2008年03月21日
不許可写真―毎日新聞秘蔵
毎日新聞社が戦後まで保管していた第二次世界大戦中の報道「不許可写真」が2冊の本になったもの。軍部の検閲により写真には「検閲済」「不許可」などのハンコや赤ペンでの修正指示がびっしり書き込まれている。「検閲済」は新聞掲載がOKという意味で、不許可はダメということである。
実はこれらの不許可写真の多くは物凄い秘密が写っているわけではない。そこに写っているのは戦争の日常で、戦闘シーンだけでなく休息する兵士たちのようなのどかな写真も含まれる。
検閲には明文化された規則があって、全文が掲載されているが、要約すると
・飛行機や飛行機事故の写真
・旅団長(少将)以上の写真
・軍旗が写った写真
・多数の幕僚の集合写真
・司令部、本部名などの名称がわかる写真
・装甲車や戦車、艦船や戦闘機の写真
・輸送・移動の様子がわかってしまう写真
・捕虜や敵兵を逮捕尋問している写真
・死体の写真
などがダメだった。現場の検閲官の裁量で微妙な判定が行われるケースもある。
修正すれば可というのもある。たとえば山の稜線が写っている写真は場所の特定に結びつくのでそこを削るように指示される。肩章が映った兵士の写真は肩章部分を修正で消すように指示される。
何百枚もの写真と検閲理由の解説を見ていくと、読者の眼は当時の検閲官の眼になる。途中からは9割くらい、次の写真が許可なのか不許可なのか、修正を入れるとしたらどこに指示をするかが、わかるようになってしまう。
テリー伊藤が解説で面白いことを書いている。「不許可にした写真でも、軍はネガを没収しなかったというのは、多分、「お役所」なんですね。許可をしない、掲載しない、というお役所仕事だったから、ネガを没収するというのは別の「仕事」なんですよ。」。検閲するほうも、されるほうも、なんだかんだいって同じ民族だから信用していたのではないかという。
当時の新聞社は軍の検閲を受けて、この写真は不許可という指示を与えられていたが、この写真を使えとは言われていなかった。民間企業として残された新聞社は、軍の検閲と馴れ合いながらも、軟禁状態の言論機関として情報を発信していた。国家のプロパガンダ機関として徹底しなかったのが日本の情報統制の弱さだったという指摘があった。
なにか歴史をひっくり返すような中身があるわけではないのだが、戦時中の検閲そのものを体験できる貴重な写真集であると思う。
2008年02月17日
日本映画のヒット力 なぜ日本映画は儲かるようになったか
日本映画が復活した。2006年に21年ぶりに邦画が洋画の興行収入シェアを上回り、2007年には興行収入10億円以上の作品が東方13本、松竹5本あって、それぞれ前年度を上回っている。ジブリのアニメ作品やテレビドラマとの連動作品などの大ヒットは往年の映画ブーム時の記録を次々に塗り替えている。この本は著名な映画ジャーナリストが、映画の内容には敢えて立ち入らず、興行成績でヒットをはかり、なぜ日本映画は近年、再び儲かるようになったのかを分析している。
テーマは、
・かつて日本映画がダメだった理由
・情報戦が日本映画を生き返らせた
・テレビ局は日本映画の救世主か
・東宝株式会社・映画調整部の力
・スター・プロダクションが映画ビジネスに参入・・・・
など。
映画の宣伝と言うとかつてはどれだけテレビスポットCMを打つかであったそうだが、現在はテレビスポットにたよる宣伝戦略が岐路に立たされているという指摘がある。テレビで広告しただけではだめで、人々が、多様な場面に多様なメディアを介して同時多発的に知るということが話題性につながるということなのである。クロスメディア戦略はボリュームで計ってはいけないということだろう。
「このように現代の情報戦とは、単純にその映画の情報の多さを競い合うのではない。情報は多岐にわたる。というより、情報はかなり捻じ曲がった流通の仕方をする。ここが非常に重要なのだ。」
後半で紹介された最近の映画の観客の動向調査も興味深かった。
1 映画は女性の方が好き。観客に10%多い。
2 単館系では20代、30代の若い人が多い
3 観客の過半数が会社員、次いで学生、主婦
4 テレビ、予告編、雑誌、ポスター、チラシ、新聞の順で認知する
5 ヘビー層は監督、主演者で選ぶ、ミドルライト層は話題性や他者の評価で選ぶ
6 複数で鑑賞が中心、ヘビー層ミドル層は異性中心
7 ヘビー層ほどシネコンを好む
8 6割以上が入場料低減を望む
などの結果がある。
日本映画というと年配者が中心、若物は洋画が中心という時代は終わっていて、本当に若い人たちの文化に定着しつつあるのだ。まさに復活という印象である。私はかなり映画を見る方だが、確かに日本映画率が増えている。
私の最近の邦画のおすすめはこれ。
久しぶりに故郷へ帰ったカメラマン(オダギリジョー)は、兄と一緒に幼ななじみの千恵子と峡谷へドライブする。兄と千恵子が二人で吊橋を渡ったときに千恵子が転落死してしまう。これは事故なのか殺人なのか?揺れる吊橋のようにゆれる関係者の心。手に汗握るサスペンスであり、心揺り動かされる人間ドラマ。西川美和監督のファンになった。
2008年02月01日
麗しき男性誌
斎藤美奈子が男性雑誌を斬る。かなり痛快。
取りあげられた雑誌は週刊ポスト、プレジデント、日経トレンディ、文芸春秋、週刊新潮、週刊東洋経済、ダカーポ、ナンバー、週刊ゴルフダイジェスト、サライ、日経おとなのOFF、ダンチュウ、ニュートン、メンズクラブ、エスクァイア、ブリオ、ナビ、ブルータス、レオン、ホットドッグプレス、東京ウォーカー、週刊プレイボーイ、週刊スパ、メンズノンノなど。さらに普通の男性雑誌に加えてヤンキー御用達の「ヤングオート」、ヘラ釣り専門の「月刊へら」、バス釣り雑誌の「バサー」、「山と渓谷」、軍事雑誌「丸」などの特殊な男性雑誌もレビューしているのが愉快。
論旨明快に男性雑誌のイタいところを突いてくる。当たり前といえば当たり前だが、男性雑誌というのは、その時代の男性の欲望やコンプレックスの反映なのだ。たとえば一件、対極にありそうなアエラとスパも、基本的にやってることは一緒だという指摘は鋭いとうなった。
「どちらも20代〜30代の「ちょっとハミ出たヤツ」に関心を持ち、その条件に合致する人を何人か取材し、あたかもそれが「日本の普遍的な大問題」であるかのうような分析を加える。関心領域といい切り口といい、この二誌は意外にも親戚同士だったのだ。ただし、両誌の間には決定的な差がある。自虐の「スパ」とは裏腹に、「アエラ」には上昇志向の強さがあることだ。この差は読者層の差を反映しているともいえる。「S」が偏差値低め、自虐度高しのサラリーマンを相手にしているとすれば、「A」が意識してるのは偏差値高め、プライドも高めのお姉さま方だ。」
この本の本文は2000年5月から2002年12月にアエラに連載された内容なので、変化の激しい雑誌の評論としては古くなった部分があるが(廃刊した雑誌も複数ある)、文庫版では2007年時点での追記があって、その間の誌面の変遷をフォローしてくれている。こうした雑誌の編集方針の比較や歴史については情報があまりないので、非常に参考になった。
2007年06月20日
映画館と観客の文化史
映画史ではなく、映画館と観客の歴史を語る本。
郊外のシネマコンプレックスでブロックバスター作品を観るという、現代の日米での、映画鑑賞の典型スタイルができるまでに、とてもたくさんの視聴スタイルがあったことに驚かされる。
映画が生まれたころの、覗きこみ式装置のキネトスコープの時期には、1台で1分ほどの映像が限界だった。そこで6台並べて、1分1ラウンドずつの、ボクシング試合の映像を続けてのぞくというのが流行ったそうだ。演劇やコントの合間に上映されていた時代もあったし、日本では長い間、男女が分かれて座っていたこともあったのである。米国の1950年代のドライブインシアターでは、観客は自由におしゃべりし、食事をし、走り回り、ときには愛の行為に及んだりした。
席に座ってみんなで静かにロードショーを見るというのは映画史110年のなかで最近の文化なのだ。さまざまな映画鑑賞スタイルの紹介が、細部まで描かれていて興味深い。現代日本のポルノ映画館は、実質ゲイの人のハッテン場になっているというのは驚きでもあった。
米国では、第二次世界大戦で若者たちが帰国し、安価な住宅地を求めて郊外へ移り住んだ。その結果、郊外にショッピングセンターが発達し、ドライブインシアターや映画館が併設された。それは、やがてショッピングモールとシネマコンプレックスとなって融合して、映画製作にも大きな影響を与えた。
