2007年05月31日
独学でよかった―読書と私の人生
映画評論を中心に文筆活動で数々の受賞歴を持ち、日本映画学校校長の佐藤忠男氏の自伝。著者は、工業高校定時制卒で、少年飛行兵、国鉄職員、電話機の修理工事人などの職を経ながら、独学で映画評論家としての道を切り拓いた。自信に満ちていながら、優しさもそなえる、風格のある独白がとても魅力的。いい先生だなと思う。
評論家になりたかった著者は働きながら文章を書き雑誌への投稿を続けた。アマチュア工員が書く映画評論という物珍しさもあってプロ編集者たちの目に留まるが、会社を辞めてプロになりますと言ったら、「アマチュアだったから面白かったのに」なんて言われる。それでもめげずに猛烈な読書をして知識を蓄え、自分流のテーマと作風を洗練させ、独立独歩で世界にその力を認めさせる。
アマチュア、フリーの著者に対して、冷たいプロの世界にそのときそのときで言い返したいことがいっぱいあったようだが、自分が尊敬するプロへの敬意は忘れなかった。「読書は好きな本を読むのが基本だが、少し背伸びして、自分が尊敬したいと思う人にあやかるようにすると着実に視野が開ける。」。関心の幅、知識の深さをそうやって広げることで、ユニークな切り口の映画評論スタイルを確立していった。
「人々の知識がそれぞれの職業の専門分化に応じてその専門のごく狭い範囲に閉ざされる傾向がある今日、たとえ浅く薄くでも、それほど広い範囲の知識を求めつづけなければならない立場というのは有難いものだと言うべきではないだろうか。あらゆる部門に深い知識を持つそれぞれの専門家がいるとしても、それらの全体を大雑把に見渡せる広い知識を持つ者も社会には必要なのではないか。そんな立場をあまり意味のない雑学として卑下しないで、そこに積極的な意味を見出して行っていいのではないか。そう思ったのである。」
著者は興味の幅を、レスペクトの感情を軸にどんどん広げていった。オープンマインドな独学だから、内にこもって自滅しなかったのだと思う。他人が見ない分野に積極的に関心を持って追究する。広範な知識の網を張って、独自の視点をいつでも繰り出せるようにする。それが著者の独学人生の戦略だったようだ。
これは自伝であると同時に書評エッセイ集にもなっていて、影響を受けた本を多数紹介している。本の内容に絡めながら、豊富な知識のつながりを使って、自論の展開へと自然に導くのがうまい。
「面白い本とは面白い考えを引き出す本」という本の選び方に独学の秘訣を感じた。面白い考えが連鎖して、面白さが加速していくことで、やがて異彩を放つ。それが独学の醍醐味なのだと思う。
著者は独学の危険性を十分に認識しており、大学教育や専門家の世界を決して否定しない。むしろ使えるならば有効に活用したらいいとアドバイスしている。あらゆる機会を利用して、自分流で一流になれということだ。
巻末に付録の「独学派にすすめる99冊」がついている。古典を中心に幅広い分野の名著のリストがあげられている。何冊か書店に注文した。
2007年04月30日
若き数学者への手紙
偉大な数学者が、数学に興味を持った親友の娘「メグ」にあてて書いた21通の手紙。メグは一通目では高校生だが、数学者のアドバイスに従い、数学を専攻して大学、大学院へ進み、研究者となり、21通目では教授の終身職に就く。数学者で科学読み物の名手イアン・スチュアートいよるフィクション。
数学の世界の面白さ、広がりと深さ、才能の磨き方、数学者という職業について、研究者や教授としてうまくやっていくには、など、数学を専門とする人生への総合的な指南書。数学者の半生の疑似体験ができる。
数学の普遍性についての哲学語りが勉強になる。
「人間の数学は人間が自覚しているよりずっと密接に、人間固有の生理学や、経験や、心理的な思考に結びついている。あくまで局地的なものであって、普遍的ではないんだ。幾何学で扱う点や線は、物の形に関する理論の、ごく自然な基盤に見えるかもしれない。しかし点や線は、人間の視覚システムがこの世界を分析するときの端にでもある。異星人の頭脳は、形ではなく、匂いや、引き起こされる困惑の度合いなどを基本に世界を知覚するのかもしれない。それに、1,2,3といった離散数は、わたしたちには普遍的に感じられるとしても、元をたどれば、たとえば羊のように似たものを集めてそれを財産と考える人間の傾向から生まれたものなんだ。」
私達は恐らく手指がたまたま10本あるから、10進数を使っている。12本だったら12進数を一般的に使っていたのだろう。高次元や量子論などのプロの数学者が取り組む高度な問題は、想像力で人間固有の数学から一旦離陸しないと理解できない。
「微分方程式にしろ時計にしろ、これらは道具であって、答ではない。これらの道具は、もともとの問題をより一般的な状況に埋め込んで、物事の流れを理解するためのより一般的な方法を導き出すことによって、機能している。こうして一般化されたことによって、これらの道具が別の場面でも使える可能性は高くなる。だから、理屈に合わないほど有効に見えるんだ。」
数学だけでなく、多くの学問に共通しそうな、教育のコツが次のように語られている。
「数学は(概念的な意味で)手順を物に変えて進んできた。たとえば「数」は、物を数える手順から始まった。片手の指を(親指も含めて)折っていくと、「一、二、三、四、五」となって五という数に到達する。しかし、そこからさらに先に進むには、ある時点で数えるのをやめて、五それ自体を物と考えなくてはならない。」
「トールは、このような手順(プロセス)を伴った概念(コンセプト)のことを「プロセプト」と呼んでいる。プロセプトというのは、場合によっては手順と見られるし、場合によっては概念、つまり物としても見ることができる便利な物だ。この二つの観点を楽々と切り替えるのが、数学のコツなんだ。」
あらゆる知識は答えではなく、道具なのだと知るということが、数学に限らず、多くの学習の極意なのかもしれないと思った。
・数学と論理をめぐる不思議な冒険
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004631.html
・なぜ数学が「得意な人」と「苦手な人」がいるのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003518.html
・数学的思考法―説明力を鍛えるヒント
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003395.html
2007年04月24日
教育力
冒頭で「教育の根底にあるのはあこがれの伝染である」と著者は結論をいう。いきなり納得して、続きを読みたくなった。
私は中学、高校(退学)と長い間、落ちこぼれだった。それでも入試が難しい大学に入れたのは、近所の小さな私塾の一人の英語教師のおかげだった。そこのT先生は東大でギリシアの方言研究をしていて非常勤講師をする傍らで、恐らくは生計を立てるために、高校生向けの塾を開いていた。
来る日も来る日も、学校の教科書は使わず、古今東西の名文の全文和訳ばかりを生徒にやらせていた。希望者は授業前に黒板に自分の和訳をびっしりと板書しておく。授業ではそれを先生が添削する。キング牧師の「私には夢がある」演説や、シェイクスピアの一節、ジョージ・バーナード・ショーのエッセイなど、歴史に残る名文ばかりが授業の題材であった。今でも内容を覚えている。
