2008年04月07日

愛の空間

・愛の空間
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大変面白い。日本独特の文化である「性行為専用空間」の歴史学。井上章一が10年がかりで書いた傑作。好事家もここまで極めると新学問の開祖といってもよさそう。

敗戦後の時期、皇居前広場は男女の屋外セックスの盛り場だったという衝撃の事実の解説から第一章が始まる。旅館やホテルが空襲で焼かれて性行為の屋内空間の確保が難しく、庶民にもお金がなかったために、当時の若い男女は夜になると皇居前広場で抱き合っていた。朝日新聞には「いっそ都がアベック専用の公園をつくって入場料をとれば、皇居前なども荒らされず、アベックも気がねなくてよかろう。」などという意見が記事になったそうである。

「待合」「蕎麦屋の二階」「円宿」「ラブホテル」など明治から現代までの性行為専用空間の変遷を、メディアの記録や文学の記述を丹念に追うことで検証していく。野山での開放的な交接スタイルから、閉じられた空間での愛の交歓へと移行していく。プロの売春婦たちと客の愛の空間と、素人の男女の愛の空間が互いに影響を及ぼし合いながら、途中に「家族風呂」「鏡張り」「SMルーム」「電動回転ベッド」のような隠微な技術や文化を発達させてきた。

そして西洋のお城風のゴージャスな外観やメルヘン調のラブホテルが登場する。メディアは盛んに新しいホテルの意匠を取りあげた。一方でシティホテルも男女が愛をかわす場として利用されるようになる。戦後の経済発展に伴い、日本人の性愛空間はどんどん進化していった。「性行為専用の空間をもち独特の趣向をこらすのは、日本のみに見られる現象である。われわれが屋内を好み、その意匠にこだわるのはなぜだろうか」。

答えを出すのは簡単ではない。遊郭以来のプロの娼婦たち、素人の男女、メディア、空間を提供する経営者たち、警察といった人々の相互作用を通史的にひも解いて、作者は「場所にこだわった性愛の歴史」を提示してみせる。実に濃厚濃密な内容。

・性の用語集
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004793.html

・みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005182.html

・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html

・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html

・性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004747.html

・武士道とエロス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004599.html

・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html

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2008年03月11日

日本人と日本文化

・日本人と日本文化
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司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談。古典的名著。

キーンの日本文化についての知識の幅広さと深さに驚かされる。議論の中で何度も司馬遼太郎が防戦側に回っているように感じた。8本の対談が収録されている。議論はだいたい日本らしさ、日本人らしさとは何か、ということに収斂する。キーンに言わせると歴史的にみて「日本人はいつも何が日本的であるかということについて心配する」民族であったらしい。

原理というものに鈍感な日本人は、仏教と神道と儒教をごちゃまぜにして平気である。「日本の歴史を眺めておりますと、あらゆる面に外国文化に対する愛と憎、受容と抵抗の関係があるように思われます。」とキーンは指摘する。最初は軽蔑したり嫌々ながらに外来を取り入れていくが、やがて不可分なほど融合する。日本の文化史というのは、確固たる日本文化があるわけではなくて、外来文化が入ってくる、そうしたせめぎあいそのものなのだ。

それでも日本人は日本文化の絶対価値をアプリオリに認めている民族である。そこが日本人のおもしろいところでもあると思う。地政学的な安心感が土台にあるのだろう。

「もう一つは、中国には日本人にできないようないろいろ素晴らしいものがあるけれども、日本にも中国にはないような立派なものがある、と考えていた。それは何かというと、日本人の独得の「まこと」、あるいは「まことのこころ」でした。中国人に「まこと」がないという証拠はあまりないのですけれども、ともかく、どうしても日本には中国にないものがあるということを信じたかったようです。」とキーン。

真心、誠、大和魂。日本人の精神の芯にはなにか特別で正統なものがあると仮定して疑わない。それが何なのか言葉で説明したり、論理で証明はできないが、とにかく信じているわけである。その上で外来文化を取り入れているから平気なのである。

司馬はこういう。「日本という国は外にたいしてあまり影響を与える国じゃない。つまり世界史における地理的環境というものがあって、日本はいろんなものが溜まっていく国だと思うのです。中国になくなったものが日本のなかに溜まっている。文化のなかにも、言語のなかにも、むろん建築のなかにも、正倉院にも溜まっている。それではそれが中国に押し出していくか、思想として中国思想に影響を与えるべく出て行くかというと、それはありえない国のようですね。」

日本的な美とは伊万里や柿右衛門ではなくて、志野や織部だという話。日本の大きな合戦はここぞというときに裏切り者が出て勝敗が決まってしまうという話。日本人は政治を女性的にとらえてしまうという話。日本に来て成功した外人と失敗した外人論。多彩なテーマで日本人と日本文化の本質がわかりやすく語られている。

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2008年03月04日

美学への招待

・美学への招待
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私たちはいつのまにか流行歌の歌手のことを「アーティスト」と呼ぶようになった。これを「芸術家」と訳したら違和感がある。アートと芸術は別物で、無意識にアート<藝術という前提があるのである。しかし、どこからがアートでどこからが芸術なのかと問われると戸惑う。

現代において芸術とは何かという難しい問いに著者は真正面から答えている。

「近代の藝術、というのは端的に藝術ということです。なぜなら、ほかの文化圏においては、また西洋でも近代以前には、「藝術」の概念は存在しなかったからです。今日われわれが藝術と見做している作品のレパートリーは広大なものですが、それは、西洋近代において成立した藝術の概念を、それ以前の時代に、また異文化の世界に適用したものです。たとえば、百済観音は仏像以外の何者でもありません。」

「ところが藝術とは、広大なartsの領域のなかからその一部分を取り出して、価値的に区別したものです。具体的に言えば、絵画は藝術だが、家具を作るのは職人仕事だ、ということになりますし、さらに細かく言えば、油絵は藝術ですが銭湯にある富士山のタイル画は職人仕事という具合に区別されます。その区別の標とされてきたのは、作品に込められた精神的意味の深みです。」

デザインや職人芸は、芸術というよりアートといったほうがおさまりがよい。ネイルアートサロンなどという言葉もあるが芸術とは関係がなさそうだ。「背後に精神的な次元を持ち、それを開示することを真の目的としている活動が藝術です。」という著者の結論が納得である。デザインや職人芸では作者は透明で匿名であることが本来の特性であるのだから。

この本の芸術論の中でやはり面白かったのはコピーとしての芸術という章である。現代の私たちは、生演奏のコンサートや演劇の舞台をたまに劇場で見るが、DVDやCDは自室やiPodでひとり鑑賞することのほうが圧倒的にが多い。芸術の鑑賞スタイルが大きく変わってきているのだ。

「ここに、複製による藝術体験の特徴を見ることができます。すなわち、複製の体験は個人化し、体験の様式は自閉的なものになります。それは藝術だけのことではなく、われわれの生活様式全般に広く見られる現象です。」

そしてコピーで知ったモナリザを追体験するためにリアルの美術館へ向かうのである。商品化されたコピーがオリジナル以上の影響力を持っている時代になった。自分の体験をみても確かにコピーで知って(たとえばネットで美術館を調べて)、オリジナルを追体験するという機会のほうが多くなってきたように思う。

自宅の大きなハイビジョンテレビで鑑賞する絵画のほうが、混雑する企画展で遠巻きに眺めるオリジナルよりも、深く味わえたりすることさえある。これから現代の芸術を大きく変えるのは、実は高精細なディスプレイの技術だったりするのではないだろうか。

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2008年02月09日

仏像のひみつ

・仏像のひみつ
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東京国立博物館の同名の展示が一冊の本になった。

「人間の社会には組織というのがあります。会社だったら、会長さん、社長さん、専務さん、部長さんから、ヒラ社員まで。博物館にも館長がいて、副館長がいて、部長がいて、その他いろいろ......。仏像の世界も同じです。いくつかの段階のグループがあって、種類があって、それぞれの役割があります。そして仏像はそれが見た人にすぐわかるように、それぞれが決まった髪型や服装をしています。」

ということで最初に示されたのがこのピラミッド。

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これがわかっただけで、これまで見てきた仏像の位置づけがかなりわかりやすくなった。もちろん如来、菩薩、明王、天とはなんなのかのやさしい説明がある。

「さとりをひらいた如来のからだには、いろいろな特徴がそなわることになりました。それは数えると三十二、あるんだそうです。」。具体的に如来の主な特徴が説明されている。

たとえば鎌倉の大仏を例にだすとすると、

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上の○で囲んだ部分はすごく特徴的である。普通の人間にはなくて仏像だけにある。ボコボコした頭は、長い髪が勝手にパンチパーマ状になったもの、だそうで、おでこのボコは白い毛がくるくるっとまるまったもの、なのだそうだ。(それってどういうことというと深い意味があるわけだが。)

このほかにも仏像の姿勢や小物などの説明がいっぱいある。仏像の手の結ぶ印で、仏像の伝えたいメッセージが識別できるというのは、一緒に博物館にいった誰かについつい語ってしまいそうだ。

先手観音には千本の手があるわけじゃなくて四十二本の手があるなんていうのも初めて知った。「一本の手が二十五の世界の人々を救うんだそうです。だから四十本の手があれば、四十かける二十五でせ、千の世界の人を救えるんだって。それに、もとからある日本の手をいっしょに数えて四十二本の手になるらしいのです」

博物館に行く前にざっと読んでおくと、観賞力倍増間違いなしの強力なガイドブックだ。

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2008年02月03日

読み替えられた日本神話

・読み替えられた日本神話
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日本書紀は神話のスタンダードとしてその成立以降、宮廷や祭祀の人々に読み継がれてきた。中世において、その読まれ方は、読み継ぐというより読み替えというほうが正しかった。彼らは自由奔放にオリジナルを翻案改作して、別バージョンの神話を積極的に作り上げるようになった。

「中世日本紀の世界。そこには『記』『紀』神話に伝わっていない。イザナギ・イザナミの両親から棄てられたヒルコのその後の運命、あるいは源平合戦のさなかに失われた三種の神器のひとつ、草薙の剣のその後の行方、あるいは伊勢神宮でアマテラスの食事担当の神だったトヨウケ大神が、天地開闢の始原神、アメノミナカヌシへと変貌していく様子、さらには第六天魔王とか牛頭天王といった、古代神話には登場しない異国の神々でさえも活躍していく。もはや仏教とか神道とかいった区別さえも通用しないような世界が繰り広げられていくのだ。」

従来、研究者は、こうした神話の亜種を価値の低いトンデモ偽書としてまともに調べてこなかった。だが、神話の読まれ方を通史で眺めると、古い神話にインスピレーションを得て、新しい神話の創造するという行為はずいぶんと盛んでひとつの文化といえるものだったと著者は高く評価している。

日本書紀が成立直後より、朝廷では定期的(平安以降は30年おき)に、日本書紀の購読・注釈の催しが行われてきた。日本紀講と呼ばれるこの神話の読書会が、やがて神話創造の現場となった。

「こうした日本紀講の現場は、同時に新しい神話テキストを生み出す「創造」とも繋がっていた。『日本書紀』を注釈し、講義していく日本紀講の場は、なんと『日本書紀』を超えるスーパーテキストを作り出してしまうのだ。」

もちろん、その創造行為の動機には政治的なものを見る意見もある。「たとえば中世のアマテラスの本地垂迹は、在地の信仰を仏菩薩の垂迹として位置づけ、その頂点に大日如来の垂迹たるアマテラスが君臨することで、武士をはじめとした中世の人々を中世王権が精神的に再編成することが可能となったという説がある。」。そもそも同時期に成立したはずの古事記と日本書紀の記述の違いは主に天皇の権力を正当化するための意図的な改造であった。

だが、神話を創作の素材に用いるのは、千と千尋の神隠しやもののけ姫のような、現代のアニメ作品だって同じである。みんなが知っている話だからこそ、その続編を作ったり、同時代的要素を盛り込んだ別バージョンを作ったりすることが楽しいわけである。そうした楽しさに中世の人々は浸りながら、自由奔放にもうひとつの神話を作り続けた。そのクリエイティビティを、偽物だからなかったことにするというのでは、あまりにもったいないではないか、見なおそうというのがこの本の執筆の動機。

日本神話は日本人に本当はどう読まれてきたのか、実は今でいうCGMのネタとして親しまれてきたのじゃないか?という新しい視点を与えてくれる興味深い研究だった。

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2008年01月13日

美の呪力

・美の呪力
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代表作「太陽の塔」を発表した大阪万博の開催直前の時期に、雑誌「芸術新潮」に連載された岡本太郎の芸術論。「私は幼い時から「赤」が好きだった。血を思わせる激しい赤が...」。「聖なるもの」、「石」、「血」、「怒り」、「挑戦」、「仮面」、「聖火」、「夜」という、一連のキーワードの関係を構築しながら、古い芸術観を解体していく。

岡本太郎というと「芸術は爆発だ」というフレーズが有名だが、彼がこの本で語っているのはまさに、なぜ芸術は爆発なのか、爆発とはなんなのか、の話である。爆発とは原初的な生命エネルギーが人間の内側からふきだすことであるが、無論ふきだすだけでは芸術表現ではない。

岡本太郎はピカソの「ゲルニカ」を例に出してこういう。「いずれにしてもピカソの作品はあくまでも激しいと同時に冷たく、微妙な計算の上で炸裂している。そこに同時に遊びがあるのだ。怒りながら、瞬間に自分を見返している。常に見返していなければ本当の芸術家ではない。自分を見失い、我を忘れた狂奔は怒りではない。芸術ではない。」

「私は言いたい。全体をもって爆発し、己を捨てることだ。捨てるということは一番自分をつかまえることなのである。ああオレは怒ってるな、と腹の底でこっそり笑いながら、真剣に憤っている。それが人間的なのである。表現の側から言えば、目をつりあげて怒りながら、同時にそれが笑いである。またその逆であるというような表現こそ、人生そのものの表情であり、芸術である。」

真髄はメタなのだ。冷めていながら、ぶち切れることを遊ぶのが芸術なわけだ。これまで何冊か読んだが、岡本太郎の芸術論は常に人間の精神や文化の豊饒賛歌になっている。何かに還元できるような、つくりものじゃないのである。

この連載は太陽の塔の制作と重なる。こんな記述もあった。

「70年万博のテーマ館のために、私は世界の神像・仮面・生活用具などを集める計画をたてた。進歩を競い、未来を目ざすつくりもの、見世物ばかりで何か全体が浮き上がってしまいそうな会場の気配に対して、ぐんと重い、人間文化の深みをつきつけたかったのだ。」

日本中が注目した進歩史観の祝祭に対して、それとは反対の、ドロドロした人間のエネルギーを演出してみせた。当時、そのコンセプトやイメージが万博に合わないという意見もあったらしいが、岡本太郎は、実は確信犯的に遊んでいたのだということがわかる。体制に慣らされては芸術はできない。体制と戦うことを真剣に遊ぶことが真の芸術なのだなあと、その生き方をみて思った。

・岡本太郎 神秘
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004986.html

・今日の芸術―時代を創造するものは誰か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005051.html

・岡本太郎の遊ぶ心
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005077.html

・岡本太郎の東北
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005167.html

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2008年01月09日

綺想迷画大全

・綺想迷画大全
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これは傑作。美術館めぐり10館分くらいの価値があった。

古今東西の絵の中から「ヴィジュアル的に面白いもの」を選りすぐってカラーで収録し、その時代背景や技法を解説する。美術的な価値や知名度だけで選ばず、視覚的な面白さに徹底的にこだわって、知る人ぞ知る名画迷画を多く発掘している。印刷も高精細で大きく美しい。ページをめくるたびに目が釘付けになった。見る快楽がたっぷり味わえる。

不思議な構図の絵、視覚的にどきっとする絵、信じられないくらい精密な絵、特異な技法で描かれた絵、不気味な想像の絵など、いろいろなヴィジュアル的面白さがあるのだが、共通するのはどの絵も圧倒的に美しいということ。フルカラーの絵にしばし見惚れてから、著者の博覧強記の解説文を読むのだが、絵のインパクトが大きすぎて解説が頭に入ってこないこともあった。

神々や悪魔、仙人や伝説の怪獣など想像上の世界を描いた絵にユニークな絵が多い。特にキリスト教の宗教画の悪魔は強烈である。「そもそも悪魔とは、絶対神に対立sする観念でありますから、絶対神をいただくキリスト教やイスラム教の文化圏においてこそ、その絵画的表現は多様化したといえるでしょう」と著者はその理由を考察する。たとえばミヒャエル・パッハーの聖ヴォルフガングと悪魔は、典型的な悪魔の絵だ。聖者を誘惑する悪魔の姿がリアルで、夢に出てきそうである。

・ミヒャエル・パッハー 聖ヴォルフガングと悪魔
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西洋画だけでなく、東洋の絵も多数紹介されている。定規で細かな直線を何万本も引いて建築物を描く中国の「界画」はこの本で初めて知った。美術というより設計図に近いらしいが、機会があったら実物をじっくり見て見たいと思った。

歴代の中国皇帝が保有していた名画は、絵の上にベタベタとたくさんの朱色のハンコがおされている。皇帝が鑑賞するたびに「乾隆御覧之宝」などと印を残したからだそうだ。これは画家にとっても名誉なことで作品の価値を高めたのだろうが、西洋美術では考えられない。「後世の人がいかに皇帝とはいえ、勝手に字を書いたりハンコを捺したりすることのできる文化とは、いったいなんであろうか」、東西には「作品空間という観念のちがいがあるように思われるのです」といった著者の考察がある。

日本の絵は少ないが伊藤若冲の南天雄鶏図が選ばれていて納得。


・怖い絵
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005184.html

・美について
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005145.html

・形の美とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005144.html

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2007年12月25日

あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅

・あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅
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「中国残留孤児だった父の半生を追う、奇跡と感動のドキュメント!

日中の国交が断絶していた1970年に、
文化大革命さなかの激動の中国から
奇跡の帰国を果たした28歳の日本人戦争孤児
――それが私の父だった。
二つの国の間で歴史に翻弄された父は、
いったいどんな時代を生き抜いてきたのか?

21歳の秋、旧満州に飛び込んで、10年がかりの長い旅の果てに、
戦争のもたらす残酷な運命と、語り継がれるべき「歴史」の真実を鮮やかに描き出す。
戦争の被害者である父と、加害者だとされる軍人だった祖父、
父を育てた中国の養母と、血のつながらない親戚たち……
いまを生きる私につながる“戦争”の物語とは? 反日と情愛の国のリアルとは?
そして「歴史」は複雑に絡み合い、ひとつの数奇な運命としてその姿を現わす」

今年最も感動したドキュメンタリであった。特に第一部の出来が素晴らしい。自分よりも年下の書き手が、第二次世界大戦をテーマに、こんな傑作を書けるなんてと驚かされた。
著者の城戸久枝は「1976年日本生まれ、日本育ちの」中国残留孤児2世。2世とはいっても「ただの日本人」である彼女は、自分のルーツ探しとして父親の中国での足跡をたどる旅に出た。戦争によって大陸に取り残され、中国人として生き、苦難の末に帰国した父親の物語。

「あの戦争」がぐいぐいっとひきつけられて、間近に生々しく語られる。歴史に対する遠近感が独特の作品である。それは父親の帰国は1970年だったこととが大きい。この家族にとってはそれまで戦争は続いていた。だから遠く離れた「あの戦争」も30数年前の一昔前のこととして語られるのである。だから、30代の著者は自身の人生と地続きの話として、父親の人生も情感たっぷりに語ることができたのだと思う。

映画にもなった漫画「夕凪の街 桜の国」と同様に、「戦争を知らない子供たち」である私たちの世代でも、戦争をテーマの傑作はまだまだ生まれる可能性があるのだなあ。

・夕凪の街 桜の国
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005073.html

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2007年12月19日

超教養

・超教養
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さとう珠緒の文章がおもしろすぎる。テレビで見ていると、この人案外頭がよさそうだよなあと思っていたのだが、こういうエッセイの文才があったとは驚いた。

Webダ・ヴィンチでの隔週連載をベースに単行本化したブリッコ書評本である。

・さとう珠緒のバカブックガイド
http://web-davinci.jp/contents/tamao/index.php

ブリッコというキャラは天然ではありえない。「思えば、私は小学生のときから計算に計算を重ねて生きてきました。そして長じて獲得したのは、芸能界でのブリッコポジション。もちろん、今後もブリッコ道を邁進していく所存です。」と冒頭で宣言がある。ブリッコは自分の見え方に対して敏感だ。だから、さとう玉緒は書評する本の書き手たちの自意識をも行間から見事に看破してバッサバッサと斬っていく。斬るといってもその手法は「ほめ殺し」だったり「受け流し」だったりする。

本の内容がつまらないとかくだらないとは書かずに、本の揚げ足をとって男女関係の話へ脱線していく。敢えて中身を語らないことで、逆に長々と語る価値がないということを語っている。これって結構な知識とセンス=教養がないとできない話芸で歩きがする。

なお、この本では、書評される本の内容はあまりわからない。おすすめ度合いもよくわからない。どれもあまり薦めていない気がする。本を選ぶためのブックガイドではなくて、読んだ後にさとう珠緒のセカンドオピニオンを聞いて楽しむのがおすすめの読み方である。私は大変面白かった。それとさとう珠緒が嫌いという人は間違っても買ってはいけない本でもある。

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2007年12月07日

岡本太郎の東北

・岡本太郎の東北
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岡本太郎の写真集「神秘」の、神がかったイタコの写真は、あまりにも衝撃的だった。何かが憑依したイタコの表情は、心霊写真より怖いというか、これこそ本物の心霊写真なのだと感動した。

・岡本太郎 神秘
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004986.html

「岡本太郎の東北」は東北の撮影部分に特化している内容。写真と共に撮影時の状況や岡本太郎の東北論が収録されている。岡本太郎は東北に残された呪的民俗に強い関心を持っていた。芸術と呪術は似ているというのだ。

「呪術は一定の儀礼をまもらなければ呪力が現出しない。だが芸術は約束ごとを破ってゆくことによって働くエネルギーである。しかしその働き方は、よく似ている。   呪術には矛盾がある。   効果、力があらわれるという前提がなければ成り立たない。少なくともそれが示現する、した、と人々に思われることがなければならぬ。しかし同時にそれが必ずあらわれるのでは、やはりいけないのである。カクすれば、必ずカクなる、というんだったら、それは実用的約束であって、呪術でもなんでもないからだ。   当たるも八卦、当たらぬも八卦、というといささかヒヤカシ気味の文句だが、これは意外にも、その本質を鮮やかについているのである。   芸術の場合も、まさに同じメカニズムがある。相手に何らかの形で認められるという要素がなければならない。それがなかったら、働きかける力をもたない。だが全面的に受け入れられ、好かれてしまったら、また呪力を失ってしまう。ともに芸術として無存在だ。」

人間の内面にある根源的な生命力を、世界へ発現させる方法として、呪術や芸術があるということらしい。その発現する瞬間を「芸術は爆発だ」と言っていたのだろう。

・今日の芸術―時代を創造するものは誰か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005051.html

・岡本太郎の遊ぶ心
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005077.html

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2007年12月03日

『針聞書』 虫の知らせ

・『針聞書』 虫の知らせ
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へんな本だ。

九州国立博物館所蔵の「針聞書」は、織田信長の時代の1568年10月11日に、現在の大阪在住の二介という人が書いた鍼術の秘伝書である。人間の体内にすむとされる、想像上の63種類の虫の絵とその説明が書かれている。

たとえば一匹目は肺積という白っぽくて辛い味と生臭いにおいを好む虫。最初は右のわき腹に発生して、やがて胸先を多い尽くして肺病を引き起こす。治療に当たっては、鍼はやわらかく浅く立てよという指示がある。

日本語には虫という語のつく表現が多い。蓼食う虫も好き好き、若い娘に悪い虫がついて、虫がいい話、虫の知らせ。悪い虫が起きて、腹の虫がおさまらない、虫が好かない、本の虫、仕事の虫などたくさんある。多くの表現の背景には、人間の体内に虫がいて宿主の心身に影響を及ぼしているという民間信仰がある。昔は排泄物に回虫が多く見られたから、体内の虫は身近でリアルな存在だったのである。

63種類の病魔の虫は、現代のウィルスや細菌に相当する存在である。今でも子供向けの説明には、虫歯菌や風邪のウィルスが擬人化されて登場するが、この古文書に登場する虫たちは馬や蛇のような形をしていたり、独特の性格を持っていたりと、味のあるキャラばかり。

・九州博物館のサイト
http://www.kyuhaku.com/pr/collection/collection_info01_02.html

上記のサイトで実物が公開されているが、ヘタウマ系のキャラクターとして愛嬌があるものが多い。博物館はプロモーションにこの虫たちを活用しているようだ。フィギュアまで制作されて販売されている。戦国時代の精神世界から登場したこのキャラクター、結構、流行るかもしれない?

・フィギュアの販売サイト
http://www.j-cast.com/feature/mushi/fig.html

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2007年11月29日

武士道

・武士道
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「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。」。新渡戸稲造が明治32年(1899年)に、滞在中のアメリカでこの本を書いたとき、実践としての武士道は既にとっくに過去のものであった。

「それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。」

日本では宗教なしでどうして道徳を教えるのですか?という外国人の問いに即答できなかった新渡戸は悔しくて、諸外国に日本人の精神的土壌を説明すべく、この本を書いた。結果として、ヨーロッパの騎士道やキリスト教やギリシア哲学における道徳との比較が頻繁に登場する。

たとえば、こんな風に。

「戦闘におけるフェア・プレイ!野蛮と小児らしさのこの原始的なるうちに、甚だ豊かなる道徳の萌芽が存している。これはあらゆる文武の徳の根本ではないか?」

「ブシドウは字義的には武士道、すなわち武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言にすれば「武士の掟」、すなわち武人階級の身分に伴う義務(ノーブレッス・オブリージュ)である。」

「武士道はアリストテレスおよび近世二、三の社会学者と同じく、国家は個人に先んじて存在し、個人は国家の部分および分子としてその中に生まれきたるものと考えたが故に、個人は国家のため、もしくはその正当なる権威の掌握者のために生きまた死ぬべきものとなした。」

「感情の動いた瞬間これを隠すために唇を閉じようと努むるのは、東洋人の心のひねくれでは全然ない。我が国民においては言語はしばしば、かのフランス人(タレラン)の定義したるごとく「思想を隠す技術」である。」

義理と義務、勇気、仁、礼、誠実、名誉、切腹自殺について、欧米や大陸の文化と比較して、共通と相異を詳しく述べている。欧米化した現代人にも、わかりやすい内容になっている。

一方で、この有名な「武士道」本の主張は、伝統的な武士道研究とはだいぶ違っていて、新渡戸稲造の独自の解釈も多いといわれる。「過去の日本は武士の賜である。彼らは国民の花たるのみではなく、またその根であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れ出た。」などは過大評価であろう。武士道を桜にたとえて「しからばかく美しくて散りやすく、風のままに吹き去られ、一道の香気を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の型であるのか。日本の魂はかくも脆く消えやすきものであるか」と嘆くような、大げさな文学的な表現も多い。

キリスト教と騎士道を背景に持つ欧米列強に対して、日本にも歴史のある立派な道徳があるのだと、日本代表として熱弁する新渡戸の姿勢が終始感じられる。国際的に理解を得たいという熱意のために、かなり強引に欧米のイディオムと対応関係を張ってしまった感がある。だが、結果として、数十カ国に翻訳されたこのベストセラー本のおかげで、よくもわるくも日本の「武士道」は世界に広く知られることになったのである。

・武士道 初版がデジタルで読める
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40004040&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0

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2007年11月27日

怖い絵

・怖い絵
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「ある種の「悪」が燦然たる魅力を放つように、恐怖にも抗いがたい吸引力があって、人は安全な場所から恐怖を垣間見たい、恐怖を楽しみたい、というどうしようもない欲求を持ってしまう。これは奇妙でも何でもなく、死の恐怖を感じるときほど生きる実感を得られる瞬間はない、という人間存在の皮肉な有りようからきている。」

16世紀から20世紀の有名な絵画の中から、見た目の印象があからさまに怖いもの、描かれた経緯を知ると怖いものを20点集めて解説している。興味本位、怖いもの見たさで読み進めるうちに、歴史的背景や画家の位置づけなど名画の見方が自然にわかる面白い本だ。

ダヴィッドの「マリー・アントワネット最後の肖像」は、フランス革命の4年後に、市内引き回しでギロチン台へ連行されていく元王妃を、画家が見物人の一人としてスケッチしたものだ。新体制側の画家は、王妃の欠点を誇張して堕ちた偶像を描いたはずが、「心は何ものにも屈せざる大した女性」に仕上がってしまったと著者は説明する。そういう背景を知ると、各章の最初にあるカラーの複写ページに戻ってじいっと絵に見入ってしまう。絵画への味覚が倍増するのがわかる。

個人的に本物を見て見たいと思った怖い絵は、

ゴヤ 「我が子を喰らうサトゥルヌス」
ルドン 「キュクプロス」
クノップフ 「見捨てられた街」

の3つ。前の2つは見るからに正常を逸脱した感性を持つ芸術家でなければ、描けない異様さがある。

この本のタイトル「怖い絵」を調べていて、こうした怖い絵の多くは検索するとWebでほとんど見ることができることがわかった。さらに芸術作品や心霊写真などネット上には怖い絵がいっぱいアップされていて、そうした情報が2ちゃんねるなどで交換されていることもわかった。

怖い絵を動画にまとめてYouTubeにもアップしている人までいる。

・怖い絵画リンク
http://tigerbutter.jugem.cc/?eid=524
・[2ch]これは怖い!と思った絵ってある
http://www.youtube.com/watch?v=5d_DTLUt0Vo
・「世界で最も怖ろしい」絵
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/993681.html


・美について
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005145.html

・形の美とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005144.html

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2007年11月26日

〈性〉と日本語―ことばがつくる女と男

・〈性〉と日本語―ことばがつくる女と男
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ジェンダーと言葉のみだれという切り口から、とてもユニークな日本語論を展開している。分析するテクストも、スパムメールや翻訳文、漫画のスラムダンクやクレヨンしんちゃんなど、幅広い。そうした周縁的なテクストに見られる「ずれた言語行為」にこそ言語の創造性の本質を見出す。

英語と違って、日本語には一人称の幅広いバリエーションがある。私、俺、僕、わし、おいら、あたしなどがあって性別も意識される。語尾にも変化として女ことば、男ことばがあり発話しているのが男か女かを区別できる。

「話し手を<女>と<男>に明確に区別する言語資源を持っている日本語は、「人間は女か男のどちらかである」という社会的信念を日常的な会話において再生産することで異性愛規範を支え続ける強力な言語的装置としての側面を持っているのである。」と著者は指摘する。

日本語は、男は「無徴・標準・中心」で女は「有徴・例外・周縁」という支配原理を内在させているのだという。たとえば、女社長、女医、女流作家、女子社員とは言うが、男社長、男医、男流作家、男子社員とは、まず言わない。

こうした言語のなかの男らしさ、女らしさに反発して、僕や俺という言葉遣いをする少女がいる。上下関係を嫌って敬語を使わない若者がいる。だが、そうした現象に日本語が乱れていると嘆くのは間違いであるというのが著者の意見である。

「日本語のみだれ」を指摘する背景には、「年長者は優れた日本語の使用者である」という考え方があり、さらにその背景には、「大日本語」の如き「正しい日本語の伝統」があるかのような言語イデオロギーがあるという。

「しかし、正しい日本語」ばかりを求める風潮は、じつは現代に生きる私たちも日本語を創造的に使っており、これらの「ずれた言語行為」が少しずつ日本語を変化させているという側面を見えにくくさせている」

ずれた言語行為をあぶりだすために多方面のテクストが分析される。口調の援助交際系スパムメールだとか、ハーレクインロマンスの翻訳文章だとか、漫画スラムダンクに見られる「〜〜っス」という新しい敬体(上下よりも親疎を尊重する敬語として)、ときめきメモリアルの美少女のセリフなど、周縁的で先端的なケースが多く取り上げられている。

そうした「ずれ」こそ言語イデオロギーを乗り越えていくための、創造的実践なのだとして、肯定的に日本語の「みだれ」をとらえなおしている。

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2007年11月21日

みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史

・みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史
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「身体という観点からみれば、オルガスムは男女いずれの性にとっても、パンツのなかでの一瞬の快感にすぎない。男女を平均したその長さは一回に十秒ほど。週一〜二回という性交の平均回数からして、大半の人は週にわずか二十秒、月にして一分かそこら、年に合計十二分のオルガスムを体験していることになる。性交可能とされる年数を限りなく楽観的にみて五十年とすると、われわれはそのあいだにおよそ十時間、マスターベーションにとりわけ熱心な人であればおそらく二十〜三十時間、オルガスムを楽しめると考えていい。」

かりに人生を70年とすると時間にして6000時間程度である。そのうちの、たった20〜30時間の快楽を追求して、人間は膨大な労力を投じる。誰とするかという性選択の積み重ねによって、人類は淘汰されて種として進化する。意識的にせよ無意識にせよ、性衝動に影響された人々の判断が歴史を動かしていく。

この本はひたすらセックスの話題によって、人類の10万年の歴史を物語る。セックスの普遍性とバリエーションの豊かさに驚かされる。古今東西のあらゆるところにセックスの話題が見つかる。

・孔子は五日に一度のセックスを推奨した
・342年、アナルセックスとオーラルセックスは非合法化された
・性欲を断つため、指を焼き落とした神学者たち
・エジプトのファラオは川に向かって自慰をした
・ポンペイの壁画に似こる生々しい3Pシーン
・帽子に女の陰毛を飾るロンドンのメンズファッション
・マリーアントワネットはあそこの「道が狭すぎた」
・宇宙空間で試された二十の体位

第二部の各章では古代から現代までを時代別に、歴史学、生物学、人類学、心理学、社会学的な観点での特徴がまとめられている。各時代のセックスに対する道徳的な位置づけや、性生活の実情、流行の技巧、性をめぐる事件など、トリビア的なトピックが大量に時系列で語られる。時代や社会によって変わるものと変わらないものがある。

たとえば「火はたちまち燃え上がるが、水によってたちまち消える。水は火にかけて温まるのに時間がかかるが、冷めるのもゆっくりだ」と紀元前11世紀の易経には書かれている。男=火、女=水として両性ののオルガスムの違いについて述べた部分だが、同様の分析が古代ギリシアにもあった。セックスが気持ちよいということと、気持ちよさの内容は古今東西を通じて不変であるようだ。

今の世界があるのは、男と女がオルガスムを追求して、ヤり続けたからであって、それ以外の原因ではないのだとも言える。セックスは、歴史を一本の線で結ぶことができるほとんど唯一の要素である。そう考えてみると、このセックス史というのは案外、正統な歴史の記述形なのだ。

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2007年11月14日

ヨーロッパをさすらう異形の物語 上・下―中世の幻想・神話・伝説

・ヨーロッパをさすらう異形の物語 上―中世の幻想・神話・伝説
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・ヨーロッパをさすらう異形の物語 下―中世の幻想・神話・伝説
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伝説・神話好きにはたまらない内容。

中世ヨーロッパの伝説が解説つきで24編が収録されている。一部が童話として変形して伝わった以外は、日本ではあまり知られていない話が多いように思う。海外の人が、桃太郎や金太郎、一寸法師や海幸山幸のような昔話をよく知らないのと一緒だろう。知っていれば、異文化の文学や創作を深く味わうことにつながる。

上巻:

さまよえるユダヤ人―永遠という罰の重み
プレスター・ジョン―朗報かそれとも悪い報せか
占い棒(ダウジング)―なんでも見つけ出す魔法の棒
エペソスの眠れる七聖人―復活する死者
ウィリアム・テル―本当はいなかった弓の名手
忠犬ゲラート―命の恩人は動物だった
尻尾の生えた人間―「よけいなもの」か「必要なもの」か
反キリストと女教皇ヨハンナ―悪しき者たちへの恐怖と期待
月のなかの男―いまもそこにいる理由
ヴィーナスの山―戻ってきた者はひとりしかいない
聖パトリックの煉獄―足を踏み入れた者たちの証言
地上の楽園―それはどこにあるのか
聖ゲオルギオス―残酷な拷問とドラゴン退治

下巻:

聖ウルスラと一万一千の乙女―偽りだらけのくだらなくて愚かな物語
聖十字架伝説―けたはずれの創造力
シャミル―虫や石に宿る謎めいた力
ハーメルンの笛吹き男―誰もが知っている伝説の正体は?
ハットー司教―ネズミに食い尽くされた強欲の司教
メリュジーヌ―裏切りは別れを招く
幸福の島―聖なる場所は西にある
白鳥乙女―詩人に愛された美しい鳥
白鳥の騎士―素性をたずねてはならない
サングリアル(聖杯)―聖なる器の伝説
テオフィロス―悪魔と契約した司祭

聖プレスター・ジョンは大学受験の世界史で先生が、試験にはでないかもしれないが、と前置きして話してくれたのを覚えている。

中世ヨーロッパの十字軍は、イスラム教徒との戦いが苦戦する中で、ひとつの伝説を信じていた。東方に聖ヨハネの血をひく君主プレスター・ジョンが統治するキリスト教国家があるという「聖プレスター・ジョン」の伝説である。この偉大な君主が、この戦いに強力な援軍にさしむけてくれることを願った。ローマ教皇はプレスター・ジョンあての手紙を使者に持たせて派遣した。マルコポーロもこの伝説を信じて東方へ渡ったし、大航海時代のきっかけのひとつになったともいわれる。伝説が歴史を動かしてしまったわけだ。

ネオアトラスという名作ゲームを思い出した。実は最近PS3でもネットワーク経由でダウンロード販売されているので、懐かしくて、買ってしまった。まだ未探査の世界の噂を集めて、どの噂を信じるかで世界地図が変わっていくという仕組み。


・ネオアトラス 3
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何を信じるかで世界が変わるというのは、人間の同時代史において、案外、本質なのではあるまいか。荒唐無稽に思えるこれらの伝説が真実味を帯びていた世界を想像しながら読むと、もうひとつの世界史が見えてくるような気がする。

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2007年11月06日

日本語の源流を求めて

・日本語の源流を求めて
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日本語タミル語起源説の大野晋が研究の集大成を一般人向けに平易にまとめた新書。

「北九州の縄文人はタミルから到来した水田耕作・鉄・機織の三大文明に直面し、それを受け入れると共に、タミル語の単語と文法とを学びとっていった。その結果、タミル語と対応する単語を多く含むヤマトコトバが生じたのである。」

日本語とタミル語は文法も単語も共通点が非常に多い。物の名前が同じというだけならば、そういうこともあるかなというレベルなのだが、「やさしい」「たのしい」「かわいい」「にこにこ」「やさしい」「さびしい」「かなしい」などの感情を表す言葉までほぼ同じなのである。

さらには日本的情緒の代表格「あはれ」までタミル語に同義でみつかるのだ。五七五七七の韻律を持つ詩もタミル語にある。日本固有と感じられるものが実は南インドからの伝来のものであったというのは衝撃である。

たんぼ、あぜ、うね、はたけ、あは、こめ、ぬか、かゆなどの水田耕作に関係する設備や労働の呼び方も共通している。著者の現地調査によれば、似ているのは言葉だけでなく風俗習慣もまたそうであった。タミルには注連縄や門松まである。

7000キロ離れた南インドから、紀元前1000年頃、タミル語は日本に海路で上陸し、それまでの縄文の言語と融合したという。「タミルと日本とその二つの言語が接触し、文明の力の差によってヤマト民族が文明的に強かったタミル語の単語五〇〇(私の調べた限り)を自己流の発音で覚え、さらに文法も覚え、五七五七七の歌の韻律や係り結びなどまで取り込んだ。」

遠く離れた二つの言語で偶然ここまで単語や文法、背景の文化が一致するとは考えにくい。日本語研究において、タミル語起源説は比較的新しい学説のひとつに過ぎないが、この本にでてくる多数の共通点の例示を見ると、かなり確度の高い説なのではないかと思えてくる。

著者は今年で御年88歳。「私は日本語の過去を振り返り、文献以前の日本語を求めようと努めたが、それにはおよそ一生を要した」と最後に書いている。この本は学者が生涯をかけた研究の最終章ダイジェストなのである。

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

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2007年11月05日

吾輩は天皇なり―熊沢天皇事件

・吾輩は天皇なり―熊沢天皇事件
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戦後の混乱で天皇の地位が一瞬揺らいだとき、「南朝の末裔である我こそが真の天皇である」などと主張する、なんちゃって「テンノウ」たちが乱立した。その中で最も有名な人物、熊沢天皇こと熊沢寛道の奇矯な半生を追う。この自称天皇は昭和天皇をニセモノとして裁判所に訴え、皇位の返還せよという勧告状を送り、北朝の天皇と同じように地方を「巡幸」してみせた。マスメディアもネタとして取り上げることが多かった、「時の人」であった。

山師、詐欺師の跳梁跋扈する時代であったが、この熊沢天皇は根っからの詐欺師というわけではなかったようだ。本気で自身の正統性を信じていたらしい。取り巻きはそれを利用した。熊沢寛道が本当に南朝の末裔なのかどうかは実際にはよくわからない。そもそも血がつながっているかどうか、と天皇としての正統性は関係がないという意見もある。

裁判所は熊沢の抗告をこう言って却下した。

「天皇であることが、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴なのであるから、現に皇室典範の定めるところにより、皇位にある天皇が、他のいかなる理由かにおいてその象徴たる適格がないかどうか、というようなことを云々する余地は全くないものといわなければならない」

当時の新聞に熊沢天皇問題について大宅壮一は次のように述べた。

「血のつながりをたどっていけば、すべての日本人がどこかで皇室につながっていることになる。”1億総天皇家”ともいえよう。問題は、血のつながりを世間が承認しているかどうか、というよりも、それにふさわしい地位権力を保持してきたか、今もつながっているかどうかということにかかっている」

つまり、天皇であることはその資格があるか云々の話ではなく、現に天皇であるから天皇であるということなのだ。熊沢天皇の滑稽さは、相手方が決めたルールで自身の正統性を訴えるしかなかったこと、そのルールさえ近代になって作られた神話に過ぎなかったことにある。

「寛道もまた、天皇を万世一系の現人神とし、その現人神である天皇をトップにいただいて臣民が一家をなすのが神代以来の日本の国柄であり国体だとする。明治以来の巧妙な洗脳教育が生んだ”作品”のひとつにほかならなかった。」

「寛道らの運動を成り立たせているもの、それは明治以降の政府がつくりだした「万世一系」という虚構にほかならない。彼らは後南朝というフィクションにとりこまれたのではなく、実は万世一系の現人神天皇という、権力者側がつくりだした虚妄の神話にとりこまれ、その妄想世界を、戦後になっても、ただひたすらさまよいつづけたのである。」

現代日本でも、つい最近、女系天皇の可否を議論する際に万世一系が重要時として取り上げられてきた。万世一系はそれほどまでに強力に国民に浸透した神話であり、その土壌のなかから色物としての熊沢天皇らが生まれてきた。しかし、この神話を本当に巧妙に利用してきたのは、この国を動かす権力者たちであったということを、著者は指摘する。

熊沢天皇という戦後の仇花の奇人伝に終わらず、今も続く天皇の権威の正体に迫る濃い内容に驚いた。新書だが相当読み応えがある。


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2007年10月30日

美について

・美について
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美についての哲学的考察。

映画のエンドロールで「この物語は実話にもとづいています」という字幕を読む、とか、作者が死を覚悟して描いた遺作ですという説明を聞かされる、とか、作品の背景を知ると感動が増すということがある。美しさという感動は純粋な知覚体験というわけではなさそうだ。

まず美は理性による発見=解釈というプロセスを必要とするものだと著者は述べる。

「こう考えてみると、美はたんに直接的な知覚や感覚の実の問題ではなく、なんらか成長するにつれて発達する知性と関係があるように思われてくる。たしかに、複雑な構成の長篇小説や単色の墨絵の美など、知性の不足している頃には無縁の存在ではなかったか。そこで、背景に秘めている教養の高まるにつれて、われわれが美と感ずる対象、つまり、われわれに美しいという知覚を呼びさます事物が変化してくるという事実を認めねばならない。」

解釈とは作品との対話であり、背景知識による分析をベースとしている。だから「換言すれば、作品は体験の浅い人にはその深さを示さないということになる。体験の深浅は決して事実体験として自己が経験したか否かという直接性の問題ではなく、意識がとらえるものをわれわれがどれほど深く理解するか否かということにかかっている。」ということになる。

感受性という言葉はこの本に一度も使われなかった気がするが、美を深く味わうには、感覚と知性の総合的な感受性の高さが必要であるということになる。そして教養だけでは不足で「愛」も要るのだという考察がある。

「ということは、われわれは与えられた作品との美的経験において、想像力を理性的に働かせて、その作品が、元来置かれていた場所では、いかなる背景を持ち、いかなる条件に基づいて輝き出ていたのか、ということを補い考えてみなければならない。この配慮は、言わば、作品に対する愛情なのである。作品はしばしばこの愛に応えて自己を開示する」
そして美の体験とは「日常的意識の切断」という意識の位相だという。日常を忘れてうっとりしてしまう状態が美の体験なのである。「真が存在の意味であり、善が存在の機能であるとすれば、美はかくて、存在の恵みないし愛なのではなかろうか。」

美について各章で哲学的、歴史的、社会的、芸術的に多角的な分析が行われる。美の正体を考える入門書として名著だとおもう。

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2007年10月28日

形の美とは何か

・形の美とは何か
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形の美しさを理論的に解明する大胆な内容。

著者は、機能美と装飾美、具象と中小、定形と非定形、自然と人工、理念と現実など、原始時代から現代までの東西の美の歴史にあらわれた美の構成要素を見直し、ひとつの大きな構成原理の体系にまとめあげた。

そして西洋の黄金比やシンメトリーの美、日本の等量分割やルート矩形の美などを分析して、人間の美的感性の本質を、美の中に数理性を見出す人間の能力だと指摘する。「私たちには、ものごとを秩序づけて見ようとする傾向が根強くあるため、自然の中にある規則性を知覚すると、いつも本能的に驚いてしまうのである」(E.H.ゴンブリッジ「装飾芸術論」)。数理性を基本とする定形は再現しやすいので、美術の伝統に繰り返し使われるようになったという。

自然の美は非定形であると 長い間考えられてきたが、現代のフラクタルやカオス、複雑系の研究から、自然の美もまた数理的に理解できるということがわかってきた。今ではその応用で本物とみわけのつかない自然な枝葉の樹木をCGで再現できるようになった。

自然の美の特徴をこの本では次のようにまとめている。

・自然の法則(造形の秩序)に準拠した機能の形である
・形状が滑らかで無駄がなく有機的形体(オーガニック形体)である
・フラクタル性の形では、自己相似性による黄金比のもつ美しさを内包している
・セルオートマトンによるリズミカルなパターンが見られる(貝類や動物の模様や柄)

そして自然の非定形の美を取り入れてきた日本の伝統美、ジャポニズムの先見性を、こうたたえている。

「先に述べたように非定形は、出鱈目な形、不規則な形だけで、さしずめ美の原理の存在しない形、複雑で偶然生じた形にすぎないと思われていた。しかし、実はこの非定形にある秩序があることが発見された。これがフラクタルであり、このフラクタルと黄金比とはきわめて近い関係にあることも科学的に解明された。こう考えると日本人は、何もやみくもに不規則な形や歪んだ柱や、単なるひび割れを好んで、芸術作品や美の対象としたのではなかったのである。日本人は自然の中に潜む黄金比にも通じる、きわめて高次元の美の原理を本能的に知っていたのである。」

形の美を、秘められた数理性に一元化して説明するアプローチがたいへんわかりやすい。天邪鬼な私は、できのいい理論を前にすると、美しさって本当にそれだけかなと疑問に思ったりもするのだが、それ以外の美の説明を考えるのは、きわめて難しい。

あるとすれば「ただ美しい」というのが、別にあるのだと思う。言語化や理論化できる美とできない美というのがあって、言語化や理論化できる部分については数理性での理解が説明として有効ということなのではないかなあ。

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2007年10月08日

肖像写真

・肖像写真
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19世紀後半のナダール、20世紀前半のザンダー、二十世紀後半のアヴェドンの3人の写真家の、代表的な肖像写真の差異を分析することで、顔の意味の歴史を考察する本。

「ナダールは自分の好みの人物たちを選び、彼らをできるだけ自由な状態に置きたいという応対をしながら相手を見ていた。ザンダーは、ピンからキリまでの人間のだれにも共感を抱きながら見ていた。アヴェドンは決して冷淡ではないが、善人に対しても悪人に対しても、権力者にも犠牲者にも、できるだけ冷やかで空虚な視線を投げかけた。」

肖像写真の出発点がナダールである。

・Nadar
http://en.wikipedia.org/wiki/Nadar_%28photographer%29
ナダールの肖像写真の作品が多数掲載されている。

「いずれにせよナダールが撮ったのは、貴族でもなく、もともとの金持ちでもなく、自らの知的な能力を磨き、活動させることによって、たんなる知識人ではなく有名人になっていく人びとであった。ナダールによって写真に撮られるとともに、ボードレールによって評価されていく人々でもあった。」

「ひとつの時代を共有する群れのなかから、このような歴史的な意義をもった人びとを差異化し、「同時代のびと」たらしめることこそ、ブルジョワ社会の特質であった。<中略>ナダールの肖像写真が明らかにしたのは、こうした歴史的なブルジョワジーの特徴であった。このエリート主義の社会だからこそナダールは浮かび上がれたのだ。」

まだ写真が珍しい時代では、ナダールに肖像写真を撮られるということは、特別な知識人として列聖されることなのであった。そして、それらの肖像写真を見る者には、その人物が誰で何をした人なのかという前提知識があった。

時代が下るにつれて、ザンダーはさまざまな職業、階層の人々を撮影して分類していった。多様な社会関係にある、有名無名の顔をたくさん集めることで時代を群像として写しだそうとした。

・August Sander
http://www.masters-of-fine-art-photography.com/02/artphotogallery/photographers/august_sander_01.html
多様な職業の人々の肖像作品集が掲載されている。

そして、20世紀のアヴェドンは「20世紀最後の奴隷」や「殺人者」の肖像写真を撮ることで、それが歴史的真実であることを伝えるパフォーマンスを行った。

・Richard Avedon Foundation
http://www.richardavedon.com/

後半の総括部分では、「仮面」と「観相術」というキーワードを使った分析が、肖像写真の被写体、写真家、観客の3者の関係性の変化をうまくとらえていてわかりやすかった。


・Portraits
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005048.html

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2007年10月07日

「世間遺産放浪記」「奇想遺産―世界のふしぎ建築物語」

ユニークな写真集を2冊。


・世間遺産放浪記
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世界遺産とは無縁でそこらへんにありそうだが、よく見ると職人の技が光る価値のある古い建築物を247件も、大きな写真と記事で紹介する。著者はそうした地味だが味のある建築に「世間遺産」という名前を与えた。30年の研究の成果。

「さて「世界遺産」や「近代化遺産」が脚光を浴びる中、社会からはなかなか見向きもされない、これら「世間遺産」たちとの出合いは、筆者自身に強い印象を与えるものばかりでした。長く人の生業やくらしとともにあった、「用の結果の美」としての建築や道具。または庶民の饒舌、世間アートとでも呼びたくなるような不思議な造形の数々...」

著者の狙いは、世界遺産の相対化にあるのだろう。それはかなり成功している。

田舎の田圃の片隅に打ち捨てられた農具小屋や、小川に架けられた名もない石橋、明治の頃に長者が建てた村一番の蔵。どの村や町にもありそうな、ありふれた遺産なのだけれど、TBS世界遺産風、ナショナルジオグラフィック風の撮り方の写真に、著者が調べた由来の解説が付けられると、不思議と風格を帯びて見えるのである。