「そもそもブロックバスター映画という概念が超高予算を組み、それに見合った超高収益を期待するものである以上、それはできるだけ多くの潜在顧客を掘り起こすような、万人受けする内容でなければならない。つまり、ブロックバスター映画はなにかしら目新しくて(とどまることを知らないコンピュータの技術革新とその映画的応用)、なにかしら圧倒的で、それでいて、おなじみの保守的スペクタクル(見世物)的要素をもつ映画でなければならない。それは映画学者トマス・シャッツの言葉を借りれば、「ハイコスト=ハイテック=ハイスピード」映画ということになる。そうした斬新かつ保守的なスペクタクルに全世界同時的に触手をそそられる多数の観客が存在しうるということは、おそるべき観客の均質化が達成されたということを意味する。」
映画館の均質化と同時に、異質なものは家の大画面液晶でDVDで観るとか、やインターネットで観る、という棲み分けも進んでいるのだろう。時代状況に応じて映画館と観客の文化というのは、10年や20年くらいでも、大きく変わってしまうことがわかった。そういえば、私が子供のころは2本立て上映が多かった気がする。最近はそういう映画館は少なくなった。
国によっても映画の見方は大きく違うようだ。米国で映画を見たら、画面に向かって観客が、拍手喝さいやブーイングをするので驚いたことがある。一体感があって楽しかったが、日本の観客は他人を気にして、静かに見るのが普通だ。インドだとか中国だとかアラビアでもきっと違うのだろう。日米以外も知りたくなった。
映画を作品ではなく、映画館と観客という視点で分析したことで面白い展開になっている。映画好きにおすすめ。
2007年02月11日
趣味は読書。
本好きにはベストセラーを敢えて読まない人も多いと思う。
しかし、自称・他称の”本好き”は、人からベストセラーの感想を聞かれることが多いため、目を通しておかなきゃいけないかなと気になっている。だから、「わたしが代わりに読んであげました」というのがこの書評本である。
取り上げられているのは「声に出して読みたい日本語」「五体不満足」「買ってはいけない」「永遠の仔」「冷静と情熱の間」「ザ・ゴール」「iモード事件」「チーズはどこへ消えた」「ハリーポッター」「世界がもし100人の村だったら」「金持ち父さん、貧乏父さん」など40数冊。2003年の出版なので歴史的にもベストセラー評価確定の本ばかりである。
見事なのは、どの書評も面白いのだが一冊も読んでみる気にならないということ(笑)。
この本全体を通しての著者の批評姿勢として、ベストセラーには内容に厚みがある本が少ないという嘆きが感じられる。わかりやすいが薄っぺらなのだ。中学二年生にもわかりやすい内容の本が大人に受けている。単純なメッセージは単純な感想しか生まないのに、という著者の指摘は鋭いと思った。読むものを深く考えさせるものが売れないのである。
本の作り方と売り方にも問題はありそうだ。現在のベストセラーは作られていると思う。ある知人の編集者曰く「初版でちょっと売れたら、○○万部のベストセラーと次の刷からは帯に書くと凄く売れるんです。」。数万部を超える初速が出たら、それを宣伝文句にして数十万部ヒットへの加速ができるらしい。みんなが読んでいるものを読んでおきたいという読者の心理を刺激するマーケティング手法である。
この本で取り上げられるベストセラー本は、実際、初速でたくさん売れた本が多い。初速の背景には、著者の有名性やテーマの時事性、大手メディアのタイアップ企画などの要素があって、純粋に文章の力がきっかけで売れたのではない本が多いのである。そこには「読者」が育っていないからという事情もあるようだ。
統計データを多角的に見て、「日本の読書人口」を著者が計算した数字が面白い。日本でまともに本を読む人は1割強でマイナーな趣味なのであるという。さらに毎月一冊以上単行本を買い、日々書店に通い、新刊情報を気にする人など500万人か600万人くらいしかいないだろうと結論している。そして、他の趣味と同様に読書人口の大半は善良なビギナーであり、単純なベストセラーに、素直に感動、涙してしまう。
だが、ここ数年でブログに書評を書く人が増えて、本探しの状況は変わってきているかもしれない。かなりマイナーな本でもブログ検索に書名を入れると多面的な感想や書評エントリが複数出てくるようになった。知る人ぞ知る本を自力で探して、自分なりの評価を表明するということが誰にでもできるようになった。
仕掛けられたベストセラーをみんなが読むのではなくて、みんなが読んだ結果ベストセラーになるという本来の姿になると、こういうベストセラーの書評本も、読んでみたい本でいっぱいになるはずなのだが。
・【書籍になりました】 情報考学―WEB時代の羅針盤213冊(主婦と生活社、1600円)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004789.html
2006年04月30日
電波利権
元NHK出身で放送と通信に詳しい池田信夫氏の著。
2011年7月24日。テレビ地上波が完全停止する予定である。最近の電器店のテレビ売り場には必ずその表示があり、デジタル放送対応テレビを購入することをすすめられる。しかし、この政府のアナログ停波はうまくいきそうにないという見方が書かれている。
「
家庭に設置されているテレビは。全国で1億3000万台近くあるといわれる。今のペースで普及が進んだとすれば、11年になってもそのうち3000万台ぐらいが置き換わるだけで、1億台近いテレビがアナログのままである。こんな状態で電波を止めたら1億台ものテレビが粗大ゴミと化し、視聴者はパニックになり、テレビ局の広告収入も激減するだろう。
」
カラー放送が始まってから白黒放送をやめるまでに25年がかかったそうである。今回の「デジタル化」は消費者のメリットがよくわからない。デジタルだから高画質ということでもなければ、インターネットとつながるという意味でもない。デジタル化の理由は、周波数帯域がごちゃごちゃになっているから、ちょっと整理しましょう程度のことなのだ。
日本の電波の周波数帯域のうち、UHF帯は主にテレビと携帯電話などに割り当てられている。帯域を使うには電波使用料を事業者は政府に支払う。この内訳を見ると、帯域の11%しか使わない携帯電話が電波料の全体の93%以上を支払っている。放送は1%に過ぎない。後から登場した携帯電話ユーザの電波料がテレビ放送の費用を支えている。
著者は、現行の電波利用料の制度は、効率的に利用すれば利用するほど料金が高くなる逆インセンティブの構造が問題だと指摘している。基地局の数に対して課金をするため、小さな基地局が無数にある携帯電話事業者は、狭い帯域しか使っていないのに、高い電波料を支払わねばならない。
おまけに政治と既得権が絡み合い電波の非効率な使われ方がされている。新聞とテレビの複合体に免許を与えたのは、時の有力政治家であった。あまり使われることがない業務用無線が、需要の高い帯域を占有しており、その利権を特殊法人が守っている。今回のデジタル化も、デジタル化するだけなら衛星を使えば200億円で可能なのに、国費を投入して1兆円も使っている。放送と通信の行政に対して革新的意見で知られる著者の手厳しい批判と、具体的な提案が多数ある。
だが、将来的には無線LANとインターネットが放送通信のインフラとして、どこにでもあるものになってしまい、「電波の希少性」をめぐる問題は消えてなくなってしまうのではないかという予測が最後にあった。たしかに視聴者にとって、途中が電波であろうとケーブルであろうとインターネットであろうと、面白い番組を見られるのなら、変わらないのである。
たとえばYAHOO!JAPANの利用者は3千万人いる。テレビ視聴率に換算すると約30%である。テレビ受像機がネット対応し、チャンネルを変えていくと現行地上波と並んでYAHOO!チャンネルが映るような状況になれば、電波の希少性をベースにしたテレビの世界の秩序は大きく再編されていくのではないかと、この本を読んで考えてみた。
・テレビとネットの近未来 ブロードバンド・ニュースセンター
http://www.tvblog.jp/tvnet/
2005年10月30日
誰がテレビをつまらなくしたのか
制作現場では1分ごとの視聴率が計測される瞬間、秒針が12を指すときに、視聴率の下がるCMが入らないように映像を編集している、という現場の声が紹介されている。テレビは「笑い」や「感動」の押し売りで気を引きながら「続きはCMの後で」を見させようとする。
著者はテレビ番組名によく使われる言葉をリストアップし、登場回数を数えている。上位は、マル秘(記号)、特集、謎、密着、衝撃、爆笑、感動、涙、秘密といった扇情的キーワードが並ぶ。上位ワードは年間2000回以上も番組名に使われている。
テレビはもはや広告を見せるための低俗なコンテンツばかりになってしまった。視聴者もそれに慣らされてしまった。放送と通信の融合の中で、今一度、作り手も視聴者も、メディアの役割を見直し、志と哲学をもって再生すべきだ、というのがテレビ出身で大学で教える著者の意見である。
