Books-Culture: 2008年3月アーカイブ
司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談。古典的名著。
キーンの日本文化についての知識の幅広さと深さに驚かされる。議論の中で何度も司馬遼太郎が防戦側に回っているように感じた。8本の対談が収録されている。議論はだいたい日本らしさ、日本人らしさとは何か、ということに収斂する。キーンに言わせると歴史的にみて「日本人はいつも何が日本的であるかということについて心配する」民族であったらしい。
原理というものに鈍感な日本人は、仏教と神道と儒教をごちゃまぜにして平気である。「日本の歴史を眺めておりますと、あらゆる面に外国文化に対する愛と憎、受容と抵抗の関係があるように思われます。」とキーンは指摘する。最初は軽蔑したり嫌々ながらに外来を取り入れていくが、やがて不可分なほど融合する。日本の文化史というのは、確固たる日本文化があるわけではなくて、外来文化が入ってくる、そうしたせめぎあいそのものなのだ。
それでも日本人は日本文化の絶対価値をアプリオリに認めている民族である。そこが日本人のおもしろいところでもあると思う。地政学的な安心感が土台にあるのだろう。
「もう一つは、中国には日本人にできないようないろいろ素晴らしいものがあるけれども、日本にも中国にはないような立派なものがある、と考えていた。それは何かというと、日本人の独得の「まこと」、あるいは「まことのこころ」でした。中国人に「まこと」がないという証拠はあまりないのですけれども、ともかく、どうしても日本には中国にないものがあるということを信じたかったようです。」とキーン。
真心、誠、大和魂。日本人の精神の芯にはなにか特別で正統なものがあると仮定して疑わない。それが何なのか言葉で説明したり、論理で証明はできないが、とにかく信じているわけである。その上で外来文化を取り入れているから平気なのである。
司馬はこういう。「日本という国は外にたいしてあまり影響を与える国じゃない。つまり世界史における地理的環境というものがあって、日本はいろんなものが溜まっていく国だと思うのです。中国になくなったものが日本のなかに溜まっている。文化のなかにも、言語のなかにも、むろん建築のなかにも、正倉院にも溜まっている。それではそれが中国に押し出していくか、思想として中国思想に影響を与えるべく出て行くかというと、それはありえない国のようですね。」
日本的な美とは伊万里や柿右衛門ではなくて、志野や織部だという話。日本の大きな合戦はここぞというときに裏切り者が出て勝敗が決まってしまうという話。日本人は政治を女性的にとらえてしまうという話。日本に来て成功した外人と失敗した外人論。多彩なテーマで日本人と日本文化の本質がわかりやすく語られている。
私たちはいつのまにか流行歌の歌手のことを「アーティスト」と呼ぶようになった。これを「芸術家」と訳したら違和感がある。アートと芸術は別物で、無意識にアート<藝術という前提があるのである。しかし、どこからがアートでどこからが芸術なのかと問われると戸惑う。
現代において芸術とは何かという難しい問いに著者は真正面から答えている。
「近代の藝術、というのは端的に藝術ということです。なぜなら、ほかの文化圏においては、また西洋でも近代以前には、「藝術」の概念は存在しなかったからです。今日われわれが藝術と見做している作品のレパートリーは広大なものですが、それは、西洋近代において成立した藝術の概念を、それ以前の時代に、また異文化の世界に適用したものです。たとえば、百済観音は仏像以外の何者でもありません。」
「ところが藝術とは、広大なartsの領域のなかからその一部分を取り出して、価値的に区別したものです。具体的に言えば、絵画は藝術だが、家具を作るのは職人仕事だ、ということになりますし、さらに細かく言えば、油絵は藝術ですが銭湯にある富士山のタイル画は職人仕事という具合に区別されます。その区別の標とされてきたのは、作品に込められた精神的意味の深みです。」
デザインや職人芸は、芸術というよりアートといったほうがおさまりがよい。ネイルアートサロンなどという言葉もあるが芸術とは関係がなさそうだ。「背後に精神的な次元を持ち、それを開示することを真の目的としている活動が藝術です。」という著者の結論が納得である。デザインや職人芸では作者は透明で匿名であることが本来の特性であるのだから。
この本の芸術論の中でやはり面白かったのはコピーとしての芸術という章である。現代の私たちは、生演奏のコンサートや演劇の舞台をたまに劇場で見るが、DVDやCDは自室やiPodでひとり鑑賞することのほうが圧倒的にが多い。芸術の鑑賞スタイルが大きく変わってきているのだ。
「ここに、複製による藝術体験の特徴を見ることができます。すなわち、複製の体験は個人化し、体験の様式は自閉的なものになります。それは藝術だけのことではなく、われわれの生活様式全般に広く見られる現象です。」
そしてコピーで知ったモナリザを追体験するためにリアルの美術館へ向かうのである。商品化されたコピーがオリジナル以上の影響力を持っている時代になった。自分の体験をみても確かにコピーで知って(たとえばネットで美術館を調べて)、オリジナルを追体験するという機会のほうが多くなってきたように思う。
自宅の大きなハイビジョンテレビで鑑賞する絵画のほうが、混雑する企画展で遠巻きに眺めるオリジナルよりも、深く味わえたりすることさえある。これから現代の芸術を大きく変えるのは、実は高精細なディスプレイの技術だったりするのではないだろうか。