Books-Brain: 2006年2月アーカイブ
ハイパーグラフィア(書かずにいられない病)とライターズ・ブロック(書きたくても書けない病)について、自ら両方の症状を経験した医師でもある著者が、脳科学と精神医学の視点で言語と創造性の科学に迫る。
最初から最後まで共感するところの多い一冊だった。
付箋紙の数が久々に30枚を超えた。
私はブログを毎日更新するようになって約900日目だ。それ以前には3年ほどメールマガジンを定期発行していた時期もある。さらに遡ると大学時代はサークル広報誌の編集長兼ライターだった。日常的に物を書くという習慣は15年以上続いていることになる。思えば書くことや文字へのこだわりは子供の頃からだった。書かずにはいられない。軽いハイパーグラフィアであることは間違いなさそうだ。
著者によるハイパーグラフィアの基準:
1 同時代の人々に比べて圧倒的に大量の文章を書く
2 外部の影響よりも強い意識的、内的衝動に駆られて書く
3 書いたものが当人にとって哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている
4 当人にとっての重要性はともかく、文章が優れている必要はない
仕事として原稿を書く立場になってからは、ライターズ・ブロックもしばしば経験した。締め切りが迫っているのに書けない。怠惰や多忙が理由でなくて書けないときはどうしようもない。アイデアがわきあがるまであの手この手で気分を変えながら、待つしかない。特にコラムや評論のような創造性が必要な執筆のときに陥る。
ライターズ・ブロックがやる気の問題、自己管理能力の欠如と異なる側面があることは間違いないのではないか。もしそうならば出版社はライターや編集者に自己啓発セミナーを受けさせたり、マネジメントコーチをつけているはずだ。そういうケースはあまり聞かない。
外発的要因があれば創造的な作品が書けるわけではない。原稿料や編集者との人間関係はライターズブロック脱出には本質的に影響しないからだ。書く気のしないテーマの原稿料が1ページ当たり100万円だったらどうか。たぶん、無理にでも私は書くだろう。ただし、その場合、書きたくて書くときの原稿と比べて、質がいいものを提出できる自信がない。
著者によると書く能力は大脳皮質という進化的に新しい領域に存在し、書きたいという欲求はより古い辺縁系と呼ばれる領域に存在する。二つの領域がうまく働かないと書き物仕事を幸せに行うことは難しいようだ。その上で、ハイパーグラフィアはライターズブロックと表裏一体の関係にありそうだと著者は結論する。そして、その真の原因を脳機能や精神科学に求めていく。
脳の機能障害や精神病が、極端なハイパーグラフィアの原因になるという研究が紹介される。特に側頭葉の研究が詳しい。脳科学では前頭葉は合理的判断能力に、側頭葉は創造的能力に関係があると言われてきた。
側頭葉てんかんや一部の認知症患者に異常なレベルのハイパーグラフィアが含まれる。彼らの側頭葉の機能は通常より低下していると考えられるが、一部は亢進しているようにもみえる。側頭葉は創造意欲を亢進と抑制を担当する部位であるらしい。
強烈なハイパーグラフィアは一種のビョーキということだ。このほか、作家や詩人はうつ病の発生率が10倍から40倍高いという報告もある。統合性失調症や失語症という脳機能の障害が、書く意欲に与える影響も分析されている。歴史的にも多作の大作家の多くがてんかんやうつ病を患っていたり、自身もしくは血縁者に精神障害患者を持っていた。
・天才と分裂病の進化論
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001298.html
・天才はなぜ生まれるのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001320.html
天才とビョーキは紙一重説は上記の本が詳しい
創造性を発揮するには、理性を失うほど病気に犯されていては難しい。ちょっと病的な傾向を持ちながら、社会性を失わない人たちが、文章の世界で活躍できるということになるだろう。豊富な臨床研究の調査と自身の深刻な体験から4年間考察にかけた本書は、プロ・アマを問わず物書きにとって極めて興味深い洞察と示唆に富んだ内容である。
終盤では、詩神、ひらめきはどうして訪れるのか、宗教的体験と創造性の類似性という、深遠なテーマも扱う。解説を担当する脳科学者茂木健一郎氏は「人間の脳という不思議な臓器が見せる様々な可能性---情報の洪水の中を生きる現代人に勇気を与えてくれる秀逸なロマンチックサイエンス」と形容している。
・喪失と獲得―進化心理学から見た心と体
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002945.html
・ひらめきはどこから来るのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001692.html
・神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003679.html
・脳はいかにして"神"を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000134.html
脳科学と哲学の融合。
悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなる。楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなる。恐怖は身体がこわばるから心が怖いと感じること。心の動きを感情、身体の動きを情動と定義したとき「感情の前に情動がある」とダマシオはいう。
情動と感情の関係は、一般的には逆のように考えられている。内面的な動きが原因となって、外面の動きがあると私たちは考えがちである。だが、進化的には情動が先行して存在し、感情は後からできたものであることは疑いない。人間以外の動物には複雑な感情がないからだ。神経科学や心理学の実験でも、身体の反応(反射)が、意識される感情よりも時間的に早く出てくることがわかっている。
いま身体がどのような状態にあるかを知覚することが感情の主な内容なのだと著者は説明する。脳には身体の感覚マップがあり、そのニューラルパターンが、心的イメージである感情を喚起する。この情動と感情のプロセスを引き起こすのは外的要因だけではなく、人間の場合は記憶が引き金になることもある。悲しい思い出を想起すると、人間はバーチャルに泣くことができ、それは本当の悲しさを感じるときの身体反応を引き起こす。
感じるということが、考えるということよりも本質的な作用ということになる。同じことを17世紀半ばにオランダで考えたのが哲学者のスピノザであった。スピノザは主著「エチカ」のなかで「心は身体の観念からなる」といい、「人間の心は、その身体の変化(刺激状態)の観念によって以外、いかなる物体も現実に存在するものとして知覚しない」と述べた。身体の存在なしには、心はありえないということだ。
「人間の心はひじょうに多くのものごとを知覚することができる。また、その身体がひじょうに多くの影響を受けるとき、それに比例して心が知覚するものも多くなる」とも述べている。刺激の多い場所ほど豊かな思考が成り立つ。
著者もスピノザも、情動→感情プロセスの引き金として外部の刺激だけではなく、過去の記憶や想像が大きな役割を果たすことを認めている。人間はネガティブな感情を意識的にポジティブに変換することができる。情動が感情を支配しているということは自由意志を否定するものであるかのように思えるが、人間は自らの思考でこの過程を制御できる。「理性は道を示し、感情は決断をもたらす」。
有名な脳科学者が書いたこの本、前半は脳科学の研究で、次第にスピノザ哲学と融合し、最後は完全に哲学で終わるという構成になっている。ふたつの世界の架け橋として大変勉強になる一冊だった。
・ユーザーイリュージョン―意識という幻想
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001933.html
・脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004066.html
・脳のなかの幽霊
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003130.html
・脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003736.html
・脳のなかのワンダーランド
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002735.html
・マインド・ワイド・オープン―自らの脳を覗く
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002400.html
・脳の中の小さな神々
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001921.html
・脳内現象
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001847.html
・快楽の脳科学〜「いい気持ち」はどこから生まれるか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000897.html
・言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000718.html
・脳と仮想
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002238.html