Books-Culture: 2007年5月アーカイブ

写真の歴史

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・写真の歴史
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写真の黎明期を解説する教科書。

「1839年1月7日、フランスの著名な天文学者であり物理学者でもある下院議員のフランソワ・アラゴは、パリの科学アカデミーで、ダゲレオタイプと呼ばれる写真術に関する講演を行った。ルイ・ダゲールによって発明されたダゲレオタイプは、16世紀以来画家たちが写生にもちいてきたカメラ・オブスキュラという装置を使った写真術だったが、それまでのように装置がうつしだした像を手で描くのではなく、画像を化学的に記録することができる、まったく新しい方法だったのである。」

「記憶を持った鏡」ダゲレオタイプの技術公開があった1839年が「写真誕生の年」と言われる。当時のカメラは露出時間が短くて10分、長いと2時間以上かかったそうで、被写体は動かないものに限られた。それが1841年には現像促進剤の開発により、いっきに10秒程度まで短縮される。ポートレートが撮影できるようになった。

長時間露出がマストの時期の人物写真はポーズが妙である。眼をつぶっていたり、手を上着の中に入れていたり、顔がこわばっていたりする(後頭部に固定棒があった)。これは長時間動いてはいけないために、編み出された撮影姿勢だったのだ。

ダゲレオタイプは一回の撮影で一枚の画像しか得ることができなかったが、1840年にはイギリスのタルボットがカロタイプという、何枚も画像を焼き増しできる写真術を発明した。

・タルボットのカロタイプ Wikipediaより引用(Public Domain)
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タルボットは「だれもが印刷屋や出版社になれる」と利点を説明したらしい。この言葉は、まるでインターネットやブログのことを言っているみたいである。

大量複製できるようになって世界中の人が写真に注目した。一方で写真を快く思わなかったのが絵画を描く芸術家たちであった。景色がそのまま写しとれる写真の登場に、彼らは職を失うことを恐れたようだ。当時の芸術家たちの往復書簡が巻末に多数引用されていて、時代の空気が読める。こんなものは芸術ではないと斬る人多数。

だが、既に写真は芸術的であったことが、この本の掲載写真でよくわかる。キャメロンの神秘的な肖像写真(この本の表紙)や、レイランダーの絵画風写真などは、今見てもうっとりする。1850年代のル・グレイの「海景」はこの本で見て感動した。空と海を異なる露出時間で撮影したネガを組み合わせて作ったものらしい。当時の最先端の画像処理である。

・MOMAのサイトで「海景」
http://www.moma.org/collection/browse_results.php?criteria=O%3ADE%3AI%3A4&page_number=5&template_id=1&sort_order=1


1860年代になると新聞や雑誌にも写真がよく使われるようになり、カメラも一般人のものになった。1870年にはアメリカのイーストマン・コダックが、アマチュアでも使いやすい乾版フィルムを発明し、大衆化が進む。こうして写真の黎明期が終わりを告げる。本書はそこで終わる。ざっと写真誕生から30年間の歴史が、この本では丁寧に語られている。

・すぐわかる作家別写真の見かた
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004934.html

日本語は天才である

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・日本語は天才である
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天才翻訳者、柳瀬尚紀が書いた日本語の蘊蓄本。

柳瀬尚紀といえば難解さで知られる世界文学ジェイムス・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」「ユリシーズ」や、知的構築の極みダグラス・ホフスタッターの「ゲーデル・エッシャー・バッハ」、幻想文学の古典ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、映画になったロアルド・ダール 『チョコレート工場の秘密』 など、歴史的名作に名訳をつけてきた。

学生時代にフィネガンズ・ウェイクを柳瀬の翻訳で読んだ。この作品はジョイスが作った人工言語で書かれている上に、文体が章ごとにめまぐるしく変わる。アナグラムや回文などの言葉遊びが何万も続く。辞書を使って単語を置き換えても意味は通らない文ばかりだ。そもそも英語としても意味が確定できない。普通に考えれば訳出は不可能な作品だが、柳瀬は創造性を発揮して、原作の面白さを活かす形で日本語に翻訳した。異言語の「言葉の綾」を、日本語の綾に取り換えて見せた、何万回も。唖然とした。