・奇想遺産―世界のふしぎ建築物語
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奇想遺産は、世界の奇妙な外観の建築を集めた写真集。朝日新聞の連載の書籍化。まず表紙の「ル・ピュイ・アン・ブレ」をみて驚く。フランスの奇観というとモンサンミッシェルが有名だが、町はずれの野原に85メートルの岩があって、その上に教会がたてられている様は圧巻だ。

奇想遺産にはシドニーオペラハウス、大阪の通天閣、首里城正殿など、有名な建築も紹介されているが、建築にまつわるエピソード紹介を読むと、知らなかった事実がでてきて驚かされる。この本があると、旅行の計画をたてるときに、ちょっとユニークな味付けができそうである。


こういう世間遺産、奇想遺産って探すと身近に結構ある。たとえば市谷の奇妙なパイプ?橋と釣り堀の景観って、東京の世間遺産として残すべきものだよなあと思う。いつもあの釣り堀を見るとほっとする。

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2007年09月09日

奇想の20世紀

・奇想の20世紀
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「未来を空想する力を人類は失いつつあるのではないか。しかしわずか一〇〇年前には「未来予測」は凄まじいブームであった。産業、経済、政治、消費、娯楽など、あらゆる分野で未来が予測され、次々に現実となった。その大予告編とも言うべきスペクタクルが万国博覧会であり、一九〇〇年パリ博は、二十世紀最大のファンタジーであった。十九世紀が夢見た二十世紀という「未来」を振り返り、二十一世紀の我々の「夢」を展望する。 」。著者は荒俣宏

19世紀にテレビやブロードバンドのある未来生活を思い描いていた風刺画家アルベール・ロビダのビジョンが冒頭で紹介される。当時は科学小説家のジュール・ベルヌのライバルという関係であったらしい。ジュール・ベルヌが科学の驚異を肯定的に歌い上げたのに対して、ロビダは批判的に取り上げたため、大衆の人気は圧倒的にベルヌのものになり、ロビダはほとんど忘れ去られてしまった人だそうだ。だが、その未来ビジョンはかなり正確に20世紀の科学文明の光と影を言い当てていていて面白い。

こうした19世紀末の未来予想ブームの背景には、世界の未来技術、未来生活のデモンストレーションとしての万博が開催されていた。エッフェル塔やクリスタルパレスが万博のために作られて未来の象徴となった。

しかし、「エッフェル塔もビネの記門も、いまだ十九世紀的美意識をひきずる教養層、指導層には、バッドテイスト(悪趣味)の一語によって切りすてられた。その意味からすれば、未来の窓である万博自体が、ハイテイストあるいはグッドテイストであったためしはないだろう。一九〇〇年パリ万博は、まさしく「最高で、なおかつ最低の世紀」二十世紀のイメージを明らかにしたイヴェントであった。」

指導層教養層にとっては、いくぶんバッドテイストなもの、即座には受けられないものが、未来として実現していくというのは、どの時代も一緒だ。人間社会の多くの面で進歩史観が通用した19世紀は、素直に明るい未来を予測できた最後の時代であると著者は総括する。未来を予想することが楽しかったからこそ未来予想ブームがあったのだろう。

著者が問題提起する「未来を空想する力を人類は失いつつあるのではないか」というのは、少子化、高齢化、環境悪化、経済優位性の相対的な低下など、あまりよい未来の材料がない時代状況と関係が深いのかもしれない。少なくとも二十世紀高度成長期には「鉄腕アトム」のような未来ビジョンがあったし、その物語が親しまれ、それを科学で本当に実現しようとする人たちがいた。現在はそれにあたるものがない気がする。

この本には、一九世紀の人たちの想像力の歴史が総括されている。博覧強記で知られる著者だけに、幅広い方面の出来事がまさに博覧会的に並べられていて飽きない。

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2007年08月30日

美しき日本の残像

・美しき日本の残像
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「四国の平家の落人の里に民家を買って城と称し、日頃は京都・亀岡の天満宮の庵に暮す。書画骨董、歌舞伎、古都を愛する一風かわったアメリカ人の日本美見聞録。 --」。第7回新潮学芸賞受賞作。

日本通の外人の代表みたいな著者が語った日本文化論なので、日本に優しいと同時に厳しい意見が両方書かれている。世阿弥と利休の本を読んだばかりだったので、次の日本の思想についての考察に特に感心した。

「日本は中国とは大きく違います。中国の場合、孔子、孟子をはじめ、哲学者と文人が高貴な思想を巧みに文章にして後世に残しました。一方、日本文化の歴史の中に哲学者と、はっきりした「思想」を探しても、驚くぐらい見当たらないのです。極端に言えば、日本は思想のない国です。  (中略)  日本では文化のエッセンスは言葉として本に書かれてはいませんが、目に見えないところに日本の「思想」がやはりあったのです。伝統芸術に流れたのです。だから、日本には孟子、孔子、朱熹はいませんでしたが、定家、世阿弥、利休などがいました。彼らは日本の真の哲学者だったと思います。」

本来は、芸術だけでなくて、武士、職人、商人、庶民それぞれの生活の中に、あるべき理想の生き方、哲学が内包されていたのだと思う。日本の哲学は暗黙知なのだ。だから、本当に大切なものは明文化しない、できるものでもないと考えるのが日本人なのだろうと思う。外と内の両方から見ることができる著者だからこそ、その見えない日本の美を文章で客観的に語ることができた。

アメリカ生まれで、エール大学で日本学を専攻し、オックスフォード大で中国学を専攻した著者が語るのは、常にグローバル思考での比較文化論であり比較精神論である。素人の日本人とアメリカ人にはじめての陶芸をやらせると、日本人はみんな無難なものを作るが、アメリカ人は独創性を出そうとしてとんでもない形のものをつくってしまう、という体験にもとづく考察が面白い。

「時々思うのです。「人生を面白く」というアメリカ教育の要求はひょっとしたら残酷なものかも知れません。だいたいの人の生活はつまらないものですから、失望するに決まっています。一方、日本人はつまらなさに不満を感じないように教育されていますので、きっと幸せかも知れません。」

それから、この本の9章、10章、11章は、奈良、京都の名所巡りガイドになっていて、なんとしても、それらの場所を訪れてみたいなと思わせる内容である。私もたまたまこの夏、奈良に行ったばかり。南大門、東大寺、春日大社で写真を撮ってきたので、ついでにここで公開。

「美しき日本」になっている、かなあ。

Todaiji Nara Japan

Nara

Nara

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2007年08月21日

岡本太郎の遊ぶ心

・岡本太郎の遊ぶ心
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岡本太郎の秘書を50年間勤めた岡本敏子が書いたTARO伝。

岡本太郎は、漫画家 岡本一平、小説家 岡本かの子という、奔放な表現者の家に生まれた。一平は、かの子の愛人を家に同居させることを許し、奇妙な三角関係を内包する家庭で育てられた。やがてかの子は精神状態が不安定になり、子育てを放棄したも同然になる。太郎は孤独で早熟な少年に育った。後に太郎は「私は父母に生んでもらったんじゃなくて、自分が決意してこの世に生まれてきたのだ」と語っている。

子供時代から晩年までの岡本太郎の活躍のハイライトが、写真を使って解説されている。絵、造形、カメラ、ゴルフ、ピアノなどが一級の腕前で、岡本太郎の多才ぶりがよくわかる。縄文土器やペットのカラスをこよなく愛した偏愛ぶりや、ピカソ、アンドレ・マルロー、ブラッサイ、大江健三郎、瀬戸内寂聴など内外の著名人との幅広い交流が紹介される。

「私はまさに4、5歳のいのちをナマのまま生きている」

「無償の情熱をもって激しく行動することが、遊びの本質だ」

「合理主義こそが人間を大虐殺する」

「俗に大人になるというのは、本当に生きがいのある人生を降りてしまうことだといってよい」

「合理に非合理を突きつけ、目的志向の中に無償を爆発させる」

テレビで有名になった「芸術は爆発だ」という短いメッセージの裏側にある深い意味が、見えてくる本だ。

・今日の芸術―時代を創造するものは誰か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005051.html

・岡本太郎 神秘
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004986.html

この2冊を読んで、岡本太郎の人生について俯瞰したいと思ったのが、この本を読んだ動機だった。よくわかった。

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2007年07月26日

今日の芸術―時代を創造するものは誰か

・今日の芸術―時代を創造するものは誰か
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このロングセラー本で岡本太郎の偉大さをしみじみ実感した。

「岡本太郎はテレビのお陰で、眼玉ギョロリの爆発おじさんという印象だけで固定されているかもしれないけれど、この本はじつに明晰な論理をもって書かれている」と解説に赤瀬川源平が書いているように、極めてわかりやすい芸術論である。同時に凄まじく情熱的な人生論でもある。

「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」。芸術家はつねに前衛であれというメッセージ。

「芸術は、つねに新しく創造されなければならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に先端的な課題をつくりあげ前進していく芸術家はアヴァンギャルド(前衛)です。これにたいして、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズム(近代主義)です。」

岡本太郎の考えでは表現行為とは人間の本質であるから、誰もが思う通りに絵を描いたり音楽を作ったりすればいいのだ、下手も上手もなくて、ユニークかどうかが大事なのだということである。上手な芸術家をまねて美しく、ここちよい表現をするのは芸術ではないのである。日本の芸術家も教育も間違っていて、けしからんのである。

岡本太郎は長いフランス滞在から帰国して、日本の旧弊な芸術家の世界に不満を持っていた。権威や体制に迎合するのではなく、そんなものをぶちこわすのが芸術なのだと繰り返す。「芸術家は、時代とぎりぎりに対決し、火花をちらすのです。」。岡本太郎はアンシャンレジームに対して何度も喧嘩を仕掛け、孤立していたらしい。

こんなことも書いている。

「さあやろう、と言って競技場に飛び出したのはいいけれど、気がついてみると、グラウンドのまん中に、ほんとうに飛び出したのは自分ただ一人。エイクソ!こうなれば孤軍奮闘!ところで前方の敵とわたりあっていると、意外なほうから、こっそりなにかしらんが伸びてきて、足をすくうらしいのです。バカバカしい。いったい、これを日本的というのでしょうか。しかし、このバカバカしさに、これからの人は、けっしてめげてはならないのです。」

この本の出版は1954年。万国博覧会のシンボル「太陽の塔」で国民的な名声の芸術家になる16年前であった。文章の端々から、やけどしそうなほどのチャレンジャースピリットが伝わってくる。

「私はこの本を、古い日本の不明朗な雰囲気をひっくり返し、創造的な今日の文化を打ちたてるポイントにしたいと思います」。冒頭でそう宣言している。常識にとらわれず、新しいことをやってやろうと思っている人、古い業界体質と戦っている人は、この本を読んだらぐっと勇気づけられると思う。

・岡本太郎 神秘
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004986.html

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2007年07月16日

「いき」の構造 他二篇

・「いき」の構造 他二篇
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日本民族独自の美意識「いき(粋)」とは何かについて書かれた昭和5年の古典。

この本にでてくる表現としての「いき」についての記述を集めてみた。

「まず横縞よりも縦縞の方が「いき」であるといえる」
「縞模様のうちでも放射状に一点に集中した縞は「いき」ではない」
「模様が平行線としての縞から遠ざかるに従って、次第に「いき」からも遠ざかる」
「一般に曲線を有する模様は、すっきりした「いき」の表現とはならない」
「一般に複雑な模様は「いき」ではない」
「幾何学的模様に対して絵画的模様なるものは決して「いき」ではない」
「「いき」な色彩とは、まず灰色、褐色、青色の三系統のいずれかに属するもの」

これだけだとよく分からないが、ビジュアル表現として、何らかの二元性を内包していないと「いき」ではない、ということなのである。

それはいきの構造と関係がある。

まず「いき」とは、男女の関係から現れたもので、

1 異性に対する媚態 なまめかしさ、つやっぽさ、色気
2 江戸っ子の意気地 異性への一種の反抗意識
3 運命に対する諦め 垢ぬけ、解脱

の3つを構成要素とするものだと著者は定義する。

真剣で一途な恋は「いき」ではない。恋の束縛から自由な浮気心は「いき」である。追いかけすぎてもいけない。もっといえば「運命によって諦めを得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である」。

「要するに「いき」とは、わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在意義を完成したものであるということができる。」

この本の特徴は「いき」をトポロジーで説明したことだ。表紙にあるこの図は見ていて飽きない。さらに詳しい解説を読みこむと、漠然としていた言葉の意味がすっきりと整理される。

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「いき」の説明を通して、同時に野暮、意気、渋味、城品、下品、地味、派手という伝統的な日本の趣味の位置づけを説明している。

併収された『風流に関する一考察』『情緒の系図』も「いき」論と関係する部分が多くあり、近代日本の美的センスについて、詳しくわかる。

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2007年06月18日

陰翳礼讃

・陰翳礼讃
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谷崎潤一郎が日本の伝統美について語った古典的名著。日本的情感の本質をとらえたエッセイ。

難しい本なのではないかと少し構えて読み始めたが、意外にも、とてもわかりやすい内容でびっくりした。

「漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻り声さえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。」

「思うに西洋人のいう「東洋の神秘」とは、かくの如き暗がりが持つ不気味な静かさを指すのであろう。われらといえども少年のころは日の目の届かぬ茶の間や書院の床の間の奥を視つめると、云い知れぬ怖れと寒けを覚えたものである。しかもその神秘の鍵は何処にあるのか。種明かしをすれば、畢竟それは陰翳の魔法であって、もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉としてその床の間はただの空白に帰するのである。われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自ら生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。」

「「掻き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの野原なりけり」と云う古歌があるが、われわれの思索のしかたはとかくそう云う風であって、美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。」

薄暗くて、清潔で、静かなところに日本の陰翳の美はあらわれる、というのが陰翳フェチの谷崎の主張である。

日本の古風な離れにある厠(トイレ)や茶室がそうした建築の代表例として挙げられている(この人は相当のトイレフェチで、この本には「厠のいろいろ」というエッセイも併録されているが、そちらでも排泄や便所そのものに相当のこだわりを見せている)。「もやもやとした薄暗がりの光線で包んで、何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧とぼかして置いた方がよい。」という。

天に対して屹立する西洋の建築は光に向かう様式美だが、まず瓦や茅葺の大きな屋根を作ってその下に四隅の暗がりを作り出すのが日本建築の本質だと指摘する。暗がりの中に、薄ぼんやりと見えそうで、見えないようなのが日本の、わびさび的な陰翳の美なのである。谷崎はそれを礼賛する。

谷崎は抽象論にいかず、ディティールにこだわる。蝋燭の明かりに映し出された味噌汁って色がうまそうだろう、日本女性の身体のつくる陰って白人女性にはない隠微さがあるだろう、漆器や金蒔絵なんかも暗いところの方がきれいに見えるものだ、とか書いている。明るくて清潔で騒々しい部屋の生活に慣れた現代人が忘れかけている闇の中の美をずばり言い当てているのが凄い。

そして、その闇の中には何があるのかというと、何もないのである。神社の結界が張られた聖域の中が、からっぽな空間であるのに似ていると思った。そこに何かがあると感じる心性こそ日本文化を生みだした日本人の精神の本質ということなのだろう。

「味わい深いもの」を作りたい人は必読の名著だと思う。

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2007年06月11日

「日本」とはなにか ―文明の時間と文化の時間

・「日本」とはなにか ―文明の時間と文化の時間
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人類学者で「京都学」の提唱者 米山俊直の遺作。日本文明の本質を語る読みやすいエッセイ。

「日本文化は稲作文化が主流であると、私たちは思い込んできたふしがある。これは江戸時代の米本位制経済と、土地ことに水田所有にもとづく明治以降の地主制が確固たる私有財産の基礎となり、また食生活でも米が”主食”という観念が根強くつづいてきたためである。」

「日本人はお百姓さんだからリズムが二拍子なんだ」などという俗説をよく聞くが、百姓=農業という思い込みは間違っていると著者は指摘する。中世の「百姓」は多くが兼業農家で、農業以外の多様な職業も含まれていた。稲作の農家ばかりという一般的なイメージは実態と違っていたようだ。「縄文商人」が活躍した時代もあったという話もある。

「日本文明はふつう弥生以来、すなわち今から二三〇〇年ほどのものとされてきた。しかしその補助線としてみるならば、三内丸山遺跡の示すものは限りなく大きい。<中略>これまで二三〇〇年しかないと思われていた文明史に、縄文時代の三内丸山をつけ加えてみると、それが一挙に五五〇〇年も引き伸ばすことになる。それによって、これまで”古代”ということで幽冥のかなたに押しやり、古事記、日本書記あるいは風土記や万葉集を終点としてきた日本の歴史を、長い時間の中で見直すことができるのではないか。」

日本文明の連続性をみていくと縄文時代までを含めた長期でとらえなおすのが正しいと著者は提案している。メソポタミア文明に比肩するスケールで日本史を再評価するという大胆な考え方。

「『小盆地宇宙と日本文化』(岩波書店 一九八九・一・三一発行)で私は、”日本文化”は単一ではなく、およそ百の盆地を単位に成立していて、それぞれが小宇宙=地域文化を形成していると述べた。その単位を”小盆地宇宙”と呼んだのである。日本文化を大脳に見立てるならば、小盆地宇宙はその古い皮質にあたり、新しい皮質としての日本文明がその上に成立しているのであると主張した。」

著者は日本を、単一民族を天皇が支配してきた国というイメージではなく、多様なミクロコスモスの集合とみなすべきだという。大きなレベルでは、古代であれば北九州と近畿、中世には東日本と西日本というふたつの世界が相互に影響しあうダイナミズムの中で、日本の歴史を再定義する。

ところどころで日本とアジア、ヨーロッパの古代史、中世史の類似性を指摘し、生態史観、海洋史観というグローバルなパースペクティブを論じている。日本の常識的なイメージがつぎつぎに覆されていく。

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2007年06月04日

映像論―「光の世紀」から「記憶の世紀」へ

・映像論―「光の世紀」から「記憶の世紀」へ
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「わたしたちは文字通り「映像の地球時代」に生きている。地球上のどこにいても、特定の地域の特定の情報を、いながらにして手に入れることが技術的に可能なのだ。」

テレビやインターネット、DVDを通じて、私たちはおよそ考えられる限りの映像を入手可能になった。その状況を著者は「ピクチャープラネット」と呼び、写真誕生から現在までの映像史を振り返るとともに、「そこでは見るという行為が、身体的な移動の経験と切り離されて、独立してしまう危険が常にある。」と問題提起をしている。

写真や映画は大衆心理の操作の道具として、前世紀から利用されてきた。戦争報道の写真を新聞に掲載したり、犯罪者のモンタージュで優生学の正当性を主張したり、プロパガンダは映画を積極的に取り込んだ。誰かが作り出す「スペクタクル」映像を人々は信じるようになった。

フランスの思想家ギー・ドゥボールが1967年に「スペクタクルの社会」の中で

「スペクタクルは、社会そのものとして、同時に社会の一部として、そしてさらには社会の統合の道具として、その姿を現す。社会の一部として、それはあらゆる眼差しとあらゆる意識をこれみよがしに集中する部分である。この部門は、それが分離されているというまさにその事実によって、眼差しの濫用と虚偽意識の場となる。」

と書いている。

これはピクチャープラネット化が進んだ現在、ますます重要な問題だと思う。たとえば世界で最近起きていることは無数にあるが、テレビが報道する映像の長さや頻度で、私たちはそれぞれの事件の重大さをとらえがちである。今がどんな時代かという同時代イメージもまた映像に強く影響されていると思う。

この本では、映像とは何かを、映像技術、記憶、身体性などの観点から歴史的に整理して、映像社会の問題を指摘する。

エピローグに登場する、全盲の写真家ユジュン・バフチャルのエピソードは印象的だった。

眼が見えない写真家がカメラを向けると、撮られる人の顔がこわばることを、彼は知っていて逆手にとっている。音などを頼りに自らレンズの絞りを合わせる。撮影後はコンタクトプリントをつくり作品を選ぶ。その作業は対話の中で行われる。そうしてできた写真を彼自身は見ることはない。しかし彼は自分が見たものを信じている、共同作業を信じている。強い印象を持った作品が次々に出来上がる。社会的な盲目状態の人たちと比べて、何倍も見ることを意識している。

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2007年05月25日

写真の歴史

・写真の歴史
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写真の黎明期を解説する教科書。

「1839年1月7日、フランスの著名な天文学者であり物理学者でもある下院議員のフランソワ・アラゴは、パリの科学アカデミーで、ダゲレオタイプと呼ばれる写真術に関する講演を行った。ルイ・ダゲールによって発明されたダゲレオタイプは、16世紀以来画家たちが写生にもちいてきたカメラ・オブスキュラという装置を使った写真術だったが、それまでのように装置がうつしだした像を手で描くのではなく、画像を化学的に記録することができる、まったく新しい方法だったのである。」

「記憶を持った鏡」ダゲレオタイプの技術公開があった1839年が「写真誕生の年」と言われる。当時のカメラは露出時間が短くて10分、長いと2時間以上かかったそうで、被写体は動かないものに限られた。それが1841年には現像促進剤の開発により、いっきに10秒程度まで短縮される。ポートレートが撮影できるようになった。

長時間露出がマストの時期の人物写真はポーズが妙である。眼をつぶっていたり、手を上着の中に入れていたり、顔がこわばっていたりする(後頭部に固定棒があった)。これは長時間動いてはいけないために、編み出された撮影姿勢だったのだ。

ダゲレオタイプは一回の撮影で一枚の画像しか得ることができなかったが、1840年にはイギリスのタルボットがカロタイプという、何枚も画像を焼き増しできる写真術を発明した。

・タルボットのカロタイプ Wikipediaより引用(Public Domain)
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タルボットは「だれもが印刷屋や出版社になれる」と利点を説明したらしい。この言葉は、まるでインターネットやブログのことを言っているみたいである。

大量複製できるようになって世界中の人が写真に注目した。一方で写真を快く思わなかったのが絵画を描く芸術家たちであった。景色がそのまま写しとれる写真の登場に、彼らは職を失うことを恐れたようだ。当時の芸術家たちの往復書簡が巻末に多数引用されていて、時代の空気が読める。こんなものは芸術ではないと斬る人多数。

だが、既に写真は芸術的であったことが、この本の掲載写真でよくわかる。キャメロンの神秘的な肖像写真(この本の表紙)や、レイランダーの絵画風写真などは、今見てもうっとりする。1850年代のル・グレイの「海景」はこの本で見て感動した。空と海を異なる露出時間で撮影したネガを組み合わせて作ったものらしい。当時の最先端の画像処理である。

・MOMAのサイトで「海景」
http://www.moma.org/collection/browse_results.php?criteria=O%3ADE%3AI%3A4&page_number=5&template_id=1&sort_order=1


1860年代になると新聞や雑誌にも写真がよく使われるようになり、カメラも一般人のものになった。1870年にはアメリカのイーストマン・コダックが、アマチュアでも使いやすい乾版フィルムを発明し、大衆化が進む。こうして写真の黎明期が終わりを告げる。本書はそこで終わる。ざっと写真誕生から30年間の歴史が、この本では丁寧に語られている。

・すぐわかる作家別写真の見かた
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004934.html

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2007年05月22日

日本語は天才である

・日本語は天才である
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天才翻訳者、柳瀬尚紀が書いた日本語の蘊蓄本。

柳瀬尚紀といえば難解さで知られる世界文学ジェイムス・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」「ユリシーズ」や、知的構築の極みダグラス・ホフスタッターの「ゲーデル・エッシャー・バッハ」、幻想文学の古典ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、映画になったロアルド・ダール 『チョコレート工場の秘密』 など、歴史的名作に名訳をつけてきた。

学生時代にフィネガンズ・ウェイクを柳瀬の翻訳で読んだ。この作品はジョイスが作った人工言語で書かれている上に、文体が章ごとにめまぐるしく変わる。アナグラムや回文などの言葉遊びが何万も続く。辞書を使って単語を置き換えても意味は通らない文ばかりだ。そもそも英語としても意味が確定できない。普通に考えれば訳出は不可能な作品だが、柳瀬は創造性を発揮して、原作の面白さを活かす形で日本語に翻訳した。異言語の「言葉の綾」を、日本語の綾に取り換えて見せた、何万回も。唖然とした。

この偉業を完遂した背景には、圧倒的な日本語の語彙とことばへのこだわりがあるのだろうなと感じていた。この本には柳瀬尚紀の日本語への異常な執着ぶりが最初から最後まで語られている。言葉の由来を説くだけではない。同音異義語を何十も挙げたり、七は本来シチであってナナじゃないのだぞと何十ページも説明したり、長大なアナグラムをいくつも評論した上でハイレベルな自作まで示したり、敬語ならぬ「罵倒語」について延々と説を述べたりしている。

そして、日本語の変幻自在の自由度、漢字や外来語を飲み込む包容度を絶賛して、日本語は天才であるという。確かに日本語の強さを納得させられるのだが、それ以上に柳瀬尚紀の天才ぶり(奇才ぶり)が明らかになる。

どうやるとこういう日本語の天才になれるのだろうか。こういう一節があった。

「背伸びしているふうに、と言いましたけれど、そもそも本は背伸びして読むものではないでしょうか。もちろん、本を読むとき、人はうつむく。そっくり返っては読めない。しかしうつむいて読みながら、気持は背伸びする。精神は上へ向く。それが本を読むということだと思います。使う言葉も背伸びしたものになる。一段上の言葉を使うようになる。そうして言葉が成長するわけです。」

本で読んだちょっと難しい言葉を、日常生活や作文で使ってみる背伸びが、日本語能力を成長させる。そういった意味では、メールより手紙の方が日本語能力は高まるのだろうな。かつては年長者の日本語を若者が真似をしたが、最近は逆でいけませんと嘆いているのもそうだよなあと思う。いいお手本がなくなったのが現代社会の日本語なのだろう。

絵文字でごてごて(しかも字が動いたりする)携帯メールや、文末にw (笑)(藁)がついたような2ちゃんねる文体が、インターネットやメールでは流行している。きしょいとかきもいとかの最近現れたばかりの若者言葉や、ら抜き表現などを、年長者が若者に迎合するように使ってしまっている。言語の伝統保守とその破壊がバランスをとるべきなのに、最近は破壊の力がアンバランスに強烈な気がする。語彙は増えているが、きれいな日本語、美しい日本語が増えていないように感じる。

柳瀬尚紀というのは、日本語を愛し伝統を守りながら、同時に破壊解体して、自身の創造行為(翻訳)をする前衛的日本語使いである。機械には絶対に無理な翻訳をして、芸術のレベルにまで高めてみせた人でもある。そういう凄い使い手が、今の日本語を主観的に、そして客観的に、どう見ているのか、がわかって勉強になった。いい日本語を使うにも、守・破・離が重要なのだな。

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2007年05月21日

岡本太郎 神秘

・岡本太郎 神秘
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これは大傑作だ。沖縄・久高島の秘祭イザイホーを写した表紙にひきつけられ、本屋でちらっと数ページ見て、これは凄いと感心し、即購入を決めた。写真集として5つ星をつけたい。

・日本人の魂の原郷 沖縄久高島
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003941.html
久高島については以前書きました。

「芸術は爆発だ」の岡本太郎と、「婆バクハツ」の写真家 内藤正敏の爆発系の二人のコラボレーション写真集。岡本太郎が遺した2万枚の写真ネガを内藤が現像して、岡本の文をキャプションとして配置した。

60年代に岡本は民俗学に強い関心を持ち、数年間の間、東北、関西、沖縄で撮影を重ねていたらしい。プロの写真家ではないからこそ、意図的演出ではなく偶有性の奇跡がしばしば顕れる。自らシャーマンとなることで神秘の写真を撮ることができた。

岡本太郎の養女 敏子の序文はこうある。

「神秘を感得する能力は現代人からはほとんど失われてしまった。だが稀に、そういう原始の資質を鋭く、なまなましく持っている異常な人がいる。岡本太郎はそういう人だった。フランスで育ち、教育を受けているし、本来極めて論理的な頭脳を持っている。合理的な人なのだが、感応すべき場や、ものに出会うと、ぴりぴりとし共振してしまうらしい。人に言っても解らないから、ふだんは黙って、底に秘めている。だが、あるとき、突如彼はシャーマンになる。直接、彼方の世界、神秘と交流する。」

岡本太郎の見つけた神秘の正体は民俗であった。貧しくぎりぎりの生活だが、本物の暮らしをする人々の原初的なパワーだった。ここに写された人々は現代文明から取り残された場所で、必死で一杯であるが故に、常に霊的力の源と隣合わせなのである。女、こども、水と火、生と死、性と聖、浄と不浄、リアルとバーチャルの際を、岡本のカメラはキワどくフィルムに写し撮る。情念のレンズが非生命の人形にさえも魂を写した。

「人間の純粋な生き方というものがどんなに神秘であるか」

「この運命に対して、下積みになりながら日本の土とともに働くもののエネルギーは、黙々と、執拗に、民族のいのちのアカシを守り続けてきた。形式ではなく、その無意識の抵抗に、私は日本文化の可能性を掴みたい。」

「芸術は芸術からは生まれない。非芸術からこそ生まれるのだ」

この写真集を見れば、岡本太郎の視覚芸術での圧倒的な表現力の根源が、神秘の感得能力にあったことは疑いようがないと思える。生の民俗こそバクハツの起爆剤なのだ。そこには生きる力のすべてがある。

内藤の白黒ネガの現像技術も芸術だ。白黒ネガの創造性は多くは現像の技法によって生み出される。機械的な現像処理ではこの傑作はなかったはずだ。露出の制御が絶妙である。昼夜がわからない暗く焼いた画像は被写体の時間を止める。粒子が粗く、ブレを効果的に見せる作風は、写真家 森山大道の作風に似ているが、神秘性の視覚化という点ではこちらが何枚も上にあるように感じる。

二人で一つの偉大な芸術を生むことに成功した、世界でも珍しい奇跡の写真集である。130ページの神秘。

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2007年05月15日

全東洋街道

・全東洋街道 上
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・全東洋街道 下
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「東洋の魂を求めて放浪400日!チベットでは山寺にこもり、チェンマイでは売春宿に泊まる…。全アジア都市の聖・食・性を写し出す、毎日芸術賞受賞のオールカラー・人間ドキュメント。」

四半世紀前の作品だが、この藤原新也の数ある放浪記の中でもこれは傑作だと思う。アジアの風土がこの人の気質と合っているのだ。外国人でありながら現地の風俗にどっぷり浸かって、観光とは無縁の、魂の遍歴とでもいうべき旅を続けた。

ときには売春宿で娼婦たちと生活を共にし、彼女たちの肢体も写真におさめている。裸の娼婦はカメラにコケティッシュなポーズを取りながら「頭の人ばかり ダメネ 人間は肉でしょ 気持いっぱいあるでしょ」と笑う。

生と性の根源である食にもこだわる。トルコでは排泄物の香りがする羊の腸のスープや、グロテスクな山羊の頭料理を写しては食べる、そして、写してまた食べる。豚のレバーにむしゃぶりつきながら、市場でシャッターを押す。「市場があれば国家は不要」。名言だ。

「レンズは九十九パーセント、肉眼に近い広角レンズを使った。街を歩き人に触れるのに望遠レンズを多用するのは卑怯だという私なりの考えがある。つまり写真を撮りながら被写体がその気になり、その時私の頬を殴ろうと思えばいつも殴れ、笑いかけようとするならいつも笑いかけられる位置において、私は写真を撮りたいと思う。」

このカメラのスタンスで挑んだからこそ、放浪先の土地の人たちの、猥雑で力強い普段の姿を、ありのままに写し撮れたのだろう。藤原新也の作品は、後期になるにつれて、次第に哲学的で説教臭くなっていき、それはそれで面白いのだが、やはり、この放浪記の頃の作品が、作家としてのベストショットだなあ。

・メメント・モリ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004925.html

・黄泉の犬
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004906.html

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2007年05月14日

僕の叔父さん 網野善彦

・僕の叔父さん 網野善彦
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学者一族に生まれた中沢新一は、偉大な歴史学者の網野善彦の甥にあたる。幼少のころから仲が良かった中沢は、網野の死に際して追悼の記念にこの回想記を書いた。中沢の名文により、二人の背景がよく見える本だ。どちらかのファンなら必読である(私は中沢新一のファン)。

それにしても恐ろしくインテリな家系である。おじちゃんと甥っ子、お父さんと子供の会話の内容が、そのまま歴史学であり民俗学であり宗教学なのだ。冗談ではなくて、本当に学会みたいな家族である。

たとえば「私は高校生になった頃、英語に訳された「我国体の生物学的基礎」を読んでいて、奇妙なことに気がついた」と中沢の思い出が語られている。高校生がそんな本を読んで、英訳のニュアンスの違いを発見して、叔父にそれを指摘するのだが、活動家の父親も加わって天皇制と国体の議論へ展開して、ひとしきり盛り上がる。

そして

「このときの網野さんと父の会話は、私には忘れる事ができないものとなった。網野さんは日本の歴史の中に、自然と直接的にわたり合いながら活動する、野生あふれる非農業的な精神の存在を掘りあてようとしていたのである。そして、天皇はそうした人々を、神と人をつなぐ宗教的な回路を通じて支配していた。その人々の世界は農業的日本よりも、もっと深い人類的な地層にまでつながっており、しかもその人々の世界の中から日本型の資本主義もユニークな技術も生まれ出てきた。その世界のもつ潜在力の前では、農本主義も保守主義もほとんど無力であろう。どこかへひきかえすことなどは、不可能なのである。
私は自分がどんな場所に足をすえて、ものごとを考え抜いていかなければならないかを、その夏の夜に知った。私は網野さんの思考にうながされながら、「コミュニストの子供」らしく、思考はつねに前方に向かって楽天的に開かれていなければならないことを、悟ったのであった。」

と感慨を書いている。高校生が悟っている。

何十年間に渡る中沢と網野のやりとりは、後年の二人の学者としての仕事の内容に大きな影響を与えていることがよくわかる。「「トランセンデンタル」に憑かれた人々と形容しているが、人間の心の中の、超越的で先験的な領域の存在への情熱が、彼らの家系には共有されていた。集合することで一層その志向は強まっていったらしい。中沢新一の独特の神秘性の源は、こういう血縁の背景にあったのか、と納得した。

・アースダイバー
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003694.html

・対称性人類学 カイエ・ソバージュ<5>
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001148.html

・神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html

・「精霊の王」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

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2007年05月13日

読書という体験

・読書という体験
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岩波文庫80周年である。

学者、作家、ジャーナリスト、俳優など各界で活躍する34人の本好きが、それぞれにとっての読書の意味をエッセイとして寄せた。内容はさまざまで、座右の書を紹介する人もいれば、長く生き残る本とは何かを考察した人もいる。岩波文庫の歴史を博覧強記に語る人もいるし、実は若いころはあまり本を読んでなかったと告白する人もいる。

有名な書評家の斉藤美奈子氏はこんなことを言っている。

「よく雑誌の読書特集なんかで「あなたの人生を変えた一冊の本は?」と問われることがある。これは気がきいているようで、じつはマヌケな質問なのだ。だから私はそんなとき「本じゃ人生変わりません」と答える。これは本当。第一に「人生を変える」のはやっぱり生身の体験で、本はしょせん本なのだ。第二に、仮に「人生を変えた本」があったとしても、それがたった一冊のはずがない。ていうか一冊じゃ困るわけ。たった一冊の本に人生を左右されるようでは、危なっかしすぎる。」

まさにおっしゃるとおりで一冊で変わるわけもない。複数の本が人生を変えるはずだし、読む順番だってかなり影響するはずだ。必ずしもその分野で一番良い本と最初に出会えるとは限らないから、名著が人生を変えるとも限らないだろう。どんな本でもきっかけにはなりえる。

ところで私は昨年、書評の本を書いた。本好きの中でも、本とのかかわりにおいて、かなり珍しい体験をした部類に入ると思う。それで自分にとって人生を変えた一冊を敢えて挙げるとしたら何かなと考えてみた。

・モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語
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小学生の時に読んだこの本は、明らかに本好きになるきっかけになっている。先日、取りよせてあるので、これから読みなおそうと思っている。近日このブログに書く予定。

それから、妙に共感してしまったのが、多和田葉子氏の「予感の香り」

「ページをめくると、本によって違う香りがたちのぼる。出版社によって、というよりおそらくは使っている紙と糊によって、本の香りは違うのだろう。それは食べ物の香りでもない。むしろ埃を被ったもの、泥のまみれたもの、すえたもの、忘れられたもの、禁じられたものなどの香りである。」

本を開いた時に、周りに誰もいないと、綴じ部に鼻をあてて、匂いをかぎたくなる人って、私だけじゃなかったわけだ。経験を積むと読まなくても、この匂いでだいたい、どのレベルの本かはわかってしまう、というのは冗談だが、情報の匂いをかぐ気持はすごくよくわかる。出版不況を打開する奇策として、名著らしい匂いのする本なんて、どうだろうか。結構、本好きには評判になるかもしれない。

そういえば、岩波文庫というと私の子供のころは、薄い半透明のパラフィン紙が表紙に被せられていたのを思い出す。夏などは汗でパラフィン紙が指にまとわりついてきて、何度も直しているうちにぐしゃぐしゃにしてしまい、諦めてはがしていた。どうやって読むのが「正式」の方法なのか、気になって仕方がなかった。大学にでもいけばわかるだろうと思ったが、行ってもその件は分からずじまい。パラフィン紙の表紙も廃止されてしまった。

愛書家の34本のエッセイを読んで本好きと情報好きは違うなと思った。本好きはそこに書かれている内容だけでなく、本を読むという体験にこだわっている。情報を得るだけが本ではないのだ。寄稿者たちは、本というメディアを、その物理的制約も含めて、人生の一部として愛している。

ぐしゃぐしゃのパラフィン紙、私も結構好きだった。

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2007年04月26日

中世日本の予言書 <未来記>を読む

・中世日本の予言書 <未来記>を読む
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中世の日本では政治や社会の大きな変化があると、人々は、ずっと昔にそのことを予言していたという「未来記」のことを話題にしたそうだ。この本では「野馬台詩」と聖徳太子が書いたと言われる「聖徳太子未来記」の二つの未来記を読み解き、中世の日本に果たしたその役割を指摘する。

こうした未来記の多くは予言であるにも関わらず、事件が起きた後になって”発掘”されていることが多い。あの事件を予言していた昔の文書が見つかったという風にでてくる。内容は、世の中の荒廃に嫌気がさして神仏が日本を見捨てて去っていき、社会が崩壊するという末法思想である。空から猿が飛来し、黒鼠が牛腸を食らうという象徴的な記述に満ちている。ノストラダムスの大予言みたいである。

未来記は由緒が怪しいし、記述にも矛盾が多く、偽書に分類される。特に近世にはいってからは本気で信じる者が少なく、パロディとして扱われていた。歴史学者はまともな研究対象として見てこなかった。

著者は未来記が発見された中世の当時には、偽書として切り捨ててはならないくらい、大きな影響力を持つ文書だったろう、と再評価している。朝廷が菅原道真の怨霊を本気で信じて政治の意思決定を行ったような時代である。少なくない人々が、予言書の内容に影響を受けていたはずだとして、当時の世情を解説する。民衆だけでなく、後白河院も未来記の一つに魅了されていたという事実も紹介されている。

そこには十分なリアリティがあったのである。そして、現在の状況への批判の姿勢がある。

「もちろん利権や私利私欲をねらって捏造した場合もあるだろう。しかし、時代を動かし、難局を乗り越え、ひたすら世の中や人々の救済を指向し、あらたな未来に挑戦しようとする強い意志がそこには横溢するのではないか。名もない人たちの、未来記に託した想いが凝縮されているともいえよう。」

未来記は、混迷する世の中への問題提起として、当時の誰かが書いた怪文書ということのようだ。怪文書はそれが出てきたコンテクストと突き合わせて読み解くことで、時代状況を知るための有意義なテクストにもなる。中世から近世まで、日本人がどんなフィクションにリアリティを感じてきたかの歴史学として面白く読めた。

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2007年04月25日

硝子戸の中

・硝子戸の中
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夏目漱石が1915年1月13日から2月23日まで新聞連載したエッセイ36本。

「硝子戸の中から外を見渡すと、霜徐をした芭蕉だの、赤い実の梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれといって数え立てるほどのものは殆ど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。」

この時期、漱石は持病の胃腸病に悩まされて、自宅療養生活を送っている。「自分以外にあまり関係のない詰らぬ」事を書くと断って、日々の生活や追憶を短く綴っている。当時すでに文豪としての地位を確立していた漱石だが、このエッセイ集では意外にナイーブな内面を見せている。

自分が親から疎まれていたのは性格が悪かったからだろう、とつぶやいたり、偏執的な読者から繰り返し送られてくる手紙にほとほと参ってしまったり、あなたの講演は難しかった、わからなかったと言われて、随分落ち込んだりしている。

「今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑り深くて人を容れる事が出来ないか、この両方だけしかない気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯続くとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。」

他人の眼をとても気にする人だったのだなと驚く。そんな世間と自分を連載の題名「硝子戸」で隔てた上で、新聞の依頼で書くけどこれは「つまらぬこと」ですよ、という断りまで入れる。何重にも対読者バリアを用意しているわけである。こうしたナイーブな感性が数多くの傑作を書けた理由なのかもしれない。

「ある人が私の家の猫を見て、「これは何代目の猫ですか」と訊いた時、私は何気なく「二代目です」と答えたが、あとで考えると、二代目はもう通り越して、その実三代目になっていた。」という、有名作品を連想させる記述もある。有名作家だからいろいろな人から相談を受けている日常も書かれている。女性の身の上相談に理屈で答えている。カウンセラーとしてはあまりうまくない先生だったみたいだが、物語のネタをそうやって吸収していたのだろう。自分語りが少ないと言われる文豪漱石の、日常と内面がのぞけるのが、このエッセイ集の面白さでもある。

漱石の文体は、エッセイでも、ちゃんと四角いなと感じた。漢字や仮名遣い、接続詞、句読点の打ち方が、なんというか、お手本的である。無駄がない。特に事の顛末を、時系列に、短文を並べて、説明するのがうまいなと思う。

「この小包と前後して、名古屋から茶の缶が届いた。しかし誰が何のために送ったものかその意味は全く解らなかった。私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。するとほどなく板越の男から、富士登山の絵を返してくれといってきた。彼からそんなものを貰った覚のない私は、打ち遣って置いた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方気違だろう。」私は心の中でこう極めたなり向こうの催促には一切取り合わない事にした。」

という風に数週間を短く圧縮してみる一方で、時間的には一瞬の心理描写を同じくらいの行数で綴ったりする。文章の意味の圧縮率を自在に変えられるから、全体として構成の整った文章になっているように思えた。こういうのを実際に書こうとすると、下手な私は思い入れのある部分が冗長に引き延ばされてしまう。文章のうまさというのは、こういうところでも差が出るのかもしれないなと、文豪の手すさみを読んで思うのであった。

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2007年04月21日

字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ

・字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ
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いま、劇場で洋画の吹き替え版の人気があるそうだ。しかし、私は吹き替え版を一度も劇場で観た経験がない。同じ料金を払って俳優の肉声が聞けなければ、作品本来の出来を味わえないから損ではないかと思ってしまう。DVDで吹き替えが選べても同じである。例外は子どもと一緒に観るディズニーアニメくらいだろうか。

英語力は自信がないが、たまにセリフと字幕が違っていて、なぜそのような字幕にしたのか意図を考えてしまうことがある。冒頭でも紹介されている名画「カサブランカ」の「君の瞳に乾杯」。これは私も見た時に英語ではなんて言っているのかなと確認して見た。”Cheers to your eyes”とは言っていない。実際のセリフは”Here's looking at you,kid!”である。翻訳者がこの映画の名セリフをかなり創作していたのだ。

一秒のせりふなら翻訳文は四文字以内、二秒なら八文字以内、三秒なら十二字以内。つまり一秒に四文字が字幕の原則だそうだ。一本の映画には約1000本のせりふがあり、字幕翻訳者は一文字レベルの要訳、圧縮作業に苦闘している。

字数のみならず語順も意識するそうだ。「ドラマティックなシーン以上に語順で神経を使うのがジョークだ。たいてい最後の一語にオチがくる。字幕もそれに合わせないと、どうにもマヌケなことになる。」。日本語と英語では述語の位置が違うから、これを補正するのは大変なクリエイティブ能力がいる。

他にも言語の違いは大きい。英語には一人称がひとつしかないが、日本語の一人称は発話するキャラクターによって変化する。私なのか僕なのか俺なのか、そして語尾も状況に応じて変えなければならない。それには作品の背景知識が相当に必要とされるわけだが、公開前の管理が厳しい大作の場合は、映像は見ないで台本ベースでつけねばならないこともあるという。

作品ごとに想定される観客の教養レベルを推し量ることも大切らしい。たとえばシェイクスピアのような有名作家や、リンカーンやナポレオンやキング牧師のような歴史上の有名人の名言がせりふに使われている場合、そのまま使うと知識のない観客には理解できない。だから「ロシアの文学者はこういった」のように説明的に字幕をつくるケースも多いという。

こうした親切な要訳は賛否両論になる。インターネット上には字幕翻訳者を批判するサイトがある。原作のマニアたちが原文との違いを指摘している。全体の流れや観客層を総合的に判断して字幕をつけているのだから、マニアのつくる正しいが長い字幕ではうまくいかないのに、とプロとしてボヤいている。

字幕翻訳者は苦労が多い割に実入りのいい仕事ではないらしい。納期も厳しい。なんと一作一週間ほどというから驚いた。全世界一斉公開に間に合わせるため、まだ最終版ではない台本で字幕を作っては、台本が修正されて字幕もやり直すという泥沼作業もあるそうだ。そんなに急いだ割に配給の関係で公開は2年後になりましたということもある。

最後に著者は映画業界は「難易度別字幕上映システム」を導入したらどうかと秘策を提言している。お子様向けの「あっさり字幕」からインテリや専門家向け「こってり字幕」まで何段階かを用意するという仕組みだ。劇場の制約があるから映画館での導入は難しいのではないかと思うが、DVDで、こんな仕組みが用意されていたら、繰り返し見たい作品を何度も新鮮に味わえてよいかもしれない。

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2007年04月11日

危ない写真集246

・危ない写真集246
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いろいろな意味で危ないサブカルチャー写真集を246冊もレビューした奇書。それぞれ代表的な作品が掲載されているので、紹介されている写真集を見た気になることができる。
ここに取り上げられる写真はどれもマスメディアには出てこない危ない写真ばかりである。死体、セックス、奇形、精神病患者、自傷などなど、ちょっとパスしたいシロモノ多数。一人の女性の陰部ばかりを長期にわたってマクロ撮影した写真家や、少年の勃起した裸体ばかり集めたモノもある。

目次

00-ベスト
01-屍体のある風景
02-医学・フリークス・タトゥー
03-ボンデージの愉しみと恐怖
04-セックス&ボディ
05-狂気のポートレイト
06-グロテスクの劇場
07-人間人形時代
08-オールド・ファッションド・エロティカ
09-クラシック・ドキュメンタリー
10-現代のドキュメンタリー
11-危ないアーティスト・ブック
12-コレクションの魔

インターネットの路地裏へ一歩入るとこうした写真は簡単に見つかったりするものだが、体系的にその危うさの意味が論じられているのが、この本の価値である。

たとえば、かつて写真がまだ高級なものであった頃、亡くなった家族の遺体を写真に撮ることは思い出を残す行為として、広く行われていたようだ。精神病院の患者の写真集というのも、人権やプライバシーが重視されていなかった時代には多数出版されていた。それから、結構長期にわたってヌード自体がイリーガルな時代が各国にあった。今見るとライトなヌードも当時は人目を忍ぶディープなポルノであったらしい。時代背景とセットで作品を見ることで、各時代に、権力が何を隠さねばならなかったかがわかってくる。

何を隠すかもまた時代を写す鏡である。

たとえば、いまどきのネットで隠されているものとして「キムタク」がある。

久々に毎週見ていた人気ドラマのサイト(番組は終了)を見ると、

・TBS 日曜劇場「華麗なる一族」
http://www.tbs.co.jp/karei2007/

他の木村拓也の写真は一枚もないのである。他の俳優は配役紹介で顔写真が出ているがキムタクだけイメージ画像であり、極めて不自然だ。

調べてみると分かるが、ネット上ではジャニーズのタレントの肖像権は厳しく管理されている。キムタクがCM出演しているニコンのデジカメのサイトにいけば顔を拝めたりするが、この画像を保存しようとすると「このサイトでは、右クリック操作ができません」とポップアップが出てくる。

・ニコン アドギャラリー
http://www.adgallery.nikon-image.com/

キムタクの顔も、業界関係者にとっては、ある種の危ない写真なのである。別の意味でメディアには封印作品がある。音楽では放送禁止の歌もある。なぜそれが危ないのか、出してはいけないのかを考えると、時代の構造が垣間見えてくる。

そして、危ないものが多い時代はやっぱり危ないのじゃないか、と思う。

・封印作品の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002818.html

封印作品の謎 2
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004341.html

・放送禁止歌
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001449.html

・案外、知らずに歌ってた童謡の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003167.html

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2007年04月08日

モノクローム写真の魅力

・モノクローム写真の魅力
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モノクローム写真の魅力を、国内有名写真家50人の作品、インタビューと一緒に紹介している。「写真の持つ記録性と表現性を、カラーとモノクロームに照らし合わせて考えると、記録としての写真は自ずと情報量を備えたカラーが有利であり、表現としての写真は抽象的なモノクロームが有効と受け止めるのが自然です。」

モノクロ写真は情報が整理され、被写体が持つ意味をはっきりさせる。

「モノトーンのなかに色を読み取って欲しいし、見る側にとってもカラーよりモノトーンのほうが自由に受け止められるはず」「モノクロームは絵で言えばデッサンでしょ。写真の基本じゃないかしら」といった写真家もいた。

雑賀雄二という写真家の「月の道」は、夜中に長時間露光で無人島の背景を撮影したもの。普通に撮影したら真っ暗闇だが、月の明かりをゆっくりじっくり吸うことで、夜でも昼でもない不思議な世界が現れる。カラーではこういう表現はできないだろう。

・月の道/Tsuki no Michi-Borderland-top,by SAIGA yuji
http://www.ne.jp/asahi/saiga/yuji/gallary/tsuki/top.html
Webで作品を鑑賞できる。

魚を使ってオブジェを作る今道子の写真もカラーではあまりにグロテスクで鑑賞に耐えない作品になる気がする。色を消すことで純粋にカタチの面白さが味わえるのだと思う。

・The PHOTOGRAPHER/今 道子
http://www.fujifilm.co.jp/photographer/2004_12kon/index.html

この写真集を見ていて面白そうなので、モノクローム写真を自分でも撮影してみることにした。デジカメのカラー写真をモノクロ化するのは簡単なのだが、それでは味が出ない。ここはやはりフィルムだろうということで、先日入手したチープなカメラにこの白黒フィルムを入れてみた。

フジフィルム 35mm白黒フィルム ネオパン100 アクロス 36枚撮り

・メーカーのサイト
http://fujifilm.jp/personal/film/monochrome/film.html
「中庸感度、超高画質の黒白写真用ネガティブフィルムです。このフィルムは、ISO100としては世界最高水準の粒状性と豊かな階調、優れたシャープネスを備えていますので、ポートレート、風景写真、建築写真、商品写真から顕微鏡写真や複写用途に至るまで幅広い分野の撮影に適しています。また、優れた相反則不軌特性を有しており、低照度長時間露光による感度低下が非常に少なく、建築写真や夜景などの長時間露光の撮影では特に効果を発揮します。」

白黒で撮影してよく写りそうなものを探して撮影してみた。


他に人物もかなり撮影した。

モノクロがいいなと思ったのは飲み会の写真。赤ら顔や食べ残しが写っていても気にならない。さわやかな飲み会写真になる。街のスナップでも使いやすい。人物の背景に真っ青なゴミバケツが写りこむとカラーでは見苦しいが、モノクロでは気にならない。

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2007年03月31日

WORLD of PINHOLE

・WORLD of PINHOLE
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ピンホールカメラにこだわって20年の写真家による作品集。

