Books-Culture: 2007年4月アーカイブ

・中世日本の予言書 <未来記>を読む
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中世の日本では政治や社会の大きな変化があると、人々は、ずっと昔にそのことを予言していたという「未来記」のことを話題にしたそうだ。この本では「野馬台詩」と聖徳太子が書いたと言われる「聖徳太子未来記」の二つの未来記を読み解き、中世の日本に果たしたその役割を指摘する。

こうした未来記の多くは予言であるにも関わらず、事件が起きた後になって”発掘”されていることが多い。あの事件を予言していた昔の文書が見つかったという風にでてくる。内容は、世の中の荒廃に嫌気がさして神仏が日本を見捨てて去っていき、社会が崩壊するという末法思想である。空から猿が飛来し、黒鼠が牛腸を食らうという象徴的な記述に満ちている。ノストラダムスの大予言みたいである。

未来記は由緒が怪しいし、記述にも矛盾が多く、偽書に分類される。特に近世にはいってからは本気で信じる者が少なく、パロディとして扱われていた。歴史学者はまともな研究対象として見てこなかった。

著者は未来記が発見された中世の当時には、偽書として切り捨ててはならないくらい、大きな影響力を持つ文書だったろう、と再評価している。朝廷が菅原道真の怨霊を本気で信じて政治の意思決定を行ったような時代である。少なくない人々が、予言書の内容に影響を受けていたはずだとして、当時の世情を解説する。民衆だけでなく、後白河院も未来記の一つに魅了されていたという事実も紹介されている。

そこには十分なリアリティがあったのである。そして、現在の状況への批判の姿勢がある。

「もちろん利権や私利私欲をねらって捏造した場合もあるだろう。しかし、時代を動かし、難局を乗り越え、ひたすら世の中や人々の救済を指向し、あらたな未来に挑戦しようとする強い意志がそこには横溢するのではないか。名もない人たちの、未来記に託した想いが凝縮されているともいえよう。」

未来記は、混迷する世の中への問題提起として、当時の誰かが書いた怪文書ということのようだ。怪文書はそれが出てきたコンテクストと突き合わせて読み解くことで、時代状況を知るための有意義なテクストにもなる。中世から近世まで、日本人がどんなフィクションにリアリティを感じてきたかの歴史学として面白く読めた。

硝子戸の中

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・硝子戸の中
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夏目漱石が1915年1月13日から2月23日まで新聞連載したエッセイ36本。

「硝子戸の中から外を見渡すと、霜徐をした芭蕉だの、赤い実の梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれといって数え立てるほどのものは殆ど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。」

この時期、漱石は持病の胃腸病に悩まされて、自宅療養生活を送っている。「自分以外にあまり関係のない詰らぬ」事を書くと断って、日々の生活や追憶を短く綴っている。当時すでに文豪としての地位を確立していた漱石だが、このエッセイ集では意外にナイーブな内面を見せている。

自分が親から疎まれていたのは性格が悪かったからだろう、とつぶやいたり、偏執的な読者から繰り返し送られてくる手紙にほとほと参ってしまったり、あなたの講演は難しかった、わからなかったと言われて、随分落ち込んだりしている。

「今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑り深くて人を容れる事が出来ないか、この両方だけしかない気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯続くとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。」

他人の眼をとても気にする人だったのだなと驚く。そんな世間と自分を連載の題名「硝子戸」で隔てた上で、新聞の依頼で書くけどこれは「つまらぬこと」ですよ、という断りまで入れる。何重にも対読者バリアを用意しているわけである。こうしたナイーブな感性が数多くの傑作を書けた理由なのかもしれない。

「ある人が私の家の猫を見て、「これは何代目の猫ですか」と訊いた時、私は何気なく「二代目です」と答えたが、あとで考えると、二代目はもう通り越して、その実三代目になっていた。」という、有名作品を連想させる記述もある。有名作家だからいろいろな人から相談を受けている日常も書かれている。女性の身の上相談に理屈で答えている。カウンセラーとしてはあまりうまくない先生だったみたいだが、物語のネタをそうやって吸収していたのだろう。自分語りが少ないと言われる文豪漱石の、日常と内面がのぞけるのが、このエッセイ集の面白さでもある。

漱石の文体は、エッセイでも、ちゃんと四角いなと感じた。漢字や仮名遣い、接続詞、句読点の打ち方が、なんというか、お手本的である。無駄がない。特に事の顛末を、時系列に、短文を並べて、説明するのがうまいなと思う。

「この小包と前後して、名古屋から茶の缶が届いた。しかし誰が何のために送ったものかその意味は全く解らなかった。私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。するとほどなく板越の男から、富士登山の絵を返してくれといってきた。彼からそんなものを貰った覚のない私は、打ち遣って置いた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方気違だろう。」私は心の中でこう極めたなり向こうの催促には一切取り合わない事にした。」

という風に数週間を短く圧縮してみる一方で、時間的には一瞬の心理描写を同じくらいの行数で綴ったりする。文章の意味の圧縮率を自在に変えられるから、全体として構成の整った文章になっているように思えた。こういうのを実際に書こうとすると、下手な私は思い入れのある部分が冗長に引き延ばされてしまう。文章のうまさというのは、こういうところでも差が出るのかもしれないなと、文豪の手すさみを読んで思うのであった。

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危ない写真集246

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・危ない写真集246
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いろいろな意味で危ないサブカルチャー写真集を246冊もレビューした奇書。それぞれ代表的な作品が掲載されているので、紹介されている写真集を見た気になることができる。
ここに取り上げられる写真はどれもマスメディアには出てこない危ない写真ばかりである。死体、セックス、奇形、精神病患者、自傷などなど、ちょっとパスしたいシロモノ多数。一人の女性の陰部ばかりを長期にわたってマクロ撮影した写真家や、少年の勃起した裸体ばかり集めたモノもある。

