Books-Brain: 2004年7月アーカイブ
■みのもんたの脳科学
脳科学の成果をベースに設計したという”脳を鍛える”本が大変売れている。
たとえば、このシリーズは2冊で100万部を突破しているらしい。
・脳を鍛える大人の音読ドリル―名作音読・漢字書き取り60日
(個人的には音読が楽しかった)
特に中高年のボケ防止に人気があるようだ。たまたま実家にあったので、私も試してみた。単純な計算と音読の繰り返し。確かに何もしないよりは、効果があるのだろうけれど、これで本当に脳を鍛えられるのか、釈然としない気持ちが残る。
これらの本の”脳を鍛える”根拠は、脳の状態を測定すると、単純計算や音読を行っているときに、特定の部位で強い活性化が見られるから、というものだ。だが、脳は複雑に全体がまとまって機能するものである。著者は、脳を部分的に鍛えても無意味だと、こうした機能局在論的なアプローチを批判する。これを食べれば頭がよくなる式の「みのもんたの脳科学」だとばっさり斬り捨てる。
■小さな神々の正体
この本のテーマは、以前書評した「脳内現象」とほぼ同じである。ただし、こちらの方がはるかに分かりやすい構成になっている。併せて読むと茂木氏の意識科学、クオリア論について一層の理解が進む。元「ユリイカ」編集長でジャーナリストの歌田明弘氏が聞き役となった13回の対談パート+書下ろしの特別講義で構成されている。
・脳内現象
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001847.html
人間の意識は、脳細胞の活性化パターンから生まれるが、パターンは何者かが解釈しなければ意味を持てない。タイトルにある「小さな神々」とは、脳細胞の活性化パターンを見渡す超越的な視点を持つ小人(メタ認知的ホムンクルス)のことである。
「
ホムンクルスという主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される。そのようにして生み出されたホムンクルスが、自分自身の一部である神経細胞のあいだの関係性を、「あたかも外に出たように」眺めることで、そこに「つやつやとしたリンゴ」というイメージが生じる。どうやら、私たちの意識はそのようにして生み出されているようである
」
■頭がよいってどういうこと?
「みのもんたの脳科学」という言葉が印象的だったので、以降の章を、本当の意味で脳を鍛える、頭をよくする、天才をつくるにはどうしたらよいかという視点で読んでみた。
著者は、無理をして想像力を発揮する(脳を活性化させる)ことはできないとし、脳が素晴らしい能力を発揮しているときには、むしろ抑制モードに入っていることを指摘する。脳細胞がある目的に集中特化したはたらきをするように、関係のない部位のはたらきを抑制する状態のこと。
「ウイナー・テイク・オール、勝者がすべてを取るというのが抑制の実態です。あるモードで脳を働かせているときにはほかのモードにならないように抑えているわけです。そうじゃないと混乱しちゃう」
だが、一方で、天才ピアニストの神がかった演奏や、アインシュタインのようなひらめきは、ある種のセーフベースがある上での脱抑制が必要なのだという。セーフベースとは意識せずに何かを行うことができる熟練した技能である。セーフベースがあると、自分のやっていること自体(ピアノの弾き方、物理学の基礎など)を意識せずに、やることができる。十分な練習で基本技能を修得した上で、リラックスして夢中になって何かをするときに、創造性が発揮されるということらしい。恋みたいなものだと著者は笑う。
俗世間的な頭のよさの尺度=IQについても興味深い話があった。ニュージーランドの軍隊が長期に渡って調べたところ、時代と共にIQは向上しているらしい。だが、まさか数十年でヒトが進化するわけもない。フリン効果と呼ばれるこの現象の原因は、IQは生得的なものではなく、ある解決法に対する教育効果が何世代にもわたって続いた結果の、文化依存的なものなのではないかと結論している。生物学的に頭のよい人がいるというわけではなくて、属している文化が頭のよさを規定しているのだとということ。なるほど。
ほかにも、聞き出し役の歌田氏のうまい質問設定によって、「脳内現象」よりも、著者の本音が聞けるのが面白い。意識の科学がアインシュタインの相対性理論級の大発見になる日がくる、と考えながらも、それは100年かかるかもしれないと述べ否定的な結論をしている。だが、著者が情熱的にクオリアについて語る口調から、まだまだ諦めていないような印象がありありと感じられる。
脳、意識、こころの探求は、21世紀に宇宙探検よりも大きな成果を生み出す分野なのかもしれないなと思った。
