Books-Culture: 2006年12月アーカイブ
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これはすごい。強烈だ。
日本のアニメが海外で人気があるという話は有名だ。
しかし、具体的にどんなアニメがどんな風に人気があるのか、どれだけの日本人が知っているだろうか。この本にはアメリカの現役オタクである著者によって、アメリカのオタクの実態が生々しく描かれている。日本のアニメや漫画文化の可能性を考える上でとても貴重な情報が満載である。ファンでもないのに研究だけしている学者やジャーナリストがいかに何も知らないか、痛烈な批判と説得力のある解説も見事だ。
アメリカのオタクを語る上でまず「ギーク」「ナード」の違いをまず定義している。
「
僕はナードじゃない。それほど頭がよくないから。テレビゲームを作る側じゃなくて遊ぶ側の人間だ。僕は「ギーク」だよ、どう考えても。ヒューバートが超ナードだとすれば、僕は超ギークだ。
「ギーク」っていうのは日本でいう「オタク」にいちばん近い言葉だと思う。ナードが現実のサイエンスに興味があるのに対して、ギークが夢中なのはサイエンス・フィクションとファンタジーだ。同じ映画を観るのでも、普通の人はエンド・クレジットが出るとさっさと席を立って日常生活に戻るけど、ギークは映画を私生活まで引きずってしまう。
」
オタクは米国でも一般社会で肩身が狭いらしく、特に近年の日本の「萌え」文化には憧れを抱きつつも米国ではチャイルドポルノ規制にひっかかってしまうため、ノりきれないという悩み深い事情でもあるらしい。
驚くのは、日本のアニメや漫画はタイトルも含めて大幅に内容を修正されて放映、出版されているという事実だ。宇宙戦艦ヤマトは米国では「スターブレイザーズ」でありヤマトは「アルゴ」号で、戦艦大和としての過去はカットされている。ガッチャマンは「バトルオブプラネット(惑星戦争)」と改題され、オリジナルには登場しないR2D2みたいなロボットがでてくる宇宙パトロール隊として「スターウォーズ化」されて人気が出た。日本版のストーリーが、輸出時に編集されて、骨抜きにされているものがかなり多く、オリジナルを愛するオタクとして著者は少し憤りも感じているようだ。
トランスフォーマー(超合金)とかスペクトルマン、などという日本では大して人気がなかった作品が大人気だったりするのも面白い。二つの作品を編集でひとつにするケースも驚きだ。「百獣王ゴライオン」と「機甲戦隊ダイラガー」は二つを混ぜて「ボルトロン」というヒーローになっている。3つ以上のアニメを合成した作品もある。私たちが見た作品がそのまま流行っているわけではないのだ。
さらにアニメヒーローはオタクだけでなく、ギャングやマフィアにも人気だというから驚く。危険地帯では派手なアニメのシャツをきて麻薬を売買する、いかついチンピラたちがうろうろしているらしい。どういう雰囲気なんだろうか。
日本では間違って伝えられている人気状況もある。ラルク・アン・シェル(ガンダム)、TMレボリューション(るろうに剣心)はアニメ主題歌のバンドとしてのみ有名。ドリカムや宇多田ヒカルが米国で人気があるなんて嘘。米国人には相手にされていない。パフィーはアニメキャラとして大人気である、など。
著者は本当にアニメ好きが高じて日本に住んでオタク三昧な暮らしを楽しんでいる。日米のアニメ・マンガ文化の解説者として素晴らしい資質を持っていると感じる。くだけた文体だが分析と評論も見事だ。米国サブカルチャーを日本に伝える本として、極めて高い価値のある一冊だと思う。
・模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003155.html
・宮崎アニメの暗号
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002119.html
・<美少女>の現代史――「萌え」とキャラクター
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001957.html
1950年生まれ、イラン出身の女性英文学者アーザル・ナフィーシーの回想録。全米150万部のベストセラー。
彼女は父親は元テヘラン市長、母親はイラン初の女性国会議員という名門に生まれたが、欧米で受けた教育により、出自のイスラーム社会を客観視する能力を身につけた。留学から帰国してテヘラン大学で教員になる頃、母国はホメイニの革命が起きて社会状況が一変する。女性に自由はなく、権力や男性への服従を求められた。
投獄と処刑が日常化した社会。風紀の取締りと称して一層、女性の人権は無視される。著者はヴェールの着用を拒否して大学を追われることもあった。そしてイラン・イラク戦争による混乱と恐怖も生々しく書かれている。
状況に失望し大学を辞した彼女は、女性の仲間や学生たちと秘密の読書会を開くようになった。禁じられた書物であるナボコフの「ロリータ」やフィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」を読む。男性の欲望のために人生を奪われるロリータの姿に、抑圧されたイラン女性の自身の立場を重ねあわせる。
テヘランの読書会の参加者たちに、文学作品や文芸批評が生きる力を与えている。「どんなことがあっても、フィクションを現実の複製として見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」と著者はくちぐせのように話す。
9.11同時多発テロ以降、イスラーム社会に対する注目が集まっている。外部視点のイスラームの表層的な印象ではなく、苦しみながら真っ只中で生きた記録は、そこで起きている真実を世界に伝えている。2003年の本書の出版は絶妙なタイミングであったといえる。