テレビのコンテンツの独自性とは何か、最低限、テレビでなければ果たし得ない役割とは何か、マスメディアとしての社会的責任、公共性をどう果たすべきか、といったテーマは、ライブドア・フジテレビの騒動や、NHKの不祥事の際にも、注目された話題である。
「
いま、メディアにとって必要なことは、これ以上、情報の過剰化に加担することではなく、人々が立ち止まって、自らの置かれている状況を確かめるための座標軸を提供することではないか
」
いまのテレビは慌しい。視聴者は考える時間がない。
鳥越俊太郎はこんなことを言っているらしい。
「
全体の趣旨では<これはAである>といっているのにもかかわらず、BとかCとかつなげて最終的に結論はAですと言うと、その途中経過のBとかCで理解してしまう。そういう怖さは常にありますね
」
CMの変わりに画面を静止させ「15秒間、今の問題についてあなた自身で考えてみてください」なんてテロップを出す情報番組があったら面白そうだ。年に10日ある新聞休刊日のようにテレビの休日を設けてはどうかという提案もある。
次世代メディアの視聴者は、「パーソナライズ新聞」や「カスタマイズテレビ」で自分の関心のあるものばかりを断片的につまみぐいするようになるだろう。じっくり、一人で考える時間、座標軸の確認タイムをいかに生活の中に作るかが、必要なメディアリテラシーのような気がしてくる。
ルパード・マードックがブログ文化を評して「新しい世代は、メディアに支配されるのではなく、メディアを支配することを望む」と述べたそうだ。テレビも変わるべきだが、視聴者も変わるべきだ、というのがこの本のメッセージでもあった。
というわけで、いろいろと著名人のテレビ評が引用されているわけですが、自分たちでもテレビを語ってみようじゃないかと言うイベントを11月4日に開催します!私も自分の意見をお話しようと思っています。
残席が少なくなってきました。おはやめにお申し込みください。
詳細は下記の画像をクリック。
■第2回 テレビとネットの近未来カンファレンス
http://www.tvblog.jp/event11/
2005年10月24日
新聞なんていらない? 記者たちの大学講義
これから新聞記者になりたい人にとって最適の本。朝日新聞社の記者、営業、編集委員らが大学で講義した内容を書籍化。
新聞は中身の55%が記事で残りが広告。記事の量は400字詰めの原稿用紙でざっと450枚で新書一冊分に相当する。編集の過程でボツにされるため、この記事の倍の量が書かれている。編集に関わる人2500人、そのほか印刷や販売流通などに関わる人4000人。総計6500人が130年の歴史を持つ、830万部の朝日を支えている。
新聞記者による新聞の特徴は総合性、一覧性、詳報性、保存性の4つで、すなわち、「何でも載っている」、「一目で見られる」、「詳しく伝えている」、「そのままとっておける」である。
新聞の収益は販売5、広告4、その他1.90年代前半以降、値上げはしていない。広告比率を抑えて独立性を維持し、広く読んでもらうために値上げを行わないでやってきている。
新聞とはなんだろう?と言う自問にある記者はこう答えた。「歴史のある一日を、ワールドワイドで(宇宙まで含め)、ある明確な判断と意思のもとに切り取り、刻印し、それを日本中に配り、伝えようとする、それを受け止めようとする人々が列島の隅々までいる、そういう人間たちの」意思のすさまじさなんじゃないかと。
視点と哲学を持って自律するメディアというのは、”勝手なメディア”全盛になるインターネット時代において、まだまだ活きる価値だと読みながら思った。紙の新聞をあまり熱心に読まない私でも、ネットで新聞社の記事は当てにして読んでいる。「新聞なんていらない」わけでは決してないと思っている。
「古い酒袋に新しい酒を注ぐ」という諺があるけれど、このすさまじい意思を受け継ぎつつ、紙以外の新しいメディアとどう融合するかが、当たり前だけれども課題だろう。映像のテレビ、考えさせる新聞、スピードのインターネットという組み合わせで情報を見ることが大切なのではないかと訴える編集委員もいた。知る権利とならんで考える権利があると言った人もいた。
読者が「考える」メディアという位置づけは面白い。書籍・新聞という紙メディアは、他の媒体に比較して、読者を考え込ませるアフォーダンスがあるメディアだと思う。考えたことをネットに吐き出させ、フィードバックするという仕組みがあると、ネットと両立する紙の新聞の付加価値になるのではないかと思った。
各講師の講演テーマは以下。
1 新聞へのアプローチ―面白がる力、社会力、意見力をつけよう
2 「経済記事」の読み方―事件の背後の時代相
3 球界再編とメディア―スポーツライティングの立ち位置
4 被害者と記者―なぜ「事件取材」からスタートするのか
5 アメリカ大統領選挙と特派員―自国の利益と世界の利益
6 首相と番記者―特異な宰相・小泉純一郎を報道する
7 営業マンと販売店―新聞ってインテリが作ってヤクザが売るの?
8 広告は語る―メディアによる違い、魅力
9 新聞の未来―言葉への感度を取り戻そう
闘う社説
科学記者と地球
文化記者の志
大学生に語りかける内容なので、どちらかというとタテマエが多いのだが、現場仕事の面白さを語る際に本音もでてくる。古い考え方と新しい考え方が世代や役職によって入り混じっており、保守的なメディアという印象があるが、変革の必要性を現場も意外に強く感じているのだなあと思った。
・図説 日本のマスメディア
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003900.html
・新聞がなくなる日
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003811.html
・メディア裏支配―語られざる巨大マスコミの暗闘史
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003332.html
・日本経済新聞は信用できるか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002805.html
2005年10月12日
図説 日本のマスメディア
とてもよく書かれた本である。実用書として5段階評価なら5つ星。
企画提案や調査の仕事にすぐ使える最新データが満載で、動向を把握するための丁寧な解説がつけられている。図表とグラフが多数収録されていて出典も明らか。この一冊を手元においておけば、ネット検索するよりも、メディア関連の大きな数字はすぐみつかる。
全体像を把握するデータだけでなく、「切り口」を持った統計調査の引用も多い。たとえば、テレビについて面白いデータがあった。(以下、各データの出典についてはこの本を参照ください)
テレビは依然メディアの王様で90%以上の人が視聴しており、一番「役に立つメディア」として筆頭にあがっている。1日の平均接触時間は3時間を超える。この5年間の変化では「くつろいで楽しめる番組」を期待する人よりも、「世の中の出来事や動きを伝える番組」を求める人の割合が多くなり、報道と娯楽の逆転、もしくは娯楽のなかにも情報を求める融合現象が起きている。
視聴スタイルの変化がある。「テレビは一人だけで見たい」という視聴者は1985年の32%から05年は39%に増加、「実際、一人で見ることが多い」は90年の36%から05年の42%に増加している。
「テレビ番組は自分で選ぶか」には「自分で選ぶことが多い」が増加傾向であり、家庭内で「チャンネル権」を争う場面は減っているようだ。背景には家族人数の減少、テレビの複数台所有(半数の世帯が3台以上を保有)などがあると推測される。
実態としてはまだ他の人と見ることが多いが、その差は縮まってきており、テレビは家族そろって見るものから自分の好きな番組を一人で見るものになりつつある。
ながら視聴の割合のメディア別比較も興味深い。テレビ38%、ラジオ71%、新聞52%、雑誌・マンガ43%、本33%、CD・テープ60%。テレビはつけたままにしておき、気になったときだけ目を向ける人が6割。
私はテレビをつけながら、MP3を聞きながら、ネットサーフィンをするというのが常態なのだが、3種以上のメディアに同時接触する超ながら率なども今後は調査してみたら面白いかもしれない。
この本は新聞、放送、出版、広告、映画、音楽、インターネット・携帯電話の7章で構成されている。各章をそれぞれの専門家が担当執筆している。全体の監修も的確で、日本のメディアの各論から、総論が浮かび上がってくる。2000年に出版された第一版に音楽、インターネット・携帯電話の項目を付加した上で2005年度秋に抜本的に改訂した内容なので、フレッシュな情報が多い。
ちらっと関心のある項目を読んでおくだけでも仲間内で「メディア通」を気取れる。
・出版社は4300社くらいあるんだよ
・100万部以上の雑誌のトップ10のうち9誌はコミック雑誌なんですよ