周辺光量が落ちて、闇のトンネルの向こうに広がる、幽玄の世界。どの作品も静かに時間が止まっている。こどもの頃、永遠に続くかと思えた夏休みの感覚を思い出す。AFデジカメのようにくっきり映り過ぎないから、光と影、そして世界の色の魅力がストレートに感じられる。美しい。

ピンホール写真は見るだけでなく、撮ることも楽しい。すっかりピンホールの虜になってしまった私は、週末は晴れたら必ず撮影にでかけている。ピンホールには日光が大切だ、天気が気になる。愛好者の有料会員組織「針穴写真協会」に入会してしまった。

針穴の大きさ、露光時間、フィルムの種類などを完全にマニュアルで設定する。前回の撮影メモを見ながら工夫を重ねる。おおざっぱにフレーミングを考えたら、シャッターをじっと開いて、数を数えて、そろそろいいかなと思ったら閉じる。狙い通り撮れていることはめったにないが、意外性が狙いを上回ってくることもあるから、楽しい。

デジタル一眼レフカメラでピンホールを手軽に楽しむことはできる。レンズキャップに針穴をあけて自作する人もいるし、カメラ用品メーカーのケンコーからは専用のピンホールレンズも販売されている。

・撮影ガイド〜ピンホール写真を撮ってみよう!
http://www.biccamera.com/bicbic/jsp/w/camera_kan/photographing_guide/pinhole/

デジカメならその場で写りを確認できるので失敗も少ない。しかし、出来上がりを見ると、シャープに写りすぎている気がして、フィルムの方にまだまだ魅力を感じる。一枚一枚を大切に撮る過程がやはりいいのじゃないか。

しかし、そうやって自己満足できる楽しさがある半面で「作品」に仕上げるのはたいへんそうだ。この作品集のような、誰が見ても印象的な写真を撮るのは極めて難しいと痛感する。ピンホール道20年の技は偉大であるとしみじみ感じる一冊であった。

私の最近のピンホール作品。

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2007年03月29日

すぐわかる作家別写真の見かた

・すぐわかる作家別写真の見かた
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「写真の誕生から20世紀までの写真の流れを、代表的な写真家の作品を通してわかりやすくたどる。写真家のエピソードや言葉を紹介しながら、隠された姿を浮き彫りにし、同テーマの日本の写真家もとりあげる。 」

現存する世界最古の写真はこれ。

画像:View from the Window at Le Gras, Joseph Nicephore Niepce.jpg - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:View_from_the_Window_at_Le_Gras%2C_Joseph_Nic%C3%A9phore_Ni%C3%A9pce.jpg
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1827年にニセフォール・ニエプスが自宅の窓から撮影した。

ニエプスは、写像をスケッチするために画家が使っていたカメラ・オブスキュラ装置を改良し、金属板に画像を定着させることに成功した。この時期は長時間露光(8時間〜20時間といわれる)が必要であったので、黎明期の写真は風景写真が多い。

そして世界最初の実用的写真技法であるダゲレオタイプが発明され、露光時間は1、2分になり、一般人も使うことができるようになった。これは1837年のダゲレオタイプ作品。

・画像:Daguerreotype Daguerre Atelier 1837.jpg - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Daguerreotype_Daguerre_Atelier_1837.jpg
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この本は、この一枚から始まって現代まで、60人の代表的な写真家と作風、作品紹介が続く。南北戦争の戦場の写真まである。地面に死体が転がって、遠く向こうに騎兵らしき姿がぼんやりと見える。既に写真があったのかと驚かされた。

・南北戦争−死の収穫、ゲティスバーグ
http://www.rekibun.or.jp/promotion/archive/arch-photo4.html
東京都写真美術館提供で実物が見られる。

記録に始まった写真だが、早い段階で芸術表現のひとつにもなる。各時代の写真家たちは、当時の最先端技術を取り入れながら、今見ても斬新な表現に取り組んできた。たとえば画像処理の技術は100年以上前からあった。30枚以上のネガを合成して絵画のような作品に仕上げたオスカー・ギュスターヴ・レイランダーの「Two Ways Of Life」は、今ならばフォトショップの達人の技である。

REJLANDER, OSCAR GUSTAVE: A History of Photography, by Robert Leggat
http://www.rleggat.com/photohistory/history/rejlande.htm
実物の「Two Ways Of Life」が見られるページ。

多数の歴史的傑作が大きく鮮明に掲載されているため、理屈だけではなく写真の歴史を学ぶことができる名著だと思う。

・ ピンホールカメラ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004930.html

・Henri Cartier-Bresson (Masters of Photography Series)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004931.html

・木村伊兵衛の眼―スナップショットはこう撮れ!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004923.html

・Yahoo!インターネット検定公式テキスト デジカメエキスパート認定試験 合格虎の巻
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004918.html


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2007年03月25日

Henri Cartier-Bresson (Masters of Photography Series)

・Henri Cartier-Bresson (Masters of Photography Series)
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ヘンリ・カルティエ・ブレッソンは20世紀を代表するフランス人写真家の一人。小型カメラのライカを片手に世界の人々のスナップ写真を撮影し「決定的瞬間」という言葉を作った。この本はその傑作を集めた写真集。洋書。長生きした写真家であったがここに収められたのはすべて白黒写真の時代のもの。約40枚を1時間かけてじっくり鑑賞してみた。被写体の人物に、吹き出しをつけてセリフを書き入れたくなる。ドラマチックだ。

この本の冒頭に2ページほど、ヘンリ・カルティエ・ブレッソン本人が、自らの写真論を語っている。その中で気になった一節を訳してみた。

「私は「つくりもの」や演出された写真とは無関係だ。敢えて言わせてもらえば、そういう写真はせいぜい心理学的、あるいは社会学的なレベルのものでしかない。事前に準備された写真を撮る写真家と、イメージを発見するために出かけて、それを掴まえる写真家とがいるのだ。私にとって、カメラはスケッチブックであり、直観と自然の道具であり、疑問と決断を、文字通り同時にこなす瞬間の主人である。世界に”意味を与える”ために、写真家は自分自身がファインダー越しにフレームに収める何かと一体感を感じていなければならない。その態度には、集中力と精神の鍛練、感受性と幾何学のセンスが必要である。そして偉大な倹約によってこそ、表現のシンプルさに到達するのである。写真家は、常に被写体と自身に対して最大限の敬意をもって写真を撮らなければならない」

作品を見ていると、被写体と背景という文脈の情報量をいかに簡潔に整理するか、それが切れ味のある写真の極意なのだなと気がつかされる。「決定的瞬間」の元祖の写真は、絞り値を高くした作品が多く、現代のポートレートのように背景をぼかしたものがこの写真集にはほとんどないのである。だから人物スナップであっても時代背景を絶妙に切り取っている。当時の白黒写真は無駄な情報を省くという意味でも、この手法にマッチしたものであったと思う。

どんな作品かをプレビューしたい人は、アンリ・カルティエ=ブレッソン財団に代表作のサムネイルがたくさんある。Googleのイメージ検索でもなぜか大量に見つかる。

・アンリ・カルティエ=ブレッソン財団
http://www.henricartierbresson.org/hcb/home_en.htm

・Googleのイメージ検索
http://images.google.co.jp/images?q=henri+cartier-bresson&hl=ja&lr=lang_ja&um=1&sa=X&oi=images&ct=title

この写真家の「決定的瞬間」として有名なのは、男性が水たまりに向かってジャンプする逆光の写真「behind the saint-lazare station」である。この作品集にも、財団のページにも掲載されている。私は最初この作品を雑誌上で小さなサイズで見た時に、何がいいのか分からなかったのだが、この作品集で大きなサイズで見て、面白さがわかった。

奥にあるポスターに描かれた女性の跳躍と、男性のポーズに最初に注目するといい。奥行きのある左右対称である。同時に水たまりの映りこみが上下の対称を構成している。そのほかにもいくつか対称性を発見できる。偶然のようでいて考えられた幾何学構図なのだ。(しかし、この作品が他の作品と比べて特別優れているわけではないと思うのだが)。

アンリ・カルティエ=ブレッソンの作品には一枚一枚にドラマ性がある。説明がなくても、被写体の人物の生き方や人柄が想像できるものが多い。激動の時代を写した写真家だが、社会的テーマを野暮に掲げる問題意識はまったく感じられない。そうではなくて、それぞれのドラマを背負って生きている人間を、時代の背景と一緒に写すことで、あとは見る者に解釈を任せている。

同時代の日本の写真家、木村伊兵衛とブレッソンは親交があり影響を与えあったと言われる。共通点は多く見出せる。

・木村伊兵衛の眼―スナップショットはこう撮れ!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004923.html

・Yahoo!インターネット検定公式テキスト デジカメエキスパート認定試験 合格虎の巻
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004918.html

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2007年03月20日

聖書の謎を追え ナショナルジオグラフィック DVD BOX

・聖書の謎を追え RIDDLES OF THE BIBLE
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/shop/dvd/bible.shtml
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「人類にとって最も重要な物語の一つである聖書。その物語は果たして史実に基づいて書かれたのでしょうか?この史上最大のベストセラーを、あらゆる角度から科学的に解明していきます。聖書を研究するのは今や、聖書考古学者や宗教学者、熱狂的な信者たちだけではありません。地質学者や天文学者、昆虫学者、気象学者、生物学者、物理学者、地震学者、火山学者たちといった科学者も聖書をテーマに研究をし、そこに秘められた謎を解こうとしています。

DVD-BOX『聖書の謎を追え』では、大洪水とノアの箱舟(旧約聖書創世記)、退廃の町ソドムとゴモラの滅亡(旧約聖書創世記)、エジプトから約束の地カナンへの道のり(旧約聖書出エジプト記)、契約の箱アークの行方(旧約聖書出エジプト記ほか)、ヨハネの黙示録の暗号(新約聖書ヨハネの黙示録)の5つの物語を取り上げ、検証していきます。
今年のお正月休みに観た5枚組みDVD BOX。」

●「ノアの箱船」の大洪水は本当にあったのか
●退廃の街ソドムとゴモラはなぜ滅びたのか
●モーゼが奇跡を起こした出エジプト記の真実は?
●十戒の石版を納めた契約の箱はどこに消えた?
●「ヨハネの黙示録」は人類の未来を予言している?

聖書の謎に科学で迫るナショナルジオグラフィックの大特集。購読者割引で購入。

CGも使った聖書時代の再現映像が素晴らしい。

科学者や考古学者が、ノアの箱舟の痕跡を探したり、モーセが海の水を動かした奇跡は本当に起こりうるのか実験したり...。聖書の記述は歴史的根拠があるはずだという信念のもとで、聖書の有名なエピソードを検証する人たちのドキュメンタリである。

科学的アプローチとは言っても、「神々の指紋」のグラハム・ハンコックが有識者として登場するので、どこまで本気か分からないのだが、「ダヴィンチコード」が好きな人には、ちょうどいい娯楽性が入っている。そもそも登場する専門家たちも、ワクワクしながら研究しているように感じた。

西洋の古代史として聖書があるとすると、日本における古代史は、古事記・日本書紀だろう。邪馬台国や卑弥呼の謎を検証するノリに近い気がする。ただキリスト教の信者の多さと、聖書という前提を無条件に信じる思いの強さが、研究の幅を広げ、深いものにしているように思った。その世界の多数が信じているなら、それは事実でなくても真実になる。世界の3分の1くらいの人にとって、それは真実でなければならないこと、なのだな。

学生時代に聖書は通読したことがあるが、長すぎて覚えていられない。映画、アニメや漫画でよかったものを紹介。なんにせよ聖書は知っておくと西洋文化の理解に役立つなあと思う。

・十戒 50周年記念版 (初回限定生産): DVD: チャールトン・ヘストン,セシル・B・デミル,ユル・ブリンナー,アン・バクスター,セオドラ・ロバーツ,シャルル・ド・ローシュ,エステル・テイラー,ジーニー・マクファーソン
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これは今見ても物凄い迫力。映画史に残る傑作。

・マンガ聖書物語 (旧約篇): 本: 樋口 雅一
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・手塚治虫の旧約聖書物語
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関連書評:

・ユダの福音書を追え
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004582.html

・グノーシス―古代キリスト教の“異端思想”
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004060.html

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2007年03月19日

メメント・モリ

・メメント・モリ
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この写真集を見て心を揺さぶられない人はいるのだろうか?

20年前に出版された、藤原新也の伝説的な傑作。

メメント・モリ=死を想え。

インドの野原で焼かれ、川原で野犬に食われる遺体の写真。「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」「遠くから見ると、ニンゲンが燃えて出す光は、せいぜい60ワット3時間。」というコメントがつけられている。行き倒れの行者の遺体に「祭りの日に聖地で印をむすんで死ぬなんて、なんてダンディな奴だ。」。

思わず眼を伏せたくなる、生々しい死の現場がある一方で、数百年、数千年変わらない気がする原風景の懐かしさや、この世と思えぬ、天上の楽園のような美しい風景もある。死を意識することは生の喜びを確認することにつながるんだという、著者の視覚メッセージに、まず頭をぶん殴られ、言葉を失い、そして魅了される。

露出不足気味の暗い画面に、ぼうっとインドの、日本の、生と死が浮き上がっている。ピントをあえてはずしていることで、読者の想像の余地を残す。著者が後日談として発表した「黄泉の犬」を読んでおくと、一層イメージが伝わってくる。

この本が出版されて以降も、現代人の日常から死はどんどん遠ざかっている。同時に生の手ごたえも弱まっている。昔よりも今の方がこの古い写真集の衝撃は大きくなっている気がする。

・写真家 藤原新也オフィシャルサイト -fujiwara shinya official site-
http://www.fujiwarashinya.com/main.html
メメント・モリの一部がオンラインで見られます。

・黄泉の犬
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004906.html

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2007年03月11日

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

・ナショナル・ストーリー・プロジェクト
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すばらしい企画だと思う。3ヶ月かけて毎晩少しずつ読んだ。

ポール・オースターがラジオ番組から、全米のリスナーに対して、あなたが語るべき人生の物語を投稿してほしいと呼びかけた。あらゆる年齢、性別、職業、人種の人々から、何千編もの実話の投稿が集まった。どの話も、語り手にとって人生の中で人に語りたいことが数ページに濃縮されている。オースターはその中から珠玉の180編を選び出して番組で放送した。そしてこの本ができた。

初恋のときめき、愛する人との別れ、壮絶な戦争体験、犯罪や暴力の体験、信じられない奇跡体験、動物の話、学生時代の思い出、九死に一生を得た事件事故など、ストーリーはバリエーションが豊かである。なにげない日常生活の中に自分の人生の意味を見出した話もある。「アメリカが物語るのが聞こえる」。20世紀のアメリカが丸ごとこの本に入っているのだ。

各国でナショナル・ストーリー・プロジェクトを立ち上げて、外国のストーリーを読みあったら有意義だろうなと思った。第二次世界大戦を描いた映画「硫黄島からの手紙」には、捕虜のアメリカ兵の残した母親からの手紙を日本兵が読む場面がある。出征した息子へのアメリカ人の母親の手紙は、敵は鬼畜ばかりだと思っていた日本兵たちの心をうった。

小説や映画原作を書きたいという人にとっても、この本は話のタネが満載だから、かなり参考になるのではないかと思う。

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2007年03月05日

人類と建築の歴史

・人類と建築の歴史
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東京大学教授の建築学者が、人類が建築を生みだした起源について大胆な仮説で迫る本。中学、高校生向けにルビつきで平易に書かれているが、人間の精神性と建築の関係について深く考えさせられる内容である。20世紀に入ってからの近代建築史は最後にわずかに記述があるだけで、90%は古代建築について語っている異色の構成。

時代が下るにつれて建築は地域ごとに多様化してしまうので人類共通の建築の歴史と呼べるものは数千年前でしか論じられないと著者は考えたようだ。宗教と建築の関係について特に詳しい。

日本の最高神、アマテラスは太陽神である。高さ48メートルあったと言われる出雲大社はなぜその高さになったのか。出雲大社の周囲には30数メートルの杉の森があった。それより高くすることで天上世界との境界をつくりたかったのではないかと著者は考えている。中心には太い柱があるが不思議なことに屋根を支える構造になっていない。この柱は王者の亡骸を安置し、その魂を天上へ発射するための呪術的装置の意味があった。太陽神を信仰する他の巨石文化のスタンディングストーンと同じ役割を果たしていたのではないかと著者は論じる。

ストーン・サークルやピラミッドはなぜつくられたのか、など古代の建築物についてとても詳しく考察されている。写真も多い。考古学的にはそれらの起源はまだ不明であるはずだが、著者は古代人の心理を想像し、説得力ある仮説を物語る。

たとえば新石器時代に家が出現したことについて、

「久しぶりに見た家が昔と同じだったことで、今の自分が昔の自分と同じことを、昔の自分が今の自分まで続いていることを、確認したのではあるまいか。自分はずっと自分である。人間は自分というものの時間的な連続性を、建物や集落の光景で無意識のうちに確認しているのではないか。新石器時代の安定した家の出現は、人間の自己確認作業を強化する働きをした。このことが家というものの一番大事な役割なのかもしれない。」

どういうことを考えて建築をつくったか、ということと同時に、そういう建築に住まうとどういうことを考えるようになるか、というフィードバックの視点は有意義である。人々のニーズで建築が生まれるが、建築は人々の精神に影響を及ぼすものでもある。そして、インターネットという新しい建築が、そこに住まう人に影響を及ぼしているのだなあ、と思う。

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2007年03月01日

アメリカよ、美しく年をとれ

・アメリカよ、美しく年をとれ
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アメリカ史の大家 猿谷要教授の最新刊。なんと御年83歳である。渡航が制限されていたため意外にも43歳ではじめて渡米。それ以降、アメリカの大学に在籍して歴史を研究し、日本に大国アメリカの光と影を紹介してきた。自身が体験した戦後の古きよきアメリカから、次第に軍事力を背景にした帝国主義に染まりつつある今のアメリカまでの変遷を、回想で辿る。

共同通信の調査によると、世界で最も悪い影響を与えていると見られている国としてアメリカはイランについで第2位だそうである。過去に学ばず、大義なき戦争を繰り返している。

「おそらくアメリカ人の多くは、今の超大国のまま永遠に続くと考えているかもしれない。ちょうどローマ帝国の人たちと同じように。」

「しかし今のように他の国から嫌われたまま初老を迎えれば、やがて世界に老醜をさらすようなことになりかねない。これだけ世界中から憎まれ嫌われては、決して美しく老いることなどできはしないだろう。」

モンゴル帝国、スペイン、イギリスなどかつての覇権国家も今は小国である。歴史家の目にはそろそろアメリカも全盛期を過ぎて老いる時期であると写っている。老いて何を残せるのか、アメリカを友のように愛した著者は、軍事力より文化力に重点を移すべきだと苦言を呈する。

前半の古きよきアメリカの思い出話が上質のエッセイとして楽しい。建国以来の歴代大統領の逸話や歴史的事件がしばしば言及される。後半は経済大国でありながら貧困層を20%も抱える今のアメリカの実態や、人種問題の複雑さ、為政者たちの驕りぶり、などが語られている。この230年間のアメリカの全体像を遠近感を持って大局で知ることができる内容になっている。

それにしても83歳で、これだけ明晰な文章って書けるものなのか。著者自身が美しく年をとっているよなあと感心してしまう。

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2007年02月05日

モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類

・モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類
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大臣が女性を子供を産む機械にたとえたことが大問題になっている。その発言の文脈を読むと、どうやら大臣は「人口を統計の数字としてみると女性はその数字を増やす機能を持ちます」的なことを、言いたかったらしい。経済学者が説明に使う言葉として見ればギリギリ許されたような気がするのだが、政治家が使うには配慮が無さすぎた。叩かれているのはモットモである。

だって女性はモノじゃないんだから。

しかし、ヒトはどんどんモノ化しているのでもある。

この本のいう人間のモノ化には物質化と単一化の二つの意味がある。

現代はすべてをモノとして消費する「超」消費社会だと著者はいう。単にモノの売買にとどまらず、教育や医療などの側面でも消費者の立場が強調されており、学生や患者はお客さんとして扱われる。恋人選びや子育てさえも、その行為を「消費したい」という欲望に動かされる。

ブルセラや援助交際はカラダをモノ化することだが、この傾向は女子高生に限った話ではなく、現代消費社会の宿命である。医療においてもカラダや生命のモノ化が進んでいる。試験管ベビー、臓器売買、クローン人間、遺伝子組み換えなど、技術の進歩によって人間の生命は操作の可能な対象になってしまった。

この本はそうしたモノ化の現実を多角的に分析している。各章ではブランド、メディア、労働、思考、命、遺伝子などあらゆるモノ化の側面があぶりだされる。現代を消費主義を超えた「超」消費主義という観点から捉えなおす面白い読み物である。

モノ化が一番わかりやすいのはバイオテクノロジーの分野である。中絶やクローン技術は、米国では大きな政治の論点になっている。モノ化のなにがいけないのか?。著者は肯定も否定もしないのだが、保守派のモノ化に対する反論の一つが人間の尊厳というものである。人間には尊厳があるのだから、軽々しく遺伝子を操作したり、クローンをつくるべきではないという主張である。

そこでこの本には、米国ブッシュ政権の生命倫理委員会委員長レオン・カスの言葉が引用されている。

「「尊厳」で第一に問題になるのは、それが抽象的で、しかも主観的ということだ。(中略)「尊厳」はとらえどころがなく、あまりにも漠然としている。(中略)尊厳の本質や背景について意見の一致が得られない。(中略)根本的な問題は、より普遍的で万人に通用するような「人間の尊厳」の欠如である」

人間の尊厳は絶対のようでいて、その中身をはっきり語れる人がいないのである。受精卵を遺伝子操作することで病因を取り除き健康な赤ん坊を産むことの何がいけないのか、倫理という観点で説得力のある反論をすることは難しい。

人間の自由な欲望が駆動する超消費主義社会においては、欲望の加速化は避けられない。むしろ行くところまで行ってみたらいいのではないかと著者は大胆な結論をしている。
倫理の問題はともかく現実はこういう大勢になっているんだから、時代の波に逆らうより、モノ化の方向で明るい未来を考えてみてはどうかと問題提起している。

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2007年01月25日

タイアップの歌謡史

・タイアップの歌謡史
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ビーイング系アーティストについての長年の謎が解けた。そういうことだったのか。

90年代のヒットチャートをにぎわしたZARD、大黒摩季、WANDS、DEEN、T-BOLANなどの楽曲は、カラオケでよく歌われているが、アーティストの顔が見えなかった。なぜなのだろうとずっと不思議に思っていた。だから2005年にZARDがライブツアーのDVDを出したときには、気になって発売日に買ってしまった。

・ZARDの初のライブツアーDVD What a beautiful moment
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003506.html

これを見て本当に上手に歌える歌手だということがわかったわけだが、当時のレビューにも書いたように、素顔がわかったような、わからぬようなミステリアスさが残る。ZARDはユニット名のはずだがその他のメンバーについてもわからない。

この本で知ったのは、それがビーイングが成功した原因でもある「事務所の方針」だったのである。アーティストがテレビが嫌いだとかコンサートはしないなどのポリシーを持っているわけではなかったのだ。

「ビーイングはCM音楽の仕事を丸受けするのだが、そこではスポンサー側の都合を重視し、かつてイメージソングの時代は障壁になりがちだった”アーティストのエゴ”を一切排除した制作体制を敷いたのである。」

「CM音楽用のユニットという性格の強いビーイングのアーティストは、それほどバンド、もしくはアーティストであるというアイデンティティは強くない。例えばWANDSなどはたとえボーカルであろうとメンバーの顔ぶれは流動的で、明確な実体を持たないバンドだった。グループは休眠状態の時期も多く、うやむやになって「解体」している」

ビーイング系は確かにテレビ、CM、映画などのタイアップ楽曲ばかりである。このアーティストの多くは、タイアップ全盛の90年代に、コマーシャリズムによって作り出されたアーティストだったのだ。当時のオリコン年間チャートの上位20位を見ると、何らかのタイアップ楽曲が9割以上を占めているそうだ。そこでビーイング系が圧倒している。

この本には戦後の時期からタイアップがどのように行われてきたか、歴史が丁寧に語られている。日本の歌謡曲は商業主義と切り離して考えることができない。アーティストはタイアップに利用されてきたが、それを通じてスターになった。タイアップを切り口に商業音楽史を斬るという方法論はとてもわかりやすい。

アーティストのタイアップに対する意見がいくつか紹介されていた。浜田省吾のようにタイアップを否定する人もいれば、山下達郎のように「毎年アルバムを出しているわけでも、年間100本ツアーを20年続けてるわけでもない。TVに出たこともほとんどない。そういう人間が音を世の中に伝えるのはとても難しい。それを助けてくれたのがタイアップですね」と評価する人もいる。

海外では基本的に大物アーティストはCMに出ない。日本ではCMで大物がつくられてきたとも言えそうだ。

各年代のヒット曲とその舞台裏が次々に出てきて楽しい。著者と私が年代が近いのも読みやすい理由かもしれないが、自然に歌謡曲の歴史と業界の仕組みがよくわかる面白い一冊。

・懐かしのCMソング大全
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004676.html

・コカ・コーラCMソング集 1962-89: 音楽: CMソング,フォー・コインズ,スリー・バブルス,ジミー時田,加山雄三とザ・ランチャーズ,ザ・ワイルド・ワンズ
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2007年01月23日

知識人とは何か

・知識人とは何か
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大江健三郎が「「伝える言葉」プラス」で絶賛していたのでパレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家エドワード・サイードを読んでみた。サイードは学者としての仕事とともに、社会状況に対しても積極的な発言をしてきた人物であった。この本は時代を代表する研究者が一般にわかりやすくその価値を説明することで知られるBBC放送のリース講演「知識人の表象」(1993年)での講演内容を書籍化したもの。

・エドワード・サイード - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%89

著者は「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」とそれを定義する。現代の日本ではかつての知識人はただの「物知り」か「専門家」へと後退し、高い志を持った大衆の代弁者としての「知識人」という言葉は「教養」と並んでいまや死語であると思う。

サイードが求める知識人とは上意下達で高い場所から大衆に教えを垂れる存在ではない。支持者や聴衆におもねることなく共感や連帯をつくり、世俗の権力や国家に対して異議申し立てを行うリーダーを指す。

「思うに知識人が迫られるふたつの方向とは、勝利者や支配者に都合のよい安定状態を維持する側にまわるか、さもなくばーーーこちらのほうがはるかに険しい道だがーーー、このような安定状態を、その恩恵にあずかれなかった不運な者たちには絶滅の危機をもたらす危険なものとみなしたうえで、従属経験そのものを、忘れられた人間の記憶ともども考慮する側にまわるということなのだ。」

サイードは、わたしたちは全体主義国家の思想統制や言論活動の制約には監視の目を光らせているのに、「研究や業績も、市場内部でいかに多くのシェアを獲得し維持できるかに主眼がおかれている」自由市場の原理を当然のようにみなしていると批判している。この人気重視の知識流通の仕組みが、戦う知識人にとって大きな脅威なのだという。

そして「現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。」と書いている。専門家が無自覚に行っている活動に対して、一個人として根本的な問いを投げかけ続けるアマチュア精神が、権力に対して真実を明らかにする方法となりうるという。

この本を読むと本来の知識人という概念、社会的役割が明らかになる。権力に対しても、自分の支持者に対しても、常に批判的であり続け、弱者の代弁者であり続けようとする知識人なら、いつの時代でも価値はあるし、情報化社会だからこそ、改めて必要とされているのだと思う。

・「伝える言葉」プラス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004794.html

・グロテスクな教養
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003896.html

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2007年01月11日

日本という方法―おもかげ・うつろいの文化

・日本という方法―おもかげ・うつろいの文化
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編集の神様、松岡 正剛著。日本は主題の国ではなく方法の国であるとし、万葉から満州までの歴史を、情報編集国家日本の歴史として説明する。

「日本人が外来の自然や文物や生活を受け入れ、それらを通して、どのような方法で独特なイメージやメッセージを掴もうとしたかということが、本書で説明したいことのひとつです。この方法が日本的編集です。」

日本の社会文化的特徴を「おもかげ」「うつろい」という言葉に託している。おもかげのおもは、主・面・母と重なり、「おもしろい」「おもむき」「おもう」などにもつながる。うつろいは移行・変化・変転・転移を意味するが、うつは空、虚、洞とも通じる広がりを持っている。

外からやってくるものを巧妙に内なる文化に取り込む。それが日本文化の方法だったのである。移ろう影として実体がなかったものも、その面を映し出すことで、現(うつつ)として成る。そんな風にしながら日本的な文化は柔軟に形成されてきた。古事記や万葉集の古代から近代までの日本の歴史を振り返りながら、日本的編集の巧妙さがよくわかる本である。

「日本人はもともと、互いに異なる特色を持つ現象や役職や機能を横に並べて、それらを併存させることがそうとう好きなのかと思わせます。日本人は対比や対立があっても、その一軸だけを選択しないで、両方あるいはいくつかの特色をのこそうとする傾向を持っているのではないでしょうか。」

確かに日本というのは方法の国としてみると凄い国である。文字だけみても仮名と漢字にカタカナ、英数が混在している。食べるものも和洋中伊仏など混在している。外来の強力なものを、取り込まれるのではなく、ちゃっかり取り込んできた。そうして100年もすると外来文化もいつのまにか日本文化の顔をしていることがあると思う。

この本の扱う年代をさらに遡っていくと、縄文時代を含めて10万年くらい、南方や大陸から段階的に波状的に外来文化と人と一緒に渡ってきて、日本という文化が成っていったのだろう。そうして考えると、日本文化はたまねぎの皮みたいなものでどこまで向いても、オリジナルなメッセージというのは出てこないのかもしれない。そうではなくて、外来を取り込んで重層的に織り成していく方法論こそ、日本文化の肝であるという著者の主張はとても的を射た主張であると思われる。

・知の編集術
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003328.html

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2006年12月27日

日本古代文学入門

・日本古代文学入門
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浦島太郎の歌には「タイやヒラメの舞踊り」というフレーズがでてくる。このヒラメはもともとは魚のヒラメではなかったそうである。オリジナルの浦島太郎=浦島子の物語では蓬莱山で仙女を夢心地で抱いた。濃厚なベッドシーンがあった。その段で「続浦島子伝記」には「魚比目興」と書かれていて、これを後世の作詞家がヒラメと勘違いしたらしいのだ。

本当は比目魚は古代中国の性医学書にでているセックスの体位なのである。いろいろな体位で二人は愛し合ったという話だったのだ。浦島子の物語は、奈良時代から平安時代にかけての漢文の素養のある貴族や知識人が好んだポルノ小説だったというから驚く。

二人が夢の時間を過ごしたのも海底の竜宮上ではなくて、東方海上三千里の彼方にあるとされた蓬莱山であった。当時の人々は、海の向こうに異界があると考えていたからだ。

「古代の人々が考える異界としては、地上世界に対して天空には神々の住まう高天の原があり、一方に地下世界としての黄泉の国があるという垂直的な三層の世界観があります。それに対して、もう一方に水平的な世界があり、水平線の彼方には常世の国がありました。常世の国は、古事記や日本書紀のほか、万葉集や常陸国風土記などに出てきます。トコヨという言葉は、永久に変わることのない世界を意味しており、ユートピア的な性格を濃厚にもっています。」

しかし、常世や神々の世界を皆が信じていたというのは違うのではないかと著者は書いている。浦島伝説は当時も男性が楽しむ軽い読み物程度の存在だったという。

「古代の人たちは素朴で単純だから、異界をすべて信じていたとか、神をいつも信じていたとか、そんなふうに考える人がいるとしたら、それはあなたのほうが単純すぎます。私たちの生活する現代でも神を信じている人や、死後の世界を信じている人はたくさんいますが、信じていない人はもっと多いでしょう。古代だって、だれもがいつも、神を信じ異界を信じて生きていたなどと考えるのは、あまりに古代を見下しています。」

古代文学というと、専門家の学者が難しい顔をして難しい解釈を捻り出すという印象が強い。この本は古事記の現代語訳で知られる著者が、古事記、日本書紀、日本霊異記、万葉集などの有名な古典文学を俎上にのせて、博学な知識を道具に、エロ・グロ、ナンセンス、スキャンダルな読み物に料理していく。

そうやって食べやすい味付けにしたところで、それは古代婚姻に見られる普遍的なパターンなのだとか、バナナタイプという世界の神話に共通するパターンの亜種であるとか、古典文学の基本知識へ読者を導く。楽しみながら古典文学の世界を旅することができる面白い一冊である。

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2006年12月11日

オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史

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これはすごい。強烈だ。

日本のアニメが海外で人気があるという話は有名だ。

しかし、具体的にどんなアニメがどんな風に人気があるのか、どれだけの日本人が知っているだろうか。この本にはアメリカの現役オタクである著者によって、アメリカのオタクの実態が生々しく描かれている。日本のアニメや漫画文化の可能性を考える上でとても貴重な情報が満載である。ファンでもないのに研究だけしている学者やジャーナリストがいかに何も知らないか、痛烈な批判と説得力のある解説も見事だ。

アメリカのオタクを語る上でまず「ギーク」「ナード」の違いをまず定義している。


僕はナードじゃない。それほど頭がよくないから。テレビゲームを作る側じゃなくて遊ぶ側の人間だ。僕は「ギーク」だよ、どう考えても。ヒューバートが超ナードだとすれば、僕は超ギークだ。
 「ギーク」っていうのは日本でいう「オタク」にいちばん近い言葉だと思う。ナードが現実のサイエンスに興味があるのに対して、ギークが夢中なのはサイエンス・フィクションとファンタジーだ。同じ映画を観るのでも、普通の人はエンド・クレジットが出るとさっさと席を立って日常生活に戻るけど、ギークは映画を私生活まで引きずってしまう。

オタクは米国でも一般社会で肩身が狭いらしく、特に近年の日本の「萌え」文化には憧れを抱きつつも米国ではチャイルドポルノ規制にひっかかってしまうため、ノりきれないという悩み深い事情でもあるらしい。

驚くのは、日本のアニメや漫画はタイトルも含めて大幅に内容を修正されて放映、出版されているという事実だ。宇宙戦艦ヤマトは米国では「スターブレイザーズ」でありヤマトは「アルゴ」号で、戦艦大和としての過去はカットされている。ガッチャマンは「バトルオブプラネット(惑星戦争)」と改題され、オリジナルには登場しないR2D2みたいなロボットがでてくる宇宙パトロール隊として「スターウォーズ化」されて人気が出た。日本版のストーリーが、輸出時に編集されて、骨抜きにされているものがかなり多く、オリジナルを愛するオタクとして著者は少し憤りも感じているようだ。

トランスフォーマー(超合金)とかスペクトルマン、などという日本では大して人気がなかった作品が大人気だったりするのも面白い。二つの作品を編集でひとつにするケースも驚きだ。「百獣王ゴライオン」と「機甲戦隊ダイラガー」は二つを混ぜて「ボルトロン」というヒーローになっている。3つ以上のアニメを合成した作品もある。私たちが見た作品がそのまま流行っているわけではないのだ。

さらにアニメヒーローはオタクだけでなく、ギャングやマフィアにも人気だというから驚く。危険地帯では派手なアニメのシャツをきて麻薬を売買する、いかついチンピラたちがうろうろしているらしい。どういう雰囲気なんだろうか。

日本では間違って伝えられている人気状況もある。ラルク・アン・シェル(ガンダム)、TMレボリューション(るろうに剣心)はアニメ主題歌のバンドとしてのみ有名。ドリカムや宇多田ヒカルが米国で人気があるなんて嘘。米国人には相手にされていない。パフィーはアニメキャラとして大人気である、など。

著者は本当にアニメ好きが高じて日本に住んでオタク三昧な暮らしを楽しんでいる。日米のアニメ・マンガ文化の解説者として素晴らしい資質を持っていると感じる。くだけた文体だが分析と評論も見事だ。米国サブカルチャーを日本に伝える本として、極めて高い価値のある一冊だと思う。

・模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003155.html

・宮崎アニメの暗号
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002119.html

・<美少女>の現代史――「萌え」とキャラクター
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001957.html

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2006年12月05日

テヘランでロリータを読む

・テヘランでロリータを読む
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1950年生まれ、イラン出身の女性英文学者アーザル・ナフィーシーの回想録。全米150万部のベストセラー。

彼女は父親は元テヘラン市長、母親はイラン初の女性国会議員という名門に生まれたが、欧米で受けた教育により、出自のイスラーム社会を客観視する能力を身につけた。留学から帰国してテヘラン大学で教員になる頃、母国はホメイニの革命が起きて社会状況が一変する。女性に自由はなく、権力や男性への服従を求められた。

投獄と処刑が日常化した社会。風紀の取締りと称して一層、女性の人権は無視される。著者はヴェールの着用を拒否して大学を追われることもあった。そしてイラン・イラク戦争による混乱と恐怖も生々しく書かれている。

状況に失望し大学を辞した彼女は、女性の仲間や学生たちと秘密の読書会を開くようになった。禁じられた書物であるナボコフの「ロリータ」やフィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」を読む。男性の欲望のために人生を奪われるロリータの姿に、抑圧されたイラン女性の自身の立場を重ねあわせる。

テヘランの読書会の参加者たちに、文学作品や文芸批評が生きる力を与えている。「どんなことがあっても、フィクションを現実の複製として見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」と著者はくちぐせのように話す。

9.11同時多発テロ以降、イスラーム社会に対する注目が集まっている。外部視点のイスラームの表層的な印象ではなく、苦しみながら真っ只中で生きた記録は、そこで起きている真実を世界に伝えている。2003年の本書の出版は絶妙なタイミングであったといえる。


私たちのクラスはこのような状況の中、毎週二、三時間なりとも盲目の検閲官の凝視から逃れるためにはじまった。私たちはあそこで、あの居間で、自分も生きた人間なのだと気づいた。どれほど体制が抑圧的になろうと、どれほど私たちが怯え、怖気づいていようと、私たちはロリータのように逃亡を試み、自分たちだけのささやかな自由の空間をつくろうとした。ロリータのように、あらゆる機会をとらえて反抗を見せつけようとした。スカーフの下からちらりと髪を見せ、画一的なくすんだ服装の中にさりげなく色彩を加え、爪を伸ばし、恋をし、禁じられた音楽を聴くことで。」

この文章はここだけを読むと、校則が厳しい保守的な女学校の生徒のつぶやきみたいにも見える。

著者が試みたのは直接的な政治運動への参加ではなく、読書会というささやかな想像力による反抗であった。抗った相手は過激な原理主義の政権ではなくて、このささやかな内面の自由を奪おうとする古い価値観のままのイスラームの普通の世間に対してであったと思う。政権は変わっても戦争が終わっても、世間の本質が変わらなかった。

「好奇心はもっとも純粋なかたちの不服従である」

これはナボコフの一文らしいが、著者の半生を貫く態度そのものであると感じる。本書はイランという特定の国の旧態依然を糾弾するのではなく、世界のあらゆる社会の息苦しい旧弊さ、いわば1.0的世界観を糾弾した世界2.0への期待の書なのだと思う。

抑制された筆遣いで綴られたインテリ女性の回想録であるが、行間に魂の叫びが封じ込められていて心を打つ。

追記:

ところでアマゾンの読者レビューがこの本には2本書き込まれている。今のところ、一方には「15 人中、2人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。」で、もう一方が「 32 人中、30人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。 」となっている。後者圧倒である。前者のような読み方ももちろんあると思うが、この本のテーマでもある物の見方の違いが現れていて面白く思った。


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2006年12月04日

エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること

・エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること
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ビデオテープ、CDROM・DVD、インターネットなど新しいメディアテクノロジーの普及の陰にアダルトコンテンツの存在があったとはよくいわれる。”エロ雑誌”上での執筆経験も豊富な二人のサブカル系ライターが、知られざるアダルト業界の歴史を総括する。業界裏事情がよくわかって好奇心を満たしてくれる。

目次:
PART1 消え行くエロ本文化
PART2 「進化」するアダルトビデオ
PART3 インターネットの影響と次世代アダルトメディア

かつてアダルトビデオの出現で、エロ雑誌は大打撃を受けたが、いまインターネットの普及によりビデオ業界が斜陽化しているそうである。現代の少年たちはエロ雑誌やビデオなどは飛ばして最初からネットでエロと出会うものらしい。17歳から23歳の若者への「最近エロ雑誌を買ったか」アンケート結果では、80人中50人が「いいえ」。いいえと答えた人たちのズリネタはパソコン30人、AV15人だそうだ。

ハード化やDVDを付録につけるなどして生き残りをはかるエロ雑誌業界では読者の高齢化が進み(50代、60代)、「読者がどんどん死んでいっちゃう」状況だと編集者が嘆いている。書店の大型化で街の小さな本屋さんが壊滅し、エロ雑誌の売り場そのものがなくなってきていることも、衰退に拍車をかけている。

アダルトビデオ業界では一時の黄金時代があってメーカーが乱立した。ジャンルの細分化、内容の過激化を競い、女優の使い捨てをする焼き畑農業化が進んだ。デジタルモザイクなど技術の進化はあるものの内容の進化は行き詰まり感があるようだ。そこへインターネットによるモザイクなしの画像や動画が現れた。パッケージとしてのアダルトビデオはそろそろ次のメディアへアダルトメディアの王座を譲り渡す時期らしい。

この本のタイトルである「エロの敵」とは規制のことではない。ネットによってエロが世の中にありふれてしまい、わざわざお金を払ってみることをしなくなった状況こそエロを殺す敵だという意味である。ハダカに希少性がなくなったのだ。いい商品を作れば売れるという商売の基本も、エロ業界では必ずしもあてはまらない。「エロの場合、よほど思い入れがあるようなマニアでない限り、他の女の子の作品、他の監督の作品で代替が効いてしまう」からだ。

男性であればアダルトビデオのメーカー名やポルノ女優の2,3人はなんとなく知っていて挙げられるだろう。しかし、メーカーの市場シェアだとか業界地図について知っている人はとても少ないのではないだろうか。たとえば高橋がなり社長がテレビで有名なソフトオンデマンドって何だろうか?彼は成功しているのか?だとしたらどういうビジネスモデルで成功したのか?。メーカー各社の興亡史や雑誌・ビデオの流通構造など、業界の実態が詳しく書かれていた。

アダルトコンテンツはいつの時代も日陰者だけれども、過去にはにっかつロマンポルノが後に有名になる一般映画の監督をたくさん育成した経緯もあった。エロは表現の実験の場でもあり、サブカルチャーからカルチャーが生まれてくる可能性もある。低予算で人不足気味の制作現場での大量生産ノウハウはクリエイティブな発想もあって、なかなか面白かった。

ところでこの分野で、昔からひとつ疑問に思っているのが、局部のモザイクは何でかけているのか?ということ。あれは規制する意味があるのだろうか。見えたからといって、社会道徳が乱れたり、性犯罪が増えたりするものだろうか?。すでに見てしまっている少年少女に悪影響があるだろうか?むしろ、見えないからストレスがたまって悪い方向へいく人が増える気がするのだが。

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2006年11月22日

劇画古事記-神々の物語

・劇画古事記-神々の物語
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古事記の劇画化。

スサノオ、オオクニヌシ、アマテラスなど日本神話の物語が漫画で読める。

原典に忠実に描こうとしているので、原典を知らないとストーリーとしてはわかりにくいかもしれないが、愛好者にとっては満足度が高そう。古事記の前半は、八百万といわれるほど多数の神々が誕生する。名前しか記録にない神が多いので、特徴を持った絵にするのは苦労が多いはずだが、かなり丁寧に一柱一柱の姿を描いている。

今年読んでいる現代語訳は河出書房版。昨年読んでいた三浦 佑之の口語訳版よりも、アレンジ要素が少なく、かなり平易に原典に忠実に訳されている。

・現代語訳 古事記
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・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

何度かここで書いているが、古事記の漫画として最高峰は安彦良和の「ナムジ」「神武」だと思う。「劇画古事記-神々の物語」は叙事詩風だが、「ナムジ」、「神武」はそれを原作に情熱的な人間ドラマに翻案しているのが見事だ。7年前にこの作品を何度も読んで以来、記紀ファンになってしまった。

私の場合は最初に神武、続けてナムジを読んだ。物語の順序としては逆なのだが、先代の活躍を後から読むというのもなんだか味わい深いものがあったので、結構おすすめな読み方である。

・ナムジ―大国主 (1)
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おすすめ。

・神武―古事記巻之二 (1)
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おすすめ。

・私の好きな漫画家たち
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000741.html

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2006年11月21日

ホワイトハウスの職人たち

・ホワイトハウスの職人たち
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普段あまり語られることのないホワイトハウスの裏方スタッフの職人にスポットライトをあてた本。登場するのはホワイトハウスお抱えの菓子職人、学芸員、理髪師、料理人、仕立て屋、フローリストの6人。彼らへの取材を通して大統領一家やVIPの華やかな私生活も垣間見える。

「ホワイトハウスの菓子職人にならないか、と誘われたのです。世界最高の権力を持つリーダーのためにペーストリーを作ることに魅力を感じた私はすぐさまイエスと答えました。」

どうやってホワイトハウスに職を得たのか、日常気をつけていること、大統領一家とのエピソードなど話題はことかかない。歴代大統領が愛1した料理やデザート、家具調度品、スーツ、フラワーアレンジメントなど、固有名詞も紹介されているのでモノ好きにも参考になる内容である。


ホワイトハウスの総料理長と主席菓子職人の年俸は、平均約8万ドル。在職中は曜日に関係なく拘束され、個人の生活を犠牲にすることが強いられる。しかも12月や1月ともなれば、毎朝5時から深夜12時まで働きづめだ

他の職種でもホワイトハウスの年俸や待遇はエリート職人にとって必ずしも高いものではない。だから採用は情熱と信頼を基準に行われている。10%は忙しさとストレスで1年以内に脱落してしまうそうだ。身元調査を必要としないため、世襲の職人も多いという。

こうしたホワイトハウスの縁の下の力持ちに対する歴代大統領の気配りのこまやかさはさすがと思った。絶妙のタイミングで気の利いた感謝のメッセージを伝えることで、職人達のモチベーションを高めている。

そしてホワイトハウスはある種のブランド名であることがわかった。目指す場所であり、プライドを持って働く場所なのである。それに比べると日本の首相官邸はブランド力って弱い気がする。何が違うのだろう。やはりトップの威光だろうか。

・ホワイトハウスの超仕事術―デキるアシスタントになる!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004698.html

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2006年11月15日

「伝える言葉」プラス

・「伝える言葉」プラス
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朝日新聞の連載エッセイをベースにしたエッセイ集。

大江健三郎の読書スタイルには憧れる。一人の作家や主題を決めて3年間深く深く読み続ける。師である渡辺一夫のアドバイスに始まったこの習慣は15回目の3年目に入ったそうだ。T・Sエリオット、イエーツ、ウィリアム・ブレイク、ダンテの神曲など、その深い読書は大江の各時代の作品に色濃く反映されてきた。

私も学生時代に、この大江の習慣を知って、ウィリアム・ブレイクや神曲の読み込みに挑戦してみたことがあったが、3ヶ月も持たなかった。好奇心だけでは、そこまで一人の作家や主題に興味を持続させられないのである。

大江の読書は、論文を書くために特定の作家を読む文学部の学生とも動機も集中度も違うようである。障害を持って生まれた息子との共生への答え、救いの光を文学にみつけたい、だとか、作家としての行き詰まりを突破したい、そのための切実な祈りのような習慣のようである。


初めのうちは、毎週のように神田や丸善ほかへ出かけてその主題の本を集めます。その期間は仕事をしませんし、まだ自分が本当に読みたい方向もわかっていませんから手当たりしだいに本を買いますので、そうしたことが永年の間に幾度も繰り返されて、家内は家計のやりくりに大変だったろうと思います。
 それらを読み続けて、二年もたつと、素人ながら本のかたまりに埋もれている暮らしで、何を本当に読みたいのかが、はっきりしてきます。そこへ向けて本を読むことに集中して、ほかのことは上の空、というふうになります。

2年間読むだけの生活で、やっと読みたいものが定まるのである。ユダヤ神秘主義の研究書1000ページの英訳を1年間、朝から晩まで読んでいたという記述もあった。10年前の断筆宣言も、本当に小説をやめるつもりではなくて、主題探しの読書の4年間を確保したかったからそう言ってみただけだった、などという告白もある。そうやって「生き続けていくのに必要な気のする本のかたまり」とのつきあい続けて70歳になっているのだ、この作家は。

書き手としても推敲を徹底的に重ねる「エラボレーション」型作家としての大江文学を読んでいると、理性的に構築する作風と同時に、その底に流れるルサンチマンの熱さ、厚みに圧倒されることが多い。冷めた文体なのに沸々と煮えたぎっているのは、3年、4年も続ける集中的な読書生活があるわけだ。このエッセイ集では、小説を書いていないときの大作家の日常と思考が垣間見えて面白かった。

(そうした深い読書の話と比べると、何本か収録されている憲法9条や教育基本法についてのエッセイは、私にはぴんとこなかった。)

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2006年11月14日

性の用語集

・性の用語集
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・ZAKZAK 女子大生“体験率”グンと伸び…横ばい男子とほぼ並ぶ
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_11/t2006111320.html

ZAKZAKにこんな記事があったので、引用される数字を表にしてみた。

   │ 男性    │ 女性   
───┼───────┼──────
大学生│ 性交 63% │ 性交 62%
   │ キス 74% │ キス 74%
───┼───────┼──────
高校生│ 性交 30% │ 性交 20%
   │ キス 48% │ キス 52%
───┼───────┼──────
中学生│ 性交 3,4% │ 性交 3,4%
   │ キス 16% │ キス 19%

中学生、高校生はこんなものだろうなと思ったが、大学生の数字が意外に低い気がした。メディア上ではセックスが氾濫しているが、現実は結構、落ち着いているものなのかもしれない。20歳になっても処女、とか童貞とかいう言説が先行している可能性があるようだ。(本当はよくわからないけど)。

この「性の用語集」は性についての研究者が集まって、童貞とか処女とかを解説している。言葉の知名度に応じて「誰でも知ってるあの言葉」「意外に知らないあの言葉」「誰か知ってる?この言葉」の3段階に分類されている。性に関係する言葉は有名な辞書には載りにくいようで、それだけを扱った本書は価値がありそう。

取り上げられる言葉の例:

性/エロ・エロス/エッチとエスエム/変態‐H/童貞/処女/ヘア/フーゾク・風俗/ママ/ホステス/おかま/女装/巨乳/――専/コンドーム/セックスレス/カーセックス/のぞき/立小便/アベックはカップルか?/ニューハーフ/Mr.レディ・Miss.ダンディ/援助交際/社交/ノンケ/フリーセックス/不能/ブルーフィルム...

