Books-Culture: 2008年11月アーカイブ
「今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を、「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」(Popular Art)呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginal Art)と呼ぶことにして見よう。」
鶴見俊輔の基準でわけていくと、
バレエ、歌舞伎、能は純粋芸術
ロカビリーやチャンバラのタテは大衆芸術
日常生活の身ぶりや労働のリズムは限界芸術
絵画は純粋芸術
紙芝居やポスターは大衆芸術
らくがきや絵馬や年賀状は限界芸術
詩は純粋芸術
大衆小説や俳句は大衆芸術
手紙やゴシップやタナバタは限界芸術
他には、祭り、盆栽や酒の飲み方や遊女の身のこなし、花火、5千年前のアルタミラ洞くつの壁画などが限界芸術に相当する。宮沢賢治が妹の死の一周忌に書いた見事な創作の手紙も例に引かれているのだが、今年の夏、漫画家の赤塚不二夫の葬式でタモリが即興で読み上げたという弔辞は、現代における最高レベルの限界芸術だったように思う。(私は読んだとき感動で震えた。)
・タモリの手には白紙...あふれる感謝そのままに
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/08/08/02.html
「限界芸術の諸様式は、芸術としての目だたぬ様式であり、芸術であるよりはむしろ他の活動様式にぞくしている。この特殊な位置の故に、限界芸術のことを考えることは、当然に、政治・労働・家族生活・社会生活・教育・宗教との関係において芸術を考えてゆく方法を取ることになる。」
そして、マスメディアが登場するまでの庶民は純粋芸術や大衆芸術に触れる機会はほとんどなく、限界芸術こそ芸術に参加する接点であったと述べられている。
だが、現代は限界芸術がマスメディアやネットワークにのって伝播していく時代だ。タモリの弔辞がテレビやネットで拡大されるのもそうだし、ブログのネタふりやチャットの絵文字だって限界芸術だろう。限界芸術の根源性と可能性を説いたこの芸術論の古典はネットのCGM文化を考える上でも読み返す価値があった。