・発行部数 読売新聞1007万部、朝日新聞827万部、毎日新聞400万部、日経新聞302万部
・04年の書籍の新刊点数7万7千点、発行部数13億冊、雑誌44億冊、出版は2.4兆円市場
・インターネット広告費はラジオの広告費を上回り04年に1814億円
・年間映画観客数1,6億人、03年で国民一人当たり年に1.28回。全盛期の58年は12.3回。
・カラオケ参加人口は4780万人で横ばい
・新聞を一面から読む人49.5%、最終面から読む人31.2%、決まってない13.2%
・04年の書店の数は17716、出店数370に対して閉店数1114、小規模書店減少の一途
こうした何千ものデータから動向を把握する見方を与えてくれるので、読み物としても十分楽しかった。
2005年09月25日
新聞がなくなる日
毎日新聞社に30年いた元記者が書いた新聞の未来。
■紙 VS 電子情報 新聞を上回るインターネット
2004年の新聞協会の発表では、1世帯あたりの新聞の発行部数は1.06部。駅売り分を引いても0.98部でほぼ世帯数に等しい。この数字だけを見ていると、新聞はまだ安泰ではないかと思える。
だが、陰りが見える。
総務省の「情報流通センサス」が日本で流通する全情報を、デジタルとアナログで計量している。10年前は書籍や新聞のアナログ情報が多かったのに、平成15年度では、デジタル情報の30分の1しかない。紙のメディアは近年、圧倒的に流通の比率面では小さくなっている。
・情報流通センサス 平成15年度 報告書
http://www.johotsusintokei.soumu.go.jp/linkdata/ic_sensasu_h15.pdf
この本には、日本新聞協会の調査が引用されている。首都圏に住む18歳から35歳の男女に「自分に深く関わるメディア」を聞いたところ、1位 テレビ 87%、2位 インターネット 41%、3位 新聞 34%、4位 雑誌 21%、5位 ラジオ 10%、という結果が出た。若い世代のマインドシェアでは既にネットが新聞を上回ってしまっている。
接触時間でも、1日平均でテレビ188分、インターネット91分、新聞15分。回答者の7割が新聞を月極め購読しているが、朝刊を毎日読む人は37%と低率で、半数の人が新聞が自分に「影響を与えていない」と答えている。
まだまだ惰性で新聞を定期購読している人は多いのだが、既に新聞は真剣は読まれなくなっている。一般社会人の情報生活においてマストのメディアではなくなってきている様子がうかがえる。インターネットの無料新聞が主な原因である。ブログのような参加型ジャーナリズムも競合として現れた。
■発行部数低下により新聞の流通を支える宅配網が危うくなる
定期購読の率が高いのは、他の国にはない新聞の宅配システムがあるからである。新聞販売店は全国に2万1000店舗あり、これは交番・駐在所の数より多く(1万6000)、郵便局の数に相当するという。
新聞販売店の年間販売収入は約1兆7500億円もある。新聞社と販売店の取り分は9500億円対8000億円。新聞は売り上げの4割以上が販売店に回る販売経費という構成になっている。これに加えて販売店は1世帯当たり年間3000枚もの折込チラシを挿入するビジネスを行っている。この折込みチラシ広告のビジネス規模は雑誌よりも大きい。折込みチラシはテレビ、新聞に次ぐ第3位の広告媒体なのだ。この部分はほとんど販売店の丸儲けになるという。数十万人がこの仕事に従事している。
日本の紙の新聞が他国と比較して値段が高いのは、この巨大な全国宅配システムの維持コストのせいなのだった。著者はいくつかの係数で方程式をつくり、2012年の新聞の発行部数を予測してみせる。すると新聞メディアの崩壊とはいかなくても、この販売店網の維持が危うい水準にまで低下するだろうと予言する。
■紙、電子、電波のメディアミックス、放送+通信のコングロマリットの時代へ
電子新聞をやれば自社の紙の新聞が減るという共食いのジレンマ(カニバリ)が、今の日本の新聞社の課題である。米国では新聞のネット部門は単独で黒字化し、今後も拡大が見込まれている。ネット広告の市場規模が急成長しているからだ。
だが、ネット広告の成長だけでは日本の新聞産業を維持できない。日本の新聞の広告収入比率は36%に対して米国の新聞の平均85%。日本は販売が主で、米国は広告が主という違いがあるからだ。
伝統的に販売収益モデルで運営してきた新聞社の現場には、広告の客寄せとして新聞コンテンツを作ること、ジャーナリズムをやることに、違和感を持つ人も多いようだ。
著者は紙(新聞)、電子(ネット)、電波(テレビ)のメディアミックス、放送+通信のコングロマリットの時代がやってくると考えている。冒頭でアナログ情報の30倍にまでデジタル情報が増えているという数字があったが、メディアの複合化やグローバル化は確実に進んでいきそうだ。
これは新聞メディアにとって、機会でもあり、脅威でもある。IT業界では「コンテンツ不足」とよく言われる。新聞社のつくるニュースの需要自体は増大しているはずだ。草の根ブログだけでは代替できない情報を新聞社は生み出している。新聞やジャーナリズムのコンテンツの価値が疑われているのではないと私は思っている。
メディア複合化の組み合わせの中で、多様な収益源を作り出していくことが、企業としての新聞社に求められている気がする。日本の大きな新聞社は長い間、特殊な立場にあって、そうした当たり前の企業努力をしてこなかっただけのように思えるのだ。
産業としての新聞は、従来の特権的位置から徐々に後退するが、未来においてもプロのジャーナリズムは生き残る、というのが著者のビジョンのようである。
■関心事を拾い読みすること、全体を俯瞰すること、ネットリテラシー教育
先日、ある大きな新聞社の方々と新聞の未来をディスカッションする機会があった。自分なりのメディアの未来をお話した後の質疑で、「私はネットがあるから自宅で紙の新聞は読んでいません。それでも、社会人として必要な世の中の動きはわかっているつもりです」と生意気な意見を言ってみた。
するとベテランの記者の方からは当然、反論もあった。趣旨は、自分の関心のあるニュースを拾い読みするだけでは、世の中の大勢を把握することができないのではないか?という疑問であった。
「そういうあなたも、子供の頃は紙の新聞を読んで育ちませんでしたか?」と問われた。私は元新聞記者の息子なので平均以上に読んで育ったので答えは「はい」ということになる。「あなたはできるのかもしれないが、紙の新聞を読んで育つという経験がない世代に、ネット情報だけで世の中を俯瞰する能力が育つと思いますか?」という鋭い切込みにはうまく答えられなかった。次の世代のことは正直わからないからだ。
大新聞が描く世の中の見取り図がすべて正しいとは思わない。不偏不党の透明な報道という謳い文句が、実現できているとも思わない。「神の視点」など論理的にありえないと思うからだ。私が読みたいのは、どのような立場であれ、確固たる視点を持って書かれた文章だ。ネットワークを使って、複数の視点を比べて読むことで、自分なりの意見をつくるのがネットリテラシーなのだと考えている。
しかし、ベテラン記者氏から指摘されたように、ゼロから比較の土台を作れるかと言われると私の根拠が怪しい。毎日読んではいなくても、私も物事の判断基準に、大新聞的な見方を意識しているからだ。叩き台、基点となる枠組みとして、新聞の視点がなかった場合、次の世代はどうやって、自分の視点を築いていくのだろうか。
ここでBGM: The time they are a changing' (Bob Dylan)
・日本経済新聞は信用できるか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002805.html
・出版考、ふたつの知、情報の適者生存、金儲け
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001061.html
2005年08月29日
テレビの教科書―ビジネス構造から制作現場まで
大学で教鞭をとるテレビのプロデューサーが語るテレビのビジネス構造から制作現場までの入門書。テレビメディアの本質、製作現場の実態、番組の作り方までがトータルに解説されている。
■テレビのお金の使われ方
2002年のテレビ広告費は1兆9531億円で総広告費の34%にあたる。これを視聴している全国4700万世帯で割ると1世帯当たり約4万円。企業は広告費を商品の値段に織り込んでいる。視聴者は間接的だが、年間4万円をタダで見ているテレビに支払っている計算になる。
テレビに使われるお金の内訳公開が詳しい。
企業が出す制作費を100とする。広告会社は営業費として20%の20を引いて放送局へ渡す。放送局も20%つまり全体の16を営業費として引いて64を制作会社へ渡す。制作会社も20%、12.8を確保するので、残りは51.2。番組作りの使える予算は、最祖に企業から出た予算の約半分である。