性、変態、風俗、不能、女装は、もともとは性的な意味合いがまったくなかった。エッチがエッチになったのも比較的最近である。エッチは変態の頭文字だが、さかのぼると変態には性的倒錯の意味はなかった。「He」の意味で彼氏を表していた時代もあった。

エスとエムは面白い変遷がある。エスは少し前までは、Sisterの意味で、女子学生同士の恋愛相手をさす言葉だった。アルファベットは漢字と違って、生々しさがないので、性的な意味を託されやすい傾向があるようだ。

第3部の「誰か知ってる?この言葉」の言葉はかなり手ごわい。いまは使われなくなった性の用語が歴史背景とともにまとめられている。「M検」ってなんだかわかるだろうか。そのM検にまつわる乃木伝説って?。

ほんの数十年前まで誰でもなんとなく知っていたことが、常識ではなくなってしまう例がたくさんなる。性の用語は普通の言葉と比べて、かなりうつろいやすいものなのかもしれない。

・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html

・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html

・性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004747.html

・武士道とエロス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004599.html

・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html

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2006年11月01日

日本語と日本人の心

・日本語と日本人の心
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1995年に開催された大江 健三郎,河合 隼雄,谷川 俊太郎という豪華な3人のパネルディスカッションの記録をベースに構成した日本語・日本文化論。

西欧的な論理性の文体の小説家である大江と、翻訳不能な母語の土着性を重視する詩人の谷川は、日本語に対して意見の隔たりが大きい。互いの仕事へのレスペクトを終始忘れない穏やかな言葉遣いでありつつも、本質をめぐる議論では対立が明らかに目立ってきて、スリリングな展開がある。

大江氏曰く


ですから、文学の創造性ということを、神が創造性となぞらえて考えることは、私はまちがいじゃないだろうかとおもう。言葉という共通のものを用いながら、しかも個人の輝き、この人だけのものという輝きがあるものをつくりだすのが文学で、それは無意識とかいうことよりは、共通の言葉をどのように磨いていくかということに問題がある。共通の言葉にどのように耳をすますかということに、カギがあると思っています。

大江健三郎の文体が翻訳調である理由は、やはり、世界に向けて普遍的な言葉で書くという強い意志の表れであるようだ。その意志こそ、日本語ではなく普遍言語の使い手として、ノーベル文学賞を受賞した理由でもあるのだろう。

これに対して、谷川 俊太郎は無意識や深層意識にあるものを意識化して言葉に反映する詩の感受性、創造性こそ重要だと考えている。日本人として生きてきたなら、生活の言葉に対する思い入れがある。ひとつの言葉をひらがなで書くか漢字で書くかに大きな違いがある。外国語には翻訳できない要素がある。普遍言語の観念語(例えば大江氏のよく使う、民主主義とか自由とか)は、日本語にはイマイチなじまないというようなことも述べている。

アタマで徹底的に考えて意識的に書く小説家と、舞い降りてくるインスピレーションで創造する詩人の違いが対照的だ。この二人の間に司会進行役として、ユング研究の権威の心理学者(後の文化庁長官)の河合氏が、日本人の心と言葉の関係性について発言する。

河合氏は最初に谷川氏の「みみをすます」という詩を朗読する。耳をすますという言葉は英語への翻訳が難しいらしい。フロイトの「平等に漂える注意」だとか別の学者の「第三の耳で聞く」という表現が近い気がするが、耳をすますは、もっともっと広い気もするという。身体性の言葉はそれを母語とする話し手にとって、「言葉で言っているのだが言葉では言えない」ようなあり方をしている。

河合氏のパートでさすが精神分析の専門家だと思ったのは、言葉が使われる背景としての社会関係や文化に対する洞察の部分。日本文化あっての日本語なわけだ。


これはどこだったか忘れたのですが、どこかの文化人類学者の報告のなかにあって、すごく感激した言葉があります。「ノーと言えない日本人」という言葉があって、日本人は「ノー」と言わないのがすごく悪いようにいわれていますが、そこの文化だったら、相手が「ノー」と言わねばならないようなことを言うのがもう失礼なんだという。だから、その考えによると、アメリカというのは、要するに、すごく失礼だということになります。

日本語は感覚的であいまいで、英語は論理的という印象があるが、日本人はぶしつけに聞いて答えるような社会関係に住んでいないわけで、言葉単体で比較して優劣はいえないわけである。谷川氏は、読むものに異文化を理解しようという学びあいの姿勢があれば、普遍語的に書かなくても、外国人にだって、わかってもらえるはずだと述べている。

翻訳が困難とされる川端康成の文学でも日本文化への理解があれば外国人にも理解されうるというのが谷川氏のスタンスだ。むしろ母語の深みを持った多様な文学が世界文学になるべきであって、翻訳可能性を意識した普遍語の文学が世界文学というのはいかんだろうという意見があって、なるほどと思った。

3人の話し手が緊張感を失わずに討論する第二部を挟んで前後に、パネルでは伝え切れなかったことを河合氏、谷川氏が綴った第一部と第三部で補完しておりバランスがとれている。だいぶ前の本だが、文庫化、増刷されている名著。

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2006年10月23日

悪霊論―異界からのメッセージ

・悪霊論―異界からのメッセージ
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「異人論」の続編。

日本にはカミは共同体の外部から訪れるとするマレビト思想がある。マレビトは異人であり、六部、山伏、高野聖、巫女、遍路のような宗教者であることが多い。

著者は異人が宿泊した家の村人によって、金品を奪われて殺されるという伝承の多さに注目した。その家は豊かになり繁栄する一方で、異人の祟りによって障害のあるこどもが生まれたり、没落したりする。妖怪や悪霊が棲み付いた家という評判が立つ。

本当に各地でそんな殺人事件が過去にあったのだろうか。伝承を分析していくと、多くの異人殺しは、後世に、飢饉や不運続きの理由を占うシャーマンによって、捏造された物語であることがわかる。


貨幣経済の影響で変動が生じている村落共同体に生きる人々は、特定の家が急速に長者に成長したとき、その急速な繁栄の原因を考える。どうしてなのか。なぜあの家なのか。人びとはその家に対する嫉妬心にもそそのかされて、充分に満足する説明を求め続ける。共同体はその願望に応えるために、シャーマン(託宣)に村落に生じた”異常”の原因を問うという形で、あるいは噂話という形で「異人殺し」伝承を語り出すのだ。「あの家は異人を殺して、その所持金を元手にして長者になったのだ」と。つまり、新しい長者を犯罪者に仕立て上げ、その家をさまざまな形で排除しようとしたわけである。

こうして悪霊が生み出された。過去の因縁によって狐憑きや鬼や物の怪が長者の家に棲み付き、悪さをする。そして、村人たちは災厄が大きくなると悪霊を退治するためにも、シャーマンの力を借りる。仏教系の力によって悪霊は退治退散させられるケースが多い。

悪霊語りをするシャーマンの社会的な立場を注目すると、なぜそうなるのかがわかる。


ここで主として取り上げた悪霊が語る物語から浮かび上がってきたのは、密教系の修験者たちの姿であり、天狗や狐といった悪霊であり、それと戦う仏教の守護神たちの姿であった。人びとはこうした悪霊の物語を受け容れることで、仏教のコスモロジーを受け容れたのである。

昔話でも知られる異人や悪霊の物語の構造は、ムラ社会の経済、社会、心理によって生み出された、排除の物語であった。

2章の「支配の始原学」では、明治時代に確立された支配原理としての天皇制が、なぜ日本各地のムラ社会に浸透できたのかを、ムラ社会側の社会システムや文化伝統から論じる。ここでは中央政治において恨みを残して敗死した貴人の祟りである御霊信仰がテーマになっている。平家の落ち武者伝説のように中央という外部からやってくるものをマレビトとして迎える土壌が、ここでも物語定着の原理となる。

民話や昔話の原型には、とても子ども向けとは思えない残酷さや突飛さのあるものが多いが、なぜそのような物語が語り継がれてきたのかが、よくわかる。妖怪や物の怪の発生原理を読み解く資料としてとても面白い一冊。

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2006年10月10日

現代アメリカのキーワード

・現代アメリカのキーワード
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帯より引用。 


アメリカに関する情報は大量に流通しているものの、私たちのアメリカ理解は今日なお、一面的、表層的、さらには因習的でさえある。アメリカではごく普通であったり、激しい議論の焦点になっている事柄でも、日本では話題に上らないものも多い。「九・一一」同時多発テロ以降、アメリカ社会におこった深刻な変化を視野に入れ、超大国の現状を最新の情報と明快な分析で提示する。二一世紀の世界を考えるための小事典。

ゲイテッド・コミュニティってどんなコミュニティか知っていますか?。グァンタナモ基地はどこにあって、内部で人権無視の非道がまかり通っている理由を知っていますか?。インディアン・カジノって何でしょう?。TDジェークスの名前を聞いたことがありますか。全米で最も有名なテレビ登場人物オプラ・ウィンフリーの番組を観たことがありますか?。

私はこの本を読むまで、どれもよく知りませんでした。

これは小辞典ですが、ひとつひとつの項目説明は強い問題意識を持って全体像と著者の視点が論じられている小論文集でもあります。日本のメディアに伝わってくるアメリカの情報が一面的であることがよくわかる本です。

本当のアメリカの姿が日本のメディアからは見えてこないという認識は、多くのアメリカ通日本人が持っていることのようです。検索エンジンで「アメリカに関する情報は」と調べてみたところ、次のような文章が1ページ目にひっかかりました。そのまま掲載します。

・アメリカに関する情報は - Google 検索
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLD,GGLD:2005-14,GGLD:ja&q=%e3%82%a2%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%82%ab%e3%81%ab%e9%96%a2%e3%81%99%e3%82%8b%e6%83%85%e5%a0%b1%e3%81%af

アメリカに関する情報は の検索結果 約 939,000 件

・アメリカに関する情報は大量に流通しているものの(上位3位はこの本の関係)
・アメリカに関する情報は溢れています。だが、その情報の大半は断片的な情報であったり、
・アメリカに関する情報は、各種メディアを通じて日本にいながら比較的に容易に入手できる。しかし日本語による報道では
・アメリカに関する情報は比較的入手しやすいが、宗教からアメリカを見ることはほとんど不可能である。
・アメリカに関する情報は、もっぱらハリウッド映画から得るしかありませんでした。
・アメリカに関する情報はその気になればいくらでも得ることができる。しかし、
・アメリカに関する情報は多分以前では報じられなかったようなものまでも耳に入ってくる。そんな濁流の中でアメリカという枝を掴んだろうか?
・アメリカに関する情報は多すぎて選択に困るほどだったし、

日本では、アメリカに関する情報は入手しやすいが一面的だという見方で、見事に共通しています。この本にはその見えない部分ばかりが81項目もあってとても勉強になりました。必要に応じて読み返したい本です。

・性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004747.html

・ルート66をゆく アメリカの「保守を訪ねて」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004412.html

・エンジェルス・イン・アメリカ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004715.html

・アメリカ 最強のエリート教育
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002864.html

・日本はどう報じられているか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002233.html

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2006年10月04日

性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶

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私が取材や旅行で訪問したアメリカというのは、観光客が見るアメリカでしかないのだろうなと、国際ニュースをみて思うことがある。中絶、児童虐待、同姓愛や同性結婚、銃規制など、性や暴力に関係する問題で、日本人の理解を超える激しい論争や暴動事件が起きる。それが本質的にどういうものなのか、実感がわかないのである。

中絶反対派が中絶手術を行う医師を殺してしまう、だとか、学校での銃乱射事件がある一方で、300万人の会員を誇る全米ライフル協会が政治に強大な影響力を持つこと、アメリカ男性の6人に1人、女性の4人に1人が子供時代に性的虐待を受けていることなど、事実は知っていても理解が難しい。


本書の第一の目的は、アメリカにおける性や暴力をめぐる問題の歴史的、法的、政治的、社会的、文化的側面を総合的に検証しながら、性や暴力がアメリカという国が抱える根源的課題を如実に反映している様子を浮き彫りにすることにある。

この本は性や暴力の特異国としてのアメリカを徹底分析する。


実は性をめぐる問題は、他者との関係をどう築くか、また暴力の問題は、紛争をどう解決するかという、ともに人為的な統合や理念先行の国家というアメリカが背負った宿命と深く関係している。言い換えれば、人為的な統合を宿命づけられた理念先行の実験国家であるアメリカは、性や暴力の問題が大きな社会的争点となるような構造をもともと内に抱えていると考えるべきなのだ。その意味では、性や暴力をめぐる問題は、アメリカという国家の本質に迫る重要な糸口であるだけでなく、この国の中枢に関わる現象としてとらえ直す必要がある。

アメリカの性と暴力は、ピューリタン入植にまで遡る。ピューリタンの禁欲的世界では姦通は死刑であり、性の誘惑に勝つことが美徳であった。婚姻外の性交渉や同性愛結婚は法律で厳しく規制されていた。20世紀にはいっても、特に黒人と白人の性交渉は極度なまでに警戒され、このルールを侵した黒人には凄惨なリンチが加えられた。

リンチとは開拓者コミュニティの自警行為に始まる超法規的暴力であった。リンチは人種隔離や死刑制度(現在も死刑囚の大半は黒人である)へと形を変えて連綿と続いていった。現代のベトナム戦争や湾岸戦争、アフガニスタン侵攻といった対外政策も、この脅威や異端の排除のための、リンチ暴力という見方ができると著者は述べている。

人為的な統合と理念先行の国家アメリカは、危険なほど性や暴力の問題と真正面から向き合う。とことんまで突き詰める。日本人はこうした問題を、個人レベルでもあからさまには語らないし、社会的な議題に設定することも少ない。激しく揉めるほど人々の価値観が違わないし、実際、なあなあで、なんとかなってきたではないかと思っている。なあなあでも、やはりまずいわけだが、この本に出てくるアメリカの危うさほどの大問題ではなさそうだ。

アメリカという歴史の浅い人工的な国家のいびつさが、性と暴力の問題に突出しているのだと思った。人種や階層間の格差の大きさもそれを激化させている。人間の営みは結局のところ、すべてシロクロつけられるものでもないし、無理に決めようとすれば暴力になってしまうということなのではないか。

「アメリカの保守」とともに、日本人にわかりにくい「アメリカの性と暴力」を理解するうえでよく書かれた本だと思う。

・ルート66をゆく アメリカの「保守を訪ねて」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004412.html

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2006年10月03日

遺品整理屋は見た!

・遺品整理屋は見た!
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世の中いろいろな仕事があるもので...。


いひん・せいり・ぎょう【遺品整理業】

一人暮らしの人が亡くなった際、遺族に代わり故人の日用品や部屋の片づけを引き受ける専門業者。遺産相続争い、遺族の不仲、故人の内緒の性癖......亡くなったが故に初めて露見するような、さまざまな人間ドラマに立ち会うことも数多い。また、故人の死因は自然死に限らず、自殺、殺人......さまざまである。

殺人や自殺、行方不明の現場で、遺品の整理や現場の清掃を行うプロの著者が綴った衝撃的な事件簿が46本。


人間は誰もが家族や親類縁者に看取られながら死んでいくわけではありません。誰にも知られることなく、孤独のうちにひっそりと亡くなっている人も少なくありません。それでもすぐに発見されればいいのですが、必ずしもそうはいきません。

季節によって違いはありますが、死後何日かたつと遺体は必ず腐敗して死臭を発しはじめます。部屋の中は日を追ってひどい状態になっていきます。そうなると部屋の中にあるすべての物に死臭が付着して離れなくなります。死臭のついた遺品を手元におきたがる遺族の方はそうはいきません。

死臭漂う現場に入るのはプロでも勇気がいることのようで、毎回、気合を入れてドアを開けている。その先には、ゴキブリや蛆虫の大量発生、耐えられないほどの異臭、何日も放置された腐敗した遺体との遭遇など、我々にとっての非日常が、日常茶飯事にある。

遺品もさまざまである。大量のアダルトビデオやゴミの山、猫の大群を残していく人もいる。著者らは遺族や代理人の依頼で、その面倒な後片付けにを黙々と進めていく。

だが、現場より醜いのが、故人に無関心で自分勝手な遺族たち。業者任せで現場にも来ない。遺産相続でもめる。物理的にも心理的にもひどい状況の中で、著者は故人や関係者に対して、誠実に立派な仕事をしているなあと感心する。

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2006年09月28日

なぜ偉人たちは教科書から消えたのか 【肖像画】が語る通説破りの日本史

・なぜ偉人たちは教科書から消えたのか 【肖像画】が語る通説破りの日本史
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「みなさんは、日本史の教科書から偉人たちの肖像画が消えつつあることをご存知ですしょうか。たとえば1980年の教科書(『日本史』三省堂)には、36点の肖像画が掲載されていましたが、現在の教科書(『日本史B』三省堂 2006年)はわずか20点。およそ半分に減ってしまっているのです。」

私達が昔教科書で見た源頼朝の顔や、お札にまでなった聖徳太子の肖像画は、本人を描いたものではなかった疑惑が持ち上がっているらしい。武田信玄は実は細面で華奢な外形であったという説。銅像にもなった西郷隆盛の今に伝わる顔は実物とはまったく似ていない説。足利尊氏の騎馬武者像は別人説。

こうした疑惑もあって、教科書では肖像画を使わないか、「伝○○像」という表記に止める例が続出しているそうである。いまさらそんなことを言われても困るのだが、違うかもしれないものをそのままにもしておけない。

そういえば何年か前に、明治神宮を散歩していて宝物殿に入ってみたことがある。

・宝物殿・宝物展示室
http://www.meijijingu.or.jp/japanese/homotsu/index.htm

ここには初代の神武天皇から第124代昭和天皇までの歴代天皇の肖像画が並んでいる部屋があって壮観である。世界広しといえど2600年前からの先祖の肖像画があるのは、天皇家くらいだろうと感心していたが、ふと、思った。神武天皇の顔って何を見て描いたのだろう、そもそも神武天皇を含めて最初の8代は実在も疑われてさえいるわけで、御顔などわかるわけがないのである。

それでも顔は重要で、この本の偉人たちが偉人として語り継がれた理由の一つは、やはり有名な肖像画で、人々に親しまれてきたからだろう。似ている似ていないは主観の問題もあるし、時代の作風にも影響されるから、大事な条件ではないとする学者もいるらしい。いまさら、本当の顔がわからないのだから、本人と伝わる肖像画はそのまま使い続ける手もあるのかもしれない。

肖像画の顔問題とは別に、通俗的な評価とはまったく違う人生を送っていた偉人たちも数十人取り上げられている。ワイロ政治で悪名高かった田沼意次は、最新の研究では、積極的な重商主義の進歩的政治家だったと名誉回復の動きがある。生類憐みの令で印象が悪かった徳川綱吉も画期的社会福祉政策だったと再評価する傾向もある。遠山の金さんの刺青は桜吹雪ではなく女の生首だったという説もある。うーん、歴史って数十年でかなり変わってしまうものなのですね。

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2006年08月28日

「脱日」する韓国―隣国が日本を捨てる日

・「脱日」する韓国―隣国が日本を捨てる日
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「韓国ではもはや「反日」は時代遅れである」

毎日新聞ソウル支局に1999年から2004年まで勤務したジャーナリストの本である。著者は学生時代にも韓国留学しているが、10年を経ての韓国は「まるで別の国に来たのだろうか」と思わせるほど変化していたそうである。

経済復興を成し遂げて自信を持った21世紀の韓国。かつての「反日」は日本が経済的に先を行く特別な国であるという前提があった。ところが経済的に追いついて、日本は特別ではなくなり、むしろ、外国の一つ程度の意識になった。ある意味、日本はどうでもよくなった。

メディアが報じる「日の丸を燃やす人々」は一般の韓国人の感情を代表するものではないという。現在の韓国人が意識しているのは日本ではなく、米国であり、反米、嫌米の割合が急速に高まってきているそうだ。メディア報道の見方、各種統計データの読み方が勉強になる。

私は韓国は詳しくないのだが、最近の韓国の映画の素晴らしさに感動している。アイドル中心のTVドラマ韓流ブームは別に、まっとうな映画のクリエイティビティという点で、もはや日本映画を超えている気がするのだ。少なくとも私にとっては、映画のMade in Koreaはブランドである。韓国の方がハリウッドに近い。

たとえばこの4作を観てみたらわかってくれる人もいそうに思う。

・オールド・ボーイ
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「ある日、ごく平凡な男が誘拐され、気が付くと狭い監禁部屋にいた。その後15年間監禁されつづけ、ある日突然解放される。一体誰が何の目的で…。第57回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した、チェ・ミンシク主演によるアクション・ムービー。」

・JSA
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「朝鮮半島を南北に隔てる板門店/共同警備区域=JSAの北朝鮮側歩哨(ほしょう)所内で、韓国側による殺人事件が発生し、韓国人の父をもつスイス軍女性将校ソフィアが捜査のため同地を訪れた。北と南、双方の意見の食い違いに彼女は大いに戸惑うが、やがて悲しくもむごい真実が画面で明らかにされていく…。」

・イルマーレ
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「韓国発、手紙がとりなす、切なくて忘れられないラブストーリー。主演は「猟奇的な彼女」のチョン・ジヒョン。さとう瑞緒が吹き替えを担当。」

・シルミド
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「1968年4月、死刑囚ら31人の重犯罪者たちが無人島のシルミ島に送られた。そこで彼らは刑の帳消しと引き換えに、北朝鮮の最高指導者・金日成の暗殺を命じられ、極秘の暗殺部隊へと成長していく。だが政府の外交政策の転換で暗殺計画は中止。しかも政府はこの部隊の抹殺を軍に命じるのだった…。」


これらの作品を見て、共感感動すると同時に、微妙な感性の違い、社会構造の違いも意識することになる。高いクリエイティビティに触れて自然に韓国って凄いなとレスペクトの念がわいてきた。

政治や歴史に関心が薄い「若い世代」の話がこの本にも出てくる。日本の若い世代も同じである。儒教文化の韓国においては過去の清算なくして未来の対話がありえない、という前提が崩れつつあるのかもしれない。「正しい歴史認識」の話を解決するために、まずは文化交流が突破口になるのではないかと感じた。

北朝鮮をどう見ているか、南北統一の現実感はどの程度か、など国際関係の理解に参考になる情報も面白い本だ。

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2006年08月11日

行ってはいけない!ニッポン「不思議島」異聞

・行ってはいけない!ニッポン「不思議島」異聞
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興味本位で書かれた本なので、学問的な深さは期待できないのだけれど、リアリティのある探検文章がぐいぐい読ませる。昨年、沖縄の聖地の久高島にそれこそ興味本位で訪れた私としては、わくわくして、紹介された島へも渡ってみたくなった。

最盛期に5000人以上の炭鉱労働者が住んだ高層建築の巨大廃墟が残る軍艦島、江戸時代から漁師相手の色街として栄えた渡鹿野島、フィリピンパブだらけの南大東島、土俗信仰や隠れキリシタンの文化が色濃く残る島々、危険生物のいる島々など、プチ探検してみたい島ばかり。

■軍艦島

Wikipediaの説明

軍艦島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%B3%B6
歴史
19世紀に石炭の存在が発見される。明治時代初期には鍋島氏が経営。1890年から三菱財閥の所有となる。石炭採掘のため周囲を埋め立て、また鉄筋コンクリート造の集合住宅群を建設した。海上から見たそのシルエットが、日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから、軍艦島と呼ばれてきた。戦時中に米軍潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだというエピソードは有名だが、実際は停泊していた石炭運搬船を狙ったものだった。良質な強粘炭が取れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年には約41万tを出炭。人口が最盛期を迎えた1960年には5,267人の人口がおり、人口密度は東京特別区部の9倍以上に達した。炭鉱施設のほか、住宅・学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内において完結した都市機能を有していた。
1960年以降は主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、無人島となった。この時期は、日本の高度経済成長の終焉と重なる。

Googleマップが圧巻。

http://maps.google.co.jp/?t=k&om=0&ie=UTF8&ll=32.627828,129.738235&spn=0.003768,0.007178

■渡鹿野島

・渡鹿野島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%B9%BF%E9%87%8E%E5%B3%B6

この本では、警戒する島民に、記者だとバレたライターの恐怖の一夜が笑えた。

目次:


民俗学者たちも恐れる離島最大の禁忌
聖地・人魚神社と禁断の秘祭に潜入

命を懸けても口外できない“掟”
謎の土俗集団“クロ”を追う

奄美大島
毒蛇、猛毒貝、殺人魚
致死率50%!野生島に潜む悪魔

大神島
島の財産と風葬の秘密
よそ者を警戒する島

大崎下島・渡鹿野島
一世を風靡した遊女の島
“伝説の女ケ護島”いまむかし

南大東島
人口1400人、破天荒な夜の楽しみ
絶海!孤島のフィリピンパブ

青ヶ島
ミコ(霊能力者)が仕切る原始の秘境
“神様だらけ”の島

下地島
地底と外海とが繋がる不思議
“通り池”潜水調査ドキュメント

軍艦島
廃墟と化した島に上陸
棄て去られた島の叫び


・日本人の魂の原郷 沖縄久高島
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003941.html

・アースダイバー
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003694.html

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2006年08月03日

「人志松本のすべらない話」と「必笑小咄のテクニック」

・人志松本のすべらない話
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「フジテレビ系にて三ヶ月に一度放送され話題に話題を呼んだ、深夜の人気番組「人志松本のすべらない話」がDVDで登場!松本人志をはじめとする精鋭たちが、誰が聞いても、何度聞いても面白い実話を披露するシンプルな番組。第1、2弾放送分を収録。「衝撃の未公開映像」「すべらない話のためになる話」などの特典映像も収録。 」

会社のテレビで番組を偶然、発見して笑いが止まらず、速攻でDVDを注文。

サイコロを振って出た目の芸人が「すべらない話」をする。何度同じ話をしてもよい。司会進行兼参加者は笑いの天才、松本人志。基本は1,2分の小咄だが、数秒で終わるものもあるのだが、どれもきっちり笑わせてくれる。「イヌのタロ吉」という言葉を聞いただけで、吹き出すようになってしまった。どうしよう。

こうした小咄のパターン分析をした本を同時に読んでいた。DVD「すべらない話」の多くが確かにこの本のパターンに該当しているなと思って感心した。著者は残念ながら最近他界された名エッセイストの米原万里氏。


・ 必笑小咄のテクニック
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目次:

詐欺の手口
悲劇喜劇も紙一重
動物と子どもには勝てない
お株を奪って反撃
木を見せてから森を見せる
神様は三がお好き
誇張と矮小化
絶体絶命の効用
言わぬが花
悪魔は細部に宿る
権威は笑いの放牧場
耳を傾けさせてこその小咄

世界の有名な小咄や著者自身の創作小咄が多数、例示され、なぜ可笑しいのかの構造分析が続く。営業マンや教員などにとっても小咄は効果的なコミュニケーションツールになる。自分なりの小咄を開発したい人にとってのヒントが多い。


ところでDVD「すべらない話」を観ていて思ったのが、小咄自体の出来も重要だが、何を喋っても可笑しく聞こえる空気というのがあるなと感じた。笑いの天才はそうした空気を作り出すのが上手だ。秘密は実は喋っていない間(マ)にこそありそうである。

・ もっと笑うためのユーモア学入門
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000892.html

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2006年08月02日

懐かしのCMソング大全

・懐かしのCMソング大全4
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1. ブルーダイヤ(ライオン)
2. 私は25(マダムジュジュE)(ジュジュ化粧品)
3. セキスイハウスの唄(積水ハウス)
4. 明治屋ガーバー・ベビーフード(明治屋)
5. Lip Live Love(カネボウ化粧品)
6. リコー電子リコピー(リコー)
7. 君は何を教えてくれた(江崎グリコ)
8. 花王フェザー・オイルシャンプー(花王)
9. ちょっとうれしいカローラ(トヨタ自動車)
10. 明日は今日より暖かい(江崎グリコ)
11. 三ツ矢サイダー(アサヒ飲料)
12. 豊年サラダオイル(ホーネンコーポレーション)
13. ヤクルト・ジョア(ヤクルト本社)
14. ミツカン・ドレッシングゴールド(ミツカン・グループ本社)
15. バンソーの唄(万創)
16. 東ハトキャラメルコーン(東ハト)
17. サロンパス(久光製薬)
18. 味の素マリーナ(味の素)
19. コークの世界(日本コカ・コーラ)
20. ニューリカちゃん(タカラ)
21. タイガー電子ジャー炊きたて(タイガー魔法瓶)
22. ライオンピンキー(ライオン)
23. 誰かさんといっしょに(ヤマギワデンキの唄)(ヤマギワ)
24. ケンとメリー~愛のスカイライン~(日産自動車)
25. お歳暮に味の素(味の素)
26. 明治チョコボールアーモンド(明治製菓)
27. レディーボーデン(ロッテ)
28. アクロン(ライオン)
29. 石丸電気のうた(石丸電気)
30. 東ハトオールレーズン
31. ふけイヤイヤ(エメロン・グリーンシャンプー)(ライオン)
32. 富久娘(富久娘酒造)
33. 日立の樹(日立製作所)
34. ライオンチャーミー(ライオン)
35. 近頃気になることがある(花王ガードハロー)(花王)
36. キンチョーサッサ(大日本除虫菊)
37. セイコー月ようの朝(セイコー)
38. SUMMER CREATION(マックスファクター)


・懐かしのCMソング大全5
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1. 明治カール(明治製菓)
2. 東ハトポテコ(東ハト)
3. ビッグ・アイ(東京コンタクト)
4. かっぱえびせんプラス・アルファ(カルビー)
5. 白鶴(白鶴酒造)
6. ロッテ小梅(ロッテ)
7. サントリーレッド~世の中は…~(サントリー)
8. メルシャンワイン(メルシャン)
9. 8X4(ニベア花王)
10. サントリーデリカワイン(金曜日の男)(サントリー)
11. ニベアスキンミルク(ニベア花王)
12. 白いテクニクス(松下電器)
13. プッチンプリン・ホロホロニャ~ン(グリコ乳業)
14. 紀文のおでん(紀文食品)
15. 語りかけようセイコーに(セイコー)
16. 麻雀用具は三栄(三栄)
17. 秘宝館小唄(国際秘宝館)
18. バルサンおじゃま虫(中外製薬)
19. ロッテ小夏(ロッテ)
20. サッポロ一番塩ラーメン(サンヨー食品)
21. サントリーゴールド900(ソクラテスの唄)(サントリー)
22. かぐや姫ソング(孔官堂)
23. ほんだし女房(味の素)
24. バスボンのうた(資生堂)
25. 花王石鹸ホワイト(花王)
26. 一枚の切符から(日本国有鉄道)
27. カルビーポテトチップス(カルビー)
28. サントリーオレンジ50(サントリー)
29. 酒は男の子守唄(土佐鶴酒造)
30. 白い少女(カルピス)
31. カメラのさくらや(さくらや)
32. カバヤ マスカットキャンディー(カバヤ食品)
33. ホテルニュー岡部(OEIホテルグループ)
34. ENJOY YOUR KITCHEN(阪急百貨店)
35. ピコレットおトイレ・ソング(ライオン)
36. 黒い瞳はお好き?(カネボウ化粧品)


これは面白いCD。

懐かしのCMソング大全シリーズは全5巻。1951年から1979年までのCMを年代別で収録している。幼かった頃のCMを探していたので、1970年代にあたる4,5を買った。

CMスキップでテレビCM崩壊などとも言われるけれども、それを聴いて育った世代にとってテレビCMはひとつの文化であることも事実。やめられないとまらないかっぱえびせんのフルコーラスを知って感動し、アクロンなら毛糸荒いに自信が持てますってあったなあと思い、サッポロ一番塩ラーメンを聴くと反射的にお腹がすく。

古い時代のCMは、商品名の繰り返し、叙情的な演歌歌謡曲系のメロディ、コケティッシュな女性の声が多く使われていると思った。有名歌手の楽曲を企業CMに転用するのではなく、CMのための楽曲を作ることが、今より多かったのかもしれない。結論として、あからさまに耳に残る。ある意味、チンドン屋さんのキャッチーさに近かったようだ。

散逸してしまいそうなCMソングを一挙に収録したのがアーカイブ価値のある逸品だと思った。とても満足。懐かしのをテーマにした企画のブレインストーミングBGMに使えば、多少は実用価値もあるかもしれない。

CDの中でベストを選ぶとすれば、今でも使われている日立の樹(日立製作所)。「この樹なんの樹」だろうか。今ではオフィシャルサイトも用意され、映像や歴代バージョンの情報、壁紙ダウンロードもできる。

・日立の樹オンライン : TVCMスクエアトップページ
http://www.hitachinoki.net/tv_cm/index.html

私が今欲しいのは、石丸電気のうた、カメラのさくらやなどの家電量販店で店内で繰り返し流されている宣伝楽曲集。ハローソフマップワールドとか、オノデン坊やとか、ビックカメラだとか、耳に残る度最強のあれらである。結構長く探しており、独自にMP3をコレクションしているのだが、なんとしてもコンプリートしたい。

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2006年07月12日

“ことば”の仕事

・“ことば”の仕事
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作家、ライター、学者、評論家、翻訳者、発行人、大学教員など9人の著名人に、「言葉をあつかう仕事で今何が起きているのか、なにができるのか」という問題意識をもって、仲俣暁生氏がインタビューしている。

各インタビューから気になる言葉を抜書きしてみた。

「自分はのりしろだと思っている」小熊英二氏

「価値ってなんだろうということを、もう一度考えたいんですよ」山形浩生氏

「昔から、ものすごく根本的な幼児の問いのようなものがあるんです。世界というのはなんで存在しているんだろう、とか、自分はなぜ生きているんだろう、とか。そんなふうに自分の根拠に関わっているものについて理詰めで論理を構築したいという気持ちが、文章を書くときにはどこかで働いている」佐々木敦氏

「メディアの世界には、ビジネスの話になるととたんに拝金主義者呼ばわりする人が多いけど、ぼくにとっては出版そのものをグランドデザインの部分から組み立てている今のほうが、編集者をしていたときより、仕事にものすごいダイナミズムを感じる」小林弘人

「...小さなメディアを育み、それをネットワーク化して、今の日本のマスメディア中心の生態系を重層化、多層化していく...」水越伸氏

「私たちのつながりはアソシエーション。その意味では同好会とかと同じです。ネット代や本代、交通費といった出費は、それぞれの手弁当というかたちでやってます」斉藤かぐみ氏

「若いときから、ライターをやっていると「作家になりたいの?」ってよく言われて、ライターってそんなにダメな仕事なのか、どうして双六のアガリの途中みたいに言われちゃうのか、っていうことにも違和感を感じていた」豊崎由美氏

「はたしてそれがいいことなのか、悪いことなのかはわからないけれど、自分たちは物語を消費できるようになった、最初の世代だという印象が強いんです」恩田陸氏

「文章を書いたり編集したりすることは、曲解や誤解などをふくめて、いったん中に入れたものをまた出すことで、基本的には翻訳者の仕事と同じだと思うんです。」堀江敏幸氏

言葉や出版の現在と未来について各社各様の認識がありそうだけれども、ある種の覚悟を持って言葉の仕事をしているという点が共通しているなと思った。だから、インタビューが面白い。そしてこの言葉の使い手の持つ覚悟の質と量が、その国の文化の指標なのではないかと思った。

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2006年07月08日

映画一日一本―DVDで楽しむ見逃し映画365

・映画一日一本―DVDで楽しむ見逃し映画365
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日本経済新聞土曜版、日本経済新聞夕刊映画欄、雑誌「ターザン」、「フィガロジャポン」に掲載された映画評に、書下ろしを追加して、再編集された一冊。月別にテーマが設定されて1年分、365本が各1ページで紹介されている。

20世紀前半のサイレント映画から、最近の映画まで、洋画邦画問わず、古今東西から名作が選び出されている。特にモノクロ映画の紹介が充実しているので、映画の長い歴史から”発掘”したい人向けである。

現在は、昔の作品が安価なセルDVDとして販売されていたり、多チャンネル放送で放送されたり、ネットのダウンロード販売もあったりして、アクセスしやすくなっている。私の場合は、オンラインレンタルDVDのDISCASを愛用していて、月8枚、映画を借りている。半分を新作、半分を名作の割合で借りる。この本はその参考用に読んでみた。

映画は好きで、学生時代から本数を観ているはずなのだが、この本の紹介作品で、観たのは3割に過ぎなかった。まだまだ先は長いと思ったが、その中から私の古典的名画を選んでみた。

(デジハリの大学生で見ていない人に推薦。とりあえず観ておくといいですよ、観てないと映画の話ができない)。

【365本の中から、学生夏休み向け古典的名画の推薦10作】
説明はアマゾンの作品紹介文から抜粋。

・カサブランカ 特別版
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「ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン共演の永遠のラブ・ストーリー。待望の高画質・高音質デジタル・リマスター版。さらに36分のドキュメンタリーを収録。」

・ゴッドファーザーDVDコレクション
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「その長い回り道の、時には輝いた映画人生をとおして、フランシス・フォード・コッポラは、数多くのすばらしい作品と欠点はあるが文句なくおもしろい作品、そしてコッポラがまったく見えないというだけでも観る価値のある一握りの失敗作を残している。それでも、やはりコッポラは映画『ゴッドファーザー』を監督した男である。これからもそうだろう。彼は自分が作ったシリーズに支配され、決定されている。この逆転写は、恐らくほかの監督には体験できないものだろう。コッポラは「ゴッドファーザー」を作りっ放しにしておけなかった。だから、15年後に戻ってきて2部作を3部作に作り替える。あるいは、初めの2作品を時系列的に編集し直してビデオ用映画の『ゴッドファーザー・サガ(伝説)』にするのである。」

・スター・ウォーズ トリロジー
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「遥か彼方の銀河系で繰り広げられる共和国と帝国との攻防を描いたSFファンタジー作品。「スター・ウォーズ 新たなる希望(エピソード4)」「スター・ウォーズ 帝国の逆襲(エピソード5)」「スター・ウォーズ ジェダイの帰還(エピソード6)」の3作品をセットにした3枚組のリミテッド・エディション。 」

・ディア・ハンター
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「アカデミー賞作品賞を受賞した、ロバート・デ・ニーロ主演の感動作。ペンシルバニアからベトナム戦争に出兵した3人の若者。敵の捕虜となった彼らは、なんとか脱走に成功するが、その後ばらばらになってしまう。低価格化“ザ・定番”シリーズ。」

・ブルース・ブラザース 25周年アニバーサリースペシャル・エディション
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「「サタデー・ナイト・ライブ」の人気キャラクターを主人公に映画化した伝説的コメディ。ニューマスター仕様の劇場公開版とエクステンデッドエディションに加え、新たな特典映像を収録した2枚組スペシャルエディション。」

・スティング スペシャル・エディション
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「ストーリー:1936年、シカゴ近郊のダウンタウン。この街に住むジョニー・フッカー(ロバート・レッドフォード)は、詐欺で日銭を稼ぐ若いイカサマ師。ある日、いつものように通行人から金を騙し取るが、相手はなんと大物ギャング、ロネガン(ロバート・ショウ)の手下だった。しかもジョニーが盗んだのは、ロネガンが所有する賭博場の上がり金。これをきっかけに、ジョニーの師匠であり親同然だったルーサーが殺されてしまう。復讐を誓ったジョニーは、ルーサーの旧友で伝説の賭博師ヘンリー・ゴンドーフ(ポール・ニューマン)を訪ねる。彼に協力を求めるが、FBIに追われているゴンドーフは、なかなか首をタテに振ろうとはしない。だが、ジョニーがロネガンの名を口にしたとき、ゴンドーフの内なる闘争心に火がついたのだった・・・。」

・シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン
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「 一番恐いものを想像してください。モンスターのようなエイリアン?最悪の伝染病?それともスタンリー・キューブリックの傑作にある悲劇のように、あなたを愛し守るべき家族から殺される恐怖?スティーブン・キングの小説を、キューブリックは鮮やかな演技、おどろおどろしいセット、幻想的な撮影映像、衝撃につぐ衝撃の融合を実現し観る者を恐怖に陥れる。物語はジャック・ニコルソン扮するジャック・トランス(お客様だよ!)が、冬季管理人として優雅で隔離されたオーバールックホテルに、妻(シェリー・デュバール)と息子(ダニー・ロイド)と共に訪れることから始まる。トランスはホテルに訪れたことがないはずなのだが...。その答えは狂気と殺人の中にある。」

・二十四の瞳
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「美しい小豆島を舞台とした先生と12人の生徒たちの感動作。木下恵介監督の代表作であり日本映画史にも残る永遠の名作がDVD化。 」

・ショーシャンクの空に スペシャル・エディション
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「『マジェスティック』のフランク・ダラボンの監督デビュー作。若くして無実の罪で刑務所に服役した銀行家・アンディは、30年にも及ぶ刑務所暮らしにめげず無罪となる重要な証拠をつかみ取る。“」

・あの頃ペニー・レインと
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「『エリザベスタウン』のキャメロン・クロウ監督が自身の体験を元に描いた青春ロードムービー。15歳でローリングストーン誌のライターとなったウィリアムは、ペニー・レインに一目惚れする。特典映像を多数収録した2枚組。“BEST COLLECTION 第2弾”。」

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2006年07月01日

さわりで楽しむ名作映画ベスト50

実家に帰ってみると、テレビの横にDVDが10枚くらい置かれている。書店や駅などでよく販売されている昔の洋画モノである。調べてみるとコスミックインターナショナルという会社が販売しており、サイトもある。

・meiga-500.com-あの名作がワンコインで手に入る!-
http://www.meiga-500.com/catalog/default.php

よりどりみどりなのでどれを観るか迷う。DVDを販売するだけでなく、ダウンロード販売もおこなっている。その場合は、約2ギガバイトのムービーファイルになる。観たくなったらその場で入手できるのがいい。

昔、見てよかった作品をもういちど観たいが、作品名が出てこないこともある。そこで、いい本がみつかった。


・さわりで楽しむ名作映画ベスト50
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「名作映画50本をミステリー&怪奇ホラー、文芸、ラブ・ストーリー、ヒューマンシリアスドラマ、西部劇、ミュージカル、冒険ロマン&ファンタジーに分け、その見どころを解説。関連コラムも収録。」

DVDが付属しており、50本の紹介作品の”さわり”を各3分間ほど、解説なしで収録している。もちろん”さわり”はクライマックス部分ではなく、その作品の雰囲気がわかる部分をうまく切り出していた。書籍の解説と合わせて読むと、名画の発掘や、忘れていた映画を思い出せる。切れ目なく、再生されるので、映画好きの環境映像としても楽しめる。

有名な映画評論家 北川 れい子著ということで選び方も解説もしっかりした内容。

2時間以上ある付録DVD。実家では私以上に父母のほうが、気になったようで、最後まで見ていた。またテレビの横のDVDが増えそうである。

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2006年06月29日

武士道とエロス

・武士道とエロス
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武士道と不可分な主従の「忠」という感情。

男性ばかりの武家社会における、その絆の強さは、衆道(男色)と関係が深いことを、多数の文献を引用しながら明らかにする。「忠」には「恋」の感情が含まれており、そこには肉体関係も当然のように存在する。裏切られれば嫉妬もする。歴史上の有名な決闘のいくつかは男色関係のもつれが原因であった。

江戸時代や明治時代の初期までの日本では、男性同士の関係が現代よりも遥かに容認されていたらしい。武士の心がけを説いた18世紀の書「武士としては」には、武士として度を過ごしてはならない事項として、私欲、えこひいき、女色、酒食と並んで童愛(男色)が挙げられている。恋人の敵討ちは美談であった。武士道の華、尚武の証として讃えられていた時代もあったのだ。

時代が下り、武家社会が官僚社会に変容する。軍隊社会では、教育的意味も強かった主従関係、義兄弟関係がその意味を失う。それに伴い、男色は次第に衰え始める。ひとつには結婚年齢の低年齢化も原因であったそうだ。江戸時代の初期の武士は40歳で結婚するものが少なくなかったが17世紀後半には20歳前後で結婚するようになった。

感情や肉体の絡んだ強い絆を失い、武士道は、倫理道徳の精神論に変容していく。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり(葉隠)」という有名な言葉があるが、なぜ死ぬのかの理由の一つが、愛する同性のためでもあったことになる。江戸時代の文化史、精神史を考える上で、男色は省くことができない要素で、その研究は面白いだけではないと結論されている。

武士道とエロスの意外な面がわかった。NHKの大河ドラマなどで、こうした事実に忠実に、戦国時代のドラマを作ったら、面白いのではないか。こどもに説明するのが難しそうだが。

・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html

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2006年06月21日

ユダの福音書を追え

・ユダの福音書を追え
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”ダビンチコード”がこじつけに感じられてついていけない私ですが、この本の内容はすべてが現在進行形の実話でわくわくした。ナショナルジオグラフィック協会の最新刊。

1970年代、エジプトで謎のパピルスの写本が発見された。欲に駆られた美術商たちの手から手へ、写本は30年間の旅の末、米国で信頼できる研究者の手に渡った。そのとき写本は長期の劣悪な環境によって崩壊寸前であった。研究グループは5年の歳月をかけて修復を行い、内容を解読した。専門家の調査、放射性炭素年代測定の結果は、紀元240年から320年頃のものという結果がでた。初期キリスト教の片鱗を今に伝える文書であることがはっきりした。

そしてナショナルグラフィック日本語版では6月号の特集である。

・NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2006年 05月号
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古代コプト語で書かれた数十ページの写本のタイトルは「ユダの福音書」。

その内容は通説をくつがえす衝撃的な事実に満ちている。裏切り者とされたイスカリオテのユダはイエスが最も信頼した弟子であった。イエスの十字架上での処刑は、イエスが肉体を捨てて高次の存在になるために、イエス自身が企んだことであった。イエスは誰よりも信頼する弟子のユダに、最後の重要な指示を与えた。私をローマの官憲の手に売り渡せ。「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」。

ユダの福音書にはユダとイエスの対話が含まれている。イエスは最も信頼する弟子であるユダにだけ真理を伝授している。「ユダの福音書を追え」は発見の経緯中心のドキュメンタリ、福音書の内容については要約レベルで紹介されているが、詳しくは同時に出版された「原典 ユダの福音書」に原文が収録されている。解説も詳しい。

・原典 ユダの福音書
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今後、この写本が学術的にどのような位置づけになるかはまだわからない。イエスの死後数百年の頃の初期キリスト教には、今に伝わる新約聖書以外にも、複数の福音書があった可能性があるという人がいる。それを示唆する別の文書もある。ユダの福音書は、偽書ではなく、その後の教義の統一過程で、抹殺され、失われた文書である可能性がある。

結論がどうなるかわからないが、考古学上の大発見を一般読者もリアルタイムに味わえるのは素晴らしい。

なお、この原典を理解するには、グノーシス主義について、知っていると深く楽しめる。以前、グノーシス入門書を書評しているので参考文献として紹介。

・グノーシス―古代キリスト教の“異端思想”
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004060.html

・ヴォイニッチ写本の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004123.html

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2006年06月16日

自動販売機の文化史

(すみません。イベント報告第2弾の予定だったのですが本日出張でまとめている時間がありませんでした。今日は書いておいた書評記事です。報告は明日に続けます。それまで山下さんのページにイベント関連の情報が集約されてきています。みてみてください。)

・自動販売機の文化史
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自販機の歴史、技術の進歩、各国の事情、自販機と環境問題、自販機の文化論。

この本には2001年時点では、日本全国に自動販売機は550万台を超え、年間売上高は7兆円に達していると書かれていた。最新の数字を探してみたら、次のデータが見つかった。とても興味深い情報なので長めに引用させていただく。

・日本自動販売機工業会
http://www.jvma.or.jp/pdf/fukyu2005.pdf
自販機普及台数及び年間自販金額


○普及台数 558 万台

2005 年末現在における自販機及び自動サービス機の普及台数は、対前年比
100.6%の558 万2,200 台となりました。

普及台数は1984 年に500 万台に達しましたが、その後緩やかな増加に転じ、90
年代以降はほぼ横ばいで推移しています。

主力分野は飲料自販機で、全体の48.0%を占めています。昨年の飲料自販機の普
及台数は、清涼飲料機において中身商品メーカーが自社製品の専用販売ツールとし
ての自販機の有用性を再認識し活発に自販機投資を進めたことから2.2%増となり、
コーヒー・ココア等のカップ機や酒・ビール機が減少したものの全体では1.1%の
増加となりました。一方、たばこ自販機は出荷自体は好調でしたが、大型機への集
約などにより1.0%の微減となりました。券類自販機は、乗車券機が新線の開通に
より、食券機がファストフード店などでの増加により2.9%の伸びを示しました。
その他自販機及び自動サービス機はほぼ前年並み、食品自販機は大幅な減少となり
ました。

○自販金額 6 兆9,943 億円

2005 年(1〜12 月)の自販機及び自動サービス機によって販売された商品、サー
ビスの年間売上金額(自販金額)の合計は6 兆9,943 億57 万円で、前年比1.0%の
増加となりました。

主力の飲料分野は、普及台数が微増したこととマーケット全体が堅調に推移した
ころから1.3%の増加となりました。たばこ分野は普及台数が1%減少したものの
年間自販金額はほぼ前年並みとなりました。

○諸外国の状況

諸外国で普及台数・年間自販金額調査が実施されているのはアメリカのみで、同
国の普及台数は774 万台(2004 年末:5 頁参照)とわが国より210 万台強多いもの
の、自販金額では442 億ドル(約4 兆8,600 億円)となり、日本の70%程度となっ
ております。なお、米国の統計には日本のものと異なり券類自販機、日用品雑貨自
販機(新聞自販機など)などは含まれていません。

アメリカ、日本に次ぐ自販機普及国はドイツで、たばこ自販機が70 万台程度、飲
料・食品自販機が30〜40 万台と言われています。また、中国では上海、北京などの
大都市で普及が始まっていますが、絶対数としてはいまだ低い水準にあります。

日本は自販機大国なのである。普及台数では世界第2位だが、一人当たりの台数や、販売金額では第一位である。著者は自販機が普及する条件として、

・便利を好み
・工業化を成し遂げ
・消費社会化し
・労働力不足があり
・定価販売の商慣習を持つこと

を挙げている。これらの条件を日本はよく満たしているという。

私はだいたい1日に2回くらい飲料を買う(7200円)。2日に一回タバコを買う(3000円)かな。その他の自販機利用は珍しいから、一ヶ月に12000円も利用していることになる。いまこれを書くために計算してみて、予想より大きな額で驚いた。これがすべて対面販売であったらわずらわしい。半分以下の消費になると思う。自販機の販売力と便利さを実感した。

いろいろな数字や事情が紹介されているこの本、私が面白いと思ったのは、自販機の原型とされる、17世紀に発明された「正直箱」。これはコインを入れると鍵があくので、中からタバコを取り出せる。ひとつ取ったら、買った人間が閉める。人間の良心にまかされた販売機である。

デジタルコンテンツやソフトウェアの自販機として、「正直箱」をネット上でやってみたらどうなるだろうか。ダウンロードしたら自己申告でお金は振り込んでください。今日のブログは100円です、とか。

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2006年06月13日

旅する前の「世界遺産」

・旅する前の「世界遺産」
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世界遺産番組のプロデューサーもつとめる、NHK勤務の著者が、趣味の個人旅行と仕事の出張で訪問した200近い世界遺産について、ジャーナリスト視点で語る。

・社団法人日本ユネスコ協会連盟 - 世界遺産活動
http://www.unesco.or.jp/contents/isan/about.html

世界的に見ると、日本における世界遺産の認知度はトップクラスなのだそうだ。テレビでは毎週のように世界遺産を取り上げる番組が放映されている。ビジュアル的に見栄えがするために雑誌メディアや広告としても露出が多い。旅行の目的地としても人気がある。著者は、その人気の理由として、日本人は権威が認定したものに弱いこと、お遍路のように決まった目的地を回る目標達成型の旅行が好きなこと、があるのではないか、と分析している。

かくいう私も世界遺産には興味がある。この数年間、HDDレコーダーのキーワード録画に「世界遺産」と登録し、関連番組を全部録画し、自宅でライブラリ化している。何が楽しいのかというと、ポケモンカードのように集めるのが楽しい、気がする。

しかし世界遺産がいくつあるのか、知らなかった。どのような組織がどのような基準で認定するのかも知らなかった。この本で知りたかった世界遺産の全貌を把握できた。

ユネスコが年に一度、認定する世界遺産には、まず自然遺産と文化遺産の分類がある。ふたつの特徴を共有するものは「複合遺産」という認定を受ける。また戦乱や環境破壊などで状態が悪化すると「危機遺産」として重点監視下に置かれる。

希少で貴重な存在である世界遺産だが、実は登録数はひたすら増え続けており、2005年の段階で812件に及ぶ。予備軍である暫定リストには1000件以上が行列待ちになっている状況。近年は登録数が多すぎるのではないかという議論も出ているそうだ。私の録画コレクションはまだまだ続けられそうである。嬉しいような悲しいような。

この本には世界遺産番組の紹介ももちろんあった。

・小学館DVDBOOK 世界遺産5巻セット
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世界遺産というとTBSの30分番組を思い浮かべるが、こちらはNHKで放映されている5分番組「シリーズ世界遺産100」を100本収録したDVD5枚組みボックスセット。この番組シリーズも、私の録画コレクションの対象だったのだが、抜けなく、高画質で全部見られることに魅力を感じ、購入してしまった。大満足。