私はまず先生に憧れた。日本の最高峰の東京大学でギリシアの方言を教えている。その内容はさっぱり知らないが、まだ見ぬ高尚な世界の奥行きを漠然と感じた。それから歴史的な名文をいきなり自分の手で訳すチャンスに恵まれたことが嬉しかった。偉人になったつもりで全文を訳して添削してもらうことに一喜一憂した。
あれから20年。先生の名前を検索したら、有名大学の学部長の名前がヒットした。経歴からしておそらく同一人物らしい。本当に凄い人だったのだと感心したが、実は先生の実力はどうでもよいのだ。先生と教材に憧れることができたのが、私にとっては最上の教育だったのだと思う。憧れたから与えられたものを盲目的に学ぶことができた。
現代の学校教育は学生が自ら何を学ぶかを細かく選択できる。好みの料理を好きなだけ食べられるビュッフェ形式みたいなものである。数字やカタカナがとっつきにくい物理や世界史は、やりたくなければ、やらないで済む。学生の個性を尊重していくという目的でこういうスタイルになっている。
しかし、それでは偏りが生じてしまう。カタツムリなんか食べる気がしないよ、ということではエスカルゴのうまさは一生分からないで終わる。
「武士の時代であるならば「黙ってやっておけ」で全部済む」「『論語』をなぜやるのか」という質問を許されていない世界であり、「やれ」と言われたらやるしかない。そして人生を過ごすうちに「ああ、やってよかったな」というふうに思えてくる。そういう順序だったわけである。
だが、いまの社会は、個人の主体性が重んじられるようになっていて、「何でもいいから、とにかくやれ」というのでは、説得力がない。だから教師としては「ただやれ」という強制力だけではなく、むしろそのことに対するあこがれを喚起する力が重要になるのだ。」
そして、その憧れを生み出すのは関係性である。
「個人の才能と、関係の中で生まれてくる力との二つに分けた場合、関係の中で生まれてくる力を一般の人よりはずっと信じているのが、教師としての条件だと思う。
たとえば、二人一組になってずっと話していたり、ディスカッションしたり、お互いにチェックし合ったりしている中で伸びていく力である。これで両方が伸びていく場合は、その二人にそれぞれ個別に才能があったという言い方もできるけれども、そういう関係性がクリエイティブであったと言った方が当たっているだろう。関係をクリエイティブにできるかどうか、というところに教師の力量が問われるのである。」
学習意欲は内発的だとか外発的だとかいう議論があるが、著者が言うように、関係性が本質だというのが正しそうだ。
この本は人気作家 斉藤孝が、本業の教育者としての視点で真面目に書いていて、とても参考になった。
2007年03月08日
自己プレゼンの文章術
ベテラン広告マンが書いた就職のための自己プレゼンの書き方の本。
「学生の作文によく出てくるの語の一つは「思う」である。これを安易に使って、文章の底を浅くしてしまっている作文は少なくない。<中略>「客観的事実や当然の帰結に「思う」をつける必要はないし、意見・考え・趣味が分かれそうな事柄を「思う」の一語で片づけるのには問題がある。「思う」だけで思考がストップしてしまうのだ。」
これは私も文章を書きながら悩むテーマだ。
1 「思う」は本当に難しい
2 「思う」は本当に難しい、と思う。
上のようにふたつ書き方があってどちらにするか迷うことが多い。「かもしれない」や「であろう」も同じようにつけるべきかどうか迷う。
考えてみれば、執筆者が神様でもない限り、すべての文末に「と私は思う」はついていておかしくないのである。逆にすべて削ってしまっても意味は通る。だから、「思う」をつけるかどうかは、どんな印象を読み手に与えたいかの戦術を考えた上で、攻めでつける「思う」だけを残すのが正しいのだろうなあ、と思った。守りの「思う」は要らないのだ。
著者と同じように、私も年に何度か学生の作文を大量に読む。一度に100本近く読む。文法が間違っているような文章は少ない。書く前の整理ができておらず、字数を埋めるための引き伸ばし戦術に出て、冗長になる失敗例がとても多い。「思う」はその代表例だ。
最初の1行に言いたいことを印象に残る形で書いてある作文は、いいものが多い。
実際に私が読んだ作文の例だと、冒頭で「私は音楽なんて大嫌いだ。」と書いて改行したものがあった。何が先に書いてあるのだろうと思う。そして本文が終わって最後の一行も「だから、私は音楽なんて大嫌いだ」で終えていた。形としてうまいと思った。読み手を意識していることが感じられる。肝心の本文はまずまずだったのだが、印象に残ったので高得点をつけた。
この本にはたくさんの文章指導がある。文例と改作案がわかりやすい。具体的、簡潔に書きなさいというアドバイスが繰り返されている。執筆と同時に編集を意識することが肝だと思う。
ひとつ私もいい方法論を考えた。
自己プレゼンを書く人は、短時間に100本の作文を読む採点者の心理を意識すべきだと思う。その作業を一度体験してみるのが、文章を練習するよりも効果的な訓練になるかもしれないと思う。友人・知人の長文の自己プレゼン(Mixiの自己紹介文でもよさそう)を100本集めて印刷し、1本あたり3分で300分間、エクセルでも使って評点とコメントをつけてみるというのはどうだろうか。
やってみると最初の10本は楽しくても、次第に面倒くさい、と思うはずである。職業意識に燃える採点者だって多かれ少なかれそう思っているのだ。目に飛び込んでくる文章とは何かがわかってくるはずである。それを真似すれば、100本を書くよりもてっとり早く自己プレゼンの文章術を身につけられるのではないか、と私は思う。
2006年09月14日
考えあう技術
教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと」であると著者らは定義する。そしてそのふさわしさとは、働いて食べていけるために必要な「技能や知識」、そして「他者との関係能力」を持つことである、という。
だが、現代社会における、ふさわしさを理念化して共有しようとすると難しい。これは二人の教育者が、教育の理想を議論する本である。まず「自由」や「平等」、「市民社会」という現代の「自由な社会」を形作る基本理念がある。個々人の自由と、社会の一員になること、は対立する印象さえある。
かつての「優秀な労働力をつくる」調教としての教育は時代遅れになった。豊かな消費社会の中で「他者を傷つけない限り、自分の快楽と欲望を追求してよい」という考え方が支持されてきた。個人は社会にどう関わっていくべきかという視点が希薄になった。そして「自分を見つめる」心理主義、「個々人の心がけをどうよくするか」徳目主義が、教育理念として偏重されている。
個性的であると同時に社会的であるというのは、こういうことなのではないか?学校教育はこうあるべきだ、という方向へ、二人の議論はまっすぐ向かっていく。前半の、著者の二人の対談の中で「結社の自由」というキーワードがでてくる。これが自由な市民社会と学校教育を結びつける。
「
刈谷 今まで、コミュニケーション能力とか調整能力というときは、すでに集団が存在していて、そのなかでの協調性が言われた。でも今、西さんが言った結社の自由とか新しい集団とかグループを立ち上げたり、つくりあげていく能力というのは自由の基盤になる。それは今まで言われている共同性とか協調性とかとは別の能力ですね。
」
互いに合意をつくりあげルール化し、それを改変していく能力は、現在の日本の教育に欠けている視点だと指摘している。
「