この偉業を完遂した背景には、圧倒的な日本語の語彙とことばへのこだわりがあるのだろうなと感じていた。この本には柳瀬尚紀の日本語への異常な執着ぶりが最初から最後まで語られている。言葉の由来を説くだけではない。同音異義語を何十も挙げたり、七は本来シチであってナナじゃないのだぞと何十ページも説明したり、長大なアナグラムをいくつも評論した上でハイレベルな自作まで示したり、敬語ならぬ「罵倒語」について延々と説を述べたりしている。

そして、日本語の変幻自在の自由度、漢字や外来語を飲み込む包容度を絶賛して、日本語は天才であるという。確かに日本語の強さを納得させられるのだが、それ以上に柳瀬尚紀の天才ぶり(奇才ぶり)が明らかになる。

どうやるとこういう日本語の天才になれるのだろうか。こういう一節があった。

「背伸びしているふうに、と言いましたけれど、そもそも本は背伸びして読むものではないでしょうか。もちろん、本を読むとき、人はうつむく。そっくり返っては読めない。しかしうつむいて読みながら、気持は背伸びする。精神は上へ向く。それが本を読むということだと思います。使う言葉も背伸びしたものになる。一段上の言葉を使うようになる。そうして言葉が成長するわけです。」

本で読んだちょっと難しい言葉を、日常生活や作文で使ってみる背伸びが、日本語能力を成長させる。そういった意味では、メールより手紙の方が日本語能力は高まるのだろうな。かつては年長者の日本語を若者が真似をしたが、最近は逆でいけませんと嘆いているのもそうだよなあと思う。いいお手本がなくなったのが現代社会の日本語なのだろう。

絵文字でごてごて(しかも字が動いたりする)携帯メールや、文末にw (笑)(藁)がついたような2ちゃんねる文体が、インターネットやメールでは流行している。きしょいとかきもいとかの最近現れたばかりの若者言葉や、ら抜き表現などを、年長者が若者に迎合するように使ってしまっている。言語の伝統保守とその破壊がバランスをとるべきなのに、最近は破壊の力がアンバランスに強烈な気がする。語彙は増えているが、きれいな日本語、美しい日本語が増えていないように感じる。

柳瀬尚紀というのは、日本語を愛し伝統を守りながら、同時に破壊解体して、自身の創造行為(翻訳)をする前衛的日本語使いである。機械には絶対に無理な翻訳をして、芸術のレベルにまで高めてみせた人でもある。そういう凄い使い手が、今の日本語を主観的に、そして客観的に、どう見ているのか、がわかって勉強になった。いい日本語を使うにも、守・破・離が重要なのだな。

岡本太郎 神秘

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・岡本太郎 神秘
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これは大傑作だ。沖縄・久高島の秘祭イザイホーを写した表紙にひきつけられ、本屋でちらっと数ページ見て、これは凄いと感心し、即購入を決めた。写真集として5つ星をつけたい。

・日本人の魂の原郷 沖縄久高島
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003941.html
久高島については以前書きました。

「芸術は爆発だ」の岡本太郎と、「婆バクハツ」の写真家 内藤正敏の爆発系の二人のコラボレーション写真集。岡本太郎が遺した2万枚の写真ネガを内藤が現像して、岡本の文をキャプションとして配置した。

60年代に岡本は民俗学に強い関心を持ち、数年間の間、東北、関西、沖縄で撮影を重ねていたらしい。プロの写真家ではないからこそ、意図的演出ではなく偶有性の奇跡がしばしば顕れる。自らシャーマンとなることで神秘の写真を撮ることができた。

岡本太郎の養女 敏子の序文はこうある。

「神秘を感得する能力は現代人からはほとんど失われてしまった。だが稀に、そういう原始の資質を鋭く、なまなましく持っている異常な人がいる。岡本太郎はそういう人だった。フランスで育ち、教育を受けているし、本来極めて論理的な頭脳を持っている。合理的な人なのだが、感応すべき場や、ものに出会うと、ぴりぴりとし共振してしまうらしい。人に言っても解らないから、ふだんは黙って、底に秘めている。だが、あるとき、突如彼はシャーマンになる。直接、彼方の世界、神秘と交流する。」