放送にのせるには制作費とは別に、電波料が必要で、これはほぼ制作費と同額と言われる。これも2割を広告会社が引いた後、放送局が分配する仕組み。電波料も含めると提供企業は、番組の直接的な制作費の4倍の予算が必要なのだそうだ。
ゴールデンタイムの1時間番組の制作費は2000万円から3000万円。ドラマは3000万円から4000万円。1年で50本なので、一本の一社提供番組に企業は年間50億円が必要になるという。数百億円の売り上げのある企業であることがスポンサーの条件となっているといえそうだ。
■テレビCMと視聴率
大量生産から少量多品種生産の時代になって、テレビCMの買われ方も様変わりしているらしい。
CMにはタイムとスポットの2種類がある。タイムは30分や1時間の番組枠を買い取って自社のCMを流す。「この番組は○○の提供でお送りしました」というのがタイム。番組の終わりと次の番組のすき間の枠がスポット。以前はタイムが多かったが、次第にスポット優勢になり、2001年のタイムとスポットの比率は3対7で圧倒的にスポットが多い。スポットは番組内容と関係なく、繰り返し訴求できるので広告効果が高いらしい。
企業にとって大切なのは視聴率だが、計測方法はアバウトだ。市場はビデオリサーチ一社の独占状態で、調査のサンプル世帯数は全国で6250世帯、関東地区で600世帯と多くはない。分母が少ないので統計的には、世帯視聴率10%(関東地方なら60世帯)でプラスマイナス3.3%の誤差がでる。視聴率20%といっても16.7%かもしれないし、23.3%かもしれないのだそうだ。
おおざっぱな視聴率に対して視聴質という言葉も最近よく聞かれる。測定サービスとしては、テレビ朝日と慶応大学が協力して実施しているテレビ番組のアンケート調査、リサーチQなどがある。
・テレビ番組視聴質調査 リサーチQ
http://www.rq-tv.com/index_before.php?type=
■ドキュメンタリ番組の作り方
後半は実際に映像制作の現場が説明される。ドキュメンタリ撮影のコツは、素人のデジタルビデオ撮影にも役立ちそう。役立ちそうなノウハウをまとめてみた。
フィックスの映像はワンカット10秒におさえる。
パンの角度は20度くらい。最初にフィニッシュを楽に撮れる姿勢を決めて、そこから体をねじって、元に戻りながらパンする。いきなりパンすると肝心のフィニッシュで姿勢が苦しくなる。見せたいものはパンの終わりにくるようにする。
ズームは最初ゆっくり、次第にスピードをあげる。ズームの倍率は最高でも画面の4分の1にする。寄れるものには撮影者自身が近づいていく。最初と最後で10秒を確保する。
なるほど、この3つをおさえておけば、良い映像が撮れそうな気がしてきた。
というわけで、テレビの全体像がよくわかる入門書としてよくできた本だった。
・新会社設立と「テレビブログ」サービス開始
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003593.html
・キレイに簡単にPCテレビ録画 MTVX2005
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003533.html
・PCで2チャンネル同時録画のGV-MVP/RX2W
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003343.html
・テレビのからくり
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002987.html
・テレビの嘘を見破る
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002377.html
2005年08月25日
アカデミー賞を買った男―夢を追いかけて映画バイヤーになった
・アカデミー賞を買った男―夢を追いかけて映画バイヤーになった
ラストエンペラー、アマデウス、シカゴ、ミリオンダラー・ベイビー、キル・ビルなど、誰もが知っている30作品以上のアカデミー賞受賞作品を買い付けた凄腕映画バイヤーの自伝的な業界ガイド。
そもそも映画バイヤーとはどんな仕事なのか。
「
独立系映画製作会社、あるいはそこが作った映画の海外セールスを代理するセールス会社から、日本での配給権(劇場配給、その6ヵ月後のビデオ発売、さらに6ヵ月後の権利行使になるテレビ番組放映セールス権等)を一定の期間(通常8年から12年)独占的に買う仕事。この日本での劇場、ビデオカセット・DVDのビデオグラム、フリー・ペイTV配給権のいわゆるオールライツ(全権利ベース)の交渉をする
」
劇場公開用映画のオールライツのほとんどはMG(ミニマムギャランティー、最低保障取り分)を、先に支払う構造。その金額は製作費の7〜12%。ハリウッド映画超大作を買う場合には、400万ドル〜1500万ドルが相場で、これに加えて公開には宣伝費用が4億円から10億円必要だそうだ。この10億、20億の一大プロジェクトの命運を左右しているのが、映画バイヤーということになる。
年々、バイヤー間の競争が激化していて、映画が出来てから買うでは遅いそうで、脚本レベルで買う必要がある。そこで映画バイヤーは英語の脚本を読みながら、頭の中で出来上がりを想像して、巨額の投資を決めるそうだ。想像を膨らませる感性が求められる。
著者はインタビューの中で感性についてこう答えている。
「
感性とはフィーリングですか?センスですか?
梅原 両方。一般映画は100万人規模のお客さんを相手にするじゃないですか。バイヤーは1人で100万人の相手をするのですが、共通項を考えたらダメで、自分の感受性を信じるしかない。自分が監督しているつもりでやらないと。
」
有名作品の買い付けエピソードや、具体的に数字入りの買取金額や採算の内訳、アクの強そうな業界人同士のビジネスバトルが、次々に出てくる。関係する会社の概要にも詳しく、業界地図が把握できる。文章は独白メモ的だが、情報量は多く、本音が書いてあるのがいい。映画バイヤーの仕事はシード段階のベンチャー投資にも似ているとも思って興味深かった。
とても参考になったのが巻末付録のWebリンク集。映画業界のプロが見ている海外情報ソースがたくさん開示されている。3つほど紹介。
・Variety.com - Entertainment news, movie reviews, industry events - Variety Magazine Online
http://www.variety.com/index.asp?
映画業界人必須の雑誌のサイト。
・ROTTEN TOMATOES: Movies and Games, Reviews and Previews
http://www.rottentomatoes.com/
世界的に著名な映画批評家のサイトで好きな上位60%をFresh、59%以下をRottenとして斬る。
・Ain't It Cool News: The best in movie, TV, DVD, and comic book news.
http://www.aintitcool.com/
スニーク試写の感想サイト。多少(良い意味で)偏っているらしいが、米国の新作映画が公開数ヶ月前にチェックできる。
映画バイヤーという、まったく知らなかった仕事の内幕を知ることができた。この著者は劇場映画専門だが、インターネット公開の動画専門バイヤーというのも、将来、花形職業として登場するのかもしれないと思った。やってみたい気もする。
・私の好きな映画たち(1)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000734.html
・私の好きな映画たち(2)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000735.html
2005年04月26日
メディア裏支配―語られざる巨大マスコミの暗闘史
著者は元TBS記者で政治や番組「報道特集」を担当した後、独立。国会をありのままに中継する専門チャンネル国会TVの創業し、苦戦を強いられながらも、インターネット放送を続ける。
・国会TV
http://kokkai.jctv.ne.jp/
国会TVは2001年12月に放送電波を停止され、現在はWebで有料配信中。
この本では記者時代の生々しい経験をベースに政治とメディアの抜き差しならぬ癒着関係が語られる。田中角栄、中曽根、金丸、竹下と歴代総理のメディア裏支配から、郵政族のドン野中広務の暗躍から引退、そして小泉政権の巧妙なメディア戦略や最近のNHK問題まで。
