Books-Culture: 2004年8月アーカイブ
第一人者から新人まで12人のノンフィクション作家が、自分のフリーライター生活を赤裸々に語った本。ライターになった経緯、日々の暮らしと収入、テーマに対する問題意識、フリーライターのあるべき姿論など。
執筆者の顔ぶれはこんなかんじ。
だれがライターを殺すのか?(佐野真一)
ジャーナリストの戦略的処世術―ライフワークとライスワークの狭間で(武田徹)
朝日新聞社を辞めて、僕が手に入れた自由(烏賀陽弘道)
「自分でなくともよい」の迷いから解き放たれる瞬間(藤井誠二)
無謀といわれたルーマニア2年間の長期取材には十分な勝算があった(早坂隆)
白黒のつかないグレーゾーンに魅せられて(森健)
ふつうの男が戦時下のチェチェン報道で果たす責任(林克明)
オウム取材卒業―虚像“エガワショウコ”にとまどい続けた私(江川紹子)
顔面バカジャーナリストはレバノンで誕生した(石井政之)
「科学ジャーナリズムなき国」で書き続けるために(粥川準二)
売上げ三一一万二二六三円をめぐる赤裸々な自問自答(大泉実成)
個人主義者でいるために―ニッチ産業としての位置(斎藤貴男)
現実を伝えるドキュメンタリとしてはとても良い本だと思った。これからフリーライターを志す人の参考になる実情がよく分かる。その代わり、この本に語られる12のケースには夢がない。一言で言うとほとんどのライターは「武士は食わねど爪楊枝」状態ということが分かってしまう。彼らは夢を持っているが、それは多くの人にとっては理解しにくい夢だし、優秀な後進を惹きつけるものではないと感じる。
ここにはジャーナリズムとコマーシャリズムは共存できないという意識がある。売れなくても”良い本”を書きたいというタイプが多い。これが多分、元凶になっている気がする。
本はたくさんの人に読まれて、大きな影響力を持ってこそ価値があると私は考えているので、本の価値判断のプライオリティーは、以下の順だと考えている。
1 売れる、良い本
2 売れる、普通の本 と 売れない良い本
3 売れない、普通の本
以前にも書いたように、
・Passion For The Future: 出版考、ふたつの知、情報の適者生存、金儲け
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001061.html
理想は、面白く、わかりやすく、売れる本こそ、価値のある本だと思う。
以前、書評した糸井重里氏の本で、「私はインターネットをやっていない人に読んでもらいたくて、Webサイトで情報発信をしている。本当の読んでもらいたい読者はネットをこれから使う人たちだ」という趣旨の内容が書かれていた。積極的に読者の裾野を広げていく意図に、とても感銘した。
・Passion For The Future: インターネット的
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001291.html
取材活動、調査活動にも資金は必要だし、資金があれば勉強もできる。プロのジャーナリストであるならば、儲けながら、より良いものを書くというのが、あるべき姿なのだと思う。
もちろん、他の社会現象と同様に、ここにもべき乗則の原理が働いていて、全出版物に占める売れる本の割合は常にごく僅かなのだろう。だとすると、少数の売れっ子と、そうでない8割のフリーライターという構図は今後も変わらないだろう。ただ、彼らがどういう意識で書くかによって、出版されるものの内容は変わってくるはずである。
日本の大新聞が作り上げた古典的なジャーナリストの倫理観は私は嫌いである。ストイックな「真実の報道」主義者は、特権階級を嫌うはずなのに、自分だけが透明で偏りのない意見を言える特権階級になろうとしているのだと思う。「愚かな大衆」を前提としているようにも思える。その意識がそのままフリーライターにも受け継がれている気がする。
インターネットの普及により、当事者が自ら情報発信をするようになった。”大衆”もまた複数の情報ソースに当たって事実を確認できるようになった。もはや”大衆”はそれほど愚かではなくなっていると思う。透明な事実の報道かどうかは、読み手が決めるものでいいような気がする。
この本の執筆陣には年収1000万円を超えたケースもいるらしいのだが、ほとんどは最初から、カネと仕事は両立しないものと諦めているケースが多い。それでよしとする文化をやめれば日本のフリーライターはもっと良いものが書けるはずだし、社会的地位も向上するはずだと思う。現在の出版不況の原因も「良い本」とは何かをめぐる古い意識が、業界にあるからのような気がしてならない。
インターネットのコンテンツの質の底上げに、フリーライターは黎明期より随分貢献していると思う。フリーライター生活が経済的にも豊かになれば、インターネットのコンテンツの質も高くなるはずだと思う。
と、いろいろ書いてみたが、実はフリーライターでもある自分に向けて書いている。がんばろう、フリーライター!