「
私たちのクラスはこのような状況の中、毎週二、三時間なりとも盲目の検閲官の凝視から逃れるためにはじまった。私たちはあそこで、あの居間で、自分も生きた人間なのだと気づいた。どれほど体制が抑圧的になろうと、どれほど私たちが怯え、怖気づいていようと、私たちはロリータのように逃亡を試み、自分たちだけのささやかな自由の空間をつくろうとした。ロリータのように、あらゆる機会をとらえて反抗を見せつけようとした。スカーフの下からちらりと髪を見せ、画一的なくすんだ服装の中にさりげなく色彩を加え、爪を伸ばし、恋をし、禁じられた音楽を聴くことで。」
この文章はここだけを読むと、校則が厳しい保守的な女学校の生徒のつぶやきみたいにも見える。
著者が試みたのは直接的な政治運動への参加ではなく、読書会というささやかな想像力による反抗であった。抗った相手は過激な原理主義の政権ではなくて、このささやかな内面の自由を奪おうとする古い価値観のままのイスラームの普通の世間に対してであったと思う。政権は変わっても戦争が終わっても、世間の本質が変わらなかった。
「好奇心はもっとも純粋なかたちの不服従である」
これはナボコフの一文らしいが、著者の半生を貫く態度そのものであると感じる。本書はイランという特定の国の旧態依然を糾弾するのではなく、世界のあらゆる社会の息苦しい旧弊さ、いわば1.0的世界観を糾弾した世界2.0への期待の書なのだと思う。
抑制された筆遣いで綴られたインテリ女性の回想録であるが、行間に魂の叫びが封じ込められていて心を打つ。
追記:
ところでアマゾンの読者レビューがこの本には2本書き込まれている。今のところ、一方には「15 人中、2人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。」で、もう一方が「 32 人中、30人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。 」となっている。後者圧倒である。前者のような読み方ももちろんあると思うが、この本のテーマでもある物の見方の違いが現れていて面白く思った。
ビデオテープ、CDROM・DVD、インターネットなど新しいメディアテクノロジーの普及の陰にアダルトコンテンツの存在があったとはよくいわれる。”エロ雑誌”上での執筆経験も豊富な二人のサブカル系ライターが、知られざるアダルト業界の歴史を総括する。業界裏事情がよくわかって好奇心を満たしてくれる。
目次:
PART1 消え行くエロ本文化
PART2 「進化」するアダルトビデオ
PART3 インターネットの影響と次世代アダルトメディア
かつてアダルトビデオの出現で、エロ雑誌は大打撃を受けたが、いまインターネットの普及によりビデオ業界が斜陽化しているそうである。現代の少年たちはエロ雑誌やビデオなどは飛ばして最初からネットでエロと出会うものらしい。17歳から23歳の若者への「最近エロ雑誌を買ったか」アンケート結果では、80人中50人が「いいえ」。いいえと答えた人たちのズリネタはパソコン30人、AV15人だそうだ。
ハード化やDVDを付録につけるなどして生き残りをはかるエロ雑誌業界では読者の高齢化が進み(50代、60代)、「読者がどんどん死んでいっちゃう」状況だと編集者が嘆いている。書店の大型化で街の小さな本屋さんが壊滅し、エロ雑誌の売り場そのものがなくなってきていることも、衰退に拍車をかけている。
アダルトビデオ業界では一時の黄金時代があってメーカーが乱立した。ジャンルの細分化、内容の過激化を競い、女優の使い捨てをする焼き畑農業化が進んだ。デジタルモザイクなど技術の進化はあるものの内容の進化は行き詰まり感があるようだ。そこへインターネットによるモザイクなしの画像や動画が現れた。パッケージとしてのアダルトビデオはそろそろ次のメディアへアダルトメディアの王座を譲り渡す時期らしい。
この本のタイトルである「エロの敵」とは規制のことではない。ネットによってエロが世の中にありふれてしまい、わざわざお金を払ってみることをしなくなった状況こそエロを殺す敵だという意味である。ハダカに希少性がなくなったのだ。いい商品を作れば売れるという商売の基本も、エロ業界では必ずしもあてはまらない。「エロの場合、よほど思い入れがあるようなマニアでない限り、他の女の子の作品、他の監督の作品で代替が効いてしまう」からだ。
男性であればアダルトビデオのメーカー名やポルノ女優の2,3人はなんとなく知っていて挙げられるだろう。しかし、メーカーの市場シェアだとか業界地図について知っている人はとても少ないのではないだろうか。たとえば高橋がなり社長がテレビで有名なソフトオンデマンドって何だろうか?彼は成功しているのか?だとしたらどういうビジネスモデルで成功したのか?。メーカー各社の興亡史や雑誌・ビデオの流通構造など、業界の実態が詳しく書かれていた。
アダルトコンテンツはいつの時代も日陰者だけれども、過去にはにっかつロマンポルノが後に有名になる一般映画の監督をたくさん育成した経緯もあった。エロは表現の実験の場でもあり、サブカルチャーからカルチャーが生まれてくる可能性もある。低予算で人不足気味の制作現場での大量生産ノウハウはクリエイティブな発想もあって、なかなか面白かった。
ところでこの分野で、昔からひとつ疑問に思っているのが、局部のモザイクは何でかけているのか?ということ。あれは規制する意味があるのだろうか。見えたからといって、社会道徳が乱れたり、性犯罪が増えたりするものだろうか?。すでに見てしまっている少年少女に悪影響があるだろうか?むしろ、見えないからストレスがたまって悪い方向へいく人が増える気がするのだが。