■1千万人が見ないと打ち切りに、視聴率の弊害
おおざっぱに計算すると地上派テレビの視聴率1%とは100万人の意味だが、視聴率1%の番組というのは現在のCMベースのモデルでは継続することはできない。合格点をもらうには、およそ10%程度は必要になる。
著者はこういう。
「
考えてみれば、百万人が見た番組を「低視聴率」という理由で切り捨ててしまう世界とは一体何なのであろうか。書物もCDも映画も百万人に支持されれば大ヒットである。もちろんわざわざ出かけていって金を払って手に入れるものと、家にいてチャンネルを回すだけで見ることのできるテレビとでは、数のスケールに違いが出てくるのは当然である。しかしそれでも一千万人が見ないと評価されない世界というのが果たして正常な世界なのだろうか。
」
10%の視聴率を求めれば、自然と番組内容は娯楽的、ゴシップ的なものになる。バラエティ番組や、過度に単純化した内容を伝える短絡的ニュース番組などが高視聴率をあげて幅を利かせる。それ以外の、1%向けの番組は、いくら高品質でも経済的に淘汰されてしまう。
■揃って間違えるマスメディア
複雑怪奇な記者クラブ制度がこの国の報道の元凶のひとつとして批判されている。
特ダネを一社だけが落とすことを特オチといって、放送局、新聞社にとっては最悪の避けねばならない事態ということになっているらしい。一方で各局揃って誤報を流すことは、問題視されない。著者は一社が特ダネを落とすより、全局が誤報を流すことのほうが遥かに視聴者にとって悪影響を及ぼす大問題ではないかと、問題提起する。
馴れ合いは記者同士だけでなく、著者が所属していた政治部では根が深い。記者は情報を得るためには、政治家や官僚に取り入って子飼いになることが求められている。この本ではそうした癒着の現場が政治家やメディアの実名で、生々しく紹介されている。政治家の思うように操られる記者、逆にマスコミ上層部の思惑に操られる政治家。
メディアは現代政治の基本であり、政治報道は政治そのものと化している。中立で公平で、不偏不党の報道などどこにもないことが良くわかる。いや、そもそもその中立公平な報道という理想が誤っていることもはっきりしてきた。
■成立しなかった日本の多彩な多チャンネルモデル
日本にはいまだに放送法に不偏不党の原則がある。米国では1980年代に連邦法で、マスメディアに「公平の原則(フェアネスドクトリン)」を課すことは憲法に違反しているという判決が出ている。特に民放の役割は、画一的な見方を広めることではなく、多彩な見方を提示することにあるのだから、公平中立な画一報道の仕組みは、一見、正しそうで間違っているのだ。
結局、記者は神様でもない。どんなにがんばっても、すべての報道が誰かの意見、偏った見方に過ぎない。むしろ、偏った見方がいっぱいあって、視聴者は比べながら判断するというのが、これからのメディアと視聴者のあるべき姿なのだろう。インターネットではそうした関係は一部で成立し始めている。
こうした多彩な内容を成立させるのが、多チャンネルのモデルである。米国の多チャンネルが成功したのは、視聴者全員が有料で加入する数十の基本チャンネルセット「ベーシックサービス」の存在が大きいと、著者は述べている。ベーシックパックに含まれた多彩なチャンネルは、視聴者の払う料金を分配して利益とできる。だから小資本でも、1%の層にとって質の高い番組を作れれば、運営を続けられる。
日本の多チャンネル(CSなど)では、オプションで申し込む「ベーシックパック」はあったが、米国流ベーシックサービスは存在しなかった。だから、小資本のニッチなチャンネルは有料読者獲得が不可能で、9割が赤字という状況になってしまった。残ったのは既存のマスメディアや大企業の資本が入った系列会社ばかり。これでは多チャンネルの意味がない。地上波の2軍に成り下がっている。
■高画質よりも多彩な情報を提供するテレビが求められている
先日、参加した放送業界最大のカンファレンスNAB2005で、おそらく最も使われたキーワードはHDだった。HighDifinitionの略で、新しい高画質規格を意味する。この傾向は日本も変わらない。だが、日本の場合、多彩な多チャンネルがないので、結局は現在の地上波系の番組が高画質になるだけだ。メディアと視聴者の関係を何も変えないように思える。
著者は、国民に利益をもたらすのは高画質のテレビより、多彩な情報を提供する多チャンネルだと結論している。CNN、アルジャジーラのような独立系のメディアが、日本でも生まれてくるようになれば、やがては政治も変わってくる。この本のテーマであるメディアの裏支配も難しくなるだろう。
多彩な多チャンネルの実現にはおそらくインターネットが深く関わってくるはずだ。ライブドアを超えて次にメディアでなにが起きるか、何をすべきかを考えるのに良い本。
2005年02月07日
テレビのからくり
■30年間横ばいなテレビ接触時間
携帯やインターネットの出現でテレビの視聴時間は減ったと思っている人が多いが、実際には、この30年ほど視聴時間は横ばいというビデオリサーチの調査結果が紹介されている。もちろん、ビデオリサーチはテレビが多くに見られないと困る会社だから、割り引く部分はあるにしても、そんな気はしていた。この10年、私自身が横ばい派だからだ。
特にノートPCと無線LANを使い始めてからは、テレビをつけながら、パソコンを使えるようになった。そんな”ながら族”が増えているのではないか。この1年半くらいは視聴時間が一時的に減っているが、それはインターネットが理由ではなくて、こどもが生まれたからである。だが、こどもも1歳半になると、最近はテレビをみたがるようになって、次第に視聴時間は元に戻り始めている。
調査によると85%の視聴者が1日4時間もテレビに接触している。そんなメディアは他にない。層別に見ると、マーケティング上最も重要とされるM1層(女性、20−34歳)は3時間21分。M1層(男性、20−34歳)で2時間25分。一番良く見ているのはF3(50歳以上の女性)で6時間4分。お年寄りと女性とこどもが最もよく見ているようだ。働き盛りの男性である自分の世代は忙しくて見る時間が少ないようである。
テレビは今もメディアの王様で健在だが、人気番組や接触様式には、もちろん、変化がでてきているようだ。そうした統計データとその見方が前半で説明されており、テレビのからくりの前提理解となる。
■人気のバラエティと長寿番組の秘訣
今のテレビで人気があるのはバラエティで、著者はこれを「多様な芸能や情報をショー形式で見せる番組」と定義し、歴史をたどると(例は古いが)
・音楽バラエティ
紅白歌合戦、光子の窓、ロッテ歌のアルバム
・お笑いバラエティ
お笑い三人組、てなもんや三度傘、8時だヨ!全員集合、オレたちひょうきん族
・クイズバラエティ
ジェスチャー、私の秘密、スター千夜一夜、すばらしき仲間、アメリカ横断ウルトラクイズ
と3つの系譜があるという。
番組の立ち上げ経緯や裏話も多い。福留アナは「一番ヒマなアナウンサー」だったからウルトラ横断クイズの司会者に選ばれた、だとか、プロジェクトXは「もうネタがない。一定の質的レベルを保ちながら続けるのは難しい」と現場は打ち切りの提案を出しているが上層部判断で続いているだとか、裏側が分かって面白い。
長寿番組の基本は水戸黄門にあるらしい。勧善懲悪、無敵の印籠のような、視聴者の期待する分かりやすいパターンの中で、登場人物が仲の良い家族化している。そんな番組が、長寿の可能性が高いという。なるほど、確かにクイズ番組や音楽番組、お笑い番組でも、司会者と出演者がお決まりのパターンを演じる番組は息が長い。安心できる、良い意味のマンネリがお茶の間には求められているのだろう。
最近、笑えたニュースに長寿番組「はぐれ刑事純情派」が今期で打ち切りという記事があった。あまりに番組が長く続いて、出演者の年齢と番組内の役に齟齬が生じてしまったらしい。70歳の刑事の家に30代の娘たちが結婚もしないで同居しているのは、やはり一般的ではないということのようだ。
・SANSPO.COM グッバイ安浦刑事…藤田まこと主演「はぐれ刑事純情派」終了
http://www.sanspo.com/geino/top/gt200501/gt2005011907.html
「
終了の理由を、東京・六本木の同局で会見した早河洋常務取締役(61)は「18年経ち、(ドラマ設定の)年齢に限界を感じた」と説明。同番組では刑事ドラマに加え、刑事の私生活にも重点を置いてきた。だが、放送開始時に藤田の19歳の娘役だった女優、松岡由美が36歳に、14歳の娘役だった小川範子も31歳になり、リアルな家族の触れ合いを描くことが難しくなった。藤田も家族構成に限界を感じていたといい、同局を通じ「お茶の間で家族が揃って見るドラマ、その中で描かれる家族にウソがあってはいけない」とコメントした。
」
■NHK問題、各局の盛衰、制作の現場、IT時代のIT番組?