西 そう、それはきわめて本質的な問題ですね。結社の自由があっていろんなゲームが多種多様に存在しうるのも、民主政体によってはじめて確保されるわけだから。経済主体のゲームだけではなく、趣味のサークルのような文化のゲームや、ボランティア活動やNPOに至るまでのさまざまなゲームが花開くのが近代の理想だとすれば、それを根っこで支えているのは、まさに民主主義という「降りてはいけないゲーム」。だとすれば、この降りてはいけないゲームを上手に営むことのできるプレイヤーをどうやってつくるかは、教育の根幹といってもいい。
」
「降りてはいけないゲーム」を次世代にどう教えるか。自分中心で生きていいというだけでは、このメタシステムは継承できない。ゲームのルールの維持や変更の権利を持ちつつ、主体的にプレイヤーとしてゲームに参加していく人間をつくるには?。その方法論として「選び直しの追体験」のすすめがある。
「
次の世代にもう一度選んでほしいと思う、そういう私たち人類が蓄積してきたさまざまな成果を、選びなおしというきっかけを介在させて伝える。すでにあるものをそのまま伝えるのではなく、もう一度、追体験する、選び直す、ということを学校の場でやってみるのだ。
」
日本社会にとっての民主主義というゲームシステムの選び直しということでもある。
この本を読んでいて、「ゲーム」という言葉からの連想で、「オンラインゲーム」って似た部分があるよなと考えた。うまく運営されているゲームには、参加するプレイヤーたちの主体的な決定によって、民主的なルールができあがっている。皆がゲームを気持ちよく楽しむために、何が荒らし行為や詐欺行為にあたるか、何が好ましいか、といったルールが、ゲームシステムとは別にコミュニティ運営のシステムとして、決まっていく。
プレイヤー間には、ゲーム内の職業の違いや、成長レベルの差、ゲームを遊べる時間の差、反射神経や会話能力などの差、保有資産の差など、リアル社会と同じような個性や能力の差が存在している。うまく運営されているパーティは、そうした違いがあっても、皆が楽しめるようなローカルルールが運用されている。本当はリアルな教育の場にこそ、そうした個性と社会性のバランスを学ぶゲームが必要なのではないかと思った。
個性とは何か?、わかるとできるの違いは?、学校は何をすべきか?などの各論も深い内容が多く勉強になった。知識や技能を与えるだけでなく、この本の形式のように、個人や社会はどうあるべきかを、考えあう教育が必要なのである。
2006年06月20日
世界初 地図記憶法―あなたも記憶の天才!
この記憶法はとても簡単で誰でもできる。
円の中に十字を書く。その中心になる地名を決めたら、その上下左右、斜めの線上に、対応する地名を書く。複雑な地図でも、こうすることで、簡単化できる。作図することで記憶にもよく定着する、というもの。
確かに、曖昧だった関西地方の地理や、アジアの国々の配置が数分で記憶できた。読むだけでは弱いが、実際に作図してみると、ほとんどの人はできるようになるのではないか。歴史を勉強したい人や、地域を回る営業マン、国際関係の教養強化(場所を知っているだけでもだいぶ違う)に役立つ。2,3個覚えれば本代の元はとれるだろう。
この記憶法あまりに単純なので、やり方を解説する本文は全体の1割もない。残りのページは日本や世界のさまざまな作図練習問題である。最後にわかりやすい地図の書き方指導もついている。
著者はさまざまな記憶法を開発しているらしい。サイトもあった。
・つがわ式 世界一速い英文記憶法
http://blog.livedoor.jp/tsugawashiki/
私は方向音痴で地図を読むのが苦手だったので、この本は良かった。
ところで地図記憶で驚かされるのはこどもの柔軟な記憶力である。我が家の息子(2歳)は、毎日地図パズルで遊んでいる。日本地図を卒業し、最近では世界地図に熱心である。彼はプラスチック製で、地域別に色分けされた、くもんの地図パズルシリーズが大好き。
まだ世界地図はピース数が多いので、完成させるには親が呼び出される。年中、つきあわされるおかげで私もだいぶ覚えてきた。だが、こどもの記憶力はうらやましい。おとなの私の場合は、最初に大きなピースや縁のピースを置いて、残りを埋めていく戦略をとる。
だが、こどもは違った。アフリカの小国や、東欧の似たような国のピースを、最初におくことができるのである。国名は全部はじめてなわけだから、一般になじみのある、ない、は関係ない。アンゴラだろうがリトアニアだろうが、いきなりピースの形状と場所を覚えてしまうらしい。
世界地図では、アジア、北アメリカ、南アメリカ、オセアニアは、彼ひとりで完成できるようになった。いまはヨーロッパ8割、アフリカ7割くらい覚えているようで、全部単独完成も近そうだ。
実は、彼を手伝う親の私は完成版の印刷物をカンニングしている。このままいくと、こどもに地理感覚で確実に抜かれてしまうので、地図記憶法の本など読んでいるわけである。
2006年05月18日
企業倫理とは何か 石田梅岩に学ぶCSRの精神
続出する企業の不祥事の中で、CSR=企業の社会的責任やコンプライアンス=法令順守という言葉が注目されている。
EUホワイトペーパーにおけるCSRの定義は以下の通り。
「
持続可能なビジネスの成功のためには、社会的責任ある行動が必要であるという認識を、企業が深め、事業活動やステーク・ホルダー(利害関係者)との相互関係に、社会、環境問題を自主的に取り入れる企業姿勢である。
」
ここで大切なのが自発性だと著者は述べている。企業の社会的責任は、法律で規制されているからだとか、守らないと企業イメージが悪くなって業績に響くから、などという受身の姿勢で果たす責任ではない。社会的責任を果たすために企業があると考えるべきなのだ。「ハンドブックを読んで気をつけましょう」という種類の問題ではなく、それはトップ経営者の自覚と倫理観にまでさかのぼるものであるはずだ。
この本は、江戸時代のアマチュア学者 石田梅岩の商人道の思想から、現代の企業経営の在り方を問い直す。石田梅岩とその門弟の著書を現代語訳して、著者が平易な解説をつけている。原文は問答形式だから考えながら読みやすい。
石田梅岩の教えは、倹約や誠実さが大切だとする。長い眼で見るとそうした企業が繁栄し、世の中全体が良くなるというもの。当時の商人に人気があったのは、企業は正しいやり方でどんどん儲けて社会にそれを還元していきなさいという利益の正当性をうたっていたからである。何のための金儲けかという問いに明確な答えを出し、上位階級の武士に対して、商人にプライドをもたせる道であった。
資本の論理と倫理のバランスをどうとるか。江戸時代に既に考え抜いた学者がいた。とてもシンプルでわかりやすい。会社は誰のものか、経営者はどうあるべきか、のそもそも論を根底から考えてみたい人におすすめ。
・会社は誰のものか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003567.html
・お金に「正しさ」はあるのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003807.html
2005年02月27日
ハーバードからの贈り物
味わい深い本。
ハーバード大学ビジネススクールでは、最終講義で教授が、これから世界に羽ばたく卒業生に向けて、特別な送る言葉を話す伝統があるそうだ。この本はその特別なメッセージだけを15人分、エッセイとして文章化し収録している。
・ビジネスの成功に必要なものはなにか?
