2006年04月24日
情報学的転回―IT社会のゆくえ
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日本の情報学の第一人者、西垣教授の本は必ず読んでいる。難解なものが多いが、口述筆記で書かれたこの本は、とても読みやすい。
「
情報学的転回とは必ずしも、ITの高度利用によって人間の生活を効率化し、グローバル経済を活性化することではない、ということです
」
冒頭のこのことばでまず引き込まれた。
この本の情報学的転回とは、情報という概念が、私たちの思考の在り方、世界観、人間観を大きく変えていくという意味である。ビジネスや効率性ばかりが強調される「IT革命」よりも、もっと本質的な、人類の文化文明の大変革を論じている。
著者は情報には3種類があると定義している。
1 生命情報 生きている生物にとっての情報
2 社会情報 生命情報から意識的に抽出され記述された情報
3 機械情報 機械が処理する記号の情報
コンピュータが扱うのは3の機械情報である。記号化された情報から、人間は、生命や社会にとっての「意味内容」をこの記号から解釈して読み取る。飽くまで意味内容は読むものの内側にあるはずである。ところが、西欧発祥のIT文明は、機械情報の中に、聖なるもの、本質的なものがあるかのように扱ってきた。
「
要するに、唯一の正しい論理がある。それは神の言葉である。これにしたがって、相互に矛盾しない論理命題の合理的な体系が存在する。世界という客観的な実在を象徴する記号群が存在する。その記号群を使って、宇宙や世界のあらゆる事物や現象というものが記述されていく。これをおこなえるのは神さまですね。
それをエイヤッと世俗化して、メカニズムだけを取り出すと、コンピュータになる。コンピュータが論理をルールにもとづいて操作する。そこでは思考というのは一種の計算になります。人間の心というものは、いわばその一部であって、思考を行うものである。これは世俗化されたユダヤ=キリスト教ではないでしょうか。
」
この機械情報、機械文明に振り回された人間の異議申し立てこそ、いま起きようとしている情報学的転回なのだと著者は述べている。
「
しかし今、機械情報からもう一度、はじめの生命情報へと戻る方向性が出てきた。機械情報文明がどんどん盛んになることによって、そこからもう一度、自分たちは生物なのだ、生命流の中の結節点のようなものなのだという自覚が生まれつつあります。
」
生命流という考え方と仏教の類似性を指摘したりして、東洋と西洋の宗教比較にも言及されている。機械情報の時代を超えて、人間にとって、より本質的な生命情報にもとづく文明を志向すべき時期だというのが、この本の言いたいことであるように思った。
「聖性」という概念が重要なキーワードになっている。これは、先日書評したミルチャ・エリアーデの「聖なるもの」と同じことを言っているように思える。私たち=宗教的人間(homo religious)は情報を解釈するとき、背後に「真実」や「実在」を前提としている。
・聖と俗―宗教的なるものの本質について
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004394.html
何を信じるか、本当だと思うか、の根本は、オントロジー(実在論)だ。機械情報の記号だけでオントロジーをやろうとすると、生命情報を取りこぼしてしまう。意味作用は生命にしか備わっていないからだ。いくら実在の影を集めてみたところで、実在にはたどりつけない。
個人的には、機械情報による人工知能アプローチの限界、社会情報によるフォークソノミー(コミュニティ)という突破口、インタフェース(アフォーダンス)と意味作用の可能性など、この本を読んだ結果、いくつか情報学の未来を考える視点が明確になった気がする。
情報技術と宗教という、一見妙な取り合わせで、情報学のあるべき姿を論じている。情報の哲学を考えるにあたって、とても有益で、面白い一冊。
西垣教授の本:
・基礎情報学―生命から社会へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001216.html
・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html
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Posted by daiya at 2006年04月24日 23:59 | TrackBack
なるほど、最近興味のある人工知能、人工生命に関して、面白い評が得られそうな書物ですね。
いずれも読んでみたいと思いました。