この本は番組の裏話だけでなく、今ちょうど表面化して話題になっているNHK問題を先取りしていたり、各局の興亡史、製作現場の日常など多様な視点から、今のテレビ業界を浮き彫りにする。本来、業界内の地域通貨に過ぎなかった視聴率が流通していることは最近も不正に絡んで話題になった。
全体的に驚くべきは現場のアナログ度の高さ。アニメ業界は最たるものだが、デジタル化の波から現場はすっかり取り残されてしまっている様相がうかがえる。無論、機材のデジタル化だとか、放送のデジタル化は進んでいるわけだが、番組を作り出す現場はアナログ発想、現場主義、徒弟制度、徹夜で突貫工事の日々のようだ。
今まではアナログ主義でよかったのかもしれない。だが、国民の7割がインターネットを使い、3分の1の世帯がブロードバンド接続が実現した今、テレビに物足りなさを感じている視聴者も少なくないはずだ。説明の抽象化、簡略化のし過ぎで何を言いたいのか、分からないIT解説だとか、誰も本当は使っていない用語、たとえば「基本ソフト」「ホームページ閲覧ソフト」「応用ソフト」。分からない人にこれで分かると思えない上に、分かる人にも分かりにくくなっている気がする。
特に日本の経済を支えると言われるはずのIT系の話題は、取材の突込み、情報量が足りない。「技術的なことを話しても視聴者は分からないから」という親切心も、やがて「テレビは遅れている」だけになってしまう可能性があるような気もする。そろそろIT業界の人間も本気で見たい番組も出てきてほしいなと思う。
・テレビの嘘を見破る
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002377.html
・放送禁止歌
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001449.html
2005年01月11日
日本経済新聞は信用できるか
300万部を誇る日本最大の経済メディア日本経済新聞を、無責任な煽りメディアとして批判する本。著者は「エコノミストは信用できるか」を書いた東谷暁氏。
最近約10年の日経の記事を多数引用しながら、その主張の一貫性のなさや、マッチポンプ式の無節操な煽り行動を明らかにする。政府の金融政策や、構造改革、経済外交について、始める時には賞賛していながら、政策が失敗に終わると掌を返したように批判にまわる。自社の社説がかつては逆の意見を主張していたことには一切触れない。そうした事例がこれでもかとばかりに引用される。
この本のそうした引用を読むと日経的言説とはどういうものなのか、みえてくる。それはだいたい以下のようなものである。
・日本=遅れている
・世界(アメリカ、アジア、中国)=進んでいる
・進んでいるアメリカを見習え
・前政権の政策は間違いではなかったが失敗だった
・2000年代の日本の飛躍はIT革命次第だ
・やがて中国経済が日本を飲み込む
・日本的経営からアメリカ型コーポレートガバナンスへ
著者によると日経がよく使う「日本、消費者、アメリカの三段論法」というのがあるのだという。それは、
1 消費者にとってよいことは日本にとってもよい
2 アメリカが望むことは日本の消費者も望む
3 だからアメリカが望むことは、日本にとってもよい
という論理。
こうした論理を使って、日経はブームを作り出す。
著者は手厳しく日経の”尻軽さ”を責める。
「こうして見てくると、日本経済新聞はほとんど独自の見解をもっていないだけでなく、そのとき流行のテーマを煽っているだけに過ぎないのではないかとの疑念を起こさせる」
「さまざまな「ブーム」について日本経済新聞は新しい意味を見出そうとし、これでもかと思えるほどの分量のリポートを掲載して読者の関心を引き付け、<中略>、その反面、「ブーム」が孕む脆弱性や矛盾にかんしては、十分にリポートし分析してきたとはいえない」
「日本経済新聞社の各紙が「アメリカ」あるいは「世界」を模範として何かを論じ始めたら、いちおう疑ってみるべきなのである」
「ほかでもない、日本経済新聞が奇妙なのは、こうした最も重大な経済マスコミとしての責任問題に触れることなく、「みんなが」とか「ほとんどの人が」と述べて一般大衆と自らを同じ平面に置き、報道を専門としていたはずの自社の責任を、何食わぬ顔で回避してしまっていることなのである」
日経らしさをうまくとらえて批判しているのがこの本の面白さであるが、著者の批判を日経が受け入れてもつまらないなと思う。日経がここまで人気なのはその「らしさ」のせいだろう。いきなり硬派な腰の重い新聞になられても、商売の種をみつけたい経営者には不評だろう。間違ったからといって、頻繁に自己批判する良心的だけれど弱気な新聞なんて読みたいだろうか?。私は興味がない。
それは私があまり新聞に期待していないせいかもしれない。経済の複雑な仕組みを正確に予想することなど誰にもできないのだから、競馬新聞と同じだと考えている。新聞には、最低限、今日あるレースと出走馬のデータが正確に掲載されていれば満足で、残りは下馬評であるが景気よく書いていてもいいのではないか。もともと新聞というものは江戸の瓦版発祥であって、素性が高級なものではなかったはずだ。新聞を公の器で正しいものという思い込み、社会人は読んでいて当然であるかのような神話はそろそろ崩れてもいいはず。
うーん、態度を変えるべきは日経でなく、読者の私たちのほうなのではないか。
情報ソースが多様化し、分析ツールもたくさん手に入るインターネット時代、
「そろそろ(日刊全国)新聞も卒業だね」
というスタンスが良い気がする。
#ところでライブドアが「東京経済新聞」の商標を取得したらしいですね。
# ライブドアステーション:「東京経済新聞」登録商標取得
# http://blog.livedoor.jp/kipon/archives/12174377.html
#うーん、東京経済新聞は信用できるのか?
・日本経済新聞のトリビア
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000180.html
・日本経済新聞社の歩み
http://www.nikkei.co.jp/nikkeiinfo/guidej/enkaku.html
2005年01月10日
封印作品の謎
・ウルトラセブン 第12話 「遊星より愛をこめて」
・怪奇大作戦 第24話 「狂鬼人間」
・映画「ノストラダムスの大予言」
・ブラックジャック 第41話「植物人間」、第58話「快楽の座」
・埼玉県監修のO157予防ゲーム
これらは世に出ることがない封印作品である。
国が発禁処分にしたわけではなくて、その他の何らかの理由で自主的に封印されている。記事を書いただけでライターとして業界出入り禁止をくらう特撮作品。大作として一般公開されながら二度と公開されない映画。自治体が公開直前に差し止めたゲーム。各業界はこれらの作品をどうしても隠したい、なかったことにしたい理由がある。
元全国紙の新聞記者だった著者は、自分の書いた記事が原因となって、あるゲームが封印されてしまったことに問題意識を持った。そして記者経験で培った取材力を使って、作品封印のメカニズムを広く探り始める。
隠したいと思う関係者ばかりだから取材は当然難航する。著者は諦めずに当事者を探しては、粘り強く食い下がっていく。あとがきによると、この本を書くために記者を辞職し、自動車を売った100万円で銀行預金とにらめっこしながらの執筆活動だったそうだ。かなり大きな人生の賭けだっただはずだ。その緊張感がこの作品を光らせている。
取材を進めていくと、背後にある大きな業界構造、社会構造の暗部が浮かび上がってくる。隠したがっているのは誰で、何が理由で、どのような権力を背景に封じようとしているのか。業界の専制企業、裏社会、圧力団体、封印するものと著者は正面から向き合う。ときに日本の戦後史に関わる思わぬ大物を釣り上げてしまったりもする。
要するにこの本に登場する封印作品の謎の中身は、原爆や精神病や差別問題、18禁テーマに触れたことに始まる。だが、触れただけなら大した問題にならない。問題箇所のある作品は表現を修正削除して再公開されることが多いからだ。ここで取り上げられた作品はそれも許されなかった。
以前、書評した「放送禁止歌」でも、放送禁止の最大の理由は外部の圧力ではなかった。封印が長く続く作品にはもっとドロドロした本当の理由が内部に隠されているのである。著者はその内幕実態を、新聞社の名刺ではなく、フリーランスの肩書きで、取材活動を通して明らかにしていくことに成功した。困難な取材プロセスの臨場感、著者の封印解明への熱意が、読むものに生々しく伝わってくる。新聞記者を辞めてこそ書けた作品だろう。血の通ったドキュメンタリになっている。それが抜群に面白い。
・放送禁止歌
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001449.html
言論の自由を大上段から振りかざさないネット的スタンスもいい。この著者は前書きで告白しているが、大学時代に”酒鬼薔薇聖斗”の顔写真をネット公開して社会的議論を巻き起こしたサイト「反動!」の運営者である。その後、全国紙記者になっていたのには驚いたが、辞職してこの本を書いたのはこの人っぽいなと思う。
2004年10月25日に初版発売で、既に5刷出ているから、相当売れているようだ。記者時代はインターネット担当だったこともあるらしい。次はインターネット関連の封印を見つけて解明して欲しいなと思った。安藤氏にしか書けないテーマがありそうだから。
2004年10月20日
テレビの嘘を見破る
■幻の魚は、なぜ旅の最終日に釣れてしまうのか
著者はテレビマンユニオン副会長で、武蔵野美術大映像学科教授の今野勉氏。大型の釣り番組では、大抵は”幻の魚”は最終日に釣れる。無論、釣果は運もあるから初日に釣れているケースもあるのだそうだ。しかし、あっさり釣れては、1時間、2時間の番組の長さを持たせることができない。そこで苦労の末釣り上げたプロセスが作られていく。
秘境探検では、往路は目的地に着くことが最優先であるから、車を止めて移動の風景を撮影する時間がない。そこで復路の様子を往路のシーンとして利用したりするケース。
インタビューシーン。現場にはカメラ1台なのでインタビュアーが頷くシーンは後から別に撮影することは常識に近いそうだ。同じインタビューを2度撮影して切り貼りすることもあるという。
秘境の自然の厳しさを伝えるために上から岩を落としたり、スタッフが病気にかかったりする。病気は嘘ではないが、治ってからの撮影だったりする。村の行事を撮影用に演じてもらったりする。典型パターンを描くために、村中から寄せ集めて、偽の家族を作ったりする。こうなると、だんだん怪しくなっていく。
前半で多数の事例が挙げられた。最初は他愛もない演出から、だんだんときわどいヤラセまでを、現場の事情や製作意図を交えて、解説されていく。そして著者は制作サイドの人間としてこう思うが、皆さんはどう思うだろうかと問いかける。
テレビ関係者なら当たり前なのだろうけれど知らなかった裏側が満載で、面白い。
■視聴者は何にだまされたくないのか?