・どういう生き方をすべきか?
・人生の岐路にたったときどう決断すべきか?
贈る言葉はどれも想いが込められていて感動的。
登山の遭難体験で知った本当に大切なものについて語る教授。貧しかったけれども誰よりも尊敬できる生き方をした自分の母親について語る教授。高い地位につくとはどういうことか戒めを語る教授。
企業会計の選択授業でハーバード1,2の人気を争うヘンリー・B・ライリング教授は、ビジネスで成功する能力として5つを挙げた。
1 失望から立ち直る能力
2 運に恵まれていることを知ること
3 リーダーシップの資質
4 公正さ
5 判断力
感動的なエピソードでなぜそれが必要なのかを語る。ぐっときた。
この本を読むと「初心」に戻らされる。背筋をピンと伸ばしたくなる。目頭が熱くなる話もある。
私はハーバードと関係ないわけだけれども、こうした贈り物をもらったことがある。高校を1年で中退したときのこと。一番私に良くしてくれた英語教師のF先生が退学した私に一枚の葉書を送ってくれた。
そこに書いてあったことば。
「人生我以外皆師也」
葉書を頂いたときには、意味がよく分からなかった。でも、齢を重ねるごとに先生は私のことを本当によくわかってくださっていたのだなと思うようになった。私のゴーイングマイウェイな性格に対して「オマエ、人の話をよく聞けよ」ということであり、退学した学生に対して「どんな環境でも学ぼうと思えば学べるぞ」という、見事に適切な、送る言葉だったのだと大人になってから気がついた。
昔話のように書いてしまったけれど、
今は人の話をよく聞けるようになったのか?
自問自答してみると、さあ、よく分からない。分からないけれど、高校生だった私には「尊敬する人」がいなかった。でも今は何人かいる。その違いは大きいと感じる。
偶然にも上述のヘンリー・B・ライリング教授は「賢者は経験から学ぶが、真の賢者は他人の経験から学ぶ」とも書いている。これからの人に贈る言葉の定番なのかもしれない。そして、この本には価値ある「他人の経験」のエッセンスが集約されている。
2005年01月18日
アメリカ 最強のエリート教育
■少数エリートの米国、まだまだ横並びの日本
日本経済新聞が発表した2004年3月期の日米上場企業報酬調査が紹介されていた。結果は「主要百社の従業員の平均給与は年間で八00万円、役員報酬はその4倍。米有力企業の経営トップの報酬は平均で九億円とされている」であるとのこと。だいたい日本の一般労働者と大企業社長の給与格差は20倍程度であるのに対して、アメリカでは200倍以上の格差になるという。
米国でのこの大きな収入格差は人生の早い時期にだいたい決まってしまうという。
それには、
・名門の家柄出身である
・私立のプレップスクールに通う
・アイビーリーグなど一流大学を卒業する
・トップクラスの専門職大学院を卒業する
といったことが強い条件となる。
米国というと自由競争、能力主義の国という印象が強いが、エリート中のエリートについては、実態は必ずしもそうなっていないようだ。年間2万ドル、3万ドルの私立校の学費を支払える家庭から、生え抜きのエリートが登場している。
アメリカの公立中学、高校は学区制であるが、教育レベルの差は地域によって歴然とした差があるらしい。これは学校運営の財源が学校区の固定資産税でまかなわれるためで、裕福層の住む学区は財源が豊かで質の高い教育が提供される。これに対して低所得者層の多い地域では日常的にドラッグや学校内犯罪が蔓延しているとのこと。
頂点と底辺の格差が早い段階で決まってしまうため、一部の極めて優秀な例外を除いて、ふたつのグループが競うことはない。これに対して日本では、特に高度成長期には大学を出ていると大抵は課長に昇進できだし、50代くらいまでは誰が部長や役員になるかが完全には分からず、出世競争が長く続くということが指摘される。
米国人のいう平等は「機会平等」でチャンスは誰にでもあることを意味するが、日本人にとっては「結果平等」であるという違いがある。だが、結果の格差の大きさを見ると、米国の機会平等はかなり過酷なものであることがうかがえる。
■アイビーリーグ、ザ・テン・スクールズ、専門職大学院
「アイビーリーグ」という言葉はよく聞くが具体的には以下の8大学を指している。この本には私立の名門高校「ザ・テン・スクールズ」もリストが掲載されていた。
アイビーリーグ
・ハーバード大学
・イエール大学
・ペンシルバニア大学
・コロンビア大学
・プリンストン大学
・ブラウン大学
・ダートマス大学
・コーネル大学
ザ・テン・スクールズ(7,8割は寄宿舎生活)
・チョート・ローズマリー・ホール
・ディアフィールド・アカデミー
・ヒル・スクール
・ホッチキス・スクール
・ローレンスビル・スクール
・ルーミス・シャフィー・スクール
・フィリップ・アンドーバー・アカデミー
・フィリップス・エグゼクター・アカデミー
・セント・ポールズ・スクール
・タフト・スクール
これにビジネススクール、ロースクール、メディカルスクールの専門職大学院のトップクラス数校が、エリート養成装置として機能しているという。
この超エリート層には、自分たちが社会の各分野をリードしなければならないという責任感と、ノーブレスオブリージュ(高い地位や身分に伴う義務を果たす意識)という価値観を持ち、決して威張らず謙虚に振る舞い、社会に貢献する活動に情熱的に取り組む人たちも多いという。
この本で著者はエリート層との華麗なつきあいを次々にと披露して実体験に基づく話をたくさん提示している。関係があるが故に、米国の最強エリート層は抜群に頭がよくて、人柄も優れている、非の打ち所がないと、美化しすぎな部分を感じるが、日米の寄付金の比較や、トップ大学のノーベル賞受賞者の在籍率などを見ると、確かにそうした面はあるのかもしれないと思った。日本のエリートというのは高い地位を約束した社会に対して、責任を果たしていない。
ただ、日本の場合、米国のような本物のエリートが誰なのか分かりにくいという面がありそうだ。名門高校と東京大学くらいは、ああ、エリートだなと分かるわけだが、決定打ではないし、米国ほどのバリエーションもない気がする。また、日本の場合、エリートは官僚や大企業の幹部候補になるわけだが、トップに到達するまでにはかなり長い時間がかかる。組織の頂点として目立つ期間が短いせいか、あまり目立っていないイメージだ。