#芸術をやっているのだというフリーライターは別。
美少女、萌えを文化論として語った本。
■王子様としての資格を裏付ける美少女
著者は、○○のためなら死ねる、という行動原理が少年漫画の基本であるとする。かつて、この○○は世界を救うことであったり、勝つことであったり、甲子園であったりしたが、やがて、そこには「女の子の気持ち」が代入されるようになった。あだち充の「タッチ」はその風潮を決定付けた作品だという。自分のために野球をやるのではなく、彼女のために野球をやる主人公の登場である。
閉塞した社会状況や、価値観の多様化という時代の流れの中で、大げさな行動原理が現実感を失い、魅力的に思えなくなった。そこで、少年漫画の読者の関心は、よりリアリティが感じられる女性との恋愛に移っていった。だが、実際の女性の気持ちをたなびかせるには、物語の中に引き込まねばならない。マッチョな欲望の直接的な発露は彼女を傷つける。
美少女萌えは彼女を抱きしめない文化でもあるらしい。宮崎駿の「ルパン3世 カリオストロの城」ではヒロインであるクラリスを救い出した後、自ら身を引いて去っていく。泥棒であるルパンが、抱きしめて所有してしまえば、聖なる美少女が普通の女性になってしまうからだ。
そもそもが「王子様とお姫様の物語」に必要な資格をルパンが持っていなかったことに著者は注目している。単なる泥棒であるルパンがクラリス救出に命をかける根拠がない。ルパンの王子様的行為を正当化するのはとりあえずはクラリスに対する内面的な恋愛感情である。これでルパン側の内面動機を捏造できるが、お姫様が王子様を承認し愛する根拠は存在していない。ルパンを愛するかどうかは、クラリスの恩寵みたいなものになる。以降、美少女は男の価値を裏付ける絶対的存在として機能し始める。
美少女萌えの世界における「私」は視線としてしか存在しない。宮崎アニメにおいても男性は、主人公であっても、あまり目立たない存在として描かれる。物語を駆動するのは美少女である。こうして目立たない男性としての私は、身体性を失って、視線にまで後退する。
■インタラクティブ性と責任のパソコン美少女文化
90年代のパソコンによる美少女ゲーム、エロゲーの流行は、萌える文化に大きな変化を与えるものであったらしい。ときめきメモリアルなどの恋愛シミュレーションやエロゲーは、自分のコマンド選択の結果として、美少女の気持ちが変化していく。
視線を投げかける私、彼女に働きかける私は、彼女の気持ちに対して、責任を引き受けることになる。この責任感がリアリティであり、さらに萌える要素となったという。そして、このインタラクティブ性に、新しい造形技術やロボット技術が加われば、自分は透明なままで、この責任を感じさせる新たな娯楽が登場し、完璧なバーチャル実存体験の道具となるであろうと未来を予言している。
「
「見る存在」である私という人間は見る対象として美少女を所有し、その関係の中で私自身を確認するのです。
」
この「視線としての私」は、インターネットでも花開いたという。
「
90年代半ばから本格的に普及したインターネットの世界に至っては、そもそも視線的な欲望しかないといっても過言ではありません。2000年以降には、ニュースサイトやテキストサイト、ブログ(ウェブログ)などが流行しました。これらは、自分の視線そのものを芸にしてみせている行為です。自分が何に注目されているかという「視線のさばき方」をディスクジョッキーのようにリンクというかたちで示し、それを自己表現の手段としているのです。そこでは視線のあり方こそが「私」なのです。
」
なんとブログも言及されている。
そういえば、視点をコンテンツにするブログ作者には男性ユーザが圧倒的に多い。男性は結局、生理的にありあまるリビドーを抱え込んでいて、常に「男の証明」をどこかで行いたいと思っている。そのやり方が屈折したバリエーションとして発現する。萌えもブログも、大きな根っこは一緒である。そういうことを言いたいようだ。
うーん、でも、ブログやってますが、女性からの反響は1割くらい。萌える男がモテるわけじゃないのと同じようにブログも実にモテない。だからといって、熱く燃えてもモテないようだ。この本のように歴史を振り返ると「萌え」もまた過渡期であって、次々に複雑化、屈折化した男の気持ちが登場しそうだ。
「萌え」の次ってなんだろうか。
■萌えと私
ところでこの美少女論、タッチ、ガンダムまでは共感できたが、90年代以降の部分は私はよく分からない。最近のネット(テキストサイトという?)発の美少女、ちゆ12歳や、ビスケタンには萌えない。自分史を振り返ると、どうやらマクロスの美少女リン・ミンメイに違和感を感じてから、私は時代の最先端の萌え路線と違う方向に進んでしまったらしい。
ガンダムは燃えるが、エヴァンゲリオンはよく分からない、というのとも関係があるのかもしれない。アニメは内面化、中性化、抽象化の度合いが高くなりすぎていて、ついていけなくなったというのが、その理由のように感じている。
また、ビジュアル的に、子供化してしまった美少女に萌えることができない。じゃあ、自分はどういう美少女になら萌えられるのだろうと分析してみた結果、最も萌えるのは、
・安彦良和の描く女性
代表作にナムジ、神武、アリオンなど
で、一言で言うと大和撫子である。ガンダムが萌えたのは安彦良和が入っていたからだったことに今気がついた。
・基本的には家で待つ女性である
・外で活躍する男性を鼓舞して送り出す
・内面的な強さ、確固とした価値観を持っている
・子供を育てそうだ
・嫉妬する
身もふたもない表現で書くと、「月一の生理がありそうかどうか」みたいなところだろうか。ポイントは(笑)。こうして書き出してみると、ちゆ12歳はこの役割を果たしてくれそうにない。だから私は最近の美少女に萌えないんだなあと納得した。
でも、私がマイノリティとは思えない。結構同じタイプはいるはずである。萌えの次のマーケットとして、古典的な大和撫子タイプってどうだろうか。やっぱりだめだろうか。
・「ホットドッグ・プレス」休刊、誌面刷新も部数伸びず - asahi.com : 文化芸能
http://www.asahi.com/culture/update/0806/006.html
少年向け雑誌も傾向が変わってきている。