国によってやらせが許される限度が違うという話も興味深かった。英国BBCでは証言者が話下手な場合、似た俳優が分かりやすく話すシーンで代用することも多いそうだ。「事実の意味さえ正しく伝われば、それがどう記録されたかは問わない(作り手の自由である)」という考え方に立脚している。
プロセスの記録か、典型の記録か、という問題の立て方もでてきた。取材地で村中から適当な人物を集めてきて、偽の家族の偽の生活を、本当の生活として撮影する。専門家が見てもそれが正しく村の典型を描ききっているなら、問題ないという考え方。
テレビ番組は有限のリソースで制作せざるを得ない。1年中現地に滞在して典型的なことが自然に発生するまで待つわけにはいかない。細部はともかく事実を世に問うことが先決のテーマもあるだろう。面白さもなければ視聴者に見てもらえない。どうしても作ってしまう部分は出てくる。嘘なしには事実が伝えられないという矛盾が、制作の現場にはどうしても発生してしまうようだ。
結局、視聴者は何にだまされたくないのか。雨が3ヶ月なかったことにして雨乞いの儀式を村人に演じてもらう演出は、許されるのか。視聴者にはOKという人もいれば、ダメな人もいるだろう。著者は制作サイドの人間として擁護と批判を繰り返した後、どこまで許されるかが問題ではないと思うと述べている。伝えたいことがあれば、あらゆる最善の方法をとるのが作り手の原点であり、これからもそうしていくだろうと書かれている。視聴者に許してもらえるから、その方法を取るようでは、気概に欠けているという。
読後の感想として思うのは問題解決の手段としてインターネットがあるということ。報道は批判と議論に晒され続けることが正しいあり方なのだと考える。議論の場と材料が提供されてさえいれば、大枠としては問題ないのではないか。
番組制作の裏側を番組サイトに書いておけばよいと思う。「ここの部分はやらせです」と番組テロップに流せば映像演出が台無しだが、サイトならば、知りたい人には伝わる。議論したい人は議論ができる。
視聴者が本当に怒っているのはやらせによる事実のねじまげ自体よりも、その程度の演出で一般大衆を騙せると思う傲慢さなのではないか、と私は考える。
・ユニバーサル、「川口浩探検隊」シリーズをDVD化
http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20041018/umusic.htm
やらせ系の元祖。子供時代に大好きでした。このDVDは欲しい。
・藤岡弘、探検シリーズ
http://www.tv-asahi.co.jp/tanken/
川口浩の精神を受け継いだシリーズでこちらも必見。
・水曜スペシャル・探検隊シリーズ−非公式・ファンサイト
http://tankentai10.hp.infoseek.co.jp/
2004年09月28日
日本はどう報じられているか
各国のマスメディアが日本をどう報道しているかの比較研究。取り上げられるのはイギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、アラブ世界、中国、韓国の日本報道。現地在住かもしくは詳しいジャーナリスト、学者らが書いている。
日頃、米国の日本報道は取り上げられることが多いが、他の国のマスメディアの報道姿勢は見えにくい。
たとえばフランスでは、かつては「文化のフランス、経済の日本」だったが、日本経済の後退とフランス経済の復興に伴い、「文化の日本、経済のフランス」と逆転した印象が持たれているという。
日本は明治以降ドイツに片思いをする関係で、ドイツ人側は日本をたいして意識していないこと。むしろ似ている国の失敗例として日本の二の舞を避けたいと考えていること。
米国ではイチロー、マツイが好意的に報道されるが、それはもはや経済面で脅威でなくなった日本が前提とされ、「世界から人材が集まるアメリカ」という自賛に過ぎないのだ、日本が評価されているわけではないという見方。
アラブ世界では、日本はそもそも報道にまず出てこない。王室のある国では皇室との交流がクローズアップされて時々登場する程度。日本は世界に注目されているというのは嘘であると述べられている。
中国ではなぜか「女体盛」などというものがネットで有名になったりしていること。
各様の日本報道の典型姿勢があるのだが、欧米の全体傾向は、日本経済の低迷に伴い、
ジャパンバッシング(日本叩き)
↓
ジャパンパッシング(日本外し)
↓
ジャパンナッシング(日本無し)
というように進んできているようだ。間違った報道をされる程度なら、まだマシなわけで、存在自体が見えないのは悲しい。
ところでニュースや新聞報道以外では、実は観光ガイドというのは大きな影響力を持っているのではないだろうか。日本にわざわざ出向く人たちは潜在的な日本の布教者であるはずだ。
以前、米国の本屋で日本の観光ガイド本を購入したことがある。
帰りの飛行機で日本は米国でどのように紹介されているのか、興味深く読んだ。至って真面目な本で、日本のサービス業従事者の就業意識に触れ、「チップの小銭を渡すのは失礼に当たるが、よく考えると良い文化だ」という自文化の見直しなどもあるのだが、奇妙な記述も混ざっていた。
観光のポイントとしてソープランドがあり、「ソープランドは女性も楽しめるので一度は訪れよう」などと普通に書かれている。オリエンタリズムはどこかで性と結びついた印象があるのだろうが、短い旅行期間に観光スポットとしてソープランドに行かれたのでは、日本観、何か誤解されるのは間違いない。
日本の大都市も米国の大都市も大差ないから、観光はどうしても自文化と大きく違うところを観たがる。日本を旅行先に選ぶ日本通は帰国してから、そうした違いばかりを喋るかもしれない。観光ガイドも影響力は大きいはずだ。各国の日本観光ガイド本の中身の比較、もう少し調べて見ると面白いかもしれないと思った。
ところで、今、私が外国人を案内するとしたら、オススメはこれ。サービス発表直後に乗車してきたが、日本人ももちろん楽しい。
・スカイバス東京
http://www.skybus.jp/home/index.html
コース概要:
三菱ビル前 → 皇居(大手門)→ 国立近代美術館 → イギリス大使館 → 国立劇場→ 最高裁判所 → 国会議事堂 → 霞ヶ関(各省庁)→ 銀座 → 東京駅丸の内、三菱ビル前
天井を取り払った二階建てバスで、東京駅から皇居を音声ガイドつきで一周する。日本の近代史にかかわる建築物や景観が集まるこの地域は、皇居の自然も美しいし見もの。毎時出発で大人1200円。
2004年09月08日
宮崎アニメの暗号
『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』。宮崎アニメは神話の世界観をベースにした作品が多い。だが、日本だけでなく世界の様々な地域、時代の神話が巧みにブレンドされているため、参考にした神話を特定するのは、暗号解読のような作業と面白さがある。
映画「ミツバチのささやき」、ケルト神話、五行思想、インド神話、宮沢賢治、堀田善衛、漫画家花輪和一の作品、ゴヤの名画「巨人」、旧石器の洞窟壁画「トロワ・フレールの呪術師」。次々にこれに宮崎氏は影響を受けて、この作品を作ったのではないかという候補と証拠が説明されていく。
著者は「もののけ姫」が宮崎作品の思想の頂点と考えているようだ。この作品に登場するエボシ御前は、文明の象徴であり、宮沢賢治の「土神」、民俗学の「金屋子神」、ケルトの女神ブリギットのブレンドだと分析している。そしてベースとなった神話の性質上、エボシ御前は神殺しの属性を持つ。この対極に位置するのが自然を象徴するシシ神であり、殺される神である。そして、このふたつの極のちょうど真ん中に立つのが主人公のアシタカだとする。文明と腐海の森のちょうど間で、両者の衝突を食い止めようとしたナウシカとまったく同じ立場だとし、宮崎作品の典型的な構図を看過してみせる。
とまあ、いろいろと薀蓄を語る本なわけだが、プロットがそっくりで実際にこれを換骨奪胎したのだろうなと思わせる話もあれば、ちょっと強引すぎるのでは?というこじつけ話もあるのだが、宮崎作品に登場する舞台やキャラクターを思い出しながら読むと楽しい時間を過ごせる本だった。
宮崎アニメに限らず、「深い」と云われる作品は多義的で、観たものが多様な解釈を楽しむことができるが故に深いのだと思う。きっと宮崎氏自身も暗号に隠した明確な正解を持っているわけでないではないのだろう。何にも還元できないからこそ、名作は名作なのだと思うから。
関連:
・松山市/道後温泉本館
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/dogojimu/tanken/
千と千尋の神隠しの舞台のモデルとなった旅館。マップをクリックで表示される内部写真が映画にソックリ!日本で唯一温泉に入れる重要文化財だとのこと。いつか行かねば。
・カオナシの携帯ストラップ
http://k-tai.impress.co.jp/cda/article/strap/8794.html
私は宮崎作品では「千と千尋の神隠し」のカオナシが好きである。”そもそもカオナシとは”で1時間は語れる、と思う。でも、さほど面白くないので書かない。
・はてなダイアリー - 町山智浩アメリカ日記
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040314
とても面白い映画評。しかも説得力がある。宮崎監督は性風俗を描こうとしていたと自ら主張しているのにメディアはその部分だけ取り上げないという話。ある意味、暗号のひとつの正解が見つかった例。
「宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に関しては柳下毅一郎の対談本『映画欠席裁判』その他で書いてきたとおり、娼館を舞台にした物語である。
しかし、そう指摘されると怒る人が多いんだ、これがまた。」
「『千と千尋』は、現代の少女をとりまく現実をアニメで象徴させようとしたので、性風俗産業の話になった、と監督は言っている。」