この本は米国のエリートが受けている教育について、ちょっとミーハー視点で総括する。著者の思い入れが偏っているような気もするが、情報としては結構、面白い本だ。米国人が自己紹介したときに、ちゃんと反応してあげるべき?キーワードが参考になった。
2004年09月07日
潰れる大学、潰れない大学
2002年の出版なので最新の状況はないが、現在の大学改革の動きを整理するのに役立つ本。考えたことを、メモ的に書いて書評。
「
18歳人口は1992年度の250万人をピークに減少をたどり、2001年度は約150万人。2009年度には志願者数と入学者数がともに約70万人となり、数字上は全員が入学できる「全入時代」がくるとされる
」
■新規の大学設立
先月、神戸に行った際に、神戸電子専門学校の教員の方と一晩語ることができた。神戸電子は地元密着の専門学校なのだそうだが、来年度に「オープンソースの大学を作るんですよ」と言われてびっくりする。ApacheやSendmailなどのオープンソース技術の運用と研究に特化した大学なのだそうだ。
・オープンソースの大学 神戸情報大学院大学
http://www.kobedenshi.ac.jp/kic/
規制緩和に伴う、新しい大学というとデジタルハリウッドの株式会社立の大学院と来年度開講予定の4年生大学や、法律学校のLECの大学院などが話題になっている。これに続いて、このオープンソース大学や、大前健一のビジネスブレークスルー大学の開校が申請されているようだ。
新司法試験・法科大学院・試験の合格を目指す:LEC法科大学院サイト
http://www.lec-jp.com/houka/index.shtml
基本は少子化と定員割れによる大学の統廃合が進む中で、こうした新しいタイプの大学が新設されようとしている。
■国立大学の独立行政法人化、TLOと特任教授制度
2004年、国立大学は独立行政法人化された。従来の上から降りてくる予算だけでは大学が経営できなくなった。国立大の代表格、東大の改革というと、CASTIと特任教授制が有名である。
・株式会社東京大学TLO [CASTI]
http://www.casti.co.jp/
CASTIは東京大学の研究を一般企業に移転する、いわゆる産学連携推進のためのTLO機関。大学の研究を特許化し、一般企業へ実用化の提案を行うこと中心に産学連携を推進する。特許をベースにベンチャー企業を設立する。
・米国における産学連携の変遷について
http://www3.jetro.go.jp/ma/tigergate/info/techinfo/pdf/456/456_2.pdf
・「平成15年度大学発ベンチャーに関する基礎調査」結果について−報道発表−経済産業省
http://www.meti.go.jp/kohosys/press/0005172/
・東京大学 先端研 特任教授制度
Our Project and Tokunin Member (in Japanese)
http://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/projects/tokunin_member.html
民間からも就任者の多い特任教授の任期は4年間。将来の待遇は保証されない。研究費は自力で獲得。成功すれば多額の報酬を得られる。
■私大の改革、東の慶応のIT、西の立命館の国際化
私大の世界では、ITに特化した慶応大学藤沢キャンパス(SFC)の取り組みは有名である。これに対して、関西では立命館大学が大分県別府に開校したアジア太平洋大学(APU)が注目されている。この本では二つの取り組みについての当事者への取材が詳しい。
・デジタルキャンパスに見る近未来のコミュニケーション - CNET Japan
http://japan.cnet.com/column/tm/
慶応大学SFCの日常を学生が特派員的に伝える。
立命館は国際化をキーワードにした。全世界の人口比に近くなるように、世界の各国から留学生をスカウトしている。キャンパスは小さな地球になる。
・立命館アジア太平洋大学(APU)
http://www1.apu.ac.jp/apu_jp/home.nsf
・国・地域別学生数(2004年5月1日付)
http://www1.apu.ac.jp/apu_jp/home.nsf
最新の学生の国・地域別出身統計。
■○○卒の価値を高める、皆が認める学歴主義
このテーマはそれほど詳しくないのだが、直感的に、大学改革はこれからが面白そうだと思った。時代錯誤の矛盾が多いからだ。
そもそも従来の近代の大学と産業界の関係には無理があったのだと思う。「大学で専門教育を受けてその知識を将来の仕事で活かす。」がタテマエだと思うが、学生時代はバリバリ研究して論文を書くのが良いという、研究者の道を歩かせながら、いざ就職すると、一部の研究職を除いて、学校での知識が役立たなくなってしまう。卒業後の世界では「アカデミック」は必ずしも良い意味で使われない言葉になってしまう。
この際、一般教養は高校までで終わりにして、大学の学部からは将来のキャリア別に
・ビジネスマン育成の大学
・技術者育成の大学
・一流研究者の育成の大学
など、学部から、専門特化してしまうのが良いと思う。大きな方向性としては現在の大学改革もこの方向性のようだ。
大学単位、学部単位で強いカラーが生まれるのは良いことのような気がしている。これまでは○○大学出身といっても、それで何ができるのか、よく分からなかった。「学歴不問」は良いことだけれども、それじゃあ大学の存在価値と4年間の時間は何なの?という気がする。
奨学金や社会人入試の拡大で、誰でも入れるけれど、よほど勉強して実力をつけなければ出られない大学。知識を持っているっていうのはすごいことなんだなと思わせる人材を輩出する大学。そんな大学ばかりであれば、良い意味での学歴主義があってもいいと考える。
関連:
「大学のイメージ」に関する調査【東京私立大学編/関西私立大学編】
http://www.mdb-net.com/w_report/report08.htmlあの大学のイメージは?