岡本太郎の見つけた神秘の正体は民俗であった。貧しくぎりぎりの生活だが、本物の暮らしをする人々の原初的なパワーだった。ここに写された人々は現代文明から取り残された場所で、必死で一杯であるが故に、常に霊的力の源と隣合わせなのである。女、こども、水と火、生と死、性と聖、浄と不浄、リアルとバーチャルの際を、岡本のカメラはキワどくフィルムに写し撮る。情念のレンズが非生命の人形にさえも魂を写した。

「人間の純粋な生き方というものがどんなに神秘であるか」

「この運命に対して、下積みになりながら日本の土とともに働くもののエネルギーは、黙々と、執拗に、民族のいのちのアカシを守り続けてきた。形式ではなく、その無意識の抵抗に、私は日本文化の可能性を掴みたい。」

「芸術は芸術からは生まれない。非芸術からこそ生まれるのだ」

この写真集を見れば、岡本太郎の視覚芸術での圧倒的な表現力の根源が、神秘の感得能力にあったことは疑いようがないと思える。生の民俗こそバクハツの起爆剤なのだ。そこには生きる力のすべてがある。

内藤の白黒ネガの現像技術も芸術だ。白黒ネガの創造性は多くは現像の技法によって生み出される。機械的な現像処理ではこの傑作はなかったはずだ。露出の制御が絶妙である。昼夜がわからない暗く焼いた画像は被写体の時間を止める。粒子が粗く、ブレを効果的に見せる作風は、写真家 森山大道の作風に似ているが、神秘性の視覚化という点ではこちらが何枚も上にあるように感じる。

二人で一つの偉大な芸術を生むことに成功した、世界でも珍しい奇跡の写真集である。130ページの神秘。

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http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004925.html

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http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004906.html

僕の叔父さん 網野善彦

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・僕の叔父さん 網野善彦
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学者一族に生まれた中沢新一は、偉大な歴史学者の網野善彦の甥にあたる。幼少のころから仲が良かった中沢は、網野の死に際して追悼の記念にこの回想記を書いた。中沢の名文により、二人の背景がよく見える本だ。どちらかのファンなら必読である(私は中沢新一のファン)。

それにしても恐ろしくインテリな家系である。おじちゃんと甥っ子、お父さんと子供の会話の内容が、そのまま歴史学であり民俗学であり宗教学なのだ。冗談ではなくて、本当に学会みたいな家族である。

たとえば「私は高校生になった頃、英語に訳された「我国体の生物学的基礎」を読んでいて、奇妙なことに気がついた」と中沢の思い出が語られている。高校生がそんな本を読んで、英訳のニュアンスの違いを発見して、叔父にそれを指摘するのだが、活動家の父親も加わって天皇制と国体の議論へ展開して、ひとしきり盛り上がる。

そして

「このときの網野さんと父の会話は、私には忘れる事ができないものとなった。網野さんは日本の歴史の中に、自然と直接的にわたり合いながら活動する、野生あふれる非農業的な精神の存在を掘りあてようとしていたのである。そして、天皇はそうした人々を、神と人をつなぐ宗教的な回路を通じて支配していた。その人々の世界は農業的日本よりも、もっと深い人類的な地層にまでつながっており、しかもその人々の世界の中から日本型の資本主義もユニークな技術も生まれ出てきた。その世界のもつ潜在力の前では、農本主義も保守主義もほとんど無力であろう。どこかへひきかえすことなどは、不可能なのである。
私は自分がどんな場所に足をすえて、ものごとを考え抜いていかなければならないかを、その夏の夜に知った。私は網野さんの思考にうながされながら、「コミュニストの子供」らしく、思考はつねに前方に向かって楽天的に開かれていなければならないことを、悟ったのであった。」

