世代の話が多くて、タイトルにあるネオ・デジタルネイティブ(96世代)の実態はまだデータが少ないのだが、何かが変わろうとしているという予兆を知ることができる。

・モードとエロスと資本
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モードやファッションの激変を通して現代社会の消費行動を読み解く。

まずオトコとオンナの欲望の消費スタイルが大きく変わったのだという。

「資本主義と手を携えていたモードは20世紀までは恋愛の物語をエネルギーとしてそのサイクルを回転させていたが、資本主義の行きすぎに伴って、「面倒くさい」性愛を代行するビジネスが出現し、服を売るための過大な恋愛幻想が逆に本物の恋愛を遠ざけていき、結果、モードから恋愛の要素が薄まっていった。」

私が大学生の頃、トレンド雑誌には、クリスマスはドレスアップして、高級レストランで食事して、高級ホテルに宿泊なんて、大学生らしからぬ恋愛幻想がバブル経済によって、広められていたが、不況や男の草食化によって恋愛とモードの蜜月関係が崩れた。

「エロスが抜け落ちた、あるいは薄まったモードは、「倫理的」になる一方、恋愛や性愛の要素をあまり伴わない。女性主体の「カワイイ」と「エロい」という二極世界とも手を携えていく。どちらの世界も、女性がモードの力によって現実を超えていくために、マニアックに追求されるが、求道的にその道を極めれば極めるほど、エロスは遠ざかっていくというスパイラルを生んでいる。」

そしてラグジュアリーブランドの指向性も変わった。20世紀の有閑階級は富の誇示をすべく消費活動を行ったが、21世紀には消費の動機は富の誇示から良心の誇示へ、環境への配慮、社会貢献といった「深み」を持つブランドが支持されるようになったと説明している。その一方で不況経済下で、ユニクロ、ギャップ、H&Mのような激安ファスト・ファッションが流行する。ブランドは大きな転換点を迎えている。

恋愛と切り離されたファッションはこれからどこへ向かうのか。ファッションと男女の恋愛と資本主義の変遷を分析した興味深い内容。

・日本文化論のインチキ
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『菊と刀』『甘えの構造』『中空構造日本の深層』『陰翳礼讃』『タテ社会の人間関係ー単一社会の理論』『共同幻想論』『空気の研究』などなど、名著、ベストセラーとされる日本文化論、日本人論の100冊以上をメッタギリにする痛烈な日本文化論・論。私も日本文化論は好きで、このブログでも多く取り上げてきたが、そのほとんどが槍玉に挙げられている。

なにがイケナイのか?。これは日本独自のものだというもののほとんどが外国にもある、そもそも文化の本質などという"ないもの探し"をするのがおかしい、という論旨で、多くの日本文化論をインチキと認定していく。

「要するに、西洋の歴史から何か普通名詞、つまりカテゴリーを作り上げ、それに日本の歴史を当てはめようとするのが間違いなのだ、と普通には考えられるが、実際はそうではなくて、歴史に法則性や、何か深い原因のようなものを探ろうとする行為自体に、非科学的なものが潜んでいるのである。」

高名な学者が専門とは別に日本文化論をやるケースも多いから、そもそも社会科学の理論としてはいい加減なものが多いのは事実だろう。安易な比較文化論にも警鐘を鳴らす。

「比較文化論というもののもう一つの落とし穴は、日本人が、西洋を一枚岩的にとらえがちなところにある。少しでも西洋文化をまともに勉強した人なら、西洋も国によってだいぶ文化が異なり、国同士であれこれと比較をして、他国をバカにしたりしていることを知っているはずだ。」

著者の言いたいことはよくわかるが、私はこれまで日本文化論を社会科学として読んだことがなかった。文化論と言うのは、血液型性格診断と似ているのじゃないかと思う。A型は几帳面で、と言われると、多くの読者がそうかもと思う。だから売れる。そして科学的根拠はなくとも、みんながそう思うと、そう行動するようになるという面がきっとあるだろう。

だから、日本人は勤勉で礼儀正しい民族で、日本語は曖昧で非論理的な言語で、日本の天皇制は海外に類例のないユニークなものだという日本文化論が人気が出れば、実際に人々はそう自己評価し、そうなるように行動するだろう。文化論は分析でなくオピニオンであり、その提唱者は研究者ではなくて、オピニオンリーダーそのものなのだと私は考える。であるから、インチキもトンデモもなくて、成功した文化論と失敗した文化論があるだけだと思う。

私はこの本は、科学的体裁を整えて信憑性を高める戦略に出たが失敗した(実際にはよく売れたから成功したという見方もできると思うのだが)文化論の指摘のように思えた。学術的価値の確認の仕方が参考になる。

日本文化論が好きな人はぜひ読むといいと思う。文化論について客観的、多面的な見方を与えてくれる。そして何より著者の歯に衣着せぬ現代思想家、評論家への攻撃が痛快である。

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