・大学における教育内容等の改革状況について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/16/03/04032301.htm
2004年08月29日
早期教育と脳
■三歳児神話と臨界期に大きな疑問符
著者は東京女子医大教授、日本赤ちゃん学会事務局長。
早期教育の市場は2002年度で推計1500億円。少子化の影響で親の教育熱が高まっている。特に親の関心は、「育児」から「育脳」へ移ってきている。適切な早い時期に適切な刺激をいっぱい与えて、ハイスペックな脳をつくることがよしとされる。
こうした早期教育の背景には、ある時期を過ぎると、脳が柔軟さを失い、ある種の行動の学習が不可能になる、という「臨界期」の理論がある。絶対音感や英語のLとRの区別など、視覚、聴覚の一部の機能においてはその現象が確認されている。動物実験でも、早期教育をしたマウスが高い能力を発揮した実験もある。こうした断片的なデータが、「3歳までに教えないと手遅れになる」という神話を広めてしまった。
だが、人間が社会で生きていく上で大切な、より高度な能力の学習については、科学的にはほとんど解明されていないのだ、と著者は述べている。そのあやふやな根拠の上で行われている早期教育や親の焦りに対して警鐘を鳴らす。
■テレビを長時間見せるのは
2004年、日本小児科学会は「乳幼児のテレビ・ビデオの長時間視聴は危険です」とする提言を発表した。言葉や表情の乏しい子ともに、長時間のテレビ・ビデオ視聴例が多かったことが、背景にあるそうだ。実際に、テレビやビデオの長時間視聴は言葉の発達を遅らせているという調査も出ている。育児コミュニティでもしばしば、話題になる。信じている人が多い提言である。
だが、著者はこれらの調査の手法に異論を唱える。発語の時期とその後の言語能力の発達に関係が薄いことを指摘したり、テレビを見せた結果、言葉が遅くなるわけではないという。喋る能力はその時がくれば自然に出てくるものであって、早い時期に出ればいいものではないとして、テレビ危険論の論拠を批判している。
長時間のテレビ視聴の問題は、テレビの内容ではなくて、視聴行動の結果として、
・周囲との双方向のやりとり
・物に触る感覚
・自ら積極的に物を見る
といった機会が奪われることに原因があるとする。テレビ、ビデオそのものが問題ではないということになる。見せ方が問題なのだ。だとすれば単純にテレビを禁止する提言は意味がない。
「1日に6時間も7時間もテレビを見せる家庭の背景にあるもの」こそ、こどもに影響を与えている要因であるという。そして、テレビを長時間つけるメリットは、面倒をみなくて済む、親のほうにこそあるのではないかと指摘する。
■早期教育を科学することの難しさ
この本は要約すると、早期教育で天才ができるということは証明されていない。脳科学もまだ原始的な段階で何も確たることはいえない。科学を装った提言に惑わされる必要はないし、親の焦りにつけこむような、育脳の教材や塾に高いお金を払うのはどうかと思いますよ、ということが伝えたいメッセージであるらしい。
もちろん、心理学的には、
何かが人より早くできると褒められて嬉しくなりさらにできるようになる。
ということは言えるだろう(ピグマリオン効果など)。自分の体験から、早期教育を進める親もいるのかもしれない。早いうちに教えないと手遅れになるのじゃないかという漠然とした不安は当然ある。
早期教育を科学する難しさは、
・時間は巻き戻せない。やり直せない。一回しかできない。
・無闇に実験できない(が、故に参考になるかどうか不明な動物実験を参考値にしてしまう)
・過去のデータとは環境が違ってしまっている。
・こどもの意見が聞けない
といったことが、絡み合って、こんがらがってしまっているようだ。この本はそういった現状を正直に専門家が話してくれる面白い本だった。後半では障害児研究での経験を、育児一般に普遍化して学べるのではないかという話が展開される。どんな風にこどもを育てたいのか、という社会のあり方から、私たちは見直すべきなのではないかという意見。
■ハンデのある楽しいスロースターター人生
私の息子もやっと1歳1ヶ月になった。まだ二足歩行はできない代わりに、高速なホフク前進をマスターしてしまい、「待て待てー」と追いかけるとゴキブリのようにシャカシャカと移動している。この完璧な高速ホフク前進ができてしまうと歩くのは遅くなるらしい。私自身や兄弟は1歳になる前に歩いていたらしい。1歳と3歳になる姪たちも早くから歩いている。いつうちの子は歩くようになるんだろうなあと思う今日この頃。
最初に話した有意語は「あった(在った)」だった。何か知っているものを見つけると「あった、あった」と嬉しそうに言う。「赤い」も覚えた。ベビーカーで移動中には、見るものを指差して意味不明の「らりらりらりー」などと喋っている。ことばの発達も、時期的には遅い方かもしれない。が、動詞や形容詞を先に覚えるなんて、すごいぞ、と思ったりする。
歩くとか話すとかの時期に一喜一憂してしまうわけだけれども、この本によると、話し始めた時期とその後の言語能力に関係はないらしい。むしろ、言葉の遅いこどもの中には、ある時期から高度な言語能力を獲得する例もあるそうだ。ちょっとほっとする。
息子には先天性の障害がひとつ見つかった。彼は目が悪く、年内には手術をすることになりそうだが、たぶん、その後も平均以下の視力になるだろう。ついてないなあと思う反面、これは彼にとってチャンスなのかもと思った。私も内容はまるで違うのだが、子供のころから持病があって育った。直る病気ではないので、現在も抱えている。だけれども、ハンデはあって良かったかもと今は思える。
勉強も体育も小中高と出来が悪かった。水泳とマラソンは見学、学科も1だらけの通知表の学期もあった。それでも劣等感を持たなかったのは「私は特別だから」「人より5年、10年は遅くなってもしょうがない」と思っていたから、平気だった。マイペースでゆっくりが幸運を引き寄せたのか、大検、大学受験は成功して、一次志望へちゃっかり受かってしまった。自慢になるけれど、当時(多分今でも)私大では最難関だった、はず。受験に悩まずに済んで、なんてラッキーな私の人生。
ハンデがあると「人より遅くてもいいのだ」と思えるから気が楽だ。周りができることができなくても、私の努力不足や能力不足ではないことになるからだ。無理をせず、健康に気を使うようになる。2年前の人間ドックでも、一緒に診断を受けた社内で、唯一オールAの「完璧です、この状態を続けてください」評価をもらってきた。
だから、息子にも「あなたは目が悪いから特別コースを歩ける特権者」なんだと教えてやろうと思っている。たぶん、教室でも一番前に座る配慮を受けられる。黒板の問題が解けなくても「よく見えないから」を理由にできる。そういう風に、障害は逆手にとってちゃっかり生きられるように教えるのが親の役割になるんだろうなあと思う。
もちろん、これは軽度の障害のケースの気楽な話なのかもしれないが、基本はそう考えている。早期教育も親としては実はかなり気になるのだけれど、悲劇の天才より、ツイテる楽天家の方がずっといいからなあと思う。
そういえば日本には大器晩成というスロースターターモデルがあることだし!
