Books-Culture: 2005年8月アーカイブ

・アースダイバー
4062128519.01._PE_SCMZZZZZZZ_.jpg

東京の無意識を探るスピリチュアルな旅へ!
縄文の夢、江戸の記憶……。太古の聖地にはタワーが聳え、沼は歓楽街へと姿を変えた。地下を流動するエネルギーとこの街の見えない構造を探る神話的精神の冒険!
宗教学者 中沢新一著。


アースダイバー地図を片手に、東京の散歩を続けていると、東京の重要なスポットのほとんどすべてが、「死」のテーマに関係をもっているということが、はっきり見えてくる。古いお寺や神社が、死のテーマとかかわりがあるのは当たり前だとしても、盛り場の出来上がり方や、放送塔や有名なホテルの建っている場所などが、どうしてこうまで死のテーマにつきまとわれているのだろうか

著者は縄文時代の地形と現在の東京を重ね合わせた地図を片手に、東京を散策した。東京の重要なスポットが縄文から弥生時代に「サッ」と呼ばれた神聖な場所につくられている事実を発見する。こうした場所には、古墳や由来の古い神社がつくられていた。

縄文時代は海面が現在より100メートル高かった。東京はフィヨルド状の海岸図形で海と川が複雑に入り組んでいた。神聖な「サッ」は陸の突端にあたる海に面する地形の場所であることが多かった。「サッ」はミサキ(岬)、サカ(坂)であり、境界面を意味する。そこは古代人にとって、生の世界と死の世界、エロスとタナトスの境であった。

渋谷の繁華街やラブホテル街がなぜ繁栄しているか、もこの地勢論で説明できるという。渋谷の坂は昔は海や川に面した湿った場所であった。神泉駅の辺りは古代からの火葬場で、文字通り泉が涌く湿地だったらしい。

私が毎日通っている道玄坂(ホテルじゃなくて、会社があるから、ですよ)についてもこんな記述がある。


道玄坂はこんなふうに、表と裏の両方から、死のテーマに触れている、なかなかに深遠な場所だった。だから、早くから荒木山の周辺に花街ができ、円山町と呼ばれるようになったその地帯が、時代とともに変身をくりかえしながらも、ほかの花街には感じられないような、強烈なニヒルさと言うか、ラジカルさをひめて発展してきたことも、けっして偶然ではないのだと思う。ここには、セックスをひきつけるなにかの力がひそんでいる。おそらくその力は、死の間隔の間近さと関係を持っている。

文学では、セックスは小さな死であるとたとえられるが、湿った死のイメージの土地柄が、渋谷のラブホテル街の繁栄とつながっていると著者は考えている。大きな池のある湿地であった新宿の歌舞伎町も同様だという。

逆に乾いた土地には、官庁や大企業のオフィス街が現在は位置している。新橋がオヤジの繁華街であること、青山がオシャレの街であること、秋葉原がオタクと電気の街であること、早稲田や三田が学生街であること、銀座が高級な街であること、皇居に天皇がいることの意味も、こうした霊的な地政学で説明してみせる。

考古学的、歴史学的、都市論的には著者の考えが正しいかどうかはまったく定かではない。現在の東京の街の持つ雰囲気を、古代の地勢と宗教学的な意味づけで、すべて説明できるものでもないと思う。だが、著者らが作成した縄文〜弥生時代の地理と、古い古墳や神社の位置、現在のランドマークを重ね合わせた地図(付録にもなっている)が、絶妙の一致を見せるのは、なにかの因縁を強く感じるのも確かである。

私も著者同様に、東京を歩くのが大好きなので、土地が持つ雰囲気の違いはよく分かる気がする。確かに強い雰囲気を持つ土地には、古い神社や寺があることが多く、地形も独特であると思う。納得できる記述が多かった。

東京の散歩が趣味の人にファンタジーとしてとても面白い本である。

・考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人
4121018052.01._PE_SCMZZZZZZZ_.jpg

ベストセラーになった「ケータイを持ったサル」の著者が書いた本である。

・ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001907.html

■物事を深く考えなくなった日本人

科学技術が発達し便利な人工物で生活が埋め尽くされると、人は物事を深く考えなくなる。特にケータイを中心にしたコミュニケーションを変質させるITはヒトのサル化を促すという内容。


