2007年11月20日
針の上で天使は何人踊れるか―幻想と理性の中世・ルネサンス
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中世の人々は現代人には信じがたい考えを平気で受け入れていた。
15世紀の教会裁判所は、作物を荒らした害虫に対して「この付近の人間の食物を浪費し、壊滅させたカブトムシよ、今からここを立ち退き、誰にも害を与えない土地に行くことを、汝に命ず」という裁きを大真面目にくだした。そして殺人罪で豚を絞首刑にした。リンゴに悪霊が取り憑いて不気味な音を鳴らすと信じた。魔女は空を飛び交い、悪魔は死者を蘇らせると恐れ、異端者を残酷なやり方で処刑した。
そうした行いの理由は、人々に知識や推論能力が不足していたからではなくて、そこには現代と異なる「常識」が前提としてあったからである。この本は歴史の中の奇妙な妄想を10章に渡って取り上げて、なぜ当時の人々はそれを真剣に信じたのかを分析する。
「毎日駆使している「一般常識」は実は多くの前提に支えられた複雑な事柄だった。そして、その前提は概ね私たちが生まれる前から存在していた通念から生じ、他の者から伝えられるのである。」
思考の土台、物の考え方である常識は、同時代の人間にとって常に所与のものとしてあらわれる。著者はこれを相対化して客観的に眺めるために有効な手法として、こうした迷信や妄想を信じた過去を振り返る。
「「奇妙な歴史」を学ぶことでも、この新鮮な視点が得られる。昔の理性的な人々が悪霊に取り憑かれたリンゴや、豚の死刑や、魔女や異端を信じていたのなら、現代の理性的な私たちの考えにも「奇妙さ」が潜んでいる可能性を考えるべきだろう。」
この奇妙さは同時代でも宗教や慣習が異なる社会の間で生じる問題だろう。たとえばアフリカで現在も数百万人に対して行われていると言われる女子割礼、インドの名誉殺人、そしてイスラムの神の名による宗教戦争。どれも日本人にとっては奇妙であるし、道徳的に認めがたいが、逆の立場では私たちの考えこそ奇妙にみえるのだろう。
「常識的な」判断は特定の社会に浸透している思考を反映するものであり、しばしば社会によって変わるものなのだ。社会に浸透している認識と一致していれば、その考え方は合理的だとみなされる。ある文化───たとえば、私たち自身の文化───において支配的な考え方が馴じみのあるものなら、その考え方に従った行動は、まず間違いなく道理にかなっていると見なされるだろう。逆に他の社会の思考についての理解が十分ではない場合、その思考に従って普通に行われた行為の多くは、馬鹿げていると思われやすいのだ。」
奇妙な迷信と妄想の歴史的な研究は、現行の常識や理性の普遍性を疑い相対化していく。中世ヨーロッパにおいて、キリスト教と人々の常識がどのように相互作用して形成されていったかがよくわかる。そしてそれは現代にも外挿できる理論であることに気がつかされる。とてもスリリングな、常識の解体新書。
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Posted by daiya at 2007年11月20日 23:59