2004年07月09日
学者の値打ち
広い定義で日本の学者人口を見積もると少なくとも50万人で、隠れた学者を含めれば100万人いるかもしれないという。高度知識社会になった現代において、学者は大衆化し、身近な存在になった。ビジネスやジャーナリズムの世界から、学者に転ずる人も増えてきた。これだけ多様な出自と能力を持つ学者が多くなった現在、博士だから、教授だからというだけでは、私たちにとっての価値を見極めることは難しい。
これは哲学者で大学教授の著者が、一般人向けに学者の値踏みをする方法論を書いた、ある種嫌らしいがタメになる本。なお、この本では、人文科学系の学者のみを対象としており、自然科学系の学者は対象から除外されている。
著者は古今東西の学者の実力を実名で挙げて、以下の5項目、AA、A,B,Cの4段階で評価する。著書や論文を書いているだけ、授業を教えているだけ、政治がうまいだけでは一流ではないという多面的な評価方法だ。
研究者
教育者
人格
業績
学者総合
著者により「学者総合」が最高評価のAAが与えられた学者を挙げてみる。著者の価値観がこのリストから見えてくるかもしれない。
カント、ケインズ、シュンペーター、レヴィ・ストロース、柳田国男、三宅雪嶺、高橋亀吉、宮崎市定、中村幸彦、小西甚一、渡部昇一、谷沢永一。
学者の世界は、いまだ古臭い親分子分の人間関係(著者の言葉ではヤクザの組織と同じ)と、学閥に支配されていると著者は述べている。
文学や哲学の世界では特にその傾向は強いのかもしれない。論文が学会査読を通過するには、先輩の学者コミュニティにその内容が高く評価される必要があるが、人文科学の論文は、数字や事実による客観評価は難しい。自然と先輩学者の立場を支持する弟子、お気に入りに多くの票が集まってしまうとしてもおかしくない。
専門家コミュニティによる査定と人事制度自体が必ずしも悪ではないだろうと思う。前人の研究をよく調べ、それらを乗り越える新しい意見を言うことが学者の仕事であるから、先輩学者たちがその成否を判断するというのは、合理的な考え方だ。暗黙知の効率的共有の場として、長期的な師弟関係を作ることも、それ自体が悪いわけでもないはずだ。そもそも似たようなことは企業組織にだって、ある。多少の玉にキズを無視して上へ引き上げるような、長い目で人を育てる人事は、人間のコミュニティなのだから、適度にあるのが知恵だろう。
制度が腐敗するのは、制度に内在する要素ではなくて、学者の世界が閉じた世界であることに起因していると思う。外部からの学者への参入はあっても、逆は少ない。学者は学者の道を進まざるを得ない。有限のポストをめぐり内部の競争は激しくなるが、もっと広い世界や市場との交流、競争が起きない。お家争いや社内派閥抗争に陥った企業が競争力を失い淘汰されてしまうように、人間関係と学閥が異常に重視されるようになれば、その学者コミュニティはやがて衰退してしまう。
先端科学では、今、学際領域、産学連携といった外部との接点が注目されている。まだ周辺であるこうした領域が、活性化することで、コミュニティは外に開かれていく。著者がやっているような学者の多面的評価が、もっと一般的な評価方法となるのではないか、と予感する。無論、ビジネスになる、お金になる、だけが、新しい評価軸になっても困る。古き良き伝統を残しつつ、閉じつつ開かれる世界(水島助教授の最新刊のタイトル、読書中)ということが、学術コミュニティのキーワードでもあるなあと思った。
2004年01月17日
赤ちゃん学を知っていますか?―ここまできた新常識
2002年1月から12月まで産経新聞朝刊に連載された記事の単行本化。脳科学、認知心理学、霊長類学、教育学など多彩な分野の研究者を、新聞記者が取材して書いた赤ちゃん学の最新事情。日本赤ちゃん学会推薦の書。
・日本赤ちゃん学会
http://www.crn.or.jp/LABO/BABY/
この学会は2001年に設立された新しい団体で、学際的に赤ちゃん研究に取り組んでいる。学会誌投稿論文が読める。
我が家には5ヶ月の息子がいるので、妻から子育ての本を読むよう薦められる。マニュアル本、カリスマ子育て論、トレンド本などを目の前の床に積み上げられてしまう。一応手に取るのだが、なぜか読む気がしない。大抵は写真入で、何ヶ月の子にはこうしましょうとノウハウや体験記が丁寧に並べられている。でも、どうも興味が続かない。目の前に実物がいるのだから自然に接すればいいではないか。
「この本なら数字とか実験とか書いてあるよ」とそんな調子の私を見て、妻から戦略的に渡されたのがこの本だった。いや、別に私は数字や実験が好きなわけじゃないけど、ちょっと読んでみようか、パラパラ、そうそう、こういうのが読みたいのですよ、陥落。簡単に読破。
■笑う赤ちゃん
新生児微笑。産まれたばかりの赤ん坊が眠っている間に微笑する現象。この微笑は一部のサルにも起こるらしいが、本能的なもので、感情の表出というわけではないらしい。この微笑は母親の注意を惹き世話をさせる効果がある。自然の生き残り戦略の上で、遺伝子に組み込まれた仕組みなのだろう。
そして3ヶ月を過ぎると、目を見て笑うようになる。昔、「イヌに遊んでもらう本」というのを読んだことがある。イヌは、基本的にはみつめあってはいけないらしい。イヌ社会では目と目を長く合わせるのはケンカを売るような行為なのだそうだ。(だから、知らないイヌに真正面から目を見て近づいてはいけない)。他の動物もほとんどそうらしい。そして、この本によると、人間と一部のサルは愛情を持ってみつめあう珍しい例だそうだ。微笑みかけると微笑み返す。
ウチの息子も目を見てこちらが笑うと笑うようになった。興味深いのは、息子の機嫌が悪いとき、あやそうとして笑いながら目をみつめると、なんと、首を曲げて目をそらすのだ。何度続けてもそらす。意図的にやっているのは間違いない。彼としては喉が渇いたとか暑いとか暇だとか、問題が解決されるまでは、笑いたくないのだろう。パワープレイ的なコミュニケーション戦術は、生後5ヶ月で既に始まっているのかと感心した。
■赤ちゃん言葉の科学
この本に「日本人の母親が使う赤ちゃん言葉を調査したところ、言葉の途中に「ん」「っ」「−」を含む、三拍または四拍の言葉(例:ねんね、くっく、ぶーぶ、わんわん)が多いことが分かった。」と書かれている。そして多数の実験の結果、赤ちゃんはこれらの言葉に強く反応することが分かった。