コミュニケーションを行うにあたって、言語を使用する場合のように、心や脳を使わないようになってくると推測される。ことばを用いるとは夏目漱石風に書けば「智に働く」ことに同義である。そうでなくて、もっぱら「情に棹差して」生活するようになってきている。これがコミュニケーションのサル化の本質といえるだろう

ケータイのメールは、絵文字のような記号でしかない。発信者が嬉しいか、悲しいか程度の内容しか届かない。霊長類の研究者である著者は、これではサルが恐怖で「キーキー」叫んだり、怒りに「ガッガッガッ」と吠えるのと同レベルではないかと嘆く。高度な言語操作が欠如していることで、脳が使われなくなり、廃用性萎縮を起こしていると指摘する。(この部分は著者が若者のメッセージの解読能力を持たないだけだと反論できそうだが...)

そして、


大事なのはメッセージではない。それどころかメッセージが来るかどうかということですらない。メッセージがもたらされるチャンネルが確保されているかどうか、という点に関心の主眼が置かれるようになってしまっているのだ。

という。つながっていないと不安は、インターネット依存症、チャット依存症、ケータイ依存症に共通する心理である。

そしてITで拡大された「つながり」の中で人は自分自身を見失う。

そもそも人間社会は他者の期待を自己に取り込んでいる部分が大きかった。「自分が本当に好きなこと、やりたいこと」は、他者や社会の期待にこたえることと密接な関係がある。自分はなにをすべきかを真に一人でみつけようとしても永遠の自分探しの袋小路に陥ってしまう。

従来は濃密なコミュニケーションで他者のフィードバックを得ることで「自分」をみつけることもできた。

しかし、


日本では、私たちひとりひとりの自己意識は、依然として他者との関係の中で形成される部分がかなり存在していた。外界との対立をはらんでいなかった。ところがIT化によって、その関係の枠が途方もなく拡大し、かつ輪郭が曖昧になる。結果として、「私」というもの自体が、とらえどころのないものに変質してしまった・

■有意味な人間関係は150人が限界

他者のフィードバックを考える上で、認知的集団の限界という話は面白い。

イギリスのサル学者のロバート・ダンバーによる調査。人間はどのくらいの規模の集団で生活しているかを様々な地域の、様々な組織で調べた。その結果、約150人が現代の人間が共同生活を営むのに最適な規模だという結論に達したという。軍隊や会社、宗教組織などの機能単位も約150人である。これが構成員が個人的つながりを持ち、信頼関係を保てる限界なのだ。

実際、軍隊でも中隊は150人のままであるそうだ。通信技術が発達して隊の規模を大きくしてもおかしくはないのだが、経験上、これを超えると一堂に介した際、視覚的に全員を見渡せなくなる、ということとも関係するようだ。

いくらでも人間は「つながる」ことができるが、「私」への「他者」のフィードバックを受ける規模には上限がある。150人を超える他者とケータイやメールでつながることができても、この限界を超えて有意味な関係を取り結ぶことはできないということにもなる。
MixiやGreeなどのソーシャルネットワーキングサービス(SNS)のユーザとしてこれは実感する。私には200人の知人が登録されているが、登録者数が100人を超えたあたりから、私がSNSから受け取れる関係性の価値はほとんど変わっていないように思えるのだ。

友達100人できるかな?。できるけれども、それ以上は意味がない。個別に向き合ってフィードバックを得ることができないからだ。1対200や1000や10000という関係性はほとんどメディアと読者の希薄で一方向な関係に後退してしまうのだと思っている。


さて、この本は前作同様、評価は分かれそうだ。

近頃の若者批判と社会心理学実験データによる裏づけという体裁は前作と変わらない。相変わらず若者の視点まで降りて理解しようとはしない頑強なオヤジのボヤキであり、学者として豊富な知識を利用して、恣意的に実験データを選び、自論に強引に結びつけている点も相変わらずだ。

でも、本は売れそうだ。確固たるオヤジの視点があるから本としては面白いのである。実はサルとオヤジの戦いなのだと思う。ここで批判される若年層のコミュニケーションも、マーケティングの世界ではジェネレーションY流として、ポジティブに分析されることもある。

この本を読んで腹が立てばサルだし、同感ならばオヤジである。サルのほうが未来がある分、マシという見方もできるような気がするのだが、どうだろうか。

このアーカイブについて

このページには、2005年8月以降に書かれたブログ記事のうちBooks-Cultureカテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブはBooks-Culture: 2005年6月です。

次のアーカイブはBooks-Culture: 2005年9月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.1