・NHK 世界遺産の旅 【探検ロマン世界遺産・シリーズ世界遺産100・とっておき世界遺産100】
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/
番組のオフィシャルサイト。情報が充実している。

地域ごとに別れて各DVD1枚に20番組が収録されている。毎週日曜日に1枚見ると決めて1ヶ月で100本を見てみた。世界遺産マラソン。実際に100箇所の訪問は難しいが、映像で世界一周した気分になれる。地域別なので近隣関係がよくわかる。各遺産が5分で完結するため、飽きずに楽しめるのもいい。カラー写真満載の書籍が付属していて、詳細情報は文字で読める。

世界は広く、歴史は長いことがよくわかる。

せめて国内の世界遺産を全部、旅行してみたいと思っているのだが、今年はどこか行けるだろうか。世界遺産のある地域でIT業界のイベントに呼んでもらえないかなと虫のいいことを思っていたりする。そういう話ないですかね?(笑)

私の地元近くの鎌倉は世界遺産の暫定リストに登録されている。認定されると徒歩でもいける世界遺産ができて、ちょっとうれしい。

・世界遺産登録推進担当ホームページ かまくら GreenNet
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/sekaiisan/top.htm

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2006年06月04日

驚異の戦争〈古代の生物化学兵器〉

・驚異の戦争〈古代の生物化学兵器〉
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女性科学史家が、古代から中世の古文書を研究し、数千年前の戦争の中でも、生物化学兵器が世界中で使われていたことを立証しようとする。化学や細菌学の知識がない時代であっても、人類は、生物化学的な殺傷能力を巧妙に利用し、敵と戦ってきたという。

古代の生物化学兵器の例。蛇の毒を塗った矢、下痢を起こす植物成分での飲み水の汚染、兵士の死骸を投石器で城壁越しに投げ込む疫病攻撃、ペスト菌の付着した衣類の投げ込む作戦、退却時に砦に毒入りハチミツを残す戦術、サソリ爆弾、原始的材料で作った粘着力のあるナパーム弾攻撃など。「生物兵器の「生物」としては、サソリ、スズメバチ、ノミ、シラミ、ネズミ、イヌ、ウマ、ゾウなど、ほとんど、あらゆる生き物が列挙される。」。

ゾウはブタを苦手とするそうである。ゾウ軍団に対しては、火をつけたブタを突進させ、軍団をひるませたらしい。敵兵の洞窟には凶暴なクマを突入させた。動物受難の時代である。毒矢には蛇や植物の毒と一緒に人間の排泄物も塗られていた。こうすることで、毒を生き延びてもさまざまな感染症で敵を殺傷する確率を高めていた。性病持ちの娼婦を、敵の兵士のいる場所へ送り込んだり、美しい「毒の乙女」を将軍のもとへ贈ったりした。この毒の乙女というのは科学的根拠は怪しいのだが、少量の毒と解毒剤を毎日摂取することで、毒性を持つに至った女性のことである。彼女と交わるものはその毒におかされて死んでしまう。

こうした化学や細菌の威力は、悪魔や神の仕業と理解されていた。原理はわからなくても、強力な効果は知られていた。犠牲者は悲惨に死ぬ。毒殺を恐れる王たちは侍医に万能の解毒剤を調合させ、毎日飲んでいた。同時にそうした兵器を使うことは、道徳的によくない不名誉なことという認識が共有されていたという。だから、表の歴史書には、具体的な記述が乏しいのだと著者は分析している。

そして現代における生物化学兵器との類似性が指摘される。今ならば一層悲惨な結果を招くことになると警鐘をならす。

この本を読んでいて思い出したのが、好きな漫画家 星野 之宣の「コドク・エクスペリメント」である。コドクとは蠱毒のこと。つぼの中に毒虫をたくさん入れ、戦わせて、最後の一匹になるまで待つ。生き残りの一匹からは、最強の毒性を抽出できる、という古代中国に伝わる毒の開発方法。この漫画では宇宙の凶悪な生物たちを集めて、ひとつの惑星に置き去りにし、惑星規模でのコドク実験が行われる。

・コドク・エクスペリメント 1
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とある惑星に荷物を無人で下ろすはずが、上官の陰謀と惑星変動により置き去りにされた乗組員たち!20年後、その惑星は…。巨匠の描く宇宙SF。新装版。

・私の好きな漫画家たち
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000741.html


・感染症は世界史を動かす
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004403.html

・インフルエンザ危機(クライシス)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004247.html

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2006年05月31日

「個」を見つめるダイアローグ

・「個」を見つめるダイアローグ
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個をみつめるダイアローグ

この二人は凄いな。先見の明。

終始、対話が煮詰まらず外へ未来へと向かう。

作家・村上龍とITの伝道師・伊藤穣一の対談本。

目次:

第1章 「個」がつながる世界で 
■「個」のネットワークという「思想」
お金と権力の外へ/蜘蛛の巣のような信頼関係/コミュニケーションは喜びそのもの/「オープン」というキーワード/正確なコミュニケーション
■メディアと「個」 
メディアの「パラダイム」は古い /アマチュアが参加するジャーナリズム/「無難な思考」では何も見えてこない/一丸となることはもはや不可能

第2章 国と「個」
■適応が遅れる日本社会 
プライバシーと民度/リスクの先延ばしという非合理性/決定権と責任がセットになっていない/閉ざされた社会と開かれた社会/洗練を拒否するという態度/「外国人」の視点を意識する
■歴史と思考の軋轢
言葉の定義がないままの議論/歴史の転換点には経済問題がある/立ち止まって考える合理性/わたしたちはリスペクトされたいのか/偉くなるのはいいことか

第3章 再生は必要なのか、可能なのか
■旧弊というパラダイム
分散型のネットワークとテロ組織/リスクを直視すること/敵の文脈を理解する/「コモンセンス」という考え方
■合理性という言葉の機能
複雑なシステムと個人/最適最小化ということ/子どもと外部性

第4章 表現・発信すること
■「個」としてハッピーであるために
ヒューマニズムより、経済合理性/How to be happy?/事実を伝える能力/参加という文化/教えるのではなく示す/自らの目を信じること/表現しなければ何も始まらない/一人旅が象徴するもの~


対話のテーマは幅広いが、インターネットで世界がつながった今、改めて、グローバリズムとは何かを真剣に語った本だと思う。国際性ということばはもう古い。国同士ではなく、個人が主体となって世界とどんな関係を取り結び、どんな新しい価値を世の中に生み出せるか。そんなテーマをコスモポリタンな二人が熱く語る。

「リスペクト」ということばがキーワードとしてよく使われる。

最初に使ったのは村上龍の発言。


「リスペクト」って日本語では、「尊敬する」と訳されているけれど、原語のニュアンスはちょっと違うんだよね。互いのいいところを探すという感じでもないし、ピタッとあてはまる日本語がない。アメリカ人って、このリスペクトを、どんなに意見や立場が違う人にも、ある程度はもっているんじゃないかと思う。でも、日本人にはこのリスペクトがないんだよ。

インターネットのコミュニケーションとコラボレーションに虚の部分と実の部分があるとすれば、実の部分はリスペクトが成り立たせているのじゃないかと私も考えていた。リスペクトとは、自分と同じように、相手もまた、これまでも存在してきたし、これからも存在していくもの、と認める認識姿勢のことなのではないかと思う。

日本社会の未来を語る長い対話の中で、二人とも「私たち」「我々」のような言葉を使わないのが印象的だった。一度も使っていないのではないか。単位は終始、個なのである。友達にこんな面白い個がいるんだよと二人とも、ユニークな個について嬉しそうに紹介する。

組織や国家が単位の事柄は、関係性が複雑で、何がよいのか悪いのかはっきりしないことが多い。これに対して、アイツは嫌いだとか、それはいけないことだ、それってサイコーとか、個同士の関係の事柄ならば、はっきり判断ができる。だからこそリスペクトが成立するのだと思う。

村上龍の発言。外交についての文脈。


でも、もしリスペクトがあれば、何か事件が起きたり、関係が悪化しても、そのリスペクトをテコに、どこからか話を始めることができるはずなんだよ。

この本、個であることを認め合う二人による、個についての対話が抜群に面白い。必ずしも意見が一致していないテーマでも、遠慮なく自論を語るし、妥協もしない。折り合わなくても、相互のリスペクトという対話の基盤の上で、話を外へ未来へと進める意思があるから、創発が起きている。

話の内容は先見の明に満ちていて啓発される内容だった。それと同時に、個の時代のコミュニケーションスタイルはこういうのがかっこいいんだよと、二人の未来エバンジェリストが身をもって示したカタチだと思う。おすすめ。

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2006年05月30日

カラー版 絵の教室

・カラー版 絵の教室
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好きな画家 安野光雅が絵についてあれこれ語る本である。

・1歳5ヶ月の息子が選ぶ2004年 ベスト絵本
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002776.html
この作家については以前、作品を書評している。

NHK番組の人間講座「絵とイマジネーション」を下敷きにしている。美術史の解説、絵を描く面白さ、ここに気をつけて書くといいというアドバイス、有名画家の作品と生涯など幅広い内容。

有名な画家でありながら謙虚で初心を忘れない語り。どのテーマでもこれが正解とは言わない。美術史や業界的にはこういう考え方やああいう考え方があるけど、私はこう思う、でも、違ったやり方もあって、私もそうしてみたいけど難しいんだ、なんて書き方で書かれている。

個の創造性を大切にしながら、先人へのレスペクトを忘れない。それが安野光雅が、どこかで見たような気がするけれど確実にオリジナルな画風の、いい絵を描ける秘密のように感じる。

技術と創造性について著者は次のように述べている。


たとえば「技術の修練は、創造性の対極にあって、技術を修練すればするほど、創造性からは遠ざかる、創造性を失ってまで技術を習得する必要があるだろうか」という創造性重視の見解もありました。

でも、伝統工芸や伝統演劇などの場合、解釈などしないで、「伝統を受け継ぐ」ことは、新しいことをはじめるよりも難しいと考えられます。伝承は単なる模倣ではなく、創造性が必要で、自分の創意が歴史的な創意にはかなわない、自分の創造性もつまるところ伝統が育ててくれたのだ、と謙虚に思うことも大切だという意味です。

ところで、今年のゴールデンウィークは家族でディズニーランドに行った。5月5日はこれ以上ないほど混んでいた。当たり前か。そんな混雑日でも楽しめる、知る人ぞ知る?TDLのオススメがある。ドローイングクラス。今回もまたまた参加してきた。

・東京ディズニーリゾート:東京ディズニーランド:ディズニーギャラリー
http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tdl/japanese/7land/world/atrc_gallery.html
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ディズニーのキャラクターを描く教室で20分程度の所要時間。先生の映像を見ながら、線を描いていくと、あら不思議、結構、みんな良いかんじにミッキーマウスやスティッチが描けてしまう。絵描き歌とは違い、最初に薄くおおまかな輪郭線を描かせた後、ディティールを描くアドバイスをくれる。自由度があるので、自分で描いた気分になれるのが楽しい。

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これは昨年のクリスマスに参加したドローイングクラス。

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サンタクロース姿のミッキーマウスを描く。

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完成。

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今回、描いたスティッチ。

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これは先生のお手本。

ドローイングクラスは使った鉛筆ももらえる。前後左右の参加者と見せ合う時間もあって楽しい。

まあ、私が日常描くのはこんなのばかりですけどね↓
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2006年05月28日

忘れられた日本人

・忘れられた日本人
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西日本を中心に農村の古老たちから聞き取った生活誌。初版は1960年だが岩波文庫52刷を数える民俗学の古典。かぐや姫や桃太郎に出てくる”爺さま”と”婆さま”が、物語の筋を離れて、訥々と自分の人生とムラについて語ったような内容である。”爺さま”と”婆さま”にも、彼らが主人公として生きた長くて深い物語があったのである。

でてくる人生は多様である。貧しい生活の中で必死に働き続けた人が多いが、自堕落に乞食生活を送った老人もいる。村の社会の向上に身を捧げ人望を集めた人生もあるし、ひたすらに異性を追いかけた色男もいる。意外にも自由奔放に生きていた女性の姿が目立つ。
まず古い農村社会は因習に縛られた封建的ムラ社会というイメージが間違いであることにきづかされる。各地方にこうした肥沃な土壌としての多様なムラ社会があったことが、近代日本の強さを産んだのでもあったのだろう。

網野善彦氏が書いたこの本の解説から。


歴史学が、歴史を対象化して科学的に分析・探求する歴史科学と、その上に立って歴史の流れを生き生きと叙述する歴史叙述によって、その使命を果たしうるのと同様、民俗学も民俗資料を広く蒐集し分析を加える科学的手法と、それをふまえつつ庶民の生活そのものを描き出す民俗誌、生活誌の叙述との総合によって、学問としての完成に達するものと素人流に私は考える。そして歴史家の場合もそうであるように、この二つの能力を兼ねそなえる民俗学者はきわめて稀であろうと思う。

宮本常一はそうした稀な才能であった。民俗学といえば柳田国男がまず思い浮かぶが、柳田民俗学は、地方のアマチュア研究者からの聞き取り報告を中央で吸い上げることで成立していた。宮本常一はまさに聞き取りの周縁的な貢献をした中心人物であった。

宮本は、生活誌を蒐集する仕事の中で、いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうか、という問題を考え続けたという。「進歩に対する迷信が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある」と述べている。

それはこの本を読めばわかる。貧しく、狭いムラ社会だが、そこに生きた人の人生は貧しくも狭くもなかった。どの語り部の話も、聞くものを魅了する小説の主人公であった。文句なくおもしろいのだ。このような活き活きとした物語を語れる人生は価値がある人生だと言えるだろう。宮本はそうした世の中が消えていくことを進歩と見る中央的価値観に対して異を唱えたかったのだろうと思われる。

100年前の生き方に共感できるのは不思議である。「忘れられた日本人」の中に今の私に連続する何かがまだ生きていることを実感する一冊だった。日本人論に関心のある人におすすめ。

・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html

・日本奥地紀行
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004156.html

・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html

・日本トンデモ祭―珍祭・奇祭きてれつガイド
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003898.html

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2006年05月10日

セレブの現代史

・セレブの現代史
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20世紀前半のセレブは「偉大で天才」であり、後半は「名前と製品」になった、という。かつてセレブの中心はハリウッド映画スターであった。天性の才能や絶世の美貌を持った天に輝く星であった。それが1950年代、映画産業の斜陽化によりスターシステムが崩壊し、同時にテレビが一般に普及することで、スターはお茶の間に登場する身近な存在に変質した。視聴者はスターの表舞台だけでなく、私生活、ライフスタイルにまで興味を持ち始める。

それは同時にスターが製品の広告塔になる時代の幕開けだった。celebrityはセールスのための道具になり、にっこり微笑みながら商品を宣伝するセールスパワーに化けた。米国の広告マンが書いたsellebrityという題名の書籍も紹介されている。

・Sellebrity: My Angling and Tangling With Famous People
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スターの宣伝効果が明確になると、凡庸な才能の人間でも演出でスター化するセレブ製造システムが確立され、ファンを市場とした巨大セレブインダストリーが形成されていく。すべては作り物であるし、視聴者も半分それを見抜いているのだが、変化を求める女性と10代の若者を中心に、その影響力は増大し続けている。

この本は各分野のセレブの変化を各章で実名や写真を見せながら、解説していく構成。

第1章 セレブの誕生
第2章 映画スターのセレブ
第3章 テレビのセレブ
第4章 ポップスのセレブ
第5章 アートとセレブ
第6章 ファッションとセレブ
第7章 女性とティーンズ
第8章 政治とセレブ
第9章 セレブ・テン・ギャラリー

米国の各分野のセレブが具体名であがっていたのが、とても勉強になった。同時に日本のセレブについても知りたくなってしまった。特に芸能系。セレブは有名人のはずだが、正直なところ、「私にとっては」あまり有名でないからである。私が無知ともいえるのだけれども...。

セレブインダストリーの顧客は女性と若者と書かれている。もう私は若者ではなく、オヤジらしい。10年前ならちゃんと状況にキャッチアップできていた。30代、40台のビジネスマンは芸能番組やワイドショーをあまり見る時間がない。仕事で必要なマーケティング知識として勉強や研究の対象としてみてしまうことが多くなる。純粋に憧れたり、そうなりたいとは思わなくなる気がする。

そんな私だけれどもセレブにキャッチアップするのに気に入っているサイトがある。

・芸能証券 - 芸能トレンドポータル
http://www.gse.jp/

「芸能証券」とは、芸能人の話題性を「株価」に見立てて、日々の値動きを記録していく「芸能トレンドポータルサイト」です。米国最大のブログ検索エンジンを運営する「テクノラティジャパン」より検索結果の提供をいただき、芸能証券の独自技術によりトレンドを株価として算出しています。

このサイトは芸能人を株式に見立てて市況をレポートするサイトである。

いま第1位は小泉今日子でこんなかんじだ。

・小泉今日子 - 芸能証券:マーケット速報
http://www.gse.jp/quote?s=1206&p=m5,m25&t=3m&q=c

企業株式に東証や店頭、NASDAQなどがあるように、市場区分がある。名前が笑える。


芸証1部・2部
すでに世間一般に幅広く認知されている銘柄の市場です。上場にあたっては、実績、活動状況、メディアへの露出度、ファンクラブ、ホームページなどについて、上場基準を満たしているか芸能証券取引所が厳正に審査を行います。

GASDAQ(ギャスダック)
芸証1部・2部の上場基準よりおおむね緩やかな市場であるため、成長途上の一般芸能人のほか、ミュージシャン、スポーツ選手・文化人など、多様な銘柄が所属しています。上場にあたっては、芸能証券取引所が審査を行います。

芸証シスターズ
新興女性アイドルが所属する市場です。芸証1部・2部への昇格を目指します。「近くにいる妹のような存在」のイメージからシスターズと名づけられました。上場にあたっては、芸能証券取引所が審査を行います。

芸証ペガサス
新興お笑い芸人が所属する市場です。芸証1部・2部への昇格を目指します。ペガサスのように空高く羽ばたいてほしいとの願いから名づけられました。上場にあたっては、芸能証券取引所が審査を行います。

ユーザが新しい芸能人を登録して上場させることもできる。新規上場銘柄を見ていれば、最近の新人がわかる。マーケット概況も真面目に書かれていて楽しい。スキャンダルや不名誉なことがあると、たとえば、

・芸能証券運営局 スタッフブログ ≫ Blog Archive ≫ コード9001上場廃止のお知らせ
http://blog.gse.jp/staff/?p=13
「コード9001堀江貴文は、重大な疑義が発生し、今後の芸能活動が極めて困難であることから、芸能証券取引所の判断により、本日付けで上場廃止を決定いたしました。」

こんなニュースと共に上場廃止されてしまったりもする。

とりあえず、ここを見ていれば、オヤジでもブログで人気のセレブは楽しく把握できる。
かつてセレブ製造の中心が、映画からテレビにシフトした時代があった。セレブの未来史にネットが及ぼす影響はどんなものになるだろうか。芸能証券はそのサービス説明の中で、

未来予測性
チャートやテクニカル指標を用いることにより、近い将来のトレンドをいち早く察知できます。現在は知名度が低くても、将来性のある芸能人を見つけ出せるので、キャスティングなどにも有効にご利用いただけます。

という項目を入れている。少なくともネットは才能の発掘の場にはなりつつあるようだ。

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2006年05月08日

アドルフ・ヒトラーの一族―独裁者の隠された血筋

・アドルフ・ヒトラーの一族―独裁者の隠された血筋
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世紀の大悪人アドルフ・ヒトラーにも両親や妹、親戚がいた。父親のアロイス・ヒトラーは貧しい家に生まれたが、努力と才覚で、難関であるドイツの税関吏の職を得た人物であった。性格は傲慢で、家族に対しては冷淡な人物であったらしい。これは息子アドルフにも受け継がれた気質のようだ。女性関係は複雑で、3度の結婚をしており、中には役所を騙して成立させた近親結婚も含まれる。

そもそもヒトラーという姓はアロイス・ヒトラーが改姓により一代で作ったものであった。貧しい親族たちと縁を切りたかったようだ。だからヒトラーという姓を名乗る一族はそれほど多くはない。ヒトラーには兄弟が多くいたがほとんどは病弱で、妹以外は幼少時に亡くなっている。異母兄弟や叔父、甥にヒトラー姓がいて、今も存命の人もいる。

ヒトラーは血統の純粋性をプロパガンダで強く打ち出していたので、自らの複雑な出自を知られることを恐れた。親族を遠ざけ、出自の詳細を隠し続けた。家族関係というものについてヒトラーは次のように述べているが、


私は自分の一族の歴史については何も知らない。私ほど知らない人はいない。私は家族というものと完璧に縁遠い存在であり、親戚付き合いに不向きな人間である

何も知らないのではなく、知っていたから隠したのである。

この本は最新の調査資料も使って、いままで語られることがなかったヒトラー一族の歴史に光をあてる。ドイツ首相で権力の頂点にあったアドルフ・ヒトラーは、彼らをほとんど無視して遠ざけてきた。しかし、”おじさん”が国家の最高権力者であるならば、親戚としてはその関係を利用したいと思うものが出てくる。

甥っ子の一人は、ヒトラーに近寄り拒絶されると、手のひらを返して、出自をマスコミに話すと総統を脅迫し、職業斡旋や金策の便宜をはからせた。戦況が悪化するとアメリカに渡り、アドルフの批判と暴露講演でひと稼ぎしている。

アドルフが好きだった母親は17歳のときにガンで亡くなっている。アドルフが愛した姪のゲリは短銃自殺で失っている。ヒトラーは暖かい家族というものに、本当に縁がなかったようだ。

ヒトラーの死亡、敗戦後は、”おじさん”のせいで一族は受難の日々であったらしい。ナチスになにも関わっていなかったのに逮捕され、獄死したものもいた。遺産争いもあったが大半は国家に没収されてしまう。末裔は今も多くは改名してひっそりと生きているそうだが、新しい世代はアドルフとは無関係なわけで、なんだか気の毒である。

この本は、一族の代表的な人物の伝記集であり、ヒトラーの隠そうした関係から、逆にヒトラーの真の姿、プライベートが浮き上がるように構成されている。大変、面白い読み物であった。

・アドルフ・ヒトラー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC


・ヒトラー ~最期の12日間~ スペシャル・エディション
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この映画のヒットによりちょっとしたヒトラーブーム。

・わが闘争 上―完訳 角川文庫
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2006年04月19日

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)

・文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)
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上巻に続いて、ルワンダ、ドミニカ共和国とハイチ、中国、オーストラリアがケーススタディとして取り上げられる。環境の初期条件と社会の選択がいかにそれぞれの社会に影響を与えてきたかがよくわかる。

ドミニカとハイチは一つの島にある二つの国家であるが、現在ドミニカの森林は国土の28%を占めるのに対して、ハイチは1%に過ぎない。かつてはハイチの方が先に農業経済を発展させ、栄えた国であったが、いまやハイチは最貧国である。経済的にも比較的安定したドミニカとは環境政策の違いが明暗を分けた。ドミニカは独裁的政治家による環境保護が強行された。それに対しハイチの一時的繁栄は、経済優先で、森林資源と土壌を犠牲にしたものであった。

社会が破滅的な決断を下すのはなぜか?。イースター島の最後の一本のヤシの木を切り倒した住民は何を考えていたのか?彼らは利益に眼がくらんでいたのか、それともまったく無知だったのか?。

著者は「這い進む常態」「風景健忘症」を破滅的決断の原因として挙げている。這い進む常態とは、正常性の基準が、感知できないほどゆっくりと下降する状態を指す。樹木は昨年より僅かに減っているが、異常ではないという判断を何十年も繰り返した結果、最後の一本になってしまうということだ。風景健忘症とは、ゆるやかな下降の中で、50年前はどうだったかを、人々が忘れてしまうことを指す。

恐らく最後の一本のヤシの木が切り倒されたとき、木材はほとんど使われていなかったのだから、ヤシの木は経済的価値がほとんどなかった。だから、誰も気にしなかった可能性がある。地球温暖化でゆでがえるになりそうな現代人と似た状況だったかもしれないと示唆がある。

たくさんのケーススタディから抽出した文明の崩壊の要因は、環境ストレスと人口過密にあると結論される。この二つの問題を抱えた地域は、実際、政治経済的にも不安定な国々である。この二つの要因がやがて直接的、間接的に文明の崩壊をもたらすのだ。

現代世界が直面する深刻な環境問題として12の問題が挙げられている。天然資源の破壊、大気の汚染、エネルギー問題、生物の多様性、土壌の汚染などどれも重要な問題ばかりだ。そしてそれぞれの問題は複雑に絡み合っている。

「今日の世界がかかえている最も重要な環境問題、人口問題をひとつ挙げるとすれば、それは何か?」という質問に著者は「最も重要な問題をひとつあげるとすれば、それは問題を順位づけして、ひとつに絞ろうとするわれわれの誤った姿勢だ!」と答えている。

12の問題をいっぺんに解決しなければならない。そのためには「長期的な企て」と「根本的な価値観の見直し」が必要だと著者は述べている。具体的な施策の提案も説得力がある。「持続可能な発展」を過去の文明崩壊の複数のケースから考える内容になっている。

そして「環境と経済の兼ね合いが大事」「科学技術がわたしたちの問題を解決してくれる」「資源を使い果たしたら別の資源を使えばいい」「何十年もの間、生活条件は向上し続けている」などの反環境保護派や消極派の代表意見を個別に論破していく。

解決への道のりは厳しいが、著者曰く、現代の私たちにはテレビと考古学がある。私たちは同時代の他の社会が何をしているか知ることができ、過去の経験から学ぶことができる。テレビはもちろんインターネットと言い換えてもいいはずだ。

地球の全生命を乗せた船が少しずつ沈んでいる。皆で力を合わせて、大急ぎで水をかきださないと、誰も生き残れないということをこの本は警告している。

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2006年04月18日

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)

・文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)
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上下の上巻部分をまず書評。

歴史から消滅した社会を比較研究することで、文明の崩壊の法則を論じた大作。

過去の文明崩壊に共通する、5つの要因として

環境破壊
気候変動
近隣の敵対集団
友好的な取引相手
環境問題への社会の適応

があると結論している。

共同体の発生→人口増加→食糧・エネルギー消費の増大→環境への負荷→食糧・エネルギー収量の低下→社会の混乱・破綻→崩壊・消滅というサイクルで文明は発生し、反映し、崩壊していく。5つの崩壊要因はこのプロセスの中に現れるが、最も重要なキーワードは環境である。

この上巻では、モンタナ州、イースター島、ビトケアン島とヘンダーソン島、アナサジ族、マヤ文明、バイキング、グリーンランドの繁栄と崩壊がケースとして詳細に分析されている。現代の例もあれば古代文明の例もある。

モアイ巨石像で知られるイースター島。かつてモアイ像は住民同士の宗教戦争によって、すべて倒され破壊されていた。現在、立って並んでいるモアイ像は現代になってから、復元されたものだけである。今のイースター島には樹木がないが、かつては森林に覆われていたという。樹木を一本残らず切り倒したのも、今は亡き住民たちであった。

イースター島は他の太平洋諸島から距離的に遠く孤立している。資源は不足気味な土地であったが、人々は懸命に生き独自の文化と宗教を育てていた。崩壊の原因はむしろ繁栄したこと自体にあった。増えた人口を養うために樹木が切り倒され、動物種を絶滅に追い込んでしまった。文化的であるがゆえにモアイのような、膨大なコストのかかる建造物をつくることに夢中になった。

外部からの資源の流入が期待できない島で。それは少しずつ進んだが、知らないうちに、自然の再生能力を人間の消費量が超えてしまっていた。彼らは自然から再生能力そのものを奪ってしまった。

次第に苦しくなる生活の中で、人々は希少な資源をめぐり争った。戦争は狭い島を一層荒廃させ、モアイ像をはじめとする文化も破壊した。この文明の晩年は激しい戦争と人肉食に及んだ飢餓に悩まされたらしい。ついにすべての住民が島から姿を消した。

このイースター島という箱庭の中の栄枯盛衰は数百年にわたる長い歴史であった。すべては徐々に進んでいた。各世代は知恵も能力もあり、最善と思う選択を選んでいたはずだ。そうでなければ巨石像を何百もつくる余裕のある一時代を築けなかったはずであるから。
上巻にでてきた多くの文明が、自らの住む環境を何らかの原因で徹底破壊してしまったことに崩壊の原因があることがわかる。人類のどんな営みも自然環境を少しずつ破壊している。農業でさえ破壊行為のひとつである。悪意や無知の環境破壊だけではないから複雑だ。イースター島という箱庭が実は現代の地球の縮図であるのかもしれない。

著者は、古今東西の文明崩壊の究明は今の地球文明の持続可能性の研究でもある、と示唆しているようだ。

下巻の書評を明日続けます。

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2006年04月16日

ルート66をゆく アメリカの「保守を訪ねて」

・ルート66をゆく アメリカの「保守を訪ねて」
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ニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルス、サンフランシスコ...。米国の東海岸と西海岸の都市は世界にも知られたグローバルなアメリカだと言える。自由や民主主義、資本主義経済の優位性を世界に発信している。これに対して、保守、愛国のローカルとしてのアメリカはなかなか見えてこない。著者は保守の拠点であるアメリカの中央部、中西部を走るルート66を旅して、保守の代表的な人物たちにインタビューを行った。それはローカルとしての「本当のアメリカ」を見つける旅になった。

米国の保守の状況を伝える数字。1990年代の調査によると、週に一度は教会に行く成人の割合はイギリスで27%、フランスで21%なのに対し、米国では44%を占める。2005年の別の調査では宗教が「非常に重要」と考える米国人は57%、「まあまあ重要」は28%であり、合計で85%に達するという事実が紹介されている。

キリスト教の聖書では人間はサルから進化したことにはなっていない。中西部の州では、学校の授業で進化論を教えることを認めない、あるいは、進化論だけを教えることを許さない人たちがいる。伝統的には神が人間を直接創造したする創造説があるが、最近ではインテリジェントデザイン(ID)という概念も提唱されるようになった。

IDとは「宇宙や生物の成り立ちは自然淘汰などではなく、ある知的な要因(インテリジェント・デザイナー)によるものとするほうが、より良く説明できる」で、進化論者との対話を求める動きだそうだ。この論法ならば宗教ではないから、科学との論争の入り口に立てるということで、教育における進化論論争でよく使われるようになったという。自然科学の常識なら創造論は非科学、非合理である。アメリカの保守派はその非合理を合理的に主張するやり方を得たわけだ。

政治の中から現在の保守主義が生まれたという意見も紹介されている。民主党と共和党の打ち出す政策はかさなっている部分が多いため、人々をひきつけるには差異が必要であった。そこで共和党のとった戦略が、宗教的保守主義であり、実現の道具として中絶反対、同性結婚反対などの道徳・価値観が使われたとする意見である。

この共和党の戦略は近年の大統領選挙においても成功を収めており、イラク戦争でも経済でもなく、道徳・価値観を論点とすることで、保守派の組織票を集中させることができた。そうした政治基盤を持つブッシュは、外交政策、経済政策はともかく、内政的には彼らの主張に迎合している。

ルート66上の保守的な都市に住む人々へのインタビューでは、同じ保守と言っても、個別の政策やイラク戦争に対する意見はさまざまであった。個々の問題で賛成派、反対派がいる。それぞれの立場に立つ理由も十人十色であった。彼らが共通して支持しているのは、結局のところ、共和党か民主党か、レッドかブルーかという二元論ではなくて、アメリカという旗そのものなのだというのが、この本の結論であった。

そして、その旗への支持、愛国心の源が、ルート66に代表されるような古きよきアメリカの思い出であるらしい。そうした思い出は米国以外の国の人間は共有していないものである。ネオコン、KKK、キリスト教原理主義といった保守派の負のイメージは、わからないが故の不気味さの象徴として、諸外国の人間に印象づけられているように思った。

日本も諸外国も、特に知識人は留学先が多い東海岸と西海岸的視点で理解しがちである。アメリカをよく見るには、真ん中の人々の動向にもっと注意しておくべきだと気がつかされる。

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2006年04月11日

感染症は世界史を動かす

・感染症は世界史を動かす
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ハンセン病、黒死病(ペスト)、梅毒、結核、新型インフルエンザ。聖書の時代から感染症は億単位の数の人間の命を奪ってきた。それは戦争や核爆弾を遥かに超える影響を及ぼす。中世のペストの大流行は世界で7000万人の犠牲者を出した。人口が元に戻るには2世紀を必要としたという。全盛期初頭のスペイン風邪では4000万人から8000万人の犠牲者を出した。そして新型インフルエンザの大流行が今起これば、最悪のシナリオでは1億8000万人から3億6000万人が死亡すると専門家に推定されている。

感染症の大流行(パンデミック)は特に都市化と交通の発達が進んだ中世以降に起きるようになった。医学が確立される前の中世では、原因不明の疫病は悪魔の仕業であり、患者は汚れた者と不当に差別されて悲惨な最期を迎えていた。ハンセン病やペストの死者は教会に埋葬されないことも多かった。

医学のない時代の治療は神頼み。無意味に血を抜いたり、水銀を吸い込んだり、自らの身体を鞭打って行進したりすることで病気が治るわけもなかった。患者を不衛生な場所に閉じ込めることで、死亡率はさらに高まった。

この本では中世以降のヨーロッパ、日本の感染症の実態が語られる。病気は自然が生み出すものだが、それを広めるのは人間である。ルネッサンスのヨーロッパでは、売春行為や娼婦は合法で公営のものまであった。ローマのシスティーナ礼拝堂は娼家の税で建ったといわれるそうだ。職人社会のマイスター制度では、若者は一人前になるまで結婚してはならないとされて晩婚化が目立った。若い男性は売春宿を利用した。梅毒の大流行の原因にあげられている。

産業革命のイギリスでは都市部の工場で、劣悪な環境下に労働者がおかれた。栄養不足や疲労、非衛生的な部屋に、集団で暮らすことで結核の温床になった。1840年のリバプールの労働者階級の平均死亡年齢は15歳だったそうだ。日本でも炭鉱労働者は次々に結核で倒れていた。世界大戦ではスペイン風邪の菌が兵士の大移動で世界中に広まった。最新のSARSや鳥型インフルエンザは飛行機で国境を飛び越える。

状況が中世と異なるのは、治療と予防の技術が進み、ある程度のコントロールが可能になっていること。近年、多くの専門家が近い将来のパンデミックを予言している。新型インフルエンザも怖いが、この本で知った事実「今日の世界の人口の3分の1は結核にかかっている」事実にも驚かされた。感染症の問題は人類最大の文字通り致命的問題かもしれない。

中世と近代のヨーロッパや日本の歴史を、感染症という視点で切り取った社会史、文化史として勉強になる本だった。世界を動かしてきたのは政治でも経済でもなくて、病気と考えることもできるのである。

・インフルエンザ危機(クライシス)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004247.html

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2006年03月17日

蘇るPC-8801伝説 永久保存版

・蘇るPC-8801伝説 永久保存版
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本当に永久保存したい。マイコン世代におすすめ。素晴らしい。絶賛。

80年代の名機 NEC PC-8801のムック本。NECの開発者、有名なゲームの開発者、著名人ユーザのインタビューが盛りだくさん。”ハチハチ”が今も愛されていることがよくわかる。初代PC-8801の発売は1981年9月だが、全盛期はPC-8801mkII(1983)からPC-8801SR(1985)の時期だっただろう。

まだ16ビットのPC-9801がビジネス向けの機種と位置づけられていた時期で、ホビーユースのユーザは、8ビットのPC-8801を愛していた。私も最愛のFM-7に次いで、大好きだったマシンだ。FM-7やPC-8801がなかったら私は今の仕事をしていないのは確実だ。人生を変えた機械である。

そして時代は変わった。パソコンは愛されなくなった。ユーザ同士が自機を自慢したり、多機種を批判して喧嘩することはほとんど考えられない。かつては日常的にあった光景だった。思い入れのあったマイコンに新機種がでたときの胸の締め付けられるような敗北感、あれはなんだったのか。やはり、愛していたのだ。

そうした熱い思いを、当時のキーパースンたちが語っている。

第一特集で取り上げられるゲームはCDにエミュレータとともに収録されている。ブラックオニキス、ハイドライドがWindowsで遊べるのが感激であった。
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以下 目次:

■座談会
・時代をリードしたゲームクリエイター、木屋氏&内藤氏による座談会
■インタビュー
・高校生プログラマだった赤松健氏
■【第1特集】いま蘇る!PC-8801懐かしの8bitゲームたち
・ザ・ブラックオニキス
・ファイヤークリスタル
・大打撃
・ハイドライドI
・ハイドライドII
・ハイドライドIII
・スーパー大戦略
・ハラキリ
・うっでぃぽこ
・リグラス
・ファイナルゾーン
・ドーム
・アーコン
■伝説の森田将棋その強さの秘密とは
・森田和郎氏インタビュー
■ゲームアーツ徹底研究
・ゲームアーツのプロダクト紹介
・ジー・モードの宮路武氏&池田氏の対談
・宮路洋一氏インタビュー
■PC-8801サウンドコンポーザー
■PC-8801解体新書
・PC-8801分解写真とハードウェアスペック解説
■デービーソフト
・8bitソフトにおいてワープロ、ゲームで有名だったデービーソフトにいたメンバーにインタビュー
・PC-8801用ワープロ
・主なゲームソフトの紹介
・開発苦労話など
■【第2特集】PC-8801ジャンル別ゲーム研究
・アクションゲーム
・ロールプレイングゲーム
・シミュレーション
・アドベンチャーゲーム
■PC-8801キーマンインタビュー
■ツクールシリーズの血統
・ツクールシリーズの進化について紹介
■ソフトハウス興亡の歴史 北海道vs九州
■日本ファルコム研究
・「イース」「ザナドゥ」などの名作ゲームを産み出し、PC-8801全盛期に不動の地位を確立した日本ファルコムの特集
■ログイン ゲームランキング
■アクションRPG研究
・PC-8801が産み出した独自ジャンル「アクションRPG」
■PC-8801データブック
・歴代のPC-8801機種紹介
・ログイン ゲームランキングの歴史
■ももいろPC-8801(袋綴じ)
・真樹村正氏インタビュー(「まりちゃん危機一髪」)
・ジャンル別ゲーム研究 エロゲー編
・マカダミアソフト(dbソフトの別ブランド)インタビュー
・もちつきかすみ

関連書籍:80年代のマイコン アスキー万歳!

・みんながコレで燃えた!NEC8ビットパソコン PC-8001・PC-6001 CD-ROM1枚(Windows 2000、XP対応)
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・蘇るPC-9801伝説 永久保存版―月刊アスキー別冊
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・MSX MAGAZINE永久保存版3
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・MSX MAGAZINE 永久保存版 2
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・MSX MAGAZINE 永久保存版
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2006年03月14日

封印作品の謎 2

・封印作品の謎 2
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楽しみにしていた2冊目もやはり面白かった。前作を超えている。

世の中には、諸事情あって公開できなくなった「封印作品」たちがある。封印の謎に元新聞記者が粘り強く迫るドキュメンタリである。

そこには国民的な有名作品も含まれる。

「キャンディ・キャンディ」
「ジャングル黒べえ」
「オバケのQ太郎」
「サンダーマスク」

まず私が驚いたのが「キャンディ・キャンディ」と「オバケのQ太郎」が封印されているという事実。私はふたつともよく見ていた親しみ深い作品だ。だが、これらの作品は現在、テレビ放映はおろか、単行本や関連製品の販売もできなくなっている。

キャンディ・キャンディは、原作者と漫画家が著作権をめぐりもめている。

原作者のサイトはこれである。

・Nagita Keiko Office Home Page
http://www.k-nagi.com/

みなさまにはご心配、ご協力をいただきながらそのままにしていたことお詫びしなくてはなりません・・・。

水木がこの件について話せば、結局、非難と嘆きになってしまうことが切なく、なるべくなら自然な形で静かに事がおさまることを願っていました。

しかし、いがらし氏はどうしても判決に納得がいかないらしく、最高裁判決から4年もすぎた今でも、相変わらず水木への誹謗中傷を繰り返しています。聞くたびに耳に熱湯を注がれる思いです。

キャンディのマンガ作品を愛し、忘れずにいてくれる読者の方たちの事を思うと、いたたまれず、原作者としてどうすればいいのか・・・苦悶は去りません。(これからも、ずっと。)

しかし、このような状況では水木は自分の気持を偽ってまで、マンガに手を差し伸べることはできません。水木の平安はもう見るのさえ苦痛になってしまったあのマンガの<絵>から遠ざかることしかないのです。

読者の人たち、ほんとうにごめんなさい・・・。

そして、漫画家のサイトはこちら。

・CCNET☆いがらしゆみこオフィシャルページへようこそ!
http://www.candycandy.net/top.html

二人が最高裁まで権利関係を争った結果、両者に著作権があるという司法の判断は下ったにも関わらず、二人の権利者の争いは泥沼化して決着できないでいる。第一章の特集ではその経緯と現状が解説されている。原作者への取材で当事者の声が聞ける。

フリーライターである著者の、関係者への取材活動は苦難の連続である。取材拒否が当然のようにあるし、喋りたくない相手に喋らせなければならない。差別問題と関係する「ジャングル黒べえ」の取材では、ある出版関係者から「業界人の目で見ると、あなたのやっていることは誰にとってもメリットのないキツネ狩りをやっているのと同じですよ」とまで警告を受けたそうだ。

今回の4つのケースでは、権利者間の感情的な争い、過去の不明瞭な権利処理、圧力を恐れた出版社の過剰な自粛などが原因となっている。そして原因には大抵、表と裏があるようだ。表というのはタテマエ的な説明である。裏というのは送り手側のできれば隠しておきたい事情である。そうした裏のある業界事情で封印は続く。おきざりにされているのは、各作品のファンである。封印の内情を地道な取材と考察で明らかにすることで、著者はこの問題に一石を投じようと、人生をかけて各章のテーマを追いかけている。

読み終わっての感想は「3冊目が読みたい」。

・封印作品の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002818.html

・放送禁止歌
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001449.html

・案外、知らずに歌ってた童謡の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003167.html

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2006年02月20日

世紀の誤審 オリンピックからW杯まで

・世紀の誤審 オリンピックからW杯まで
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2002年2月の冬季オリンピックで「ソルトレイク・ゲート事件」は起きた。花形競技のフィギュアスケート・ペアで、採点に不正があったというもの。本命のロシアのベレズナヤ・シハルリゼ組と、対抗馬のカナダのサレー・ペルティア組の演技で、ロシアはフリーで少し乱れた。一方のカナダはミスがなく完璧な演技をみせた。

ミスはあったもののロシアは芸術点と技術点で極めて高い印象があったので金メダルを獲得した。カナダ組は銀メダルに終わった。ところが、この採点の裏側で、ロシアに高い点数をつけたフランス人審査員とロシア側に密約があったことが判明し、メディアを巻き込む大騒ぎになる。慌てたIOCはカナダ組にも金メダルを授与して事態をおさめようとしたが、次々に関係者から談合の事実が暴露され、世紀の大誤審の一例になってしまった。

この審査制度を改革するため、その後、方式が変更されている。審査員の人数を7人から最大12人に増やし、採点後にランダムに9人の点数がピックアップされる。さらに最高点と最低点はカットされ、7人分の得点が採用されることになった。

事前に演技内容を選手が申告し、要素の最高点がわかる透明性も確立された。演技評価を細分化し、”印象”ではない加点方式を採用した。相対評価から絶対評価に変わったのも大きな特徴。以前の採点方式では、最初の競技者に満点を与えると、最後の競技者が優れていた場合、差をつけにくいので、前半の競技者に高い点がつきにくい傾向があった。

こうしてスタートした新制度だが、人間が運用する以上、完璧ではありえない。オリンピックは世界中から審査員を集めるため、レベルの低い審査員が競技の盛んでない国から集まったり、発展途上国の審査員は経済格差があるので買収されやすい、といった危険はまだ残っているそうだ。

競技者の人生をも左右しかねないオリンピックの誤審はなんとしても防ぐ必要がある。一方で、おおらかに誤審が何十年も受け入れられている分野もあるようだ。アメリカのプロスポーツにおける「ホームコート・ディシジョン」である。米国バスケットのNBAにおけるファウル数を著者はデータ解析している。明らかにホームチームが有利なバイアスがかかっている。

アメリカの観客にとって、ベースボールやバスケットボールは映画と同じようにエンタテイメントであり、せっかく足を運んだからには楽しみたい。ホームチームが劣勢のときに、ホームに有利なジャッジがあることは、多くの人間が肯定的に考えるので「認められた誤審」といっていいのではないかと著者は述べている。

この本の題材になるのは、近年のソルトレイクオリンピック、ミュンヘンオリンピック、、シドニーオリンピック、日韓ワールドカップ、日本のセ・パ両リーグ野球、米国のNBAバスケットボール、米国のベースボールなど。誤審の例を紹介するだけでなく、誤審がうまれる構造を暴き出そうとしている。

第1章 末続慎吾はなぜスタートで注意されたのか?
第2章 シドニーで篠原信一が銀に終わった本当の理由
第3章 日韓共催W杯が遺したもの
第4章 ソルトレイクの密約
第5章 ヤンキース王朝は誤審から始まった
第6章 ミュンヘン、男子バスケットボール大逆転の謎
第7章 マイノリティの悲哀―ラグビーにおける誤審
第8章 日本の誤審は偏見から生まれるのか?
第9章 誤審の傾向と対策

・テレビブログ トリノオリンピック 人間ドラマ
http://www.tvblog.jp/torino/
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編集長生活もあとわずか。


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2006年01月30日

死にカタログ

・死にカタログ
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大人のための絵本。

これは死に方についてのカタログである。

著者はJT広告「大人たばこ養成講座」をてがけた人物。各所の喫煙コーナーにウィットに富んだ喫煙マナーの啓蒙イラストを描いた。少なくとも都内の喫煙者ならば大半がご存知のはず。

すべての人間にとって「いちばん未来の話」である死を、明るく真剣に考えてみよう、がテーマ。

1 死のカタチ
2 死のタイミング
3 死の場所
4 死の理由
5 死のものがたり

という構成で、絵とキャプションで、何百もの死のあり方を一コマ漫画風に描いている。
「それは「情報」ではない」の著者の仕事「Understanding USA」に手法は似ている部分もある。たくさんの参考書籍、統計データをベースに、多様な死のあり方をわかりやすく可視化した。

・それは「情報」ではない
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000510.html

・Understanding USA
http://www.understandingusa.com/

街の中ではどんな死があるか、どんな死に方が多いかを街の絵に織り込む。家の中の死のあり方の絵もある。日本人の死因は8200種類以上もあるそうだ。しかし、実際には80%の人間は病院で死を迎えている。

平均寿命ランキングのグラフがある。日本は1位である。抜粋してみる。

1位 日本 81.9歳
2位 スイス 80.6歳
3位 オーストラリア 80.4歳
5位 スウェーデン 80.4歳
5位 カナダ 79.8歳

20位 アメリカ 77.3歳

30位 韓国 75.5歳

90位 ロシア 64.8歳

100位 インド 61.0歳

120位 ケニア 50.9歳

149位 シエラレオネ 34.0歳


世界の最貧国シエラレオネでは乳児の死亡率が異様に高い。平均寿命の高さはだいたい経済的豊かさに比例する。世界のどこに生まれたかで、死への距離は決まってしまうと言えるだろう。その意味では日本は最も死から遠い国といえるかもしれない。

それでも現代日本人の死への関心は深いようだ。著者は面白い分析をしている。


日本の映画配給収入ランキング20位のなかで、人が死ぬ物語の比率を調べてみました。

「およそ9割」

子ども向け映画以外のほとんど全部です。さらに、その5割は、大量に人が死ぬのです。

「人が死なない国では物語のなかで人が死ぬ」

イランやインドの映画では人が死ぬ映画はここまで多くないのだとのこと。現実生活で死と直面することが少ない代わりに、物語でそれを体験し、考えようとしているのではないかと著者は考察している。

世界各国の宗教や神話の死生観を描いたイラスト集や、歴史上の有名人の生から死までの道のりを描いたイラスト集など、死のイラストばかりだが、ユーモラスな軽いタッチなので読みやすい。イラストの細部にも結構な情報量が織り込まれているので、考えさせられるページも多い。メメントモリな本である。

自分は何を終わり方の理想としているのだろう?と考えてみました。

すべてを成し遂げて家族に見守られながら一句、


願わくば 桜の下にて 春死なん その如月の 望月のころ

こんな辞世を詠んでさようならというのが理想、かなあ。

って、まだよくわかりませんね。この句も借り物ですしね。。。

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2006年01月15日

日本奥地紀行

・日本奥地紀行
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こんなに面白い紀行記があったのかと発見に喜んだ一冊。

今から128年前。明治11年6月から9月の3ヶ月間東京から北海道までを、一人の英国人女性がお供の”伊藤”を連れて旅をした記録である。著者が妹に送った44通の手紙をもとにして書かれている。世界中を旅行し紀行本を何冊も著した彼女は、人類学者のように細やかで冷静な観察眼と小説家並みの文章能力を持っている。この本は、当時の日本の貴重なスナップショットになっている。

イザベラ・バードは船上から見えた富士山の美しさを絶賛しながら横浜港に到着し、東京でしばらく奥地旅行の準備をすすめた。何人も面接を行った上で、狡猾そうだが、機転が利きそうで英語のできる少年”伊藤”を旅のお供に選ぶ。そして陸路で北上し、各地で寄宿しながら、目的地の北海道を目指す。美しい自然や、素朴な農村の人々とのふれあいを綴っている。北海道に入ってからは念願のアイヌ人との共同生活体験も実現させる。途中には何度か危険な難所越えもあり、冒険譚としても読みどころ満載である。

著者の日本の印象をまとめてみると、

・外国の女性が旅行しても安全な国
・こどもをやたらと可愛がる国
・農村の生活は貧しいが自由な国
・悪臭、蚤や蚊に悩まされる国
・プライバシーがない国

ということを、繰り返し強調している。

プライバシーがない国というのは、住居の様式の問題もあるのだが、著者が当時は珍しい外国人だったことにも起因している。東北の村は滅多にない欧米人の訪問に大騒ぎである。

「二千人をくだらぬ人々が集まっていた。私が馬に乗り鞍の横にかけてある箱から望遠鏡を取り出そうとしたときであった。群集の大逃走が始まって、老人も若者も命がけで走り出し、子どもたちは慌てて逃げる大人たちに押し倒された。伊藤が言うには、私がピストルを取り出して彼らをびっくりさせようとしたと考えたからだという。」

人間が好きで、日本人の生活に深く入り込もうとする著者なので、人とのふれあいエピソードには事欠かない。人々の礼儀正しさや、自然の美しさには何度も感嘆する。日本は大好きであったようだ。


米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。<中略>自力で栄えるこの肥沃な大地は、すべて、それを耕作している人々の所有するところのものである。彼らは葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。

通過地点の村や町の記述は、いまそこに住んでいる人にとって、昔を知る興味深さがある。私の場合は、横浜や東京の当時の街の記述が勉強になった。紀行のクライマックスで記述量の多い東北や北海道の人ならなおさらだろう。もちろん、外国人旅行者の視点からの誤解もあるが、それは巻末の解説などで正されている。彼女自身の素描イラストが多数あるのも魅力である。

もうひとつの日本を、日本人が体験できる名著。

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2006年01月11日

「特攻」と日本人

・「特攻」と日本人
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昨日の「自爆テロリストの正体」と一緒に読んでいた本。

9.11の自爆テロリストと第二次世界大戦の日本の特攻隊員は、まったく異なる心理で死んでいったはずだとする本。昭和史研究の功績で菊池寛賞を受けた専門家による、特攻の意味を再考する本。