私の息子も同じである。他のやり方では、そう簡単に笑わないのだが、「にらめっこしましょ、あっぷっぷ」と「わらいまーしょ、わっはっは」は、90%以上の確率で笑ってくれる。明らかにタイミングも「あっぷっぷ」と「わっはっは」の部分で笑う。まさに実験の通りである。
誰しも赤ん坊に話しかけるときには、声が高くなる。ゆっくり抑揚を大きくする。この言葉遣いは、別の本によると、マザーリースと呼ばれて世界共通の言語現象だそうだ。マザーリースを使うことで、赤ん坊の耳に最も聞こえやすい周波数で、聞こえやすく好ましい声の波形になる。結果としてコミュニケーションが活性化し親は子育てに熱心になる。親子のインタラクションにはまだまだ科学的分析の余地がありそうだ。
赤ちゃんの言葉と言えば、半信半疑のこんな製品もある。買おうかな。
・赤ちゃんの声分析器ホワイクライ
http://www.yasashisa.jp/goods/whycry/index.html
イヌの鳴き声をマイクで音声分析し感情を液晶に表示するバウリンガルというヒット商品があったけれど、その人間版。「。「ホワイクライ」は、赤ちゃんとのコミュニケーションを強力にサポートします。泣き声(欲求サイン)を分析し、空腹・退屈・不快・眠気・ストレスの5パターンに分類します。」
■赤ん坊の姿が可愛いのは
昔読んだ本に米国の心理学者ヘスによる瞳孔の条件反射作用についての研究成果が書かれていた。人間の瞳孔は関心を持った対象をみるときに拡大する。実験では、何枚かの写真を被験者に提示し瞳孔サイズの変化を記録した。すると、男性被験者は女性ヌードの写真に、女性被験者は男性ヌードの写真に、瞳孔を拡大することが判明したという。だから、肌の露出の高い女性の写真は男性向け商品広告に使うと認知度が高くなるという結論になり、マーケティング業界の有名な薀蓄話になっている。
だが、ヌードの影で忘れられがちだが、この実験で、もうひとつ、瞳孔を拡大した写真があった。赤ちゃん、そして赤ちゃんを抱いた女性の写真である。別の学者の認知心理学の実験では、三頭身で手足の大きな比率の赤ちゃんのような形状は、他の形状と比較して、好ましく認知されるというデータも出ている。
新生児の無意識の微笑、赤ちゃん言葉を使う親と聞き取る子どもの能力、赤ん坊の姿とそれを好ましく思う親の認知特性。どれも親子のコミュニケーションを活性化し、好ましい感情を発生させる仕掛けになっている。親に奉仕させ子どもの生存率を高めることに貢献する。これは人類の遺伝子レベルに織り込まれた愛情発生の秘密なのかもしれない。
さあ、被験者も起きてきたし、そろそろベイビーサインによる非言語コミュニケーション実験でもはじめますか?今日はユニバーサル方式にする?それとも日本手話式にする?
2003年10月15日
エブリデイ・ジーニアス 「天才」を生み出す新しい学習法
プライベートなことを話すと、私には生後2ヶ月の息子がいる。第一子であり、今は寝返りの練習中である。だからというわけではないのだが(だからなのかもしれないが)、こんな天才育成本を読んだ。
天才児には以下のような統計があるらしい。
1 天才児の大半は男子である
2 天才児は中産階級の家庭の第一子であることが多い
3 天才児の親は、出産平均年齢よりも高齢で子をもうける傾向がある
4 天才児は、帝王切開で生まれる率が高い
5 天才児の親は、驚異的な才能を持つ子どもを通じて自分自身の野心を実現しようとする率が高い
それぞれ意味があるのだが、結論は天才は生得的なものと思われているが近年の研究によって、環境が大きな役割を果たすことが分かってきたのだという。子どもに限らず成人も含めて、学習を楽しませ、潜在意識に働きかけるような「アクティビティ」を実践することで潜在能力を驚異的なまでに引き出すことができる、というのが著者の論旨。
【バースデーサークル】
人の輪の中に、祝いたい人物を入れて、その人物の良いところを、心から褒めちぎるアクティビティ
【ノー不平デー】
家族の会話において一切不平不満を言わないというルールで過ごす
後半には、上記のような多数の実践アクティビティのノウハウが紹介されている。音楽やマインドマップを使った学習などもあった。どのアクティビティもポジティブ指向のルールの中で、自然に子どものアイデアを引き出そうとする試みだ。この本は主に子どもの教育が主眼だが、クリエイティブな会社でも同様のことが行われているなと思う。
創造性の高い組織はパーティーや個人表彰が上手だし、新人歓迎やプロジェクトの打ち上げにも工夫が見られ、楽しげな風土が形成されていることが多い。先日紹介したIDEOの本にもそうした記述が多くあるし、私が訪問した多くの急成長したシリコンバレー企業にもそういった習慣(ゲームや儀式)を良く見た。ボールを持っている人がアイデアを話したり、プログラムのコードを短縮したことを誇るグラフを壁一面に張り出したり。
(実際、著者のピータークラインはこの手法を組織に実践した別の本「こうすれば組織は変えられる!―「学習する組織」をつくる10ステップ・トレーニング」も書いている)。組織風土を定着させるツールとして、この本のアクティビティはどれも検討の余地がありそうだ。
日本では、子どもの教育と言うと「百ます計算」の陰山先生が有名であるが、その内容は、低学力の克服、ボトムアップ指向のツール論中心でピンとこない。日本には、天才を意図的に作り出そうとする教育実践の専門家はいないのであろうか?
天才と言えば、知人が最近、経済産業省の外郭団体である情報処理振興事業協会から「天才プログラマ」の認定を受けた。彼の研究も面白いのでBlogに書こう、書こうと思いつつ説明が面倒でまだ書いていなかった。ある意味国家認定の天才だから、今度会ったら、このテーマについて意見を聞いてこようと思う。
・陰山学級物語
http://www2.nkansai.ne.jp/sch/hpkage/
・8名の天才プログラマー/スーパークリエータを発掘
〜平成14年度『未踏ソフトウェア創造事業』開発者の評価〜
http://www.ipa.go.jp/ipa/press/15FY/20030926.html
評価:★☆☆☆☆