Books-Culture: 2008年2月アーカイブ

仏像のひみつ

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・仏像のひみつ
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東京国立博物館の同名の展示が一冊の本になった。

「人間の社会には組織というのがあります。会社だったら、会長さん、社長さん、専務さん、部長さんから、ヒラ社員まで。博物館にも館長がいて、副館長がいて、部長がいて、その他いろいろ......。仏像の世界も同じです。いくつかの段階のグループがあって、種類があって、それぞれの役割があります。そして仏像はそれが見た人にすぐわかるように、それぞれが決まった髪型や服装をしています。」

ということで最初に示されたのがこのピラミッド。

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これがわかっただけで、これまで見てきた仏像の位置づけがかなりわかりやすくなった。もちろん如来、菩薩、明王、天とはなんなのかのやさしい説明がある。

「さとりをひらいた如来のからだには、いろいろな特徴がそなわることになりました。それは数えると三十二、あるんだそうです。」。具体的に如来の主な特徴が説明されている。

たとえば鎌倉の大仏を例にだすとすると、

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上の○で囲んだ部分はすごく特徴的である。普通の人間にはなくて仏像だけにある。ボコボコした頭は、長い髪が勝手にパンチパーマ状になったもの、だそうで、おでこのボコは白い毛がくるくるっとまるまったもの、なのだそうだ。(それってどういうことというと深い意味があるわけだが。)

このほかにも仏像の姿勢や小物などの説明がいっぱいある。仏像の手の結ぶ印で、仏像の伝えたいメッセージが識別できるというのは、一緒に博物館にいった誰かについつい語ってしまいそうだ。

先手観音には千本の手があるわけじゃなくて四十二本の手があるなんていうのも初めて知った。「一本の手が二十五の世界の人々を救うんだそうです。だから四十本の手があれば、四十かける二十五でせ、千の世界の人を救えるんだって。それに、もとからある日本の手をいっしょに数えて四十二本の手になるらしいのです」

博物館に行く前にざっと読んでおくと、観賞力倍増間違いなしの強力なガイドブックだ。

読み替えられた日本神話

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・読み替えられた日本神話
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日本書紀は神話のスタンダードとしてその成立以降、宮廷や祭祀の人々に読み継がれてきた。中世において、その読まれ方は、読み継ぐというより読み替えというほうが正しかった。彼らは自由奔放にオリジナルを翻案改作して、別バージョンの神話を積極的に作り上げるようになった。

「中世日本紀の世界。そこには『記』『紀』神話に伝わっていない。イザナギ・イザナミの両親から棄てられたヒルコのその後の運命、あるいは源平合戦のさなかに失われた三種の神器のひとつ、草薙の剣のその後の行方、あるいは伊勢神宮でアマテラスの食事担当の神だったトヨウケ大神が、天地開闢の始原神、アメノミナカヌシへと変貌していく様子、さらには第六天魔王とか牛頭天王といった、古代神話には登場しない異国の神々でさえも活躍していく。もはや仏教とか神道とかいった区別さえも通用しないような世界が繰り広げられていくのだ。」

従来、研究者は、こうした神話の亜種を価値の低いトンデモ偽書としてまともに調べてこなかった。だが、神話の読まれ方を通史で眺めると、古い神話にインスピレーションを得て、新しい神話の創造するという行為はずいぶんと盛んでひとつの文化といえるものだったと著者は高く評価している。

日本書紀が成立直後より、朝廷では定期的(平安以降は30年おき)に、日本書紀の購読・注釈の催しが行われてきた。日本紀講と呼ばれるこの神話の読書会が、やがて神話創造の現場となった。

「こうした日本紀講の現場は、同時に新しい神話テキストを生み出す「創造」とも繋がっていた。『日本書紀』を注釈し、講義していく日本紀講の場は、なんと『日本書紀』を超えるスーパーテキストを作り出してしまうのだ。」

もちろん、その創造行為の動機には政治的なものを見る意見もある。「たとえば中世のアマテラスの本地垂迹は、在地の信仰を仏菩薩の垂迹として位置づけ、その頂点に大日如来の垂迹たるアマテラスが君臨することで、武士をはじめとした中世の人々を中世王権が精神的に再編成することが可能となったという説がある。」。そもそも同時期に成立したはずの古事記と日本書紀の記述の違いは主に天皇の権力を正当化するための意図的な改造であった。

だが、神話を創作の素材に用いるのは、千と千尋の神隠しやもののけ姫のような、現代のアニメ作品だって同じである。みんなが知っている話だからこそ、その続編を作ったり、同時代的要素を盛り込んだ別バージョンを作ったりすることが楽しいわけである。そうした楽しさに中世の人々は浸りながら、自由奔放にもうひとつの神話を作り続けた。そのクリエイティビティを、偽物だからなかったことにするというのでは、あまりにもったいないではないか、見なおそうというのがこの本の執筆の動機。

日本神話は日本人に本当はどう読まれてきたのか、実は今でいうCGMのネタとして親しまれてきたのじゃないか?という新しい視点を与えてくれる興味深い研究だった。

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