戦没学生の手記をまとめた「きけわだつみのこえ」は戦争評価に大きな影響を与えたが、この本が編集されたのは昭和24年の占領下日本であった。だから、占領政策による制約や編集者の意向もあって、あまりに情緒的過ぎるもの、軍国主義的なものは省かれていた。この本には、わだつみに収録されなかった遺稿が多数紹介されている。

書かれたのは戦時中であるから、表面上は特攻隊員に選ばれたことは名誉だというものが多い。しかし、残される家族への思いを吐露する部分では、その死を栄光と自発的に考えていたものなど、ほとんどいなかったのではないかと思える。

行間に滲み出てくるのは、それを名誉とでも思わなければ、目の前に突きつけられた自爆死に、しらふでは向き合えなかったこころの防衛機制である。「お国のために」死にたいというのは、職業軍人はともかく、特攻の7割を占めた学徒出陣組の本望ではなかったはずだと著者は書いている。


私は安田や吉田の世代ではないから、とうてい同じ姿勢で遺稿を読むことはできない。死者と同一化して読むことはできない。逆に客観化して読むことができる。客観化とは何か。特攻で逝った戦没学徒の遺稿を歴史の目で読むことである。彼らはこのような時代にあって、何を求めたのかというあたりまえのことを確認することができるのだ。そのことは、いささか大仰に言うなら、<予定された死>と向きあうときに知性や理性はどのように解体されたかを私たちは学ぶことができるのだ。

特攻を祖国愛に燃えての行為とみなしてはならないと著者は説く。英霊とまつりあげたり、犬死にと意味づけたりするのは間違っている。彼らは、感性を軸にしたナショナリズムで戦略もなく戦った国家の犠牲になった、尊い命だったと考えるべきだ著者は結論する。
著者は息子に特攻を語り継ぐ意義を問われ、「でも、特攻隊因が体当たり攻撃をすることによって、アメリカの海兵隊員も何百人も死ぬわけだろう」と言われて、愕然としたと書いている。海外のジャーナリストは9.11の自爆テロリストとどう違うのかと著者に質問したらしい。戦後60年が経過した。特攻隊員の行為の解釈はもはや常識ではない。歴史的な意味の説明が今、求められている。

極限下の状況で、お国のための名誉の戦死を死ぬことにしか、自らの死の肯定的な意味づけを見出せないようにまで追い込んだ、国家の責任を追及することはできる。しかし、戦後60年の今、犯人探しと責任追及はほとんど無意味である。

当時の特攻戦術を軍部が何度も却下しながら、戦況の悪化と共に徐々に肯定ムードへ傾いていく時代の空気の変化がこの本にはまとめられている。誰か大悪人の司令官が特攻で若者は死ねといったわけではないのである。このじわじわとなし崩しになっていく部分が怖いのだろうと思った。

私たちの世代に日本がまた戦争に巻き込まれないとは断言できない。社会の空気がじわじわと変わっていくとき、私たちはそれに気づけるだろうか。知性や理性の解体に有効な阻止の手立てを打てるだろうか。著者の言う「戦没学徒の遺稿を歴史の目で読むこと」は、過去を裁くためというより、未来に備えるために必要な歴史学なのだと考えた。

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2006年01月09日

ヴォイニッチ写本の謎

・ヴォイニッチ写本の謎
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面白い。

中世に書かれたとされるヴォイニッチ写本は、考古学上のミステリとして有名である。まったく解読できない文字群と地球上に存在しない植物の図説、妊娠していると思しき妖精たちが不思議な配管を流れる液体に浸かって踊っている挿画。写本が作られた時代には、知られていなかったはずの、銀河の形状を描いた図までも収録されている。

数百年間の間、古今東西の言語学者、暗号解読者、考古学者たちが、この写本の解読に挑戦したが、いまだその意味はまったく判明していない。最新の解析でわかったことは、テキストがまったくのデタラメではなく、何らかの語彙、文法規則を持った未知の言語で書かれているらしいということ。

ヴォイニッチ写本は、まるで私たちの世界と隣り合う異次元からの抜け穴を通じて紛れ込んでしまったかのような、説明不能なモノなのである。誰かがカネのために偽造した説、ロジャー・ベーコンの暗号説、精神病患者の芸術説、神がかりした人間の自動書記説、などたくさんの仮説が立てられている。この本は歴史を追って、研究者たちの仮説の変遷が語られる。最後には著者らの見解も述べられている。

写本の発見の経緯には胡散臭い人物がうようよしていたのも事実だ。しかし、詐欺師の手による偽書にしては、手が込みすぎているように思える。既存の言語と接点を持たない、精巧な人工言語体系をひとつ作ったうえで、芸術的価値も認められるレベルの、200ページ以上もの豪華写本を、仔牛皮紙に描かねばならない。解読に一生を費やした優秀な頭脳が何人もいるのだが、彼らでさえ、解くことができないほどの暗号を、素人が作れるはずがないのだ。

解読は現在もインターネット上で行われている。プロとアマの研究者が日夜メーリングリストを通じて意見交換をしており、興味のある人は参加が可能だ。写本自体も全頁をネット上で閲覧することができる。

・Voynich Manuscript Mailing List
http://www.voynich.net/

・イェール大学図書館のデジタルライブラリ
http://beinecke.library.yale.edu/dl_crosscollex/SlideShowXC.asp?srchtype=CNO

本文中にメーリングリストの投稿もいくつか紹介されている。アマチュアほど自由でロマンチックな仮説を立てる傾向があるようだ。私は、ひとつトンデモ仮説をつくってみた。
こんなのはどうだろう。「ムー」にでも採用されそうだ。

橋本仮説:

地球の地下深くに私たちと似ている、もうひとつの人類社会が存在し、地上世界との接触を避けて暮らしてきたが、不届き者の手によって、地上に流出してしまった書物がヴォイニッチ写本なのである。

数千年前の文化の文字が未解読のままになっていることはよくある。だが、ヴォイニッチ写本は数世紀前の中世の遺物だと言われている。それがこれだけ情熱的研究者に囲まれながら、謎のままでいる。著者らも3年をヴォイニッチ写本研究に費やした末にこの本を書いたそうだ。

この本にはカラーとモノクロの写本の写真がたくさん掲載されている。挿画と清書された文字の並びが、極めて美しく、格調高く、何より妖艶である。エロティックである。ヴォイニッチ写本が数百年間に渡って人々をひきつけたのは、前人未到の謎を解きたいという、知的関心だけではなかったのではないか。この写本自体に異世界に読者を連れ込むような、不思議な魅力を感じる。芸術なのだ。

「解かぬが花」ということばもでてくるが、芸術なのだとしたら、解くことに意味はない。しばらくは知的探求の肴として謎のままにしておくのもいいという見解に私も賛成である。この本は、その徒労に終わった知的探求の長い長い歴史を、克明に記述することで、一級の知的娯楽作品になっているのだから。

・暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004028.html

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2006年01月04日

歴史とは何か

・歴史とは何か
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歴史学の古典。長い間読みたいリストに入れていて、今年の歴史の始まりである正月休みに読むことができた。名著だと思う。

純粋に客観的な歴史の記述などありえないという立場をカーは明言し、何度も繰り返す。

歴史家は必然的に選択的なものであります。歴史家の解釈から独立に客観的に存在する歴史的事実という堅い芯を信じるのは、前後顛倒の誤謬であります。

選択的であるがゆえにたとえば進歩史観といった見方がでてくる。意識的にせよ、無意識的にせよ、自由や平等や正義、民主化や自由市場といった現代的価値観で、異なる価値体系に生きた過去の人々の行為を測ってしまう。現代の価値に近づくことが良いこと、進歩と考えてしまう。古くはブルクハルトが「歴史とは、ある時代が他の時代のうちで注目に値いすると考えたものの記録」と書いている。

過去には無数の出来事がある。歴史家は、その中で少数の出来事を重要な歴史的事件として掬い上げ、重要な事件の間に意味を与えていく。原因と結果の連続としての物語を創造している。だが、自身が歴史の産物でもある歴史家が、現在の価値観に立って過去を裁いたものであって、絶対的真理とは程遠いものである。

たとえば中世の歴史は宗教の歴史として広く理解されている。だが、この時代の歴史を記述したのは主に宗教学者たちであり、宗教がすべてであった。一般の大衆が本当に宗教を日常生活で重視していたと考えるのは、誤りなのではないかとカーは疑いを持っている。戦争についての解釈も「勝てば官軍」の官軍側の解釈になりがちだ。客観性は怪しい。

そこで、歴史の客観性をカーは再定義する。


歴史上の事実は何しろ、歴史家がこれに認める意義次第で歴史上の事実になるのですから、完全に客観的であるというのは不可能であります。歴史における客観性ーーーまだこの便宜的な言葉を使うとしますとーーーというのは、事実の客観性ではなく、単に関係の客観性、つまり、事実と解釈との間の、過去と現在と未来との間の客観性なのです。

この表現はわかりやすくすると、


歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。

ということになる。

歴史の法則をいう観念にも警戒せよとカーは注意を促す。法則という観念は歴史学に科学の地位を与えたい社会科学者がよく使う手だ。経済学のグレシャムの法則やアダム・スミスの市場の法則、マルサスの人口の法則、マルクスの近代社会の経済的運動法則など数え上げればきりがないほどの古典的な歴史の法則がある。

しかし、個人と社会は過去の経験から学習し、自らの行為を修正している。盲目的に法則を繰り返す実験室の観察試料とは異なるものだ。循環的というよりは相互的ととらえられるべきものである。法則や仮説は、進んだ研究や新しい理解にいたる道を示すための道具に過ぎない。道具が「綱領」や「理想」に転化するとき、歴史は科学ではなくなる。

オクスフォード大学哲学科における講演「広がる地平線」でカーはマルクス、ヘーゲル、フロイトを、理性の広がりに影響を与えた大思想家として位置づけてみせた。我思うゆえに我ありとして絶対的な自己から始まるデカルト思想を乗り越えて、自身をも相対化する精神を、急速に変化する時代の歴史家は備えるべきだという。


私が一番心配なのは、英語使用世界のインテリや政治思想家の間で理性への信頼が薄らいで行くことではなく、不断に動く世界に対する行き届いた感覚が失われていることです。」

と当時(1960年代)の状況に問題提起をしている。「歴史とは何か」という問いへの思考停止を危ぶんでいる。

大学での講演をベースに編まれたこの本には、社会と個人、科学と道徳、歴史における因果関係、進歩としての歴史など、興味深いテーマに真正面から大学者が取り組み、率直な意見を述べている。”名演説”であるためか、逆にわかりにくくなった表現もあるのだが、別の講演で同じテーマを何度も繰り返すため、通読していくうちに理解できるようになっているのがいい。

現代のテロリズム、地域紛争、南北問題という大きな問題は、歴史の解釈の相違をめぐる憎悪の拡大という面も大きいと思う。カーは歴史を不断の対話と考えた。異なる価値観が隣接して生きる時代にこそ、歴史とは何かの問い直しが重要な役割を果たすのではないかと思った。

・人間は進歩してきたのか 「西欧近代」再考
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003148.html

・歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000778.html

・22世紀から回顧する21世紀全史
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000419.html

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2005年12月27日

なぜ日本人は賽銭を投げるのか―民俗信仰を読み解く

・なぜ日本人は賽銭を投げるのか―民俗信仰を読み解く
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お正月に人々は寺社で賽銭を投げる。神様に対して投げるという行為はかなり乱暴な動作であるし、願いをかなえてもらう対価として小銭というのも、よく考えると妙である。「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」という疑問につながる。

貨幣はケガレの吸引装置であり、神社はケガレの浄化装置であるというのがこの本の結論である。参拝者が賽銭を投げ込む行為は、ケガレがよりついた貨幣を投げ捨て、カミの浄化機能で清めてしまう意味があるのだそうだ。

そして、日本神話では黄泉の国から帰還したスサノオが海で禊をしたときに、幾柱もの神々が目や鼻から誕生したように、ケガレを祓え清める展開からは新たなカミが生まれる。だから寺社がケガレのゴミ捨て場になってしまうことはない。

贈与交換という人類学の経済観念からの考察もある。通常、贈与交換はモノで行われる。モノを贈られたら、贈った方の立場が上位になってしまって、落ち着かないのでお返しをする。この繰り返しによって上下関係がなくなり、平行で安定した人間関係、すなわち絆が強化されていく。贈与交換はモノを介した連続的なコミュニケーションなのである。

ところが貨幣が交換に使われると、単なる経済的な取引になってしまって、コミュニケーション機能は失われてしまう。手切れ金や退職金が現金であるように、貨幣の支払いは、関係を絶つことにつながる。お歳暮、お中元に同金額の現金を支払いあうようなものであり、人間的な絆の強化にはならないわけである。

だが、贈与には、脱社会的関係における贈与という特別なモードがある。賽銭を投げたり、厄年の人間がお金を撒いたりする儀式がそれにあたる。この場合のお金はケガレのよりついたものであり、それを投げ捨てている儀式だから、カミとの間に上下関係が生じるわけではない。社会関係や経済行為とはまったく次元の違う、儀式的行為だと解釈されている。

この本は著者が書いた民俗学についての論文やエッセイの寄せ集めで構成されている。このほかにも日本のさまざまな習俗の背後にある意味が解説されている。

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html

・仏教が好き!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001708.html

・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

・脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000134.html

・禅的生活
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002275.html

・神の発見
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003728.html

・科学を捨て、神秘へと向かう理性
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002634.html

・神の発明 カイエ・ソバージュ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html

・宗教常識の嘘
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003966.html

・神道の逆襲
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003844.html

・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html

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2005年12月13日

花街 異空間の都市史

・花街 異空間の都市史
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80年代、ポートピア連続殺人事件という往年のPCゲームの名作があった。神戸を舞台とする探偵アドベンチャーゲームだが、物語の中で「シンカイチ」という地名が登場していた。これは新開地のこと。新地、新開地と呼ばれる土地は日本中にあるが、多くは元花街、色街であることが多いようだ。神戸の新開地の研究も一章割かれている。

まず冒頭で、花街と色街(遊郭)の違いが述べられている。遊郭は娼妓を中心にした売春宿が一定の空間の内部において認められていた地域である。これに対して花街は、「飲食店で男性をもてなす酌婦、歌・舞踏・三味線などの芸をもって宴席に興を添える芸妓」が中心の地域を指す。実際には二つの要素が重なっていた地域もあるので、完全に分離することができないようではある。

全国に500もあったといわれる花街は独特の業界システムで運営されていた。芸妓を抱える置屋、遊ぶ場所である待合茶屋、料理も出せるし配達もする料理屋が主な業界プレイヤーで、この3つが三業地(あるいは二行地)と呼ばれる組合を、各地に形成していた。この他、待合茶屋、料理屋に介在して芸妓の派遣や花代清算を請け負う検番という組織もあった。

この本は全国の花街の興亡を、都市開発の観点から分析した本。芸妓やお客の談話や逸話のような色っぽい話があるわけではないが、男女の欲望コミュニケーションが駆動して、江戸、明治の街が発展してきたという側面がわかって面白い。


田を埋め、畑を潰して、家が建つ、すると某所へ上記のような商売屋[銘酒屋]が出来る、人が寄ってくる、周囲に並の町家が出来て来る、町の形がだんだん整ってくる、何時の間にか、ヘンな商売屋の数が減る、やがて、全く並の町になって了ふといふ順序であったのだ。
」 (「にごり江になる迄」よりの引用)

花街はできたての町を繁盛させ、かたちが整うと消えていく、都市の「インキュベーター」の役割を果たしてきたのではないかというのが著者の意見。また、芸者遊びは当時も高級な遊びであったため、花街の形成には、各時代の有力政治家や財界人も深く関わっていたことが明かされる。一般に日本の近代化は風俗の取締りを強化する方向で動いてきたと思われているが、実際には意図的に花街を維持形成する動きもあったようなのである。

その後、花街は昭和に形成された「赤線」に呑み込まれ、その制度の廃止とともにほとんどが消滅した。代表的な料理屋や建築はいまも細々と残って昔を今に伝えているのみだが、花街、芸者の文化は、江戸文化の代表として、海外にも広く伝わっている。外国人にゲイシャってなに?と聞かれたときに、この本の薀蓄を「まず都市論的な観点からみるとね...」と教えてあげられると、たいへん尊敬されそうである。

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2005年12月04日

グロテスクな教養

・グロテスクな教養
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■君たちはどう生きるか

著者によると、学歴エリートが「僕は単なる受験秀才じゃないぞ」を確認しあうための孔雀の羽として、教養を肥大化させてきたのだという。日本においては受験における勝利の評価が低いので、だからこそ学歴エリートはもう一段上の自分を形成するために教養を求めたと分析されている。

そうした一部の人たち向けの典型的な指南書として、雑誌「世界」の編集長となる吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」が何度も引用されている。

・君たちはどう生きるか
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これは私も学生時代に読んだ。ベストセラーである。

「君のような恵まれた立場にいる人が、どんなことをしなければならないか、どういう心掛けで生きていくのが本当か」を語る内容。著者曰く「どう生きるかを主体的に選びうる「君たち」というのが実は少数の特権的な男の子たちだけを指して」いるとする。

そして「きけわだつみのこえ」も同じ世代に影響を与えた一冊として紹介される。

・きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記
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酷薄な状況の中で,最後まで鋭敏な魂と明晰な知性を失うまいと努め,祖国と愛する者の未来を憂いながら死んでいった学徒兵たち.一九四九年の刊行以来,無数の読者の心をとらえ続けてきた戦没学生たちの手記を,戦後五○年を機にあらためて原点に立ちかえって見直し,新しい世代に読みつがれていく決定版として刊行する.

学徒兵が塹壕の中でファウストやドストエフスキーを読むような教養の高さを示した。こちらは「君たちはどう死ぬか」についての本である。

かつての教養はエリート層が世界をよりよいものにしようとする責任感=ノーブレス・オブリージュの源であった。この生きがいの独り占めが教養の正統性を支えていた。

■慢性孤独病のマゾヒズムとしての教養

二十歳で哲学自殺した原口 統三の二十歳のエチュードが、学生運動世代の教養主義のいびつさを伝えるものとして紹介されている。

・二十歳のエチュード
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「原口 統三
1927年1月14日、京城に生まれる。新京・奉天・大連をへて1944年第一高等学校文科丙類入学。ボードレール、ランボーらへの親炙、ヴァレリー、ニーチェとの対決をへて純粋意識と生の相克を詳細な遺稿断章「エチュード」に遺し、1946年10月25日、神奈川県逗子海岸にて入水自殺」

この本が出て連想した「二十歳の原点」の高野悦子も似たような事例だろう。

・二十歳の原点
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「独りであること、未熟であることを認識の基点に、青春を駆けぬけた一女子大生の愛と死のノート。自ら命を絶った悲痛な魂の証言。 」


こうした形而上学的な悩みを抱えて死ぬというのは、つまるところ、教養の、慢性孤独病のマゾヒズム的な側面を表している。

■制度化に締め出された人文学と、商品化の共犯者としての出版社

一部の学歴エリートたちの教養主義であったものが、大学の大衆化によって万人のものとなる過程で、教養は実用教育の効用にとって変わられていく。そして行き場のなくなった教養が出口を求めたのが出版と言う商品化であったという。


いわば教養とはじつはこのとき〔近代国家の成立時〕制度の外に置かれ実用性を認められずに資格授与を許されなかった知識だといえる。教養とは制度化された知識の余白にほかならず、逆説的に近代国家によって生み出された私生児だったのである。そのさい自然科学と社会科学の大部分は実用性を認められ、国家の学校教育の中で制度化されたが、曖昧なのは人文学であった。さて、こうした制度化に締めだされて成立した教養を救い、たくみに社会的地位を与えたものも揺籃期の大衆社会であった。そのための唯一の方法こそ、ほかならぬ知識の商品化であり市場化だったのである

「教養の危機を超えて」山崎正和より引用

岩波書店、中央公論、みすず書房、東京大学出版会、平凡社、頸草書房、青土社、未来社、筑摩書房などの老舗人文出版社が、教養の商品化に手を貸した共犯者であるという。この本も筑摩書房から出版されているのだが...。

事例として、ニュー・アカの旗手、浅田彰の構造と力が出てくる。

・構造と力―記号論を超えて
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教養主義は、学歴エリートたちの人気投票的側面があったとして、


ニューアカは教養主義の極限の姿を示してくれる。思えば、あれは確かに「虚名」の時代であった。「浅田彰」や「中沢新一」や「栗本慎一郎」は名前として歩き回っていた。さらに言えば、それは印刷された文字だったから、四方田とか丹生谷などの読みにくい苗字は有利だったような気がする。ハスミ先生には、本書もその慣習に従っているように、かならず本字が使用されねばならなかった

こうなると人気の先生に自分の著作を引用してもらい、友愛集団の仲間入りすることが、教養の商品化への第一歩としてとらえられるようになった、と著者は言う。

■教養のグロテスク

女性の教養という視点でのジェンダー論も最後に続く。教養の意義を相対化し、古典的教養論の価値を幾重にも疑う内容であった。

教養のグロテスクさというのはなんとなくわかる。それと似通ったグロテスクさを、、毎週ジムに通って肉体美を磨き上げるビジネスエリートだとか、社長仲間のゴルフツアーにも感じる。衣食足りた人たちがそれ以上を求めて競い合う何かという点では、ジム通いも、ゴルフも同じものなのではあるまいか。

だが、本当の教養の価値というのは、スノッブ集団のプロトコルではなくて、

・古典を知っているから深く味わえる作品があること
・古今東西を知ることで全体像を理解すること
・自分と無関係の他者に対する想像力を強化できること
・”ビジョン”に幅広い支持者層を得られること
・面白いユーモアを言えるネタ元

といったことにあるのではないだろうかと、私は考える。

一読して思うのは著者自身、批判の対象であるマルクス的な階級社会観から逃れられていないということ。この本自体が、グロテスクと批判する肥大化した教養主義の一端を担う一冊になってしまっていると思うのだが、その出口のないグロテスクさが読みどころなのでもある。

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2005年11月29日

羞恥心はどこへ消えた?

・羞恥心はどこへ消えた?
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レンタルビデオ店でアダルトビデオを借りる際の男子学生200人の行動を調査分析したところ、そこには4つの作戦が発見されたという。

隠蔽工作
・カウンターに他の客がいないときを狙う
・カウンターに女性の店員がいないときを狙う

偽装工作
・用がなくても他のビデオコーナーを回る
・アダルトビデオ以外にも興味があるように装う

関与否認
・連続して借りない
・借りたらしばらくその店にいかない

他人行儀
・店員にわざと無愛想にふるまう
・店員とはできるだけ視線を合わせないようにする

地べたに座り込んだり、電車で化粧をしたりと、若者は羞恥心が薄れたなどと言われるが、こんな事例を見るとまだまだ根強く機能していることがわかる。羞恥心は進化上、極めて重要な役割を果たしてきた人間社会にとって本質的なものだと著者は論じる。


羞恥心は単なる自己顕示欲や虚栄心といった世俗的なプライドを守る道具ではない。人類が社会に依存して生きることを決めたときから、世代を重ねる中でアップグレードされてきたシステムである。進化心理学の視点から考えてみると、恐らく人類史の中で敏感な羞恥心を持たない人物は、社会から排斥されその形質を後世に伝えることができなかったはずだ。これが繰り返される中、より優秀な羞恥心の持ち主が社会の中で生き残り、このシステムはさらに洗練されていったものと考えられる。

人間は集団で生きるため、自分の中に「集団の存続や福祉に貢献できないこと」「協調性や道徳性の欠如」「対人魅力の欠如」につながる要素をみつけると強い不安を感じる。社会から排斥されてしまうのではないかと恐れて改善しようとする。そのセンサーとしてはたらくソシオメーターが、羞恥心なのだ。

この本に紹介された研究結果によると、羞恥心は以下の式で計算できる。

羞恥心=相手との関係の重要度×自己への評価の不安度

この式では、自分の会社の社長と初対面で失言をしてしまったときはかなり恥ずかしい、と例がある。関係は家族のように極めて親密であったり、二度と会うことがない他人のように極めて疎遠であったりすると、羞恥心は鈍くなる。ほどほどに親しい関係の相手が最も恥ずかしさを感じる対象であるようだ。

「ミウチ」「タニン」「セケン」という日本文化の区分けでいうと、ミウチとタニンはあまり羞恥心を感じない。「セケン」は恥ずかしいということになる。最近の若者の羞恥心の弱体化は「地域社会のセケン機能の低下」「地域社会のタニン領域への移行」「セケンの機能細分化とミニセケンの増加」というセケン弱体化と関係があるのではないかと書かれている。

ジベタに座り込む若者は、その地域社会をセケンと考えていないし、仲間同士の目だけを気にするミニセケンに生きていると指摘する。アンケート調査の分析により、ジベタに座ることが恥ずかしくないから、ではなくて、座らない方が仲間内で恥ずかしいから座っていることが判明する。羞恥心は弱体化したのではなく、感じる部分が変化してきただけなのだ。

羞恥心は文化によってかなり異なるようだ。世界には裸で暮らす民族がいるが、彼らの社会では男性は女性の性器を直視してはいけないという厳しい規律があるのだという研究が紹介されていた。

この話を聞いて、ちょっと思い出してしまった。

昨年の今頃、私は中国に出張中の休日、山東省の奥地、泰山という場所を訪問していた。
・孔子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002572.html
昨年の中国訪問のレポート。

ここにある大きな比較的高級と思われるホテルに宿泊した。泰山は観光地とはいえ外国人に人気とは思えない。やはり中国人ばかり。私たち以外に外国人滞在者はいないような印象だった。そのホテルにはスパがあった。別料金の大浴場である。部屋の小さな風呂に入るより、そっちのほうがいいじゃないかと出かけたのが、羞恥心を深く考えるきっかけになる事件の始まりだった。

私は中国語は喋れない。ホテルの従業員は英語が喋れない。基本的に意思疎通は困難な状況であったが、お風呂くらい万国共通でしょうと思っていた。ちょっと違った。

まず途方にくれたのがスパの着替えのロッカールームに入ったときである。ホテルの係の男性が何人も迎えてくれるのだが、どうやら彼らの前で素っ裸になるらしい。いきなり気恥ずかしかったが風呂であるので当然かと思って脱ぐとロッカーの鍵をくれる。

こころもとなく鍵を握り締め、裸で大浴場に入った。特大プールのように、大きくて快適な風呂だ。桶でいったん汗を流して湯船に使った。ふー。観察する余裕ができる。湯気の向こうには、ベッドが10以上あって、地元客がうつ伏せや仰向けに寝転がっている。ちょっと異様なのはそれぞれの客に一人、洗う係の男性がついている。どうやら別料金で体を洗ってくれるようなのだ。

男性が男性を至れり尽くせりな状態で丁寧に洗っている風景は、日本人の私からすると既に恥ずかしい感じがしたのだが、女性が男性を洗っていてもまたそれはそれで大変なことになってしまう。まあこれもお国柄でアリなサービスなんだなと感慨にふけりながら、ちらちら見ていると、驚きのサービスが含まれていた。体を洗う際に局部も洗ってもわうわけだが、洗い係はサオの部分を手で持ち上げて丁寧に洗ったりしているのである。これは見ているほうが恥ずかしくなってしまう。

裸体に対する羞恥心は日本人と中国人ではかなり違うようだとわかった。彼らは洗い場でもロッカールームでも堂々と隠さない。さすが大陸文化はおおらかなのだなあとしみじみ感動した体験だった。郷に入れば郷に従えということか。

しかし、恥ずかしさを表現する、赤面やぎこちない微笑や手で顔を隠すジェスチャーは万国共通のものであると、この本には書かれている。こうした表情は「私はだめな人間です」と同時に「自分は失敗したと自覚している」というメッセージを周囲に伝達し、「わざとやったわけではなく、社会のルールを守る意思はある」という態度を明示する作用がある。実際、羞恥の表情は、見るものの好感度を高め、不信感や怒りを鎮める効果があるそうである。

長い進化の結果、得た形質だから万国共通なのだろう。じゃあ、恥ずかしさの万国博覧会などあったら傑作かもしれない。意外なものに赤面する様を相互鑑賞する国際交流が心の裸のつきあいにつながったりして。

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2005年11月15日

シュメル―人類最古の文明

・シュメル―人類最古の文明
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いつか行ってみたい国がイラク。

人類最古の文明、メソポタミア発祥の地だから。

・MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト - マルチメディア - ウルのジッグラト
http://jp.encarta.msn.com/media_461550220_761572159_-1_1/content.html

聖書に登場する「バベルの塔」のモデルになったといわれる聖塔ジッグラト。一度、自分の目で見てみたいが、すぐにはいけそうにない状況である。イラク博物館も、戦争で破壊・略奪されて、図鑑に掲載されているような貴重な遺産が失われてしまったりもしたようだ。

メソポタミアを知る上で、このDVDは素晴らしかった。

・四大文明 第二集「メソポタミア〜それは一粒の麦から始まった〜」
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大成建設がCGを担当している。この会社は古代文明の建築物の再現CG制作を得意とするようで、少し古いが、こんなサイトも見つかった。解説付きの再現映像でたっぷりみごたえあり。

・大成建設 古代文明都市 バーチャルトリップ
http://www.taisei-kodaitoshi.com/index.html

ティグリス河、ユーフラテス河の間の土地という意味の「メソポタミア」文明は、5千年前に文字やハンコ、学校、法律を創り出し、人々は都市生活を営んでいた。この文明を生み出したのが、出自が謎のシュメル人であった。

世界の神話の原型をシュメルに見ることができる。


七日と七晩の間、大洪水が国土で暴れ、
巨大な船が洪水の上を漂った後で、
ウトゥ神が昇って来て、天と地に光を放った。
ジウスドゥラは巨大な船の窓を開いた。

シュメル語版「大洪水伝説」

これはキリスト教の聖書にでてくる洪水伝説やその他の文明の類似神話の原型となっている話である。預言者モーセやローマの建国伝説ロムルスとレムルスの原型になった、川に流される赤ん坊の伝説もみつかる。

こうした神話は、楔形文字による粘土板にしっかり記録されている。文字はシュメルで生まれたともいわれる。粘土板読みと呼ばれる研究者は一生をかけて少しずつ、粘土板を解読しているそうだ。この本はそうした気の長い解読の何十年の成果から、当時のシュメル文明の姿を描き出そうとしている。

シュメルのみの本というのは珍しいので、古代史・神話好きにはたまらない新書であった。歴史の教科書ではメソポタミアというと「ハンムラビ法典」「円筒印章」程度で一瞬で通過してしまう部分であるが、たくさんの「世界のはじまり」がこの時代にあったことに驚かされる。

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2005年10月16日

共視論―母子像の心理学

・共視論―母子像の心理学
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蛍、シャボン玉、花火、傘の穴などを共に眺める母子。この共に眺める行為を「共視」と名づけて、日本文化の中に、その独特の意味を見出そうとする共同研究プロジェクトの8本の論文集。

著者らは浮世絵の母子像数百枚を調査し、その構図によって「密着」「接触・共視」「分離・共視」「対面」「平行・支持」「無関係」「その他」に分類した。すると共視の出現率が3割以上、平行・支持を含めると半数を超える母子像に「共に眺める」要素が含まれていることが判明する。この率が5%の西洋画に比べてとても高い。

発達心理学では二人が肩を並べてひとつの対象を眺めることをジョイント・アテンション(共同注視、共同注意)と呼び、幼児が他者の意図や心的状態を読み取り始める発達上の一大ターニングポイントとみなしている。「子は母の視線を追い、母の見ている対象を共に見ながら母の発語を聞く。逆に母もこの視線を追い、子の見ているモノを共に眺める。このような共同の前言語的行為のなかで得られた形や関係性が言語活動へ展開するのである。」。

心理学では共同注意は、他者が考えていることを想像する過程「心の理論」の一部としてとらえられている。私とモノの二項関係から、社会的に共有される象徴を介した三項関係への発展である。指している指ではなく、指している先の対象に気がつくことは、人間以外の動物には稀で、それには相手も自分と同じような心を持っていることを認識する必要があるとされる。

日本人は特に、共視という構図が伝統的に好きなようだ。二者が同じものを眺める構図は大衆のニードにこたえて浮世絵に多数作られてきた。この母子の在り方は単なる絵の構図ではなく、日本人の親子関係、養育関係、コミュニケーションの特徴をあらわしているのではないかと著者らは多様な分析と仮説を提示している。

たとえば指さしの行為は子が指差したモノのラベル(名前)を親が教える語彙獲得という側面とは別に、子が「アー」といえば親も「アー」と返す感情共有のコミュニケーションという側面が大切に考えられていること。

タテ社会における特徴的な視線としての「共視」を分析した研究者もいる。共に視るパートナーは多くがウチの人間である。ヨソの人間ではない。共視の関係は、タテ社会における”同じものをみたら同じように考える”と言う集団の幻想があってはじめて成り立つ。自己は他者や周りの物事とのつながりの中で存在するという日本流の「相互協調(依存)的価値観」と共視には深い関係があるという。

母子像が共に視るモノは蛍、シャボン玉、花火、傘の穴などのはかないモノが多いという分析も興味深かった。親と子の蜜月関係がいまだけのものであり、いずれは子は育って独立した存在になる。親もいつまでも同じ役割関係だけでは生きられない。

そして、浮世絵の母子像のほとんどの子は男の子である。絵師たちは、江戸時代に春画が禁止されたため、男女の絡みを直接的には描けなくなった。そこで男性の代役として男の子を魅惑的な若い母親の女性に抱かせることで、浮世絵を見る男性たちの欲求を満足させようとした側面があるらしい。男女関係もまた、移ろいやすくはかないものである。

共視する母子像の美しさはそうした愛の一瞬の美しさを切り取ったものだから、そうしたうつろう存在が好きな日本人に長く愛されてきたものであるようだ。絵にあらわれる視線を分析することで、これだけたくさんの意味を見出せるというのが面白かった。美術館で絵を鑑賞するときの参考にもなる。

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2005年10月13日

日本トンデモ祭―珍祭・奇祭きてれつガイド

・日本トンデモ祭―珍祭・奇祭きてれつガイド
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興味があれば強くオススメできる一冊。

日本には1日に1000個、1年に30万個の祭りがあるといわれている。

著者が実際に取材した奇祭が約50個も写真と体験談入りで紹介されている。開催場所や日時も記載されているので、実際に見に行く際のガイドとしても参考になる。

とにかくユニークな凄い内容で圧倒される。

・ひょっとこが巨大な男根で踊りまくる祭り
・男が女をつねり放題、たたき放題の祭り
・男根に女の子を乗せてゆっさゆさの祭り
・暗闇の中でお尻を触る祭り
・天狗とお多福がセックスショウをする祭り
・ひげを撫でながら酒を飲む祭り
・神輿を破壊するバイオレンスな祭り
・幽霊がズンドコ節を踊る祭り

性の祭り、笑の祭り、暴の祭り、変の祭り、獣の祭りの5つに分類されている。特に充実しているのが性の祭りである。祭りというのは現代の普通の祭りでも、なにかエロティックな要素があるが、ここに取り上げられるのは性を濃密に圧縮してしまった祭りばかり。きわどい。

たとえばかなまら祭り。

・かなまら祭り - Google イメージ検索
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient-menuext&ie=UTF-8&q=%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%82%89%E7%A5%AD%E3%82%8A&sa=N&tab=wi

画像検索しただけでもかなりユニークであることがわかる。

日本の古い寺社の御神体には男性器や女性器の形のものが多いと言われる。祭りの多くが古い形では乱交を伴ったと言われる。「明治時代、日本政府は「盆踊り禁止令」というのを出している。これは、当時は盆踊りというのは要するに「乱交」を意味し、それがあまりに目に余ったので、明治政府が風紀を引き締めるために禁止にまわったのだ。」と著者。

まあ、とにかく、トンデモなく面白い一冊なので、民俗好き、祭り好きなら買って損はない。著者のサイトも情報が充実している。

・杉岡幸徳のページ〜奇祭評論家・エッセイスト
http://www.sugikoto.com/index.htm

ちなみに私が所属する地元町内会の祭りも結構変である。ギネス認定の世界一大きい金魚すくいを売り物にしている。毎年、これを見るのが楽しみなのだが、この著者は取材に来てくれないかな。

・藤沢銀座土曜会どっと混む〜世界一大きい金魚すくい
http://www.doyokai.com/event/2005/
2002年 100.8メートル(2003年7月ギネス認定)
金魚:60,000匹/メダカ:15,000匹/水槽内水量:15トン

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2005年09月05日

地球のなおし方

・地球のなおし方
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先日書評した「成長の限界 人類の選択」を同じ著者が、一般向けにやさしく要約した本。

・成長の限界 人類の選択
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003701.html

内容はほとんど同じだが予備知識なしに読むにはこちらのほうが向いている。

「技術や市場では環境問題を解決できない」というのが著者が強くいいたいことでもあるようだ。

複雑で限界のある世界では、技術や市場の力で一つの限界を取り除いても、加速度的に成長する世界ではあっという間に、次の限界に達してしまう。大部分のシミュレーションでは枯渇するのは、土地や食糧、自然の汚染吸収能力ではなく、人間の対応能力なのだという。

環境をめぐる政策や技術、合意には時間がかかり、同時にいくつもの限界には対応が難しくなる。CO2の排出量を規制する政策や技術が完璧になっても、その頃には他の有害物質や生産量の限界が出てくる。いたちごっこのサイクルは加速度的にピッチを速めて、やがてこの成長ゲームは破綻してしまう。

また、技術や市場は、ある社会の目標を達成する手段に過ぎない。その社会が持続可能型社会よりも成長型社会を目指す目標を掲げているのであれば、持続可能な世界のための解決は出てこないのだという。

地球の水の97.5%は海水などで、そのまま使うことができない。淡水は2.5%だが、南極の氷や氷河、万年雪は使えないので、川や湖の水、人間がくみ上げることの出来る地下水は0.01%の量しかない。地球上の水がバケツ一杯だとすると、淡水はコップ一杯で、私たちが使える水はスプーン1杯という計算になるらしい。

穀物を育てるのに水が大量に使われている。「1000トンの水で、穀物を1トン生産できる。したがって、水を輸入しようと思えば、穀物の輸入が最も効果的な方法」と環境白書のレスター・ブラウンは言う。世界の穀物市場を舞台に、スプーン1杯の水をめぐる争いが展開されるだろうと予測される。

・未来ビジネスを読む 10年後を知るための知的技術
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003092.html
「今世紀半ばに世界人口は93億人で70億人が水不足に直面する。」

この本にも水の不足とウォータービジネスが注目と書いてあった。

水をめぐる市場や技術が、やがて活性化するのだろう。

だが、技術や市場ではなくて、価値観を変えろとこの本は主張している。

最近の流行キーワードなら、「ほっとけない」、「もったいない」という価値観を持てということになりそう。

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2005年08月21日

アースダイバー

・アースダイバー
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東京の無意識を探るスピリチュアルな旅へ!
縄文の夢、江戸の記憶……。太古の聖地にはタワーが聳え、沼は歓楽街へと姿を変えた。地下を流動するエネルギーとこの街の見えない構造を探る神話的精神の冒険!
宗教学者 中沢新一著。


アースダイバー地図を片手に、東京の散歩を続けていると、東京の重要なスポットのほとんどすべてが、「死」のテーマに関係をもっているということが、はっきり見えてくる。古いお寺や神社が、死のテーマとかかわりがあるのは当たり前だとしても、盛り場の出来上がり方や、放送塔や有名なホテルの建っている場所などが、どうしてこうまで死のテーマにつきまとわれているのだろうか

著者は縄文時代の地形と現在の東京を重ね合わせた地図を片手に、東京を散策した。東京の重要なスポットが縄文から弥生時代に「サッ」と呼ばれた神聖な場所につくられている事実を発見する。こうした場所には、古墳や由来の古い神社がつくられていた。

縄文時代は海面が現在より100メートル高かった。東京はフィヨルド状の海岸図形で海と川が複雑に入り組んでいた。神聖な「サッ」は陸の突端にあたる海に面する地形の場所であることが多かった。「サッ」はミサキ(岬)、サカ(坂)であり、境界面を意味する。そこは古代人にとって、生の世界と死の世界、エロスとタナトスの境であった。

渋谷の繁華街やラブホテル街がなぜ繁栄しているか、もこの地勢論で説明できるという。渋谷の坂は昔は海や川に面した湿った場所であった。神泉駅の辺りは古代からの火葬場で、文字通り泉が涌く湿地だったらしい。

私が毎日通っている道玄坂(ホテルじゃなくて、会社があるから、ですよ)についてもこんな記述がある。


道玄坂はこんなふうに、表と裏の両方から、死のテーマに触れている、なかなかに深遠な場所だった。だから、早くから荒木山の周辺に花街ができ、円山町と呼ばれるようになったその地帯が、時代とともに変身をくりかえしながらも、ほかの花街には感じられないような、強烈なニヒルさと言うか、ラジカルさをひめて発展してきたことも、けっして偶然ではないのだと思う。ここには、セックスをひきつけるなにかの力がひそんでいる。おそらくその力は、死の間隔の間近さと関係を持っている。

文学では、セックスは小さな死であるとたとえられるが、湿った死のイメージの土地柄が、渋谷のラブホテル街の繁栄とつながっていると著者は考えている。大きな池のある湿地であった新宿の歌舞伎町も同様だという。

逆に乾いた土地には、官庁や大企業のオフィス街が現在は位置している。新橋がオヤジの繁華街であること、青山がオシャレの街であること、秋葉原がオタクと電気の街であること、早稲田や三田が学生街であること、銀座が高級な街であること、皇居に天皇がいることの意味も、こうした霊的な地政学で説明してみせる。

考古学的、歴史学的、都市論的には著者の考えが正しいかどうかはまったく定かではない。現在の東京の街の持つ雰囲気を、古代の地勢と宗教学的な意味づけで、すべて説明できるものでもないと思う。だが、著者らが作成した縄文〜弥生時代の地理と、古い古墳や神社の位置、現在のランドマークを重ね合わせた地図(付録にもなっている)が、絶妙の一致を見せるのは、なにかの因縁を強く感じるのも確かである。

私も著者同様に、東京を歩くのが大好きなので、土地が持つ雰囲気の違いはよく分かる気がする。確かに強い雰囲気を持つ土地には、古い神社や寺があることが多く、地形も独特であると思う。納得できる記述が多かった。

東京の散歩が趣味の人にファンタジーとしてとても面白い本である。

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2005年08月09日

考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人

・考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人
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ベストセラーになった「ケータイを持ったサル」の著者が書いた本である。

・ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001907.html

■物事を深く考えなくなった日本人

科学技術が発達し便利な人工物で生活が埋め尽くされると、人は物事を深く考えなくなる。特にケータイを中心にしたコミュニケーションを変質させるITはヒトのサル化を促すという内容。


コミュニケーションを行うにあたって、言語を使用する場合のように、心や脳を使わないようになってくると推測される。ことばを用いるとは夏目漱石風に書けば「智に働く」ことに同義である。そうでなくて、もっぱら「情に棹差して」生活するようになってきている。これがコミュニケーションのサル化の本質といえるだろう

ケータイのメールは、絵文字のような記号でしかない。発信者が嬉しいか、悲しいか程度の内容しか届かない。霊長類の研究者である著者は、これではサルが恐怖で「キーキー」叫んだり、怒りに「ガッガッガッ」と吠えるのと同レベルではないかと嘆く。高度な言語操作が欠如していることで、脳が使われなくなり、廃用性萎縮を起こしていると指摘する。(この部分は著者が若者のメッセージの解読能力を持たないだけだと反論できそうだが...)

そして、


大事なのはメッセージではない。それどころかメッセージが来るかどうかということですらない。メッセージがもたらされるチャンネルが確保されているかどうか、という点に関心の主眼が置かれるようになってしまっているのだ。

という。つながっていないと不安は、インターネット依存症、チャット依存症、ケータイ依存症に共通する心理である。

そしてITで拡大された「つながり」の中で人は自分自身を見失う。

そもそも人間社会は他者の期待を自己に取り込んでいる部分が大きかった。「自分が本当に好きなこと、やりたいこと」は、他者や社会の期待にこたえることと密接な関係がある。自分はなにをすべきかを真に一人でみつけようとしても永遠の自分探しの袋小路に陥ってしまう。

従来は濃密なコミュニケーションで他者のフィードバックを得ることで「自分」をみつけることもできた。

しかし、


日本では、私たちひとりひとりの自己意識は、依然として他者との関係の中で形成される部分がかなり存在していた。外界との対立をはらんでいなかった。ところがIT化によって、その関係の枠が途方もなく拡大し、かつ輪郭が曖昧になる。結果として、「私」というもの自体が、とらえどころのないものに変質してしまった・

■有意味な人間関係は150人が限界

他者のフィードバックを考える上で、認知的集団の限界という話は面白い。

イギリスのサル学者のロバート・ダンバーによる調査。人間はどのくらいの規模の集団で生活しているかを様々な地域の、様々な組織で調べた。その結果、約150人が現代の人間が共同生活を営むのに最適な規模だという結論に達したという。軍隊や会社、宗教組織などの機能単位も約150人である。これが構成員が個人的つながりを持ち、信頼関係を保てる限界なのだ。

実際、軍隊でも中隊は150人のままであるそうだ。通信技術が発達して隊の規模を大きくしてもおかしくはないのだが、経験上、これを超えると一堂に介した際、視覚的に全員を見渡せなくなる、ということとも関係するようだ。

いくらでも人間は「つながる」ことができるが、「私」への「他者」のフィードバックを受ける規模には上限がある。150人を超える他者とケータイやメールでつながることができても、この限界を超えて有意味な関係を取り結ぶことはできないということにもなる。
MixiやGreeなどのソーシャルネットワーキングサービス(SNS)のユーザとしてこれは実感する。私には200人の知人が登録されているが、登録者数が100人を超えたあたりから、私がSNSから受け取れる関係性の価値はほとんど変わっていないように思えるのだ。

友達100人できるかな?。できるけれども、それ以上は意味がない。個別に向き合ってフィードバックを得ることができないからだ。1対200や1000や10000という関係性はほとんどメディアと読者の希薄で一方向な関係に後退してしまうのだと思っている。


さて、この本は前作同様、評価は分かれそうだ。

近頃の若者批判と社会心理学実験データによる裏づけという体裁は前作と変わらない。相変わらず若者の視点まで降りて理解しようとはしない頑強なオヤジのボヤキであり、学者として豊富な知識を利用して、恣意的に実験データを選び、自論に強引に結びつけている点も相変わらずだ。

でも、本は売れそうだ。確固たるオヤジの視点があるから本としては面白いのである。実はサルとオヤジの戦いなのだと思う。ここで批判される若年層のコミュニケーションも、マーケティングの世界ではジェネレーションY流として、ポジティブに分析されることもある。

この本を読んで腹が立てばサルだし、同感ならばオヤジである。サルのほうが未来がある分、マシという見方もできるような気がするのだが、どうだろうか。

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2005年06月21日

本当に女帝を認めてもいいのか

・本当に女帝を認めてもいいのか
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もやもやがかなり氷解した本。

この本のタイトル「本当に女帝を認めてもいいのか」に対して「どうして認めてはいけないのか?」、その根拠が知りたいと思って読み始めた。歴史上、女性天皇は何人もいたし、象徴天皇制に移行し、男女の機会均等が常識の現代において、女性の天皇を認めないのはナンセンスではないか、と考えていた。慎重派が女性天皇を認めない根拠を知りたかった。

ところでそもそも前提を私は勘違いしていた。

現在の皇室典範では、今上天皇の後には皇太子が皇位につく。そして、次の代は皇太子にも秋篠宮にも男子がいないので、秋篠宮が皇太子になる。その次の代は秋篠宮家が主流となって皇位を継承していく。だから、その段階では皇位継承順位の第一位は眞子様であって、愛子様は第3位になる。眞子様、愛子様の順位を逆に考えていた人は結構いるのではないだろうか。おやおや、とまず思った。

そして保守系の慎重派が、眞子様、愛子様が天皇になること自体に反対しているわけではないことも意外だった。女性天皇が問題ではなくて、女系天皇が誕生することを主な問題にしているのである。眞子様のこどもが天皇になるということは、男系から女系への移行となる。

この男系から女系への移行が天皇制が始まって以来の125回の引継ぎの歴史上、一度もなかったことらしい。歴史上、8人10代の女性天皇はいたが、すべてが「男系の女子」で男系男子が幼少などの理由での中継ぎ役を務めていた。つまり、本人は女性でも男系であることが重要だったのだ。

さらに男子直系を守るために、男子がいない場合、庶系継承(側室の子ども)と傍系継承(男系での近親)という工夫を使って男系を厳守してきた歴史がある。傍系継承では時には女系を避け、10親等も離れたほとんど他人に継承した例もあったという。そこまでして男系にこだわってきたわけである。

共同通信の世論調査では、昭和50年には天皇は「男子に限る」が54.7%。平成13年には15.3%。「女子でもよい」は昭和50年に31.9%、平成13年に71.2%であるそうで、世論は女性天皇の登場を支持している。

だが、「百二十五回も一度の例外もなく同じことを繰り返してきた。しかもかなりの無理をしてまで。ということは、これはもう動かしてはならない原理と考えるべきではないのか。合理的な理由は分からないが、歴史上一貫してそうしてきたことの事実の積み重ねの重みを現代人は感じるべきではないか」

というのが著者の主張である。

科学的には、男子直系とは男性染色体(XY)、女性染色体(XX)のうち、Y染色体を受け継いでいく唯一の方法になっている。理論的には神武天皇や日本武尊や聖徳太子と同じY染色体を受け継いでいるはずである。

脈々と受け継がれてきた男子直系の皇統という名のY染色体は、オリンピックの聖火リレーみたいなものと考えることができそうだ。たくさんの人が大事に守ってアテネから運んできた努力の後、今、自分に手渡された聖火を、何かの理由があるからといって、ライターでつけなおしてよいのか、が問われているのかもしれない。

歴史は人が作るものなのだから、後世にきちんと説明できる理由と国民的なコンセンサスがあれば、長年の伝統を変えるときがきてもおかしくはないだろう。ただ、その議論の場である有識者会議のメンバーがこの問題の専門家といえないこと、欠席者もいたりして真面目に議論されていない節があることなどを著者は批判している。

・皇室典範に関する有識者会議
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/
顔ぶれや毎回の議論の内容が公開されていて読み応えあり。

また、今後男子直系を守るために一度廃止した宮家を復活させよなどの提言をしている。いまや少数保守派の著者の意見に賛同するかどうかはともかくとして、女性天皇問題の議論がデータも使って、うまくまとめられており論旨も明確である。面白い本。

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2005年06月06日

ジャンケン文明論

・ジャンケン文明論
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西洋では、コイン投げで裏が出るか表が出るか、で何かを決める。西洋にもRPS(Rock Paper Scissors)と呼ばれるジャンケンがあるそうだが、多くの場合、パーがグーに勝つ式の日本のジャンケンとは違うルールで、少ない手を出した人が負けというものであるという。グーを二人が出してパーが一人なら、パーが負けという多数決原理のジャンケンだ。
日本やアジアのグー、チョキ、パーはそれぞれ石、ハサミ、紙を意味している。紙は石を包み込めるので勝ちなわけだが、紙対石で石が勝つという結果に、納得できない西洋人が多いらしい。彼らは垂直的な力関係のヒエラルキーを想定してしまう。そこで西洋化した上海のジャンケンでは石に勝つのは「爆発(ダイナマイト)」に置き換えられているそうで、ハサミは導火線を切るから、なんとかジャンケンの基本構造である「三すくみ」が成立する。


だが、こうなると、平面が立体を制し、やわらかいものが固いものに勝つ東洋の逆説的「転」の姿が消えてしまう。ただ合理的な、形式論理が残るのだ

東アジアの拳酒という習慣では、勝負に負けたものが酒を飲む。酒好きな場合、勝って飲もうとするのは先を争うようで格好が悪い。負けて体裁上、仕方なく飲むのであれば格好がつく。しかもジャンケンだから均等に酒が回ることになる。負けるが勝ちには一人勝ちということがない。

ヨーロッパとアジアの文明の差異をそれぞれ「これかあれか、either-or」と「あれもこれも、both-and」の差異だと著者は説明している。ヨーロッパ式では逆説的な考えを簡単に受け入れず、一見矛盾する力や考え方は同時に追求できない理性的な考え方をする。これに対してアジア式は対極にあるものを両方手に入れるような考え方が可能になる。

分かりやすかったのはテロリズム解決の三者関係。テロリズム(アルカイダ)、カウンターテロリズム(米国政府)だけでは対立が激化してしまう。テロリズムを嫌うと同時に政府の行き過ぎも監視するアンチテロリズム(民間)を加えて3者の三すくみ関係があってこそ、テロリズムを解決できるのだとする。

ジャンケンのような三すくみ(四すくみでもいいが)のジャンケン構造を国際関係に持ち込むことで、2国間のコイン投げ(裏表、勝敗)ではできない問題の解決と全体の調和が成立する。アジアでは中国のパー、日本のグー、韓国のチョキの三国拳という在り方を著者は提唱している。

アジア文化の融通性、寛容性、開放性といった伝統的価値観をジャンケンの構造として分かりやすく解説した比較文明論。

・木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002154.html

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2005年05月05日

ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene

・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
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セックスと利己的な遺伝子についての再考という副題のとおり、ドーキンスの利己的な遺伝子論に対するまっとうな反論。

日本では少子化が社会問題になっているが、世界では第3世界における人口増加のほうが大きな問題である。人口爆発に対して最も効果的なのが経済政策だと言われている。経済的に豊かになると出生率が下がるからだ。アメリカにおいても収入で階層を区切ると、高い階層(お金持ち)ほど子供の数が少なく、低い階層(貧乏)ほど子供の数が多いという。ヒトは経済的に豊かになると子供を産まなくなる。少数の子孫に富を相続させたいと考えるからだ。逆に低い階層では目の前の労働力、老後の保障としての子供を作ろうとする傾向がある。

経済という文化が人間の生殖のあり方を支配していることになるが、これは経済的に成功したものがより多くの子供を残すという、自然選択の原理とは正反対の結果になっている。文化は遺伝に基づく本能的行動ではなく学習された行動であるが、はるか昔から人間の生態と生殖を支配してきた。いまやヒトは本能的行動とは無関係に、セックス、経済、生殖に向き合っている。

ヒトにおいては、セックスと経済的活動と繁殖の3つの間を結ぶヒューマン・トライアングルが形成されていると著者は説明する。この三者関係では、動物と違いセックスと生殖を切り離すことができる。セックスは単独で存在することもできる。経済と密接な関係を持つようにもなった(売春やポルノ産業)。

利己的な遺伝子仮説では、高次の行動(文化)には低次の理由(遺伝)があるとされたが、ヒトの場合、たいていは生物学的働きかけ(低次から高次へ)と文化的働きかけ(高次から低次へ)は別々にはたらいていて、互いに相容れない場合は文化が優先されるのだという。

そもそも利己的な遺伝子論の論拠ともいえる進化に与える影響について著者は否定している。地質年代ベースで生物の進化を追うと、大きな環境変化で生物種の大量絶滅があった直後に進化が爆発している。一方、その他の時期には進化はあまり見られないのだ。進化を推し進めるのは遺伝子ではなく、環境であると著者は結論している。遺伝子は何が何より優れているかを自然選択の決定に従って世代を重ねて書き連ねていく帳簿係に過ぎないのだとする。

浮気の説明にも使われる利己的な遺伝子論だが、浮気の動機が遺伝子の伝達や子づくりであることは滅多にない。強制的に遺伝子を拡散するための適応行為の残存と解釈されることもある、レイプ行為は世界中の社会で重い犯罪とみなされているし、動物の社会にもあまり見られない。結局、自然選択というひとつの原理で、複雑なヒューマントライアングルを説明することが不可能なのだ。なんでもかんでも遺伝子が原因だとする風潮を生んだ利己的な遺伝子論に対して、この本は真っ向から反論して警鐘を鳴らしている。

とはいっても、ドーキンスが利己的な遺伝子を書いたのはもう30年も前のこと。利己的な遺伝子を今もそのまま信じている素直な人は少ないと思うのだが、欧米では危機意識を持って反論本が出るほど再燃しているということなのだろうか?。

稼ぐこと、子供を作ること、セックスすること、の関係について、とてもわかりやすく述べられていて、楽しく読めた。

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2005年03月15日

案外、知らずに歌ってた童謡の謎

・案外、知らずに歌ってた童謡の謎
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誰でも知っている童謡に隠された背景を探ったベストセラー本。シリーズ3冊で20万冊も売れたらしい。後半で若干作者の創作も入っていそうだが、全体的に読みやすくて、ウンチクを増やすには面白い本。

・「赤い靴はいてた女の子」はどうなったか?実は異人さんに連れられていっちゃって...なかった。そこにはなんとも悲しい実話が背後にあった。

・「夕焼け小焼けの赤とんぼ、おわれてみたのは」の「おわれて」とは?。

・花いちもんめ。花=女の子、いちもんめ=一匁(金額)。負けて悔しい、あの子が欲しい。貧しい農村と女衒のやりとりが歌になっている?