と感慨を書いている。高校生が悟っている。

何十年間に渡る中沢と網野のやりとりは、後年の二人の学者としての仕事の内容に大きな影響を与えていることがよくわかる。「「トランセンデンタル」に憑かれた人々と形容しているが、人間の心の中の、超越的で先験的な領域の存在への情熱が、彼らの家系には共有されていた。集合することで一層その志向は強まっていったらしい。中沢新一の独特の神秘性の源は、こういう血縁の背景にあったのか、と納得した。

・アースダイバー
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003694.html

・対称性人類学 カイエ・ソバージュ<5>
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001148.html

・神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html

・「精霊の王」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

読書という体験

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・読書という体験
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岩波文庫80周年である。

学者、作家、ジャーナリスト、俳優など各界で活躍する34人の本好きが、それぞれにとっての読書の意味をエッセイとして寄せた。内容はさまざまで、座右の書を紹介する人もいれば、長く生き残る本とは何かを考察した人もいる。岩波文庫の歴史を博覧強記に語る人もいるし、実は若いころはあまり本を読んでなかったと告白する人もいる。

有名な書評家の斉藤美奈子氏はこんなことを言っている。

「よく雑誌の読書特集なんかで「あなたの人生を変えた一冊の本は?」と問われることがある。これは気がきいているようで、じつはマヌケな質問なのだ。だから私はそんなとき「本じゃ人生変わりません」と答える。これは本当。第一に「人生を変える」のはやっぱり生身の体験で、本はしょせん本なのだ。第二に、仮に「人生を変えた本」があったとしても、それがたった一冊のはずがない。ていうか一冊じゃ困るわけ。たった一冊の本に人生を左右されるようでは、危なっかしすぎる。」

まさにおっしゃるとおりで一冊で変わるわけもない。複数の本が人生を変えるはずだし、読む順番だってかなり影響するはずだ。必ずしもその分野で一番良い本と最初に出会えるとは限らないから、名著が人生を変えるとも限らないだろう。どんな本でもきっかけにはなりえる。

ところで私は昨年、書評の本を書いた。本好きの中でも、本とのかかわりにおいて、かなり珍しい体験をした部類に入ると思う。それで自分にとって人生を変えた一冊を敢えて挙げるとしたら何かなと考えてみた。

・モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語
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小学生の時に読んだこの本は、明らかに本好きになるきっかけになっている。先日、取りよせてあるので、これから読みなおそうと思っている。近日このブログに書く予定。

それから、妙に共感してしまったのが、多和田葉子氏の「予感の香り」

「ページをめくると、本によって違う香りがたちのぼる。出版社によって、というよりおそらくは使っている紙と糊によって、本の香りは違うのだろう。それは食べ物の香りでもない。むしろ埃を被ったもの、泥のまみれたもの、すえたもの、忘れられたもの、禁じられたものなどの香りである。」

本を開いた時に、周りに誰もいないと、綴じ部に鼻をあてて、匂いをかぎたくなる人って、私だけじゃなかったわけだ。経験を積むと読まなくても、この匂いでだいたい、どのレベルの本かはわかってしまう、というのは冗談だが、情報の匂いをかぐ気持はすごくよくわかる。出版不況を打開する奇策として、名著らしい匂いのする本なんて、どうだろうか。結構、本好きには評判になるかもしれない。

そういえば、岩波文庫というと私の子供のころは、薄い半透明のパラフィン紙が表紙に被せられていたのを思い出す。夏などは汗でパラフィン紙が指にまとわりついてきて、何度も直しているうちにぐしゃぐしゃにしてしまい、諦めてはがしていた。どうやって読むのが「正式」の方法なのか、気になって仕方がなかった。大学にでもいけばわかるだろうと思ったが、行ってもその件は分からずじまい。パラフィン紙の表紙も廃止されてしまった。

愛書家の34本のエッセイを読んで本好きと情報好きは違うなと思った。本好きはそこに書かれている内容だけでなく、本を読むという体験にこだわっている。情報を得るだけが本ではないのだ。寄稿者たちは、本というメディアを、その物理的制約も含めて、人生の一部として愛している。

ぐしゃぐしゃのパラフィン紙、私も結構好きだった。

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