・脳内現象
■主観と客観の間についての深い考察。
意識のはたらきを脳神経の電気的な情報処理モデルに還元して説明することは可能である。脳は特定の部位に特定の機能が局在しているわけではないようだが、特定の刺激に選択的に反応するモジュールが多重に結びついたネットワークであることが近年の脳科学で解明されてきている。1000億の脳細胞の相互反応のパターンを情報表現とみなすことで、全体を見おろす神の視点としての<私>を用いずとも、みかけ上の振る舞いの説明はできる。
この情報表現モデルを推し進めていけば、科学者は近い将来、主観や感情を持たないが、外面的には人間とまったく同じ反応を返すロボット(哲学的ゾンビ)を、作ることはできるかもしれない。強化学習モデルの人工知能などはその方向性にある。だが、このモデルからは、主観的な意識、<私>が現れない。それは、どこまでいっても、心がないロボットでしかない。
古典的認識論では、<私>は、脳神経の状態を外側から俯瞰して見渡す「小さな神(ホムンクルス)の視点」の存在として説明されることが多かった。「中の人」である。だが、脳科学はこれを否定する。脳の中の特定の部位に<私>が鎮座して意思決定や指示を出しているわけではないことが分かったからだ。
また、主体と客体を分離してホムンクルスの正体を要素還元的に突き詰めていくと、ホムンクルスの背後にも、さらに小さな認識の主体が存在し、さらにその背後にも何かがいる、という主体の無限後退が起きてしまう(ホムンクルスの誤謬問題)。
著者はこの問題を、難問とした上で、ひとつの答えとして、
「
ホムンクルスが脳の中に「小さな神の視点」を獲得するメカニズムは、主体と客体が最初から分離している通常の認知モデルでは捉えきれず、むしろ、自己の内部状態の一部を、あたかもそれを外から観察しているかのように認知する、「メタ認知」のモデルで捉えたほうが適切であると考えられる。
」
だとし、他の認識モジュールと並列して「メタ認知」のモジュールがあって、それが他のモジュールとの関係性を通して、<私>を発生させているのではないかと論ずる。ひとつ上の次元に<私>がいるのではなくて、メタ認知自体が仕事のモジュールがあるのではないかという推論である。
■<私>は高次の副作用、随伴現象なのか?メタ認知なのか?
我思う、故に我ありとしての<私>を否定することは難しい。生きている限り<私>が存在することだけは認めざるを得ない。<私>は高度な情報処理モデルの、副作用、随伴現象であるという考え方が、意識科学の代表的回答だと思うが、この主従逆転の論理は、とても分かりにくいのが欠点だと思う。
「脳細胞同士の複雑な相互反応のパターンが即ち人間の心なのだよ」という説明が分かりにくいのである。「社会の構成員同士の複雑な相互反応のパターンが即ち社会の心なのだよ」と説明するのと同じだろう。社会の心など想像しにくい。意識は随伴現象であるという禅問答に対して「そのココロは?」で回答するのは<私>である。<私>はやはり存在しているのだ。
科学とは客観的手続きであって、中沢新一の言う「トーラス(ドーナツ)」構造の外側を語るものだと思う。トーラスの内側にある主観の<私>は、外側の構造が緻密に描かれれば描かれるほど、地と図の関係ではっきりと浮かび上がってくるが、客観的な科学の言葉では内側自体を直接語ることができない。だから、分かりにくい。
この本では、意識の中のメタ認知のはたらきを、ホムンクルスの正体だとする。意識内部へ神の視点を統合することで、説明的にはかなり分かりやすくなったと言える。だが、<私>は他の意識のはたらきと完全に並列化されたわけではない。著者は、個物と個物の間に結ばれる私秘的な関係性について後半で言及しているが、<私>はやはり特別な次元にあるものである。
これは科学なのだろうか?。著者は科学からの独立宣言だと述べている。1000億の脳細胞の客観的振る舞いを意識だとする考え方では、人が哲学的ゾンビであろうとなかろうと変わりがない。著者の主張は、<私>がいるという事実を人は疑えないのだから、科学の公理自体に「我あり」を追加するべきなのではないかという大胆な提案なのだ。
そして、科学の基盤である、近代合理主義の出発点としてのデカルト地点まで引き返し、デカルトさえも見落としていたもの、主観と客観を統合する何かを、探すことが意識の謎の解明につながるのではないかと野望を述べている。茂木さんの言うことは大胆で、強烈に面白い。
・意識とはなにか―「私」を生成する脳
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000561.html