・ひなまつり、お嫁にいらした姉さまに良く似た官女の白い顔。「いらした」は行ったのか、来たのか?なぜ敬語扱いなのかの考察に始まるもうひとつのストーリー。

・ずいずいずっころばしの、”ずい”はずいきで、茶壷は大名行列で、それに追われてというのは...。遊郭の男女の秘め事との関係が...。

・かごめ、かごめは籠女でやはり遊郭系なのか?「鶴と亀がすべった」「夜明けの晩に」「後ろの正面」に秘められた意味とは。

などなど、あの歌に隠れた背景説明に、驚きの連続。


私もひとつ、童謡の秘密を先日、インターネットで知った。童謡といえるか分からないが、小学校で音楽の先生が独自に用意した副読本に「たんぽぽの歌」という歌が収録されていた。先生のピアノ伴奏で毎週歌わされたので、歌詞をすべて丸暗記している。こどもながらに素晴らしい歌詞とメロディだなあとじーんと感じて、今でも心の中でくちずさんでいたりする。

#みなさんはこの歌をご存知ですか?
---
たんぽぽの歌

作詞 門倉  訣
作曲 堀越  浄

雪の下の故郷の夜 冷たい風と土の中で
青い空を夢に見ながら 野原に咲いた花だから

どんな花よりタンポポの 花をあなたに贈りましょう
どんな花よりタンポポの 花をあなたに贈りましょう

高い工場の壁の下で どれだけ春を待つのでしょう
数えた指を優しく開き 空き地に咲いた花だから

どんな花よりタンポポの 花をあなたに贈りましょう
どんな花よりタンポポの 花をあなたに贈りましょう


ガラスの部屋のバラの花より 嵐の空を見つめ続ける
あなたの胸の想いのように 心に咲いた花だから

どんな花よりタンポポの 花をあなたに贈りましょう
どんな花よりタンポポの 花をあなたに贈りましょう


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だが、その後の人生でこの歌がメディアに出てきたことは一度もなく、いったいどういう出自の歌なのだろうと気になっていた。それが最近、インターネットで検索したら正体が判明した。

かつての日立製作所の労働闘争ソングだそうだ。

なるほど歌詞はそう読もうと思えばそう読める!。そうか、あの音楽の先生はつまり日教...と邪推するのはやめにして、そういう出自があるからメディアに出てこなかったのだろうなと、思った。素晴らしい歌なのにもったいない話である。夏川りみあたりがイデオロギーと関係なく、歌ってくれると見直されると思うのだが。

関連書評:

・封印作品の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002818.html

・放送禁止歌
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001449.html

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2005年03月13日

模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで

・模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで
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■文化の日本、経済のフランス、GNPからGNCへ

フランスでは「文化の日本、経済のフランス」という論調がある。フランス人の経営者が日産を建て直したことに象徴される経済のフランス。逆に日本のアニメや若者文化がフランスで大流行しているという意味での文化の日本。日本経済の低迷が続く中で、宮崎アニメや北野武は世界的に認められたりして、この図式が一層鮮やかになっているらしい。

この本の冒頭でフランスのジャーナリストが2002年に書いたJapan's Gross National Coolという論文は当時、日本でも一部で話題になった。

・Foreign Policy -- Japan's Gross National Cool, By Douglas McGray
http://www.chass.utoronto.ca/~ikalmar/illustex/japfpmcgray.htm

国力をGNPやGDPという経済指標はなく、文化のかっこよさ(Gross National Cool)という概念で表したら、日本は世界第一級だという内容。日本はクールな国になったのだ。

だが日本経済の中心ではその自覚はない。

フランスで一番有名な日本人は鳥山明であるという。ところが日本の財界人は鳥山明を誰なのか知らないと著者は問題提起をしている。これからの日本はコンテンツ産業だと掛け声をかける人でさえ、日本のアニメや漫画を見ていなかったりする。国際的な賞を取るレベルになって、半信半疑で逆輸入、再評価をしている。

そして、慌てて「コンテンツに萌えた」企業や官公庁のオジサンたちは、クールなコンテンツはどこで幾らで買えるのか、どうやると工場を作って量産できるのか、と見当違いな方向に向かうように思える。

■コンテンツ、クール、クリエイティビティ、中心と周縁

昨年、野村総研が発表したこのレポートはかなり話題になった。

・マニア消費者層はアニメ・コミックなど主要5分野で2,900億円市場
 〜「オタク層」の市場規模推計と実態に関する調査〜
http://www.nri.co.jp/news/2004/040824.html
野村総研がオタク市場の規模を調査。もはやニッチとはいえないと結論。

オタクというとらえどころのない市場を、オトナ語で説明してくれた。だが、こういう数字や説明でもやはりとらえどころがない。何がクールなコンテンツなのか、どうすれば作れるのかは、市場統計からはわからない。

クールとコンテンツの頭文字であるCは、すなわちクリエイティビティのCでもあると私は考える。クリエイティビティというのは新しい価値を生む源泉だろう。クリエイティビティの火花は周縁でしか発生しない。周縁は「外」や「異」と直接触れているからこそ、その摩擦で火種が起きるのだと思う。

一方、”中心”の人たちは「オタク」「ハッカー」「クリエイター」という”周縁”のことが分からない。火種を燃え上がらせ、経済的価値に変換するハリウッドやディズニーのような動力機関が、まだ日本では確立されていないのだと思う。それが難しいのは、中心にクリエイティビティが不足しているからだろう。

クリエイティビティというのは、泣いたり、笑ったり、怒ったり、困ったり、死ぬほど考えたりという体験から生じる「ルサンチマン」の堆積がいっぱい必要なのだと思う。そういう肥沃な土壌があるからこそ、美しい花が咲くのだと思う。現在の日本の「中心」は、ルサンチマンよりビジネスマンであり、営業マンだから、何がクールか自分では分からないのだ。

■日本が真似された事例のオンパレード

この本には何百もの日本のコンテンツの海外の模倣事例が示される。

ハリウッドの代表作のイメージがある「スターウォーズ」でさえ日本の大きな影響を受けていることを知った。その部分の引用。


映画に登場する「ジェダイ」という言葉は、「時代劇」という言葉の響きからとったものであり、「オビ=ワン=ケノービ」も「一番の帯」という意味で「オビ=ワン」となり、黒帯が訛って「ケノービ」となった。「オビ=ワン=ケノービ」は「一番の帯は黒帯」という意味なのである。レイア姫は卑弥呼のような髪型と衣装をして、ダース・ベイダーは甲冑のようなヘルメットをかぶり、正義の味方たちは柔道着のようなものを着ている。

そもそもスターウォーズはクロサワ作品の「隠し砦の三悪人」のストーリーを借用したもので、オビ=ワン=ケノービ役は当初、三船敏郎が打診を受けて断った経緯があったそうだ。

映画、音楽、料理、ファッションなど、次々にあれも日本の真似であるという指摘が続く。こじつけも少し感じるのだけれど、日本は真似するだけではなく、それ以上に真似される国になったのだなということが分かる。

この本で著者は、文化は誰もが持っていて奪えないものであり、歴史のある日本は文化資源大国であることを自覚せよ。真似されるようなオリジナルを作り出す文化戦略こそ最強のマーケティング戦略であると訴えている。

日本は良くも悪くも「異質」だと内外から言われてきた。その異質さにチャンスがあるのかもしれないとこの本を読んで感じた。


ところで、日本映画のリメイクとして私が今注目しているのは、この夏公開予定のこの作品。日本版は私は極めて高評価なのだが、果たしてリメイクされて、どうなっているのだろうか。公開日に見に行きたい。

・仄暗い水の底から

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主演の黒木瞳が、母性の暗黒面へ引き込まれていく悲しい母親を演じた。

・Dark Water
http://touchstone.movies.go.com/main.html?dlink=darkwater
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ジェニファー・コネリーが主演するらしい。


関連書評:

・宮崎アニメの暗号
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002119.html

・<美少女>の現代史――「萌え」とキャラクター
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001957.html

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2005年02月06日

「ケータイ・ネット人間」の精神分析

・「ケータイ・ネット人間」の精神分析
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■インターネットにひきこもる人々

気になっていた本が文庫化されたので読んだ。精神分析の研究者が語るケータイネット文化論。日本人、現代人の心理はケータイネットの出現でどう変わってたか、これからどうあるべきか。

近頃の若者は的オヤジのぼやきかと思ったらそうでもない。ケータイネットを自分もつかってみたら、なかなか面白いじゃないか、という話から、ケータイ文化の光と影の検証へとつながる。

前半で「インターネット5つの魅力」がまとめられている。

1 匿名で別人格になれる
2 「全知全能」な自分を感じられる
3 自分の気持ちを純粋に相手に伝えられる
4 特定の人と、親密な一体感が持てる
5 イヤになったら、いつでもやめられる

ケータイネットは今までになかった、人間のつながりを作り出す。別人格である仮想の自分と、仮想の相手と好きなときに好きなだけかかわることができる。ケータイはPCよりもパーソナルで、これらの特徴が強化される。

面と向かって話しているのに携帯の画面をみつめてばかりの人、街中や車内で周りの迷惑を考えずに大声で携帯で会話している人、携帯で知り合った人とのかけおち。ケータイ依存が私たちの普段の生活に浸透して、便利な反面、不快な体験をすることもある。ケータイ仮想世界に没入した結果、少年が凶悪犯罪を起こしたり、心中事件が起こったりもしている。

■1.5の人間関係

ケータイネット時代の人間関係は1.5の関係だと著者は言う。

生きた人と人による2人の関係は2.0の関係である。さらに誰かが加われば3.0の関係になる。これに対して、半分人格を感じているペットやゲームのキャラクターであった場合、これに0.5の人格といえる。よって人と仮想的なモノとの関係は1.5の関係と定義できる。

1.5の心理条件としては、

1 1.0の人間や生きた存在の代理としての役割を担う
2 人間的、主観的な思い込みを託す
3 この思い込みをある程度人々と共有することができる
4 「ごっこ」であり半ば醒めたかかわりである
5 自分勝手で自分本位な部分がある

が挙げられている。

1.5の関係は悪いことではないが、1.5の関係は2.0の関係に比べてわずらわしさがない。自分の思い込みの鏡であるから、依存性が高い。オンラインゲームにはまる原因はまさに1.5の関係の魅力である。だが、1.5に中毒になったあまり、現実の生活を破綻させる例がでてきた。

たとえば、配偶者のいる男女が、インターネットで出会った恋人とメールだけで熱く盛り上がり、ついには家庭を放棄してしまう。だが、実際に新しい恋人と生活してみると、想像していたのと違う人格で長く続かず、結局分かれてしまう。誰かと話していても目はケータイの画面をみつめている。そんな事例が幾つか取り上げられていた。

ケータイネット、インターネットは居心地がよく中毒になりやすいと言われる。それは非物質的なもので限りがなく、ついつい「あと1分間」シンドロームに陥って、深夜まで続けてしまう。この現象を「1.5へのひきこもり」と著者は呼んでいる。

その理由を1.5は居心地がよく母親の胸に抱かれている安心感があるからだと総括されている。

■父性の復権が重要という提言

1.5に慣れてしまうと、現実の人間の持つ棘を恐れるようになる。次第に距離をとり始める。このヤマアラシのジレンマをシゾイド的人間心理というらしい。シゾイド化した社会は、自分の鏡ばかり見つめている自己愛型人間の社会で、いつまでも大人になれない未熟な社会だと著者は糾弾している。「ケータイネットに没頭している若者の姿は、母親の乳房しか目に入らない乳児の姿である。」

そして、母親的な1.5の関係から、より社会的で父親的な2.0の関係を復権させよ、と結論する。ケータイネット、仮想空間の人間関係を1.5の関係であり、母親的システムへのひきこもりだと総括したのは鋭いと思った。大枠では著者の主張が正しいと共感した。

しかし、若者の自己愛的、自分勝手な人間関係への変化は、ケータイネット、仮想空間だけが原因ではない気もする。これは経済的に豊かになり、助け合わずとも死ななくなり、価値観が多様でありえる先進国社会に共通の傾向なのではないか、とも私は考える。

人間関係は2.0だけが正しいわけではないことに、ケータイネットを通じて、皆が気がつき始めたということのような気がする。インターネット上では、一度も会ったことのない人とチームを組んで立派なビジネスやボランティア活動を行う人たちがいる。彼らは必ずしも互いを全人格的に理解しているわけではないだろう。実際に会ってみたら幻滅する関係もあるはずだ。

実際には会わない。自分の思い込みの1.5的な相手とつきあう。でも、結果が出るのであれば、それでもいいじゃないか、その方がいいじゃないか、とも思う。会って幻滅したらできなかったであろう、1.5の自己愛勝手な思い込み集団によって、大規模な協同作業の営為が、仮想ネット空間では次々に実現されているからだ。

「50年間顔を合わせず地球の裏側の親友と協同作業をしてきた人がいる」「人生の大切な分岐点にだけ価値のある提言メールを送ってくれる恩人がいるがあれは誰なんだろう?」。そんな体験をする人もきっと出てくるだろう。そういう関係は本当の人間関係ではないからだめだと、切り捨てるのは惜しい。

仮想的な1.5を2.0より劣ったものと考えるのではなく、2.0と並んで大切なものとらえて、いかに二つを充実させていくかが、これからのユビキタスネットワーク時代の可能性でもあるのじゃないかなあと思った。

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2004年11月26日

孔子

孔子
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中国滞在中、土日は企業訪問ができないので、北京発の夜行寝台列車に午後11時から8時間揺られて、山東省の曲阜(きょくふ)、泰山へ足を伸ばしました。曲阜は孔子の故郷、泰山は始皇帝に始まる歴代皇帝が神聖な秘密儀式を執り行った霊地として、共に有名な世界遺産ナす。

飛行機、列車で読んでいた本が井上靖最後の長編小説「孔子」。主人公は孔子ではなく、架空の愛弟子。孔子没後数十年が経過して、孔子の研究会が盛んな時期に、師の教えを弟子が回想する独白形式で小説は進んでいきます。この研究会の成果がやがて「論語」として出版されることになるわけです。執筆時、井上靖は80歳。主人公の弟子が語る孔子観や、孔子の言葉の解釈は、著者自身の解釈でもあるのでしょう。

さて、この本を読んでいたおかげで孔子の故郷訪問はとても充実しました。曲阜で最初に訪れたのは孔子研究院。孔子の教えや子孫の残した遺品、論語の名場面の銅像などがありました。

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孔子の墓の前では第75代の子孫が絵を描いて観光客に売っていました。墓前で営業できるのは子孫だけの特権。ありがたく名刺をもらってその場では感動していたのですが、よく考えると75代子孫は何万もいるのではないかと考え込んでしまいました。孔子研究院の話では孔子の直系子孫は台湾に移っているはずですしね。(帰国後調べたら曲阜市65万人の人口の2割は孔子の子孫だそうです...じゃあ、墓前の絵描きの価値って如何程也?)。

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そして、孔廟(孔子を祭る廟)、孔林(孔子一族歴代の住居)と続いて回りました。学問の神でもある孔子様の霊験で少しは私も頭がよくなったかもしれません。観光後は我々を騙そうといろいろ仕掛けてき現地ガイドに連れられみやげ物屋の2階でお茶。

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中国では近代化で儒教精神は薄れても孔子は根強い人気があるのだそうです。歴史的にも孔子とその一族は特別な存在であって「紫禁城騎馬」が許されていたとガイドが話していました。紫禁城内でも馬を降りずに通ることができる皇帝以外の唯一の人物という意味だそうです。特別なのです。

このみやげ物屋には論語の言葉の掛け軸などがありました。ふと知っている言葉のある漢文掛け軸に目をやっていると中国人の店員が「ショウネンオイヤスクガクナリガタシ、ネ」と音読してくれました。やっぱり、日本人客にはこの言葉が人気なんですね。

でも、私が好きなのは少し似た部分もある「逝くものは斯くの如きか。昼夜をおかず」。孔子が川のほとりでつぶやいたといわれる有名な言葉。悠久の時の流れを詠んでいるのだ、達観の境地を説いたのだなどの解釈が複数あるようですが、この井上靖の小説では晩年、相次いで弟子に先立たれた孔子の死生観として論じられていました。この掛け軸があったら買ったのにな。

昼食ではセミの空揚げも頂きました。ええ、虫のセミです、蝉...。
(食感はエビ。独特の匂いがあります。)

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そして泰山へ移動して翌朝は泰山登山へ。泰山鳴動し鼠一匹と言いますが、泰山は中国人にとって、それだけ偉大で特別な山。大半のメンバーは徒歩で7000段の階段にチャレンジする一方で、私はロープウェーという飛び道具を使ってしまいましたが、聖なる山を満喫しました。ここでは歴代皇帝が天地の神を祭る「封禅の儀」が執り行われていたそうです。そして、ここにも小さな孔子の廟がありました。「孔子」「封禅の儀」というと、つい諸星大二郎の「孔子暗黒伝」を思い浮かべてしまいました

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登山後、ふもとにある岱廟(たいびょう)へ。岱廟は北京故宮の太和殿、曲阜孔廟の大成殿とあわせて中国の3大木造建築なのだそうです。私は一回の中国訪問で3つを制覇してしまえて幸運でした。そして済南へ出て特急でまた6時間で北京へ戻りました。旅程がタイトで夜まで食事ができず。クタクタになりながら、孔子の言葉「帰らんか、帰らんか」とつぶやきながら北京到着。

王府井(日本の銀座?)にて夕食。北京と違って、まだ地方では儒教や孔子の教えは中国で大きな力があるようだと感じました。中国に関心のある人に、この小説は論語そのものよりも、とっつきやすく、世界観を拡げるのに最適な一冊ですとおすすめ。

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2004年11月17日

中国語ひとこと会話ハンドブック―旅行で使える!

中国語ひとこと会話ハンドブック―旅行で使える!
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中国関連書籍の書評が最近妙に続いてるなあと思われたかもしれませんが。

本日より23日まで中国IT企業視察に同行することになりました。23日まで北京に滞在しています。PCを持っていきますが滞在中の通信事情はよくわかりません。ブログは毎日更新を守りたいのであらかじめ書いた原稿を、妻に更新してもらおうと依頼しました。この期間はメールやコメントへの返信などが遅くなります(いや、いつも遅いですけど)のでご了承ください。

中国は初めてです。中国語もニイハオしか知りません。しかし、まじめに勉強する時間はありません。

本屋やネットを調べて、この本を一冊読んで、持ち歩くことに決めました。著者はNHK中国語会話を20年近く続けた有名な講師である模様。旅行者がよく使うフレーズをまとめたハンドブックではありますが、簡単な文法の解説があります。コンセプトは「手軽に&本格的に」。巻末には単語集もあります。

ちょっとは語学として勉強したい私のような突発的初心者には最適な構成に見えます。

早速、少しかじってみましたが、やはり、英語と同じで会話って発音ですね。CDには全フレーズの録音が収録されています。発音がカタカナと同時に発音記号でも記述されている点が参考になります。再見(さようなら)は「ヅァイ ヂィエン」と書かれると、一字ずつ発音しようとしてしまって、CDの模範例と違ってしまいますが、「Zaijian」だと発音しやすい。

漢字が共通しているからといっても、意味が違ったり、日本にはない漢字が多数あることを学びつつあります。英語と文法が似ているようです。え、当たり前ですか?。

ただ、この本もあまりIT用語はでてきません。必要に思ったので調べたらこんなサイトがありました。

・中国語パソコン辞典
http://www.qiuyue.com/jc.htm

メールは「電子郵件」だそうです。サーバ「服務器」だそうで、メールサーバは「郵件服務器」。メールアカウントは「郵件帳号」でメーリングリストは「郵件列表」です。面白いですね。

ソフトウェアは「軟件」でハードウェアは「硬件」。これはわかりやすい。メールソフトは「郵件軟件」。ワクチンソフトは「殺毒軟件」でちょっと怖そうですが、フリーソフトは「免費軟件」でありがたや。

ネットワークは「網絡」でホームページは「網頁」。ブラウザは「瀏覧器」でMSIEは「IE瀏覧器」。ネットスケープは「“導航者”瀏覧器」

パソコンは「電脳」なのでノートパソコンは「筆記本電脳」、PDAは「掌上電脳」。ではデスクトップは「卓上電脳」かと思ったら間違いで「台式機」。デスクトップのマイコンピュータは「我的電脳」。

携帯電話は「手機」で携帯でインターネットは「手機上網」。モバイルは「移動」でユビキタスは「無所不在」。

マウスは「鼠標」、クリックは「点撃」

OSは「操作系統」でウィンドウズ(商標)は“視窓” 、マック(商標)は「苹果機操作系統」。ヤフー(商標)が「雅虎」 はよくわかりませんね。

敢えてわかりやすい事例ばかり抽出しましたが、ここらへんは日本語の商品発送にも活用できそうな中国語だなと思いました。


と、いうわけで出かけてきます!

24日の無敵会議でお会いしましょう!

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2004年10月17日

夜這いの民俗学・性愛編

夜這いの民俗学・性愛編
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■おおらかだった日本の性

見込み通りの大当たり。赤松啓介は面白い。

柿の木問答。

「あんたとこに柿の木あるの」「ハイ、あります」「よう実がなりますか」「ハイ、ようなります」「わたしが上がって、ちぎってもよろしいか」「ハイ、どうぞちぎってください」「そんならちぎらしてもらいます」

これは後家や近所の主婦が、13か15歳くらいの童貞の子供に性の手ほどきをする際の儀式であったらしい。新婚初夜にも使ったそうだ。はじめてする男女が心を通わせるために、こうした儀式的対話を演出道具のひとつとして使っていたという。

夜這いは男が女の家に侵入して交わって帰ること。相手はころころ変わってよい。お前、昨日、うちのかあちゃんと寝ただろう、とか、うちの妹のとこにもきてやってくれよ、と友人や隣人と普通に会話している男たちがいる。女もあっけらかんとしていて、童貞のこどもをみつけては、そろそろ教えてあげようかと企んだりする。村中の男女が近親含めて交わっている。こうした乱交状態が広く日本の農村社会に続いていたと赤松は言う。

「昔の日本の性はもっとおおらかなものだったらしいよ」とよく聞くわけだが、そのおおらかさを具体的に説明できる人はほとんどいない。柳田国男が始祖となった日本の民俗学には妖怪や神々の性の話はあっても、一般民衆の性生活の話はほとんど出てこない。柳田は民俗学を正当な学問とするために、風俗史において大きなウェイトを占めて然るべき性風俗を闇に葬ってきた。赤松啓介は柳田をペテン師と呼んで厳しく批判している。

性風俗の実態を村の人々に教えてもらうには、学者風の調査では不可能である。村の生活に溶け込んで一緒に酒を飲んで腹を割って話せるようにならなければ、村人は本当の話をしてくれない。素朴な性格の赤松啓介にはそれができた。

解説の上野千鶴子は、赤松の話のリアルさを認めながらも、記述の信憑性に疑問も持っているようだ。確かにこの本は、広範なフィールドワークというより、赤松個人の体験集であるという面も強い。

■相対化

例えば娘かつぎの話。


(清水寺の参詣に)娘たちは必ず数人で組んで登ってくるが、二、三人の若い衆が現れていっしょに上がろうと誘うと、これも殆ど同じようにイヤッとか、なんとかいって逃げ惑う。二、三人は坂の上へ上がるし、二、三人は坂下へ逃げ、逃げ送れた一人がとっつかまって上半身を二人、下半身を一人がかかえてテラスへ運ぶ。「カンニンや」とか「やめて」とかあばれるが、マタへ手を入れられ、お乳をにぎられるとおとなしくなる。輪姦が終わると山の山門まで仲よく送ってやり、逃げた友達を探してやったりした。

これ、今であれば立派に強姦罪が適用される輪姦事件だろう。だが、当時は女の子がべそをかいて終わり程度の日常の一コマだったらしい。帰りには男女仲良く帰った雰囲気がうかがえる。無論、根底には貞操は奪われるがそれ以上ひどいことはされないという了解もあったのだろう。もちろん、こうした農村社会も、完全な無秩序、フリーセックスだったわけではなく、むしろ、村単位の掟の上で成立する自由であったようだ。

私たちの世代の受けた性教育も今振り返るとずいぶんおかしいものだったと思う。「性を大切に」などと教える。その意味は一定の年齢になるまで性交は待ちなさい。その年齢になってからも、この人はと思える人が現れるまで慎みなさいとする。貞操は守るものであって、楽しむためにはないのである。

だが、本当に性を大切に考えるのであれば、存分に使って楽しむ方法こそ教えるべきなのかもしれない。村の後家や主婦たちによる童貞のてほどきレッスンは、現代の風俗嬢も真っ青の充実振りであったようだ。技術も心得も濃密に伝える。少年たちは、異性をどう喜ばすかを早い時期に知る。そして、ひたすら試す。ステディな交際や結婚とは無縁の、無数の性関係を取り結ぶ。100人斬、1000人斬(女性なら抜き)の達成者があると村で祝ったりもする。無論、代償として誰の種か分からぬ子供が生まれたりする。だが、寄り合いでオヤジが息子を膝に乗せて「こいつは俺に似てねえようなあ」と笑いのネタにする程度の問題だったというから、また驚く。

今と昔を比較して、どちらが良い、悪いというのではなく、今ある男女関係や価値観も一時的なものに過ぎないものとして、相対化できるのが、こうした民俗学の価値だなあと思う。

赤松はおおらかさの減少を資本主義の搾取と結びつけて論じている。きつい労働と少ない娯楽の農村社会では、性は癒しであり娯楽でありコミュニケーションであったが、権力者があらゆる性交渉に税金をかけるために公娼制度を作ったり、西洋近代化を進めるために一夫一婦制度を確立した結果、現在の性道徳ができあがったのだという。

男と女の私秘関係にも権力関係は影響している。さらに哲学していくと、ミシェルフーコーの性と権力の研究あたりにつながりそうだが、赤松啓介の本はそこまで考えずにただ楽しみながら読んだほうが正解かもしれない。とにかく生々しさが面白いので。

花園メリーゴーランド [少年向け:コミックセット]
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赤松啓介的世界観の漫画。昔ながらの風俗が残った隠れ里に迷い込んだ少年の冒険。なかなか面白い。

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2004年10月08日

[図解]日本全国ふしぎ探訪

[図解]日本全国ふしぎ探訪
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日本地図のトリビア本。

例えば、目次を引用すると「富士山より高い山が東京都に?」「一年に一度現れる幻の島とは?」「山に向かって逆流する川がある!!」「日本で一番大きな公園は11の県をまたぐ?」「世界一の金鉱は鹿児島にある?」「日本一低い山は海抜0メートル」「伊豆半島はフィリピンからやってきた!」「信濃川は、実は信濃を流れていない」「地図から消された瀬戸内海の島の謎」など。

日本は狭い割に地形が複雑、歴史が古い、人口密度が高いなどの理由から、こうしたトリビアが無数にある。海外旅行者は年間1600万人に対して国内旅行者は20倍の3億2000万人もいるそうである。毎年、行く先々でこうした疑問とトリビアは増えているのだろう。

・政治的な日本のレイアウト

首都圏を取り囲む国道16号線上に自衛隊と米軍基地が配置されているのは戦車を通すためであるとか、秘密基地の存在を隠すため地図上から日本軍が抹殺していた島の存在など、この国には結構な数の、作られた秘密がある。

・宗教的に立ち入り禁止の場所

一番行ってみたいのは沖ノ島。宗像3女神の神社があり、女神の嫉妬を避けるため、今も女人禁制が続いているという。宗像神社の許可を得た上で禊を済まさないと上陸できないらしい。海の正倉院と呼ばれ2万点以上の秘宝も発掘されている。

・未知の島嶼部

観光産業でもっと光を当てても良さそうなのが日本の島嶼部だと感じた。瀬戸内海だけでも3000以上あるそうだが、大半の日本人はなかなか島には行かない。船に乗って島へ渡るというプロセスはそれだけでなんだかワクワクする。自然を壊してしまってはいけないが、観光娯楽のひとつとしてやり方次第では面白くなりそう。


と、考えていたら、トレンドに詳しいライターのrickdomの田口氏から、私もこれから島が面白くなるのでは?と目をつけていたという話をした。こんな本を教えてもらった。

日本の島ガイド シマダス
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北は北海道礼文島から南は沖縄県与那国島まで、日本の全有人島と主な無人島あわせて1,000島以上のさまざまな最新情報を満載。 「島の人口・面積」「島への交通」「プロフィール」といった基本データ、「みどころ」「特産物」「やど」などの観光情報はもちろん、「生活」「学校」「お医者さん」「ひと」など島の暮らしの情報、「島おこし」「Iターン」など従来のガイドブックにはない情報を島ごとに紹介。市町村合併の経緯もデータ化。

と島マニアには有名な本であるらしい。

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2004年10月03日

切腹

切腹
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これは抜群に面白い。面白がってはいけないのだろうけれども...。

■ややこしい切腹の論理

世界的に有名な日本の自殺方法である「切腹」。古くは鎌倉時代から江戸時代までに切腹で果てた400人以上の事例を分析していく。切腹の背景にはもちろん濃い物語が隠されている。

時代によって切腹に対する感じ方が違う。戦国時代は君主に切腹を命じられたからといって素直に死ぬ必要はなかった。不服ならば国を抜けて別の君主に仕えればよかったし、下克上の論理で君主と武力で戦う人までいた。時代が下るとともに社会は固定化され、脱藩者は他の藩でも採用されなくなる。切腹は強制的で、刑罰的な色合いを強めていく。

伝え聞く通り、切腹は名誉でもあった。斬罪のところを情状酌量して切腹という判例が多い。切腹は特典であり、切腹を許されると嬉しいと思うのがタテマエ。単なる犯罪者では切腹は許可されない。

江戸時代の、今の世なら大蔵大臣に当たる官僚が、藩札発行でインフレを招いてしまったことを原因として切腹を命じられた例が紹介されている。藩主も了解していた政策であっても、結果だけが重視される。書類上の価格表記のミスだとか、事件の取調べミスで、切腹せざるをえなかった無念の官僚もいる。江戸時代後半の複雑な官僚世界では、真面目に働いた結果が審議過程で、切腹モノと判断されることもあるようで、直前まで「自分は処罰されるのか、ご褒美をいただけるのか分からないが」と上申する武士もいた。

武士の喧嘩は両成敗という公式ルールも存在していて、喧嘩を売ったほうも買ったほうも、刀を抜いてしまったらどちらも切腹が基本なのだが、複雑なのは売られて逃げると臆病で武士の面目をつぶしたことになり、やはり、切腹になるのだ。

「悪口を言われて辱められたから」という理由で切腹する奇妙な論理もある。悪口を言われること自体が不徳であるという道徳観、切腹することで自身の潔白を世に証明しようという考えが根底にある。それで周囲も感じ入って納得したらしい。

内容はどうあれ藩主の機嫌を損ねたということも立派な切腹の理由にもなったらしい。結局、切腹は藩主が命じるものなので、藩主がお前は死になさいといえば、それ以上の道理は通らない不条理な世界であったようだ。

だが、そんな厳しい掟の中にも人情のある人ももちろんいた。食事にネズミの糞が混ざっていても、そっと隠した優しい殿様の話には感動する。これを指摘してしまうと、責任追及のプロセスが公式に発動して、結果として後日、食事に関わる誰かが腹を切らねばならないからである。殿様としてはそんな些細な事で部下に死んで欲しくないので、同席者にもばれないように隠蔽してあげるのだ。この殿様は偉い。

■生々しい切腹の現場

興味深いのは切腹の現場が垣間見えること。江戸時代、お上の公式な判決は遠島であっても、実質的には、切腹するようにと担当役人から告げられて腹を切る例が多数。記録上はこれらは蟄居中の病死などとされている。

こうすることで親戚縁者はお咎めなし、お家も存続となる。これはある種の水面下の司法取引であるようだ。実際には、親戚縁者が集まって、納得しない本人に切腹を強要したり、無理やり殺した上で切腹に見せかける工作をしたような話も紹介されている。お上も内情は分かっているので死体はよく調べない。切腹は名誉の死とはいえ、死ぬのはいつの世も怖かったのだ。現場にはきれいごとで済まない現実があったことが推察される。

また、十文字に腹を切るのが美しいなど独特の美学作法があるわけだが、実際には、そこまで精神力を保てる当事者は少なかったようだ。刀を腹に当てた瞬間に介錯人が首を刎ねたり、刀さえ用いず、三方の上においた扇子を腹に当てた振りをさせて介錯する扇子腹という切腹方法も紹介されている。当事者が動揺していたら、介錯人は、酒を飲ませたり、紙を渡して遺言を勧めたり、あの手この手で気持ちを落ち着けさせるノウハウまであったという。

■責任を取る文化

この本を読み終わって、切腹は連帯責任の波及を個人が止める唯一の方法であったのだなと理解した。江戸時代後半の武士社会では、部下の失敗の責任を、上司や親戚縁者も負わされる。重大な過失があれば、さらに上司や藩主にまで処罰が及んでしまう。追求しているうちに周辺の小さな瑕疵まで取り上げられて、問題はどんどん大きくなる。最悪は中央に伝わって藩のおとりつぶしにまで及ぶ可能性がある。が、現場で切腹があると追求は弱まる。

現代の常識では切腹など論外の奇行なのであるが、当時は異なる常識の世界だった。よく評価すれば、立場のある人間が責任を取る文化が確立されていたということだろう。現代では、残されるもののためや一族の名誉のため、死を持って責任を引き受けようとする政治家や経営者は殆どいないだろう。そこまで真剣に仕事をする人たちのいるサムライ社会は、今とは違う価値もあったに違いない。

この本は切腹を精神論ではなくて、400人の実例から調べていく、というアプローチをとる。巻末には切腹した当事者の実名リストまである。そうすることで、ミステリアスなイメージでとらえどころがなかった、切腹の実態が見えてくる。知らないことがいっぱい書いてあった。日本文化の研究におすすめの一冊。

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2004年09月15日

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか
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■世界は名詞の集まりか、動詞の集まりか

「いないいないばあ」のDVDのエンディングロールがテレビに表示されると彼は「おわっちゃった」という。

1歳の息子は動詞をよく覚える。「あった」「終わっちゃった」「ないない(なくなった)」「いっちゃった」。私の予想は名詞を先に覚えてから動詞の順だと思っていたので、「コイツ天才か?」と親バカな勘違いをしそうだったが、この本によれば普通のことなのだそうだ。西洋人のこどもは名詞から覚え、東洋人のこどもは名詞と動詞を半々くらいずつ学習していく傾向があるという。

それは母親のことばの教え方と深い関係がある。典型的な東西の母子のおしゃべり例が紹介されている。

西洋の母親:
    「これはクルマ。クルマを見てごらん。これ好きかな?かっこいい車輪がついているねえ」

東洋の母親:
    「ほら、ブーブーよ。はい、どうぞ。今度はお母さんにどうぞして。はい、ありがとう」

西洋の母親は世界が名詞の集まりだということを教えるが、東洋の母親は世界が関係に満ちていることを教える。実際に育児を観察してみると、アメリカの母親は対象物の名前を言う回数が日本の母親の2倍も多く、逆に日本の母親は社会的な約束事(あいさつ、共感)を教える回数が2倍も多くなるという。動詞は関係を表現するものだから、東洋人では登場回数が多くなる。

これは、東洋の社会は個人の能力以上に、関係性が重んじられる社会であることに起因する。理屈を並べる人よりも、場を和やかにする人、協調性の高い人の方が大切にされる可能性が高い。

東洋人はゲマインシャフト(自然発生的人間関係と、共有されたアイデンティティ意識にもとづく共同社会)的社会に生きる。西洋人はゲゼルシャフト(道具的な目標を達成するために組織された社会、交渉と契約の社会)的社会に生きる、とも言い換えられる。ふたつの社会の違いは、集団主義的か個人主義的かの違いだとも言える。それが母親の教育態度と、こどもの言語学習の違いに現れていると著者は言う。

■関係性を大切にする東洋人

人間関係を重視する子育ては、西洋の基準ではマザコンのこどもを育てる。日米の成人が母親と一緒にいることをどの程度望んでいるかを調査する尺度設定の際、一方の極みを「私はいつも母親と一緒にいたい」という基準にしようと東洋人が真面目に提案したら、西洋人研究者はあきれた顔をしたと言う。独立心を大切にする西洋では赤ちゃんが一人で別の部屋のベッドに寝かされることも珍しくないらしい。東洋では同じ部屋で家族に見守られるケースが多いだろう。我が家ももちろん同じだし、土日には祖父母も現れる。

こどもが少し大きくなってくると、西洋人のこどもは「お母さんの選んだ問題」に興味を失い、自ら選んだ問題の回答に強い意欲を見せる。逆に東洋人のこどもは「お母さんの選んだ問題」の回答に熱心である。東洋人は何事も場に依存しているのである。

大人になってからも同じである。多国籍企業IBMの調査が紹介される。西洋人の社員は個人の独創性が奨励されそれを発揮できる仕事に強い意欲を感じるが、東洋人は全員で力を合わせる仕事を好んだという。これには労働市場の流動性も関係がありそうだ。米国では職業は一時的なものと考える社員が多く(90%)、日本では半永久的なものと考える(40%)社員が多い。

社会環境が異なるので、教育も価値観もまるで異なる内容になってしまう。世界の見え方が根本的に違ってしまう。

■世界を制御できると思う西洋人

世界の経済成長率やがん死亡率のグラフを被験者に見せて、未来を予測させる実験の話も興味深かった。東洋人と西洋人にはトレンドの上昇、下降と変化の大きさに対して、テーマや予備知識と無関係に、一定の予想傾向が現れた。中国人は変化が加速しているときには、それが鈍化、逆転することを予想する人が多く、逆にアメリカ人は加速はその方向への変化が続くと考える人が多かった。

中国人は世界は複雑でたくさんの要素が相互につながっていると考えているので、ある程度同じ状態が続いたことは、次の変化がおきる兆しと考えた。逆にアメリカ人は提示されるグラフの数字だけを見て演繹し、この変化はこれからも同じように続いていくと考えたのだと推測される。

東洋人は中庸を好む。前進よりも回帰を世界の一般法則と考えやすい。水戸黄門のテーマ曲「人生楽ありゃ苦もあるさ」である。人生塞翁が馬である。めぐりめぐって平衡状態に戻るのが世界の在り方だと感じている。

東洋人は世界は複雑に絡み合っているので、自分の力ではどうにもならないことがあることを知っている。西洋人は対象物を環境から切り離して考えるので、世界は自分が努力すれば制御できると考える。これは原因推測の思考の違いにもつながる。

同じ殺人事件を中国の新聞と米国の新聞がどのように報道してきたかの研究では、西洋では犯人の性格に問題があったとするケースが多かった。東洋では犯人を取り巻く環境が原因だとするケースが多かったという。映画羊たちの沈黙などで有名になった犯罪捜査のプロファイリング(心理分析)は欧米の産物である。「アイツはこういう風に異常だから殺人を犯したのだ」というのが西洋の原因推測。劣悪な家庭環境に育ち孤立していたから殺人犯になったというのが東洋的な原因推測。確かに、こうした事件報道はありがちではないか。

■分析的思考、包括的思考

西洋人は目立つ幾つかの対象物の属性に注意を向け、抽象化、単純化したうえで、因果関係を言い当てる「分析的思考」が主流である。これに対して東洋人は対象を取り巻く「場」全体に注意を払い、対象と場の要素との関係を重視する「包括的思考」が主流となる。東西の医学の考え方の違いと同じだ。

分類は西洋人が得意で東洋人が苦手とする思考の典型であるというデータが示されている。知能検査のひとつにキャッテル性格検査という、図形を特徴で分類させるテストがある。言語に依存しないのでどの文化に対しても公正であるはずのこのテストは、実際には西洋人が高い成績を修めるという。しかも非常に得点差が大きいそうだ。

もちろん、現実の世界ではふたつの世界は融合していて、西洋的思考を得意とする東洋人もいれば、逆の人もいる。同じ東洋時でも程度がある。純粋な分析的思考、包括的思考の人はほとんどいない。それでも、社会科学の実験は、背後にふたつの考え方の違いが存在していることを示している。相互理解を考える上では今後もその事実を知っておくことは相互理解のために重要だと著者は述べている。

近代化と西洋化はイコールではなく、近代化が進むにも関わらず、文化的多様性はむしろ多極化していくという予測がある。世界中にコーラを飲み、ジーンズをはくが、包括的思考傾向の強い東洋人はいる。表面が変わってもこころは変わっていない可能性がある。自然に、皆が西洋的思考に収束するわけではない。

人間だから話せば分かる、ではいけないのだ。基本認識が違うのだから、客観的な真実もひとつではないことになる。根源的な認知の違いを知った上でどう調和を取るかが、相互理解、融合の鍵になる。そして、このメタレベルでは全体と関係性を大切にする、包括的思考が活躍するような気がする。

この本はふたつの考え方の存在を文化論としてではなく、科学として説明した面白い本。

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2004年08月11日

文筆生活の現場―ライフワークとしてのノンフィクション

文筆生活の現場―ライフワークとしてのノンフィクション
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第一人者から新人まで12人のノンフィクション作家が、自分のフリーライター生活を赤裸々に語った本。ライターになった経緯、日々の暮らしと収入、テーマに対する問題意識、フリーライターのあるべき姿論など。

執筆者の顔ぶれはこんなかんじ。

だれがライターを殺すのか?(佐野真一)
ジャーナリストの戦略的処世術―ライフワークとライスワークの狭間で(武田徹)
朝日新聞社を辞めて、僕が手に入れた自由(烏賀陽弘道)
「自分でなくともよい」の迷いから解き放たれる瞬間(藤井誠二)
無謀といわれたルーマニア2年間の長期取材には十分な勝算があった(早坂隆)
白黒のつかないグレーゾーンに魅せられて(森健)
ふつうの男が戦時下のチェチェン報道で果たす責任(林克明)
オウム取材卒業―虚像“エガワショウコ”にとまどい続けた私(江川紹子)
顔面バカジャーナリストはレバノンで誕生した(石井政之)
「科学ジャーナリズムなき国」で書き続けるために(粥川準二)
売上げ三一一万二二六三円をめぐる赤裸々な自問自答(大泉実成)
個人主義者でいるために―ニッチ産業としての位置(斎藤貴男)

現実を伝えるドキュメンタリとしてはとても良い本だと思った。これからフリーライターを志す人の参考になる実情がよく分かる。その代わり、この本に語られる12のケースには夢がない。一言で言うとほとんどのライターは「武士は食わねど爪楊枝」状態ということが分かってしまう。彼らは夢を持っているが、それは多くの人にとっては理解しにくい夢だし、優秀な後進を惹きつけるものではないと感じる。

ここにはジャーナリズムとコマーシャリズムは共存できないという意識がある。売れなくても”良い本”を書きたいというタイプが多い。これが多分、元凶になっている気がする。

本はたくさんの人に読まれて、大きな影響力を持ってこそ価値があると私は考えているので、本の価値判断のプライオリティーは、以下の順だと考えている。

1 売れる、良い本
2 売れる、普通の本 と 売れない良い本
3 売れない、普通の本

以前にも書いたように、

・Passion For The Future: 出版考、ふたつの知、情報の適者生存、金儲け
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001061.html

理想は、面白く、わかりやすく、売れる本こそ、価値のある本だと思う。

以前、書評した糸井重里氏の本で、「私はインターネットをやっていない人に読んでもらいたくて、Webサイトで情報発信をしている。本当の読んでもらいたい読者はネットをこれから使う人たちだ」という趣旨の内容が書かれていた。積極的に読者の裾野を広げていく意図に、とても感銘した。

・Passion For The Future: インターネット的
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001291.html


取材活動、調査活動にも資金は必要だし、資金があれば勉強もできる。プロのジャーナリストであるならば、儲けながら、より良いものを書くというのが、あるべき姿なのだと思う。

もちろん、他の社会現象と同様に、ここにもべき乗則の原理が働いていて、全出版物に占める売れる本の割合は常にごく僅かなのだろう。だとすると、少数の売れっ子と、そうでない8割のフリーライターという構図は今後も変わらないだろう。ただ、彼らがどういう意識で書くかによって、出版されるものの内容は変わってくるはずである。

日本の大新聞が作り上げた古典的なジャーナリストの倫理観は私は嫌いである。ストイックな「真実の報道」主義者は、特権階級を嫌うはずなのに、自分だけが透明で偏りのない意見を言える特権階級になろうとしているのだと思う。「愚かな大衆」を前提としているようにも思える。その意識がそのままフリーライターにも受け継がれている気がする。

インターネットの普及により、当事者が自ら情報発信をするようになった。”大衆”もまた複数の情報ソースに当たって事実を確認できるようになった。もはや”大衆”はそれほど愚かではなくなっていると思う。透明な事実の報道かどうかは、読み手が決めるものでいいような気がする。

この本の執筆陣には年収1000万円を超えたケースもいるらしいのだが、ほとんどは最初から、カネと仕事は両立しないものと諦めているケースが多い。それでよしとする文化をやめれば日本のフリーライターはもっと良いものが書けるはずだし、社会的地位も向上するはずだと思う。現在の出版不況の原因も「良い本」とは何かをめぐる古い意識が、業界にあるからのような気がしてならない。

インターネットのコンテンツの質の底上げに、フリーライターは黎明期より随分貢献していると思う。フリーライター生活が経済的にも豊かになれば、インターネットのコンテンツの質も高くなるはずだと思う。

と、いろいろ書いてみたが、実はフリーライターでもある自分に向けて書いている。がんばろう、フリーライター!