目次

00-ベスト
01-屍体のある風景
02-医学・フリークス・タトゥー
03-ボンデージの愉しみと恐怖
04-セックス&ボディ
05-狂気のポートレイト
06-グロテスクの劇場
07-人間人形時代
08-オールド・ファッションド・エロティカ
09-クラシック・ドキュメンタリー
10-現代のドキュメンタリー
11-危ないアーティスト・ブック
12-コレクションの魔

インターネットの路地裏へ一歩入るとこうした写真は簡単に見つかったりするものだが、体系的にその危うさの意味が論じられているのが、この本の価値である。

たとえば、かつて写真がまだ高級なものであった頃、亡くなった家族の遺体を写真に撮ることは思い出を残す行為として、広く行われていたようだ。精神病院の患者の写真集というのも、人権やプライバシーが重視されていなかった時代には多数出版されていた。それから、結構長期にわたってヌード自体がイリーガルな時代が各国にあった。今見るとライトなヌードも当時は人目を忍ぶディープなポルノであったらしい。時代背景とセットで作品を見ることで、各時代に、権力が何を隠さねばならなかったかがわかってくる。

何を隠すかもまた時代を写す鏡である。

たとえば、いまどきのネットで隠されているものとして「キムタク」がある。

久々に毎週見ていた人気ドラマのサイト(番組は終了)を見ると、

・TBS 日曜劇場「華麗なる一族」
http://www.tbs.co.jp/karei2007/

他の木村拓也の写真は一枚もないのである。他の俳優は配役紹介で顔写真が出ているがキムタクだけイメージ画像であり、極めて不自然だ。

調べてみると分かるが、ネット上ではジャニーズのタレントの肖像権は厳しく管理されている。キムタクがCM出演しているニコンのデジカメのサイトにいけば顔を拝めたりするが、この画像を保存しようとすると「このサイトでは、右クリック操作ができません」とポップアップが出てくる。

・ニコン アドギャラリー
http://www.adgallery.nikon-image.com/

キムタクの顔も、業界関係者にとっては、ある種の危ない写真なのである。別の意味でメディアには封印作品がある。音楽では放送禁止の歌もある。なぜそれが危ないのか、出してはいけないのかを考えると、時代の構造が垣間見えてくる。

そして、危ないものが多い時代はやっぱり危ないのじゃないか、と思う。

・封印作品の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002818.html

封印作品の謎 2
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004341.html

・放送禁止歌
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001449.html

・案外、知らずに歌ってた童謡の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003167.html

モノクローム写真の魅力

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・モノクローム写真の魅力
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モノクローム写真の魅力を、国内有名写真家50人の作品、インタビューと一緒に紹介している。「写真の持つ記録性と表現性を、カラーとモノクロームに照らし合わせて考えると、記録としての写真は自ずと情報量を備えたカラーが有利であり、表現としての写真は抽象的なモノクロームが有効と受け止めるのが自然です。」

モノクロ写真は情報が整理され、被写体が持つ意味をはっきりさせる。

「モノトーンのなかに色を読み取って欲しいし、見る側にとってもカラーよりモノトーンのほうが自由に受け止められるはず」「モノクロームは絵で言えばデッサンでしょ。写真の基本じゃないかしら」といった写真家もいた。

雑賀雄二という写真家の「月の道」は、夜中に長時間露光で無人島の背景を撮影したもの。普通に撮影したら真っ暗闇だが、月の明かりをゆっくりじっくり吸うことで、夜でも昼でもない不思議な世界が現れる。カラーではこういう表現はできないだろう。

・月の道/Tsuki no Michi-Borderland-top,by SAIGA yuji
http://www.ne.jp/asahi/saiga/yuji/gallary/tsuki/top.html
Webで作品を鑑賞できる。

魚を使ってオブジェを作る今道子の写真もカラーではあまりにグロテスクで鑑賞に耐えない作品になる気がする。色を消すことで純粋にカタチの面白さが味わえるのだと思う。

・The PHOTOGRAPHER/今 道子
http://www.fujifilm.co.jp/photographer/2004_12kon/index.html

この写真集を見ていて面白そうなので、モノクローム写真を自分でも撮影してみることにした。デジカメのカラー写真をモノクロ化するのは簡単なのだが、それでは味が出ない。ここはやはりフィルムだろうということで、先日入手したチープなカメラにこの白黒フィルムを入れてみた。

フジフィルム 35mm白黒フィルム ネオパン100 アクロス 36枚撮り

・メーカーのサイト
http://fujifilm.jp/personal/film/monochrome/film.html
「中庸感度、超高画質の黒白写真用ネガティブフィルムです。このフィルムは、ISO100としては世界最高水準の粒状性と豊かな階調、優れたシャープネスを備えていますので、ポートレート、風景写真、建築写真、商品写真から顕微鏡写真や複写用途に至るまで幅広い分野の撮影に適しています。また、優れた相反則不軌特性を有しており、低照度長時間露光による感度低下が非常に少なく、建築写真や夜景などの長時間露光の撮影では特に効果を発揮します。」

白黒で撮影してよく写りそうなものを探して撮影してみた。


他に人物もかなり撮影した。

モノクロがいいなと思ったのは飲み会の写真。赤ら顔や食べ残しが写っていても気にならない。さわやかな飲み会写真になる。街のスナップでも使いやすい。人物の背景に真っ青なゴミバケツが写りこむとカラーでは見苦しいが、モノクロでは気にならない。

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