#芸術をやっているのだというフリーライターは別。


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2004年08月10日

<美少女>の現代史――「萌え」とキャラクター

<美少女>の現代史――「萌え」とキャラクター
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美少女、萌えを文化論として語った本。

■王子様としての資格を裏付ける美少女

著者は、○○のためなら死ねる、という行動原理が少年漫画の基本であるとする。かつて、この○○は世界を救うことであったり、勝つことであったり、甲子園であったりしたが、やがて、そこには「女の子の気持ち」が代入されるようになった。あだち充の「タッチ」はその風潮を決定付けた作品だという。自分のために野球をやるのではなく、彼女のために野球をやる主人公の登場である。

閉塞した社会状況や、価値観の多様化という時代の流れの中で、大げさな行動原理が現実感を失い、魅力的に思えなくなった。そこで、少年漫画の読者の関心は、よりリアリティが感じられる女性との恋愛に移っていった。だが、実際の女性の気持ちをたなびかせるには、物語の中に引き込まねばならない。マッチョな欲望の直接的な発露は彼女を傷つける。

美少女萌えは彼女を抱きしめない文化でもあるらしい。宮崎駿の「ルパン3世 カリオストロの城」ではヒロインであるクラリスを救い出した後、自ら身を引いて去っていく。泥棒であるルパンが、抱きしめて所有してしまえば、聖なる美少女が普通の女性になってしまうからだ。

そもそもが「王子様とお姫様の物語」に必要な資格をルパンが持っていなかったことに著者は注目している。単なる泥棒であるルパンがクラリス救出に命をかける根拠がない。ルパンの王子様的行為を正当化するのはとりあえずはクラリスに対する内面的な恋愛感情である。これでルパン側の内面動機を捏造できるが、お姫様が王子様を承認し愛する根拠は存在していない。ルパンを愛するかどうかは、クラリスの恩寵みたいなものになる。以降、美少女は男の価値を裏付ける絶対的存在として機能し始める。

美少女萌えの世界における「私」は視線としてしか存在しない。宮崎アニメにおいても男性は、主人公であっても、あまり目立たない存在として描かれる。物語を駆動するのは美少女である。こうして目立たない男性としての私は、身体性を失って、視線にまで後退する。

■インタラクティブ性と責任のパソコン美少女文化

90年代のパソコンによる美少女ゲーム、エロゲーの流行は、萌える文化に大きな変化を与えるものであったらしい。ときめきメモリアルなどの恋愛シミュレーションやエロゲーは、自分のコマンド選択の結果として、美少女の気持ちが変化していく。

視線を投げかける私、彼女に働きかける私は、彼女の気持ちに対して、責任を引き受けることになる。この責任感がリアリティであり、さらに萌える要素となったという。そして、このインタラクティブ性に、新しい造形技術やロボット技術が加われば、自分は透明なままで、この責任を感じさせる新たな娯楽が登場し、完璧なバーチャル実存体験の道具となるであろうと未来を予言している。


「見る存在」である私という人間は見る対象として美少女を所有し、その関係の中で私自身を確認するのです。

この「視線としての私」は、インターネットでも花開いたという。


90年代半ばから本格的に普及したインターネットの世界に至っては、そもそも視線的な欲望しかないといっても過言ではありません。2000年以降には、ニュースサイトやテキストサイト、ブログ(ウェブログ)などが流行しました。これらは、自分の視線そのものを芸にしてみせている行為です。自分が何に注目されているかという「視線のさばき方」をディスクジョッキーのようにリンクというかたちで示し、それを自己表現の手段としているのです。そこでは視線のあり方こそが「私」なのです。

なんとブログも言及されている。

そういえば、視点をコンテンツにするブログ作者には男性ユーザが圧倒的に多い。男性は結局、生理的にありあまるリビドーを抱え込んでいて、常に「男の証明」をどこかで行いたいと思っている。そのやり方が屈折したバリエーションとして発現する。萌えもブログも、大きな根っこは一緒である。そういうことを言いたいようだ。

うーん、でも、ブログやってますが、女性からの反響は1割くらい。萌える男がモテるわけじゃないのと同じようにブログも実にモテない。だからといって、熱く燃えてもモテないようだ。この本のように歴史を振り返ると「萌え」もまた過渡期であって、次々に複雑化、屈折化した男の気持ちが登場しそうだ。

「萌え」の次ってなんだろうか。

■萌えと私

ところでこの美少女論、タッチ、ガンダムまでは共感できたが、90年代以降の部分は私はよく分からない。最近のネット(テキストサイトという?)発の美少女、ちゆ12歳や、ビスケタンには萌えない。自分史を振り返ると、どうやらマクロスの美少女リン・ミンメイに違和感を感じてから、私は時代の最先端の萌え路線と違う方向に進んでしまったらしい。

ガンダムは燃えるが、エヴァンゲリオンはよく分からない、というのとも関係があるのかもしれない。アニメは内面化、中性化、抽象化の度合いが高くなりすぎていて、ついていけなくなったというのが、その理由のように感じている。

また、ビジュアル的に、子供化してしまった美少女に萌えることができない。じゃあ、自分はどういう美少女になら萌えられるのだろうと分析してみた結果、最も萌えるのは、

・安彦良和の描く女性
代表作にナムジ、神武、アリオンなど

で、一言で言うと大和撫子である。ガンダムが萌えたのは安彦良和が入っていたからだったことに今気がついた。

・基本的には家で待つ女性である
・外で活躍する男性を鼓舞して送り出す
・内面的な強さ、確固とした価値観を持っている
・子供を育てそうだ
・嫉妬する

身もふたもない表現で書くと、「月一の生理がありそうかどうか」みたいなところだろうか。ポイントは(笑)。こうして書き出してみると、ちゆ12歳はこの役割を果たしてくれそうにない。だから私は最近の美少女に萌えないんだなあと納得した。

でも、私がマイノリティとは思えない。結構同じタイプはいるはずである。萌えの次のマーケットとして、古典的な大和撫子タイプってどうだろうか。やっぱりだめだろうか。

・「ホットドッグ・プレス」休刊、誌面刷新も部数伸びず - asahi.com : 文化芸能
http://www.asahi.com/culture/update/0806/006.html

少年向け雑誌も傾向が変わってきている。

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2004年07月27日

日本人の苗字―三〇万姓の調査から見えたこと

日本人の苗字―三〇万姓の調査から見えたこと
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334031544/daiya0b-22/
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苗字研究の第一人者が語る苗字学。大抵の苗字の由来に触れられているし、珍しい苗字の人にも参考になる情報が多い。

日本人の苗字は30万姓。姓の数は、同じアジアの中国では350、韓国では250と少なく、ヨーロッパは全土合わせて5万程度で、日本は世界一、姓のバリエーションが多い国なのだそうだ。

日本の苗字の多い順ランキングはこの本によると以下の通り。

1位 佐藤 1914300人
2位 鈴木 1692300人
3位 高橋 1406000人
4位 田中 1324200人
5位 渡辺 1090400人
6位 伊藤 1072400人
7位 山本 1068200人
8位 中村 1041200人
9位 小林 1011900人
10位 加藤  853300人

橋本は24位(444700)だった。

最も多いのは地名型で、居住地や先祖の出身地を苗字にしたもので全体の8割を占めるという。次に多いのが職業・屋号型で、その次が職掌(官職)型だそうだ。この傾向は使われる文字にも現れている。田、藤、山、野、川、木、井、村、本、中などが名前によく使われる漢字ベスト10であるが、土地の名前と関係の深い文字が多いことが分かる。

よく知られるように、苗字を持つことは長い間庶民に許されておらず、特権階級のものだった。江戸末期の人口は3000万人。苗字持ちは4%程度の120万人で、約1万姓だったそうだ。明治初期の苗字の義務化により、29万の姓が増えていっきに30万になったという。それ以前より非公式に使っていた例も多かったようだが、大半の苗字はまだ100年ちょっとの比較的新しいものなのである。

明治8年の平民苗字必称義務令が出たときには、あわてて作られた苗字も結構あって、職業をそのまま苗字にしてしまった例もかなりあったようだ。

仮に今、平民苗字”改称”義務例などが出たら、

今猿(コンサル)
弁茶(ベンチャー)
風呂我(ブロッガー)

などつけたりする人もいるのだろうな。

ところでこども時代より気になっていたことはこの本には出ていなかった。それは苗字は結婚によって減る。増えることはないから、いつか大半の苗字は消滅してしまうのではないか?という疑問。

調べてみたら、

・ませ(間瀬・馬瀬・真瀬等)苗字、地名メモ
http://www.is.titech.ac.jp/~mase/masename/masename.html

このページで紹介されている

「姓の継承と絶滅の数理生態学」佐藤葉子・瀬野裕美著、京都大学出版会刊(2003)

という本がその問題に真正面から取り組んでいるようだ。今度、大きな図書館で探してみよう。

また上記のページには、数学的計算から「日本人が27人以上いれば同姓者がいる可能性の方が高い」という事実も紹介されていた。

参考サイト:

・日本の苗字7000傑
http://www.myj7000.jp-biz.net/

この苗字はどの都道府県に多いか?
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/bunpu.htm

・ドイツの上位200姓やアメリカの上位200姓
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjksiro/dtsjin.html

・Dorayaki「稀苗字」スクリーンセーバー - ベクターソフトニュース - おすすめアミューズメント通信 -
http://www.vector.co.jp/magazine/softnews/040207/n040207com1.html
めずらしい苗字548種類を表示する、ユニークでタメになるスクリーンセーバ


#ところで私は姓と名をごっちゃにされて”大橋”さんと呼ばれることが年に何度かある。橋本ですのでよろしくお願いします。

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2004年07月04日

住んでみたサウジアラビア アラビア人との愉快なふれ合い

・住んでみたサウジアラビア アラビア人との愉快なふれ合い
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アイデアマラソンの著者で、三井物産カトマンズ支店長の樋口さんが定年を前に帰国された。表参道でついにお会いした。発想術について一通りのお話をして帰り際、樋口さん(ご夫妻)が一昔前に書かれたこの本「住んでみたサウジアラビア」を頂いた。約20年前の8年半に渡るサウジアラビア滞在時の生活と思いを綴った本である。

お会いする前にメールで個人的なことが話題になっていたからだ。

ナイルの川辺 朝霧晴れて
今日も見上げる ピラミッド
手を取り合って たゆまぬ努力
さあ頑張ろう 君と僕
みんなのカイロ 日本人学校

私は父の仕事の関係で小学校低学年をエジプト国カイロで過ごした。エジプトとサウジは地理的にも近く、どうやら樋口さんと私の父は面識があるようだ。私が暮らしていたのはナイルの川辺のザマレク地区マンション。隣はモスク。毎日、何度もコーランの大音響を聞きながら育った。遠足先はピラミッド。砂まみれになったおにぎりを砂漠で食べた。10数人しかいない同級生たちとは、なるべくケンカをしないように仲良く遊んだ。

テレビは家になかった。暑い国だがクーラーもなかった。炊飯器がなぜかなくて鍋でお米を炊いていた。母は豆腐も作っていた。他の日本人家庭と同じようにアラブ人の運転手とメイドさんがいる。マンションだが家は広くて室内で自転車を乗り回していた。日本文化との接点は、年に何度かあったビデオ上映会で、紅白歌合戦を見ること。お誕生日会にはクラス全員がその子の家に集まりケーキを食べた。お別れ会は寂しかった。

応接には頻繁に、父の仲間の新聞記者やカメラマン、商社の社員らしき人たちが出入りする。徹夜マージャンをしながら、英語放送のラジオを聞いていた。皆で聞いていれば事件発生の聴き逃しがないだろうということらしい。遊んでいるだけにも見えたけれど、異国の地での必死の共同戦線だったのだろうなと、当時の父の年齢に近づいて気がつく。

日本に帰国して驚いたこと。日本の家が狭いこと、自動販売機が数百メートルおきにあること、外で歩いている人と日本語で話せること、水道の水は飲めること。物心つくころを異文化のイスラムの世界で過ごせたことは大変大きな価値があったと今になって思う。アプリオリに多様性を知るっていうことができたような気がする。

ところで、樋口さんは文章がとてもうまい。アイデアマラソン関連の著作を読んだときには気がつかなかった発見。商社マンとは思えない、叙情あふれる名文で、アラブでの冒険譚が語られる。

信義を重んじるアラビア人とのビジネス上の駆け引き、砂に埋まった車から脱出してサソリの這う砂漠を家まで決死の覚悟で帰る夜の話。写真を撮影しただけでスパイ容疑の逮捕劇。サウジにサクラ植えた話。共同執筆者の奥様の書いた女性しか入り込めないアラビア女性の黒いベールの向こう側の話。

大手のエリート商社マンも、当時単独でサウジに放り込まれてしまうと、何の助けもないから、危険と隣り合わせのサバイバルなのだ。この本を読む限り、当時のエジプトと状況はそっくりだ。樋口さんが生来の冒険家気質であるのも確かなのだけれど、同じように私の父母も子供3人を連れてのエジプト生活は、きっと大冒険だったのだろうなあと思った。

もしかすると、この本の書評を書くのは私が最後になるかもしれない。出版は1986年。この本に描かれた場所も様変わりしているだろう。出版社のサイマル出版会は既に倒産している。樋口さんのちょうど子供の年代に当たる私が、出版から20年後に書評を書いているのはなんだか不思議な気持ちになる。

樋口さんは商社マン人生をこの他、ナイジェリア、ベトナム、ネパールなど、日本の対極みたいなところを回る何十年として過ごしたらしい。モノが当たり前にあり、常識で人が動く日本ではない場所だったから、アイデアを何十万件も捻り出すマラソンシステムを思いついたのだなと、この本で納得がいった。

貴重なご本であると思うのに樋口さんからは「会社の皆さんにも」と3冊もご提供いただいてしまった。が、ご好意はともかく(笑)、さすがに「会社の皆さん」には内容的に厳しそうなので、自分に一冊、私の父に一冊、誰か本当に読みたい人が現れたときのために一冊、頂いておくことにした。

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2004年06月10日

「しきり」の文化論

「しきり」の文化論
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■しきりの変遷史

公私のしきり、ウチとソトのしきり、聖俗のしきり、自己と非自己のしきり。

しきりとは、世界を分類する行為であり、そこには文化や時代性が強く反映されている。伝統日本家屋の襖や障子によるしきりは、欧米の壁と違って、しきりの向こう側の存在の気配を、意識させる。障子は光を遮断しない。衝立や簾もまた空間を曖昧にしきる。こうした、ものや装置によって、私たち日本人の曖昧な精神性が育まれてきた。

一方、欧米の近代のプライバシーやアイデンティティという概念は、自己と他者を徹底的に弁別する。西欧の家屋は壁によって空気も光も音も遮断されている。外の自然環境と、人工居住環境は分断され、個室を与えられた子供たちは、他社と切り離された個人(Indivisual)となり、近代的な主体として成長していく。

仕事場と自宅という意味での、公私のしきりというのは19世紀の産業ブルジョワジーが作り出した比較的新しいしきりであるらしい。現代人は、ビジネスマンならスーツを着て、遠隔地の仕事場へ出勤する。家に帰ればくつろげる普段着に着替えている。自宅と会社の建築や内装はすぐに見分けられる違いがあるのが普通だ。

だが、17世紀のヨーロッパの権力者の館では、天蓋つきの大きなベッドのある寝室を、公務にも使っていたという。そういえば、ドラマに出てくる戦国時代の武将”親方様”のいる場所も、自宅であり公務の場であるようだ。そこには、まだ公私の区別が存在していなかった。

これに変化が起きたのは近代になって、生産性向上のためにいかに労働を管理するかが重要な課題となってからだと著者は言う。オフィスと家具は規格化され、象徴性(個別性)を失っていく。それを使う労働者や経営者もまた変容していく。職場と住居は分離され、異なるデザインが施されるようになった。

職場のレイアウトもまたしきりである。当初は、管理者が労働者を見渡し、監視する配置が好まれたが、生産性の追求の結果、作業の流れやコミュニケーションを重視するレイアウトが登場する。そして、最新のコンピュータで情報化されたオフィスでは、物理的なしきりよりも、情報のしきりが大切になってきた、という。

■情報のしきり:コンピュータネットワーク

コンピュータネットワークにも仕切りがある。ファイアウォール、サブネット、ドメイン、ディレクトリ、メールボックスなど、組織や個人の間に、情報レベルのしきりを作っている。コンピュータを使ったデスクワークがメインのビジネスマンならば、パソコンさえあれば、机がどこにあろうと問題ではない。自宅であっても同様の環境がある。その代わり、ネットワーク内の情報のしきりが生産性を左右することになる。

で、しきりの文化論的な観点から、ネットワーク設計を研究した事例って少ないなと思う。セキュリティでがんじがらめにされたネットワーク、上司にすべてが監視された感じのするネットワークは、この本で言うなら近代化直後の旧タイプのしきりだと言える。生産性を高めるのであれば、もう少し、風通しの良い、伝統日本家屋のようなしきりが必要なのではないかと感じる。

最近、仕事で企業の情報システムについて、識者に連続インタビューをする機会があった。面白かったのは、ナレッジマネジメントに成功した会社に共通するのが、現場でのシステム上の創意工夫の”黙認”という慣例があるということ。情報システム部門的には原則は禁止なのだが、実際には、現場が外部のASPサービスを利用したり、フリーソフトのインストールを行うことを、ある程度、見てみぬふりをするのだ。

情報漏洩問題やセキュリティ問題が事件になるご時世ではあるが、できる会社の情報システム部門には、安全の向上と保守管理コストの削減だけでなく、同時に生産性の向上を実現するための、自由度を与えるしきりの工夫が必要なのだと思った。安全・保守コストと自由度のバランスが取れたシステムの質を表す指標を作っても良いかもしれない。

企業組織内のコミュニティもまた生産性を引き上げているようだ。部門、役職、社の内外を越えて、水平的に知識を交換するための仕組み。今なら主にメーリングリストがそれにあたる。無論、まだそうした取り組みは、先端的な一部のユーザの間でしか起きてはいない。そうしたコミュニティを意図的に発生させたり、コミュニティへの貢献や実績を、直接に査定評価したりする制度が確立されていないからだ。

情報によるしきりは、デジタルだからといって1か0かという考え方に収まる必要はないのだと思う。しきりの向こう側の存在の気配を意識させるような、障子や襖のようなしきりも、これからのネットワークは実現していく必要があると思う。風通しの良いしきりということ。

具体的にそれは何かについて明確な答えはないのだが、それに近いアプリケーションを挙げてみる。

・インスタントメッセンジャー
 仲間のオンライン状況や作業状態がわかる
・Mixiの足あと機能
 誰が自分のプロフィールを最近のぞきにきたかが分かる
・関心空間の更新チェック機能
 チェックした人物の投稿状況が分かる

アウェアネス情報、アンビエントなインタフェース、ソーシャルネットワーキングといったキーワードが関係しそうに思うのだけれど、他に曖昧なしきりを通した情報の相互共有ってどんなものがあるだろうか。考えてみよう。

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2004年05月05日

放送禁止歌

放送禁止歌
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興味本位で読み始めたら、深い本で引き込まれた。フリーのテレビディレクターが同名のドキュメンタリを制作する過程を綴ったベストセラー本。

赤い鳥「竹田の子守唄」、岡林信康「手紙」、泉谷しげる「戦争小唄」、高田渡「自衛隊に入ろう」。その他、多数のテレビで長く放送されてこなかった歌がある。

放送禁止歌というと、体制側が決めた禁止リストがあってテレビ局は、それを根拠に自粛しているのだと思っていた。そして、放送禁止の理由は、それらを放送すると一般視聴者や圧力団体からクレームの嵐になってしまうからなのだと想像していた。

著者も最初は放送禁止の根拠を探す。その過程で、実は、放送禁止歌のリストなど存在しておらず、あったのは民放連の作成した「要注意歌謡曲」というリストに過ぎないことが分かる。だが、このリストにはA級と呼ばれるような有名な放送禁止歌が漏れている。そして、このリストでさえも、十数年前に失効している。

放送禁止の根拠は、「この歌は危ないんじゃないかなあ」程度の、番組制作現場の、事なかれ主義によるものだということが判明する。クレームや圧力などなかったことも分かる。長い間、多くの制作者が放送禁止の意味や、根拠をよく知らなかっただけなのだ。知らずになんとなく放送を自粛してきたのである。

ちょっと愕然とする。途中に挟まれるデーブスペクターと著者の長いインタビュー。ここで日米の放送禁止や表現の自由への考え方の違いが浮き彫りにされる。例えば米国の放送禁止用語は5つ(FUCK,GOD DAMN,ASSHOLE,BITCH,SHIT)しかなくて後は現場の判断なのだが、日本には禁止用語が膨大にある。これは現場がリスクを負いたくないために増えてきたものであって、規制する主体がいるわけではない。この国には言論を統制しようとするものもいない代わりに、表現の自由を守ろうとするものもいない、ってことなのかなと思った。

インタビューにでてきたテレビマンの言葉。

「テレビはマスメディアとして成長する過程で、とにかく毒と見なされるものを少しずつ排除しながら角をどんどん丸くしてきた。僕はそう感じてます。娯楽としては間違った方向ではない。しかし表現としては取り返しのつかない道を歩んでしまったのかもしれない。」

「表現には必ず副作用があるんです。どんな言葉にも様々な人たちのいろんな思いが集積されています。気にし始めたらきりがない。絶対に誰も傷つかない表現などありえない。」

後半は部落差別問題と放送禁止用語について、竹田の子守唄のご当地を訪ねて、深くこの問題を掘り下げていく。歌手やテレビ局、部落解放同盟と当事者の生の声を丁寧に聞き取る。著者の真摯な姿勢に関係者も、率直な言葉を吐露している。この人は本物のジャーナリストだなと思った。名著。

・放送禁止歌(要注意歌謡曲)案内
http://www2.ttcn.ne.jp/~bookbox/kinsika.htm

放送禁止歌についての解説。ジャケット写真やコメント。

・マイケル・ムーア日本語公式ウェブサイト
http://www.michaelmoorejapan.com/

放送禁止を連想させる「ボウリング・フォー・コロンバイン 」の監督、マイケル・ムーア。最新作「華氏9・11度」でも、ちゃんともめてます。

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2004年04月09日

インターネット的

・インターネット的
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コピーライター糸井重里が人気サイト「ほぼ日」の運営の中で考えたインターネット表現論。なにかネットで面白いことをやってやろうという人に考えるための材料としておすすめ。

著者が言う「インターネット」と「インターネット的」は違う。インターネットの新しさ、オモシロさの部分を「インターネット的」と表現している。だから、パソコンやThe Internetがなくても「インターネット的」なことはありうる。

インターネット的は、リンク、シェア、フラット、グローバルといった属性があるという、ある意味、当たり前の部分もあったが、表現者としてさらに本質に切り込んだ箇所があるように思えて、最後までいっきに読んでしまった。

■銀と毛、機械情報と生命情報

糸井重里氏は、さすがに言葉のプロであり、言い当てるのが難しいことを簡潔に表現してみせる。

未来人のイメージには毛と銀の全身服をきたやつがあるという話。

・ほぼ日 ダーリンコラム <銀と毛>
http://www.1101.com/darling_column/archive/1_0508.html
この部分はオンラインでも全文を読める


だいたい、テクノ音楽系のものが好きなやつは、銀。
ドクターペッパーが好きだったり、
ゲームがすごく好きだったりする人が多いわけ。
一方、毛のやつは、8ビート系というか、
言葉づかい乱暴だったり、飲み物でもコーヒーとかお茶。

(中略)

たとえば、椎名林檎は銀を飾りにつけた毛、でしょうか。宇多田ヒカルは毛がついた銀かなあ。北島三郎は毛で、藤あや子は、うすい毛?パンチョ伊東さんは......これが、なんと毛なんですねえ。何言ってるんだ、オレは?

野球選手は、全体的に毛の人が多いんだけれど、イチローはけっこう銀系です。サッカーの中田英寿選手はかなり銀でしょう。飲み物でも、ビールは毛だけれど、ライトビールは銀ですよね。ごはんはもちろん毛だけれど、パンもけっこう毛。スナック菓子は銀です。


毛=野生度であり、「毛もの=獣」度のバロメーターなのではないか。それで毛の方が意味が豊かだから、「「ほぼ日」は、インターネットという、非常に銀に思われやすいメディアを、毛に使っていくという意志を持って作ってます。」とサイトの表現方針を説明している。

何かを感じて、それが毛であるとか、銀であるということは、私も直感的に判断できるが、それは生きている人間だから分かる意味作用の結果であって機械で判断するのは難しそうだ。

■WHOLEでつながる毛ものの世界

インターネット的な世界では、WHOLE(全体)で渡せる、つながることが魅力とも著者は言う。WHOLEでつながるというのは、機能だけで部分的につながるというのではなくて、全体でつながること。雑多な部分も含めて全人的につながるという意味だ。


一般的に「定義」された夫婦というものは、経済と性を共用する共同体ということになるのかもしれませんが、それで表現できるはずがないことは、誰もがわかっていたことでしょう。もっと、わけのわからない謎のような時間や経験が絡み合っています。

そのとおりだと思う。デジタル化した情報のつながりは、あまりに部分的だ。例えば最近流行のソーシャルネットワーキングサービスでは、恋人同士のA君とBさんを「恋人」という関係でリンクする。二人のデータは登録した趣味項目の2,3個でもつながっていると表示されるかもしれない。だが、そこまでである。

毛もの、ケモノ的な男女のつながりは、それだけではないはずだ。もっと有機的で全体的で、ドロドロしていたりして、とてもビットで表現できる情報量を超えている。大恋愛関係にある場合なら、リンクが切れたら、刺すの死ぬのの騒ぎになるかもしれないわけだ。割り切れないのだ。だが、そういった濃密で多重で全体的なつながりは、デジタル化された段階で、必ずそぎ落とされてしまう。

機械情報、デジタル情報が作ろうとしているのがセマンティックウェブだとすると、糸井氏が言いたいのは、生命情報の織り成す「毛ものウェブ」の方がインターネット的で面白いよということかなと思う。

■豊かな意味をひきだすもの

考えたこと。

生命情報の視点に立てば、銀の世界は意味作用が貧困な世界である。身体性だとか全体性だとか、情動やら情念やら、不条理やら、そういう人間の持つ、むせかえるほど濃密な意味が、先端デジタルエンジンでフォーマットされると抜け落ちてしまうと思う。糸井氏はそれを避けて、もっと豊かな表現を指向しているのだと読めた。

茂木健一郎氏の「クオリア」は毛の世界の情報の表現形式を言い当てた概念なのではないかと思う。それに触れた人間のこころは、化学反応を起こして、自分自身の内側から、新たな情報を生み出し始める。記憶を再構成して、A=B以上の全体的な世界とのつながりの意味を取り戻す。ちょっとした簡潔な言葉に、心から笑ったりするのは、まさにそんな現象だろう。

言うならば、どうしようもなく豊潤で、ある意味「エッチ」な毛ものに触れて、「意味をもよおす」ということだと思う。銀の世界の情報に私たち生物は、決してもよおさないのだ。銀の世界には、それを成立させる再生の場がないからだ。意味作用のためのエネルギーが弱すぎるということだ。もよおさないのはつまらないよ、と糸井氏は考えたのではないか。

近代化、デジタル化、IT化の流れの中で、私たちの表現が生命力を失っているとすれば、そういう意味作用発生の場とのつながりが薄れてきているからに違いない。毛の世界は、物が腐って発酵して匂いがムンムンするけれど、そのるつぼからは、新しい意味と差異が、再生して現れる場である。

ただ、ツールをスマートに使いこなして、かっこよくホームページをつくっただけでは、インターネットであって、インターネット的ではないから、インターネット的な感動をもよおさせることができない。

この本は、ネットの表言論として、本質に迫っている面白い作品だと思う。糸井氏のポリシーどおり「話すように書かれた」本だが、それをわかりやすく書評できない自分の技量の差がちょっと悔しい。

#最近、とあるコミュニティで、とある先生から、あなたはセンスは悪くないが、他人から意味作用をひきだす表現が下手という意味のことをずばり言われ、そのとおりだなあと自分の表現方法を反省。毛の表現方法を修行中。

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2004年04月03日

二十年後―くらしの未来図

二十年後―くらしの未来図
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■現場主義の未来予測 先端製品の開発者に聞くアプローチ

20年後の未来にはどのような技術、製品が出現して、私たちの生活をどのように変えているかを予想する本。著者は、今日の時点で市場に出ている最新の製品の開発者に対してインタビューして回る。

観測テーマとして選ばれたのは、トイレ、バスルーム、洗濯機、ベッドルーム、防犯、エネルギー、ロボット、テレビ、生ゴミ、冷蔵庫、クルマ、キャッシュ、キッチン、ペット、葬式、の15分野。

著者は学者でもシンクタンクのリサーチャでもなく、社会問題や教育など幅広く取材をしてきたフリーライター。その自由な立場であることが、この本の面白さ。

この本の最終章「未来予測」では過去の政府や研究者が発表した20年前の未来予測がどれだけ当たってきたか、的中率を調べている。しかし、その結果は惨憺たるもの。つまり、詳しい専門家が予想したところで20年後の予想は当てにならない。

この本は、専門家に聞くのではなく、現場の開発者やマーケターに聞くことで最低限の根拠を築き、生活者である著者自身がその上で身近な視点で考えたことを書く、という戦略を取っている。自然と著者の筆は軽くなり、20年後だったら、こうなるんじゃないかな?、こんなものが欲しいな、という自由発想が多くなる。どうせ専門家でも当たらないのだから、未来予測は分かりやすく、面白い方がいい。この本はその点、成功している。

■市場ニーズと技術イノベーション

各分野の現状や未来予測を読んでいて思ったのは、家電や生活者向けサービスにおいては、

1 技術的には可能だが市場ニーズがないから実現されない製品・サービス
2 市場ニーズはあるが技術的に不可能だから実現されない製品・サービス

のパターンがあり、前者が圧倒的に多いということ。

開発者が「基本機能を備えた製品は存在していたが○年前では需要がなかった」と語るケースが多い。携帯電話もThe Internetも20年前に存在していたが、それらは決して今の「ケータイ」「インターネット」ではなかった。今のレベルまで生活と社会に浸透させたのは技術革新というよりは、それを必要とする生活者の需要の方だっただろう。

製品が普及する順番や連関も重要なポイントであるようだ。洋式便所が普及したからウォシュレットが人気だし、パソコンやプリンタが普及したからデジカメが人気なのである。先行する製品が、市場ニーズを大きく変容させてしまう。ひとつの分野でいきなり20年後を考えることは困難だ。

企業のマーケターは目の前の市場を見るのは得意だが、その2歩、3歩先を見ているわけではない。今売れる商品を考えているだけである。シンクタンクや学者は技術的に可能な未来のパターンは把握できても、目の前の市場がわかっていない。誰にとっても、未来予測が難しいのは、これらの事情があるからだろう。

・技術予測 文部科学省 科学技術政策研究所科学技術動向研究センター
http://www.nistep.go.jp/achiev/abs/jpn/rep071j/idx071j.html
リーフレット「未来への旅」が読みやすい

政府はこんな予測を出しているが、果たして、今度はどこまで当たるだろうか。

■先端製品をじっくり味わう

この本で紹介されている先端商品は、どこかで耳にしたけれど、詳細はよく知らなかった製品というものが多くて、勉強になる。

例えば、

・洗剤不要の洗濯機
http://www.sanyo.co.jp/koho/hypertext4/0106news-j/0622-1.html
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消耗品の○○が不要というコンセプトはいいかもしれない。個人的にはインク不要のプリンタが欲しい。

・ゆっくり喋るラジオ
http://www.jvc-victor.co.jp/audio_w/product/radio/ra-bf1/
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聴く時間は同じなのにゆっくり聞こえる秘密を内蔵。

・夢をコントロールするドリームボイジャー
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/4-10-610053-3.html
このページはこの本の内容が少し読める。

このほか、割れないガラス、太陽熱発電、IHクッキングヒーターなど比較的地味な先端から、空飛ぶクルマ、パーソナルロボットまで出てくる製品は幅広い。それぞれ、どのくらい売れていて、メーカーは次にどうしようと考えているか、一般人に分かるように噛み砕いた説明がある。

関連情報:先端製品を見ながら未来生活を考えるサイト

・Popular science
http://www.popsci.com/popsci/
先端デジタル製品を中心にレビュー。同名の雑誌のサイト。日本語版もある。

・T3
http://www.t3.co.uk/
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英国の最先端技術製品紹介の雑誌。携帯やクルマ、PCなどコンセプトモデルも含めてこれから市場に出回る製品が多数取り上げられる。T3はTommorow's Technology Todayの略で同名の雑誌がある。私は洋書屋で買っているが、大きなカラー写真中心で楽しめる。

・Extreme Computing
http://www.extremecomputing.com/
コンピュータ周りの先端製品がレビューされる。

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2004年03月10日

関西弁講義

関西弁講義
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なんでやねんなのか、わかりまへんが、東京生まれで神奈川育ちの純粋関東人のウチは、社会人になってからちゅうもの、関西にやたらと縁があり、今も関西人に囲まれとるちゅうわけや。妻は大阪市南部の出身やので、関西弁のネイティブスピーカー。上京してから随分経つので、表面上は標準語も話しとるが、ウチからするとイントネーションがまだまだおかしいちゅうわけや。生後7ヶ月のボウズは果たして、どういう言葉を話すようになるのか、ドエライ気になるちゅうわけや。

と前置き終了で標準語に戻る。

学生時代に、本を書くために、関西のネットショップの経営者の方々を取材して回った。Tシャツ販売の岸本さん、傘販売の宮武さん、OSMCの森本さんなどにお話をうかがってまわった。3人とも、コテコテの(スイマセン)関西弁を操る。

・イージー
http://www.easy.ne.jp/
・カサヤドットコム(心斎橋みや竹)
http://www.kasaya.com/
・オンラインショップマスターズクラブ
http://www.osmc.ne.jp/

イージーの岸本社長にネットショップ運営のコツを伺ったところ極意の「いちびり」がまず分からなくて苦労。でも、関西弁は勢いがあって、人懐っこく、打ち解けた雰囲気がすぐにできる。私はおかげで関西人脈が広がり、何度も何度も関西へ、出張することになり、すっかり関西弁ファンになってしまった。

・いちびり
http://www.kuidaore-osaka.com/2top/deep/03_komaranai/0043.html

最初の頃は、「その本なおしといて」「お茶でもしばこか」「それ、ほかしといて」など言われると「な、なにしますか?」状態だったが、説明を聞くたびになるほどと思う。いつかまとめてこういった文法やイディオムを学びたいなと思っていた。

■関西弁の長年の疑問が次々に氷解する

これは、2200万人が話す関西弁は方言ではなく言語のひとつと考え、言葉の実例を多数集めながら、文法から研究した学者の本。冒頭から面白い。「関西人はよその土地に行っても関西弁を変えようとしない」のは、言語だからで変えられないのだ、とか、「関西人は声が大きい」のではなく高いトーンで始まる単語が多いからだ、など前から気になっていた疑問を氷解してくれる。

文法の解説はどれも興味深い。関東人の多くは、例えば、この本の例をとると、

・食べられへん
・よう食べへん

の意味の違いを説明できない。あるいは、この言葉、

・わて ほんまに よう 言わんわ

わかったような分からないような気持ちになる。

これは、解説によると「食べられへん」は状況不可能を表すのに対して、「よう食べへん」は能力不可能と同時に食べたくないという主観の感情表現が込められているのだという。

また、関西弁といっても、例えば京都、大阪、神戸では違うとして様々な例が挙げられる。

知っていますか?(標準語)

知ったはりますか?(京都)
知ってはりますか?(大阪)
知っとってですか?(神戸)

さらに市レベルでも細分化があるらしく、特に「来る」の否定形をどう言うかで11種類の出身地が推定できるという。妻に聞いたら「けーへん」で、これは大阪市南部。ずばり当たっている。ここらへんは関東人には極めて微妙でわかりにくい。

私は生粋の関東人なのだけれど、かなり練習したので、関西弁をある程度は話せるつもりである。多分、完全な関東人だけの集団の中で30分くらいなら、関西人を装ってばれないことも可能なのではないかと思っている。だが、関西人がいればイントネーションで一発でばれそうだ。ふざけて関西弁を喋っていると、妻からはしばしばイントネーションの問題を指摘される。逆も真なりなのだが...。

最も難しいイントネーションの問題も、この本では独特の発音記号を使って、丁寧に取り上げられている。

これはもう本格的な語学書である。関西弁を深く理解したい人、私のように関西人と結婚してしまった関東人には必須でありがたいおすすめ本。

・Beatles in Kansai-ben
http://www.asahi-net.or.jp/~bg1t-ksmt/beatles.htmビートルズで英語と関西弁を学ぼうやないか

・関西弁基礎講座
http://homepage2.nifty.com/GANSO_hirokun/kouza00.html

・ATOK15の方言対応を記念して
http://www.justsystem.co.jp/news/2001l/news/j12101.html
「ATOK15 関西弁対応記念デザインパッケージ」を2002年2月8日(金)発売オリジナルパッケージで1万本限定販売〜

・KANSAI好っきゃねん
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/MH/VariousMH/MHCL-315/

・「なんでやねんCPU」トラブルを関西弁でツッコむマザーがAOpenから!
http://akiba.ascii24.com/akiba/news/2001/02/27/623621-000.html
AX3S Pro IIのDr.Voiceが話す言葉は以下のとおり

・関西弁翻訳
http://members.jcom.home.ne.jp/sho-tora7/kansai-ben.htmフォームにテキストを入力すると関西弁に翻訳してくれます。

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2004年02月29日

かなり気がかりな日本語

・かなり気がかりな日本語
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タイトルに反発感を感じたのが、この本を買った動機。ところが、共感して読み終わる。どういうことかを説明しながら書評。大学で日本語とフランス語を教える研究者の著。

■空虚なコミュニケーション

最近、神田敏晶さんが書いたデジクリのコラムの一節に、ファミリーレストランを訪れた際の、こんな分析があった。


無言な客に対してサービス産業は従業員のモチベーションアップと顧客満足度を高めるために「いらっしゃいませ こんにちは」を開発した。これだと客は無言のままでもコミニケーションが成立するからだ。「いらっしゃいませ こんにちは」は今日もまたサービス産業にひろがっていく。

この本では、この一方的な挨拶を「やまびこ挨拶」として紹介している。買わずに帰る客にも向けられるものだから、必ずしも好意的に受け取られるとは限らないと著者は言う。それでも、実施されるのは客への礼儀だけでなく、従業員の士気の高まりや連帯感を期待しての店側の論理にも背後にあるはずと分析する。

メディアや商品メッセージにも多数のリアクションを期待しないコミュニケーションが多いと著者は言う。タバコの「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」だとか、車内での「携帯電話をお切りください」など。確かに、挨拶の自動化、商業化が進んで、そこに従来の価値観ではおかしな日本語が量産されていることが分かる。

■「要するにとりあえず逆にある意味基本的に、日本語力だ」

著者が現代人の濫用として槍玉に挙げる言葉に、「やはり」「要するに」「とりあえず」「逆に」「ある意味」「基本的に」がある。これらの言葉が本来の意味を持たずに話されることが多いというのだ。正直、耳が痛い。私も該当者だから。なくても、意味が通るのに使ってしまうことが多い。

Googleで検索してみた。Web上の表現の人気としてはこんな順位になるらしい。

やはり    約5,600,000件
とりあえず  約4,850,000件
逆に      約2,510,000件
基本的に   約1,150,000件
要するに   約 701,000件
ある意味   約 620,000件

この数字が多いのか少ないのか、このうちどれだけが本来の意味を含まず、不必要な使用なのかは、分からない。が、「私は」で検索すると約5,390,000件だった。「私は」より「やはり」の方が多いのは、濫用気味なのかもしれない。

この指摘はなるほどなと思った。

著者は、はやり言葉や、敬語の間違った使い方、テレビで使われるおかしな日本語などを次々に挙げていく。

「これ、ふつうにおいしいですよ」「JR山手線は、翌16日からリフレッシュ工事を行います(車内アナウンス)」「このニュースについてA記者にお話をうかがいます(テレビ)」などなど。どれも、日本語としておかしな部分があるが、どこかで耳にしたような言葉ばかりで、ニヤニヤしながら読める。そして著者は、それらのおかしさの意味を丁寧に説明している。

■タイトルを変えるべきでは?

最初にこの本のタイトルを見たとき、反発を感じた。正しい、美しい日本語の規範が存在していて、それに合わせるべきだと主張する本に見えたからだ。だが、著者がこの本で言いたかったのは次のことだったようだ。


現実の口頭コミュニケーションにおける正しく美しい日本語の条件とは、相手に誤解を与えないことと、相手に不快感や不信感を抱かせないことに尽きるのではないかと思う。相手に誤解を与えないためには、現代の日本人が共通理解事項としているところの日本語の文法、語彙、音韻などの体系を無視するわけにはいかない。

つまり、TPOに応じて、使い分ける柔軟な日本語力が大切である、できないと損をするぞ、ということらしい。それならば納得できる意見だ。この本は「かなり気がかりな日本語」ではなく「かなり気がかりな日本語力」というタイトルの方が正しいのではないかと思った。

この本は、著者がフィールドワークで集めた日本語の最新事例が豊富で、ひとつひとつの事例に対する社会背景や、話し手の心理分析が丁寧になされている。日本語の使い手ならば楽しみながら読める。

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2004年02月17日

本を読む本、ぼくが読んだ面白い本......

本を読む本
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1940年に初版がでて以来、読書術の古典として世界的にベストセラーになった本。内容は書物をどう理解し、知識を自分のものとして獲得していくかの方法論を体系的に述べている。

読書には4つのレベルがあるという。

1 初級読書(Elementary Reading)
  「その本は何を述べているか」を理解する読書

2 点検読書(Inspectional Reading)
  系統立てて拾い読みする読書

3 分析読書(Analytical Reading)
  系統立てて質問をする積極的読書。著者との対話型の読書。

4 シントピカル読書(Syntopical Reading)
  ひとつの主題について何冊もの本を比較読書し、客観理解をすすめる。
  書かれていない主題をも発見する究極の読書。

このレベルを上げていくことで深い理解に到達し、知識を活用できるようになるのだという。作者と対話し、そこに書かれていないテーマを発見せよ、行間を読むのではなく行間を書け、というメッセージになるほどと感銘。

古典的な本であるのに、意外にも速読、とばし読み勧める内容になっている。そして、どんな本も数行に要約してみよ、とし、アダムスミス「諸国民の富」、アリストテレス「倫理学」、ヘロドトス「歴史」などの古典の要約例があげられる。

最初に点検読書で全体のアウトラインを把握し、著者の言いたい事をつかみ、読むべき価値のある部分をじっくりと考えながら読む方が、最初からだらだら読むよりも、速いし理解も深まるということを言いたいようだ。

この本を読んでいて思い出したのが次の本である。(今日の記事はむしろこちらが紹介したい本)。まさに同じような読書論を展開している人がいる。

・ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術
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立花隆による読書術と大量の書評集。素晴らしい。

立花隆の大量読書は有名だが、この本ではまず、その読書術が語られる。蔵書のために地上3階、地下2階のビルを建ててしまう作家であるから、本と読書に関するこだわりは熱い。当然のように速読をポリシーとしている。点検読書と同じ意味の速読を実践しているのだなとわかる。


この世界は、書物の存在量から見たとき、いかなる巨大美術館、巨大美術展よりも、作品が信じられないほど多量にあり、はじめから逐語読みをしていたら、一生かかっても絶対に読みきれないどころか、数百年かかっても読みきれないほどの量がある。しかもその中にクズが山のように入りまじっているのだから「全部はじめからじっくり読み」方式は絶対にしてはならない無謀な方式なのである。そんなことをしていたら、出会うべき本に出会えないうちに一生を終わってしまうこと必定である。

「音楽的読み」と「絵画的読み」という著者の言葉はうまい表現だと思った。順序通りに分析読書する方法であり、後者は数十分で一冊を読むような点検読書の方法のこと。著者曰く、基本は絵画的読みで把握し、読む価値がある部分を音楽的読みで読むべきだとのこと。

この本の大半を占める中盤は、著者が5年間に読んだ中から選んだ数百冊の書評。週刊文春の連載をまとめたもの。的確な引用と明確な評価。良い本はほめ、悪い本はけなす。ひとつのテーマに対して大量の類書を読む著者は、「本を読む本」でいうシントピック読書の実践者であると思った。

紹介されるのは、ジャンルを問わずあらゆる本だが、著者の好みで科学書や歴史書、ニューサイエンス(オカルトともいう)、奇書の類が目立つ。自分が読んだ本の批評が書かれているのも面白いし、気になっていた本の評価も参考になる。これを先に読んでおけば、買わなくても良い本を買わずにすむから、この本は書評部だけでも価値があると思った。

そして終章の「『捨てる技術』を一刀両断する」が凄まじい。何でも捨てることが大切という内容のベストセラー本を、完膚なきまでに叩きのめす。作者が気の毒になるほど徹底的である。

・「考え方が根本的に間違っている」
・「(この本こそ)「捨てる技術」を使うならまっ先に捨ててしかるべき」
・「私はこの本をまったく評価しない」
・「ほとんどカスみたいな本である」

といった罵倒が実に40ページも続く。この激しい批判書評の過程で、著者は自らの情報についての哲学や価値観を展開していく部分は、この本のクライマックスである。

「捨てる技術」は私は読んでいない。自論展開のために戦略的にこの本を選んで悪く言ったのか、本当に激昂するほどこの本が嫌いなのか、判断が難しいのだが、ここまで叩かれる本自体も読んでみたくなった。

お断りしておくと私は立花隆のファン。何の分野であっても、豊富な知識を根拠として挙げて、説得力のある評価をする人である。「知の巨人」と呼ばれる一方で、トンデモ系だという批判もあって、たくさん出版物まで出ている。

立花隆先生、かなりヘンですよ―「教養のない東大生」からの挑戦状

立花隆の無知蒙昧を衝く―遺伝子問題から宇宙論まで

立花隆「嘘八百」の研究―ジャーナリズム界の田中角栄、その最終真実。

立花批判の多くは、彼の語る立ち位置を誤解したもののような気がしてならない。彼は「元」ジャーナリストの作家であって、今は単なるジャーナリストでも科学者でもない。呆れるほど博覧強記なのと、強い物言いのせいで、誤解されてしまっていると思う。専門家ではないが故に、多くの分野に通じ、最先端の知の面白さの世界をナビゲートすることが、この人のやりたい仕事なのだと思う。読者層も本好きばかりだろうから、多少の間違いにミスリードされるとしたら、される方が悪いんじゃないか、とファンとしては思う次第。

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2004年02月07日

インフォアーツ論―ネットワーク的知性とはなにか?

・インフォアーツ論―ネットワーク的知性とはなにか?
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■鋭い洞察と未来への提案

素晴らしい洞察。こんな本を1年間見つけられなかったのが悔しい。

著者は國學院大學教授の社会学者。社会学の老舗サイトのソキウスを1995年から主宰している。この本は、インターネットのユーザ像を社会学、心理学の観点から分析し、現代人のネットに対する偏った関わり方の問題提起をする。そして、「インフォアーツ」(ネットワーカー的情報資質、または情報学芸力)という資質を育てる教育を提案する本。

・ソキウス
http://www.socius.jp/

最初は、若い世代のインターネットユーザの無軌道ぶりを、ついていけない世代の権威が、ぼやき、説教する本なのではないかと疑った。実際、内容はオヤジの説教スタイルなのではあるが、説得力ある、感動的な説教を聴いた気がした。

社会学、心理学の専門知識を使って丁寧にネットユーザのネットへの関わり方を分析する。ユーザの心理や、実世界とオンラインの関係、陥りがちな偏向。著者は成熟した大人の視点でネット社会を俯瞰し、何が問題なのか、どうあるべきかと語る。いわゆる「べき論」本である。

■個人サイト論、ブログ論としても秀逸?

「個人サイトの社会的意義」という項で語られる、個人サイト論が面白い。人はなぜ個人サイトを立ち上げ、何を求めて日々運営を続けているのか?、

著者は個人サイトの本質を「自己言及の快感」と看破する。個人がWebで何かを語ろうとするなら、オーディエンスに対して、自分がなぜそのテーマを語る資格があるのかを説明しなければならない、という意識が働く。情報の送り手になることは自己をさらすことであり、パブリックな自己を役割として演じることが求められる。そして、人は「望ましい自己」の実現と維持に取り組み始める、というのが著者の見方である。

そして、ネット市民(ネチズン)を段階別に「社会的学習スタイル」「鏡像自己スタイル」「一般他者スタイル」「反省的自己スタイル」に分類し、ネット上の人格がこどもから大人へと成熟して行くものと論じる。(類型はデビス、バラン、マスコミュニケーションの4類型による。)

フリーでオープンなネットコミュニティ。著者は原始的民主主義の姿をそこにみて、その光と影を指摘する。「沈黙のらせん」「メディアホークス」「共有地の悲劇」「即興演奏されるニュース」「議題設定機能」「第3者効果」など、非常に興味深いキーワードや社会学の理論を使って、ネチズンの行動を読み解いて行く。

オンラインではなぜ意見が極端に偏るのか、流言が伝播しやすいのか、無意味なフレーム論争が起きやすいのか、理論的に説明してみせる。このあたりは、ネットコミュニティの主宰者や、ネットワーク的組織のリーダーならニヤリとする事例ばかりだし、まとめとして一読の価値があると思う。

■革新的な保守派の本

インターネット上のコミュニケーションでは、リアルの日常では起こらないようなトラブルがしばしば発生する。二つの世界は場の性質が異なっている。リアルな場は、参加者の社会的立場が似通っていたり、参加者の役割定義が明確な場である。

書き込んで逃げる=「書き得効果」は実世界ではありえない。ネットでは立場も役割も曖昧だし、演じている自己が実世界では発言しないような内容を発信する。リアルでは常識も立場もある先輩が、ネットではうかつな発言や行動をとってしまうこともある。

ネット上の人格の成長、社会性の獲得。ネットワーク社会人として必要な資質(インフォアーツ)があるはずだ、という著者の主張の中身は、単にネットのマナーや情報リテラシーが必要だと唱える人たちとは、異なる視点の問題提起である。

中盤以降は、著者によるネット社会の理想像が語られる。それを実現するには情報教育が重要という観点から、本のタイトルになっている「インフォアーツ」を育てる教育論となる。ネットに依存せず、バランスの良い情報収集や意思決定、コミュニケーションができる人間を育てるにはどうしたら良いか、という提案。

論が進むにつれ、説教臭さが増すことと、「インフォアーツ」の定義が概念レベルにとどまりがちで、私には分かりにくかった、という若干の不満はあるが、それは私が未熟だからかもしれない。理解不能な部分はあるものの、結局は夢中になって短時間で全体を通読した。

この著者は、進歩的考えを持っているけれど、本質は決して革新の人ではないと思う。むしろ、ネットの自由奔放さを伝統的価値に照らして批判する保守の人だと思う。しかし、聡明で成熟した保守の人であり、専門家として一流の分析をしていると感じる。読んでいて、反射的に、反発を感じるところも少なくなかったが、深い洞察力の持つ説得力にうならされた。書き込みだらけの一冊になってしまった。

インターネットを5年以上は使って情報発信やコミュニティに参加してきた人に特におすすめ。

参考URL:ソキウスより

・インターネット市民スタイル【知的作法編】
http://www.socius.jp/on/01.html

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2003年09月21日

100歳まで生きてしまった

100歳まで生きてしまった
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日本の平均寿命:81.5歳
百歳以上の人数:17934人

米国の平均寿命:75.5歳
百歳以上の人数:6万人以上

日本の平均寿命は世界一だが、百歳以上の人(センテナリアン)の数は、人口比(1:2.3)を考えると米国の方がはるかに高い。何事も極端な米国っぽいデータではある。

この本は、センテナリアンを特集したラジオ番組「百年の物語」を作るため、数年間かけて米国在住の百歳以上の人たちを連続取材したドキュメンタリ。取材を通して見えてくる15人の百歳の視点に、著者自身の人生観が、大きな影響を受けていく様が描かれる。百年生きるということはそれだけで大きなインパクトだ。

帯のキャッチコピーから。

・ゆったりとよどみなく話すミラー夫人(117歳)は民間伝説の語り部のよう
・お洒落なモナ(102歳)はイヤリングをつけ、紅を引き、青い目が輝いている
・あたたかい日に必ずボートを漕ぐアンナ(103歳)はエネルギーが爆発しそう
・ゴールドスタイン教授(101歳)は曾孫のような学生に契約法を教えている
・ルース・エリス(101歳)は愛すべき世界最高齢のレズビアン

─── など15人の「100年の物語」 ───

読了してみて15人の百歳体験に共通したのは「孤独」といかに戦うか、折り合うかっていうことのように感じた。百歳になれば連れ合いも友人もみんないなくなってしまう。新しい配偶者をみつけたり、ライフワークに打ち込んだり、地域コミュニティに参加したりと、ここに出てくる老人たちはみなそれぞれの形で、百年の孤独に対する対処法をみにつけている。

・Centenarians: Lives of Century
http://www.csmonitor.com/atcsmonitor/specials/centenarians/

・Centenarians
http://www.hcoa.org/centenarians/centenarians.htm

・Okinawa Centenarians Study
http://www.okinawaprogram.com/

そろそろ、入院中のお婆ちゃんに会いに行かないといかんなあ。百歳じゃないけど。

評